セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
ヴァルザリオンが、ミスタメア城の中庭へ降り立ったのは、よく晴れた日の午後だった。
いまでは、城に住むコボルドたちも訓練に通う若い冒険者たちも、緑色の巨体が空から舞い降りてくることそのものには、さほど驚かなくなっている。初めの頃には翼の影が城壁をよぎっただけで武器を取り、身を隠す者までいたものだが、いまでは「ああ、ヴァルザリオンか」と顔を上げる程度である。
もっとも、この日の竜は、いつものように牛の催促に来たのではなかった。
中庭へ降りるなり、訓練用の木剣を片づけていたセラリスへ首を向け、
「セラリス。人手が欲しい」
と、いきなり言った。
「人手?」
「財宝を運ぶ者だ」
セラリスはしばらくヴァルザリオンの顔を見つめた。
竜が財宝を欲しがること自体には、もう驚かない。むしろ財宝を欲しがらないドラゴンがいたなら、そちらの方が珍しいだろう。
問題は、その言い方だった。
「……どこの財宝?」
「北東の山に住む竜のものだ」
「待って」
セラリスはすぐに片手を上げた。
「今から奪いに行くの?」
「勝てばな」
ヴァルザリオンは、あまりにも当然のことを問われたという顔をしている。
「若い竜だ。俺より少し小さい。かなりの財宝を持っているらしい」
「種類は?」
「赤だ」
セラリスは額に手を当てた。
昇華の儀式を目指す以上、ヴァルザリオンが財宝を集め始めることは分かっていた。だが、牛を買うようになり、人間を襲わなくなったからといって、竜としての価値観まで人間的になったわけではないらしい。
「殺さないでよ」
「殺す必要などない」
そこだけは、ヴァルザリオンの返答は早かった。
「降伏させればよい。死んだ竜に従わせることはできんからな」
「……そこはちゃんと覚えたんだ」
「お前が教えたのだろう」
「そういう方向へ応用してほしかったわけじゃないんだけどなあ」
セラリスはぼやいたものの、ヴァルザリオンにはまるで通じていない。
竜はさらに続けた。
「それより問題は財宝だ。勝っても、俺だけでは運ぶのに何度も往復しなければならん」
「だから人手?」
「そうだ。金貨は重い」
こればかりは、あまりにも現実的な問題だった。
ヴァルザリオンには巨体も力もあるが、金貨を何千枚も一度に運ぶのに適した手や背負子があるわけではない。口に袋を咥え、爪に箱を抱えて何度も山を往復するくらいなら、人間やコボルドを雇った方が早いと気づいたらしい。
そして彼の視線が、ちょうど中庭を横切っていた赤い腕章のコボルドたちへ向いた。
「お前たちは山道に慣れているな」
一匹が足を止めた。
「まあ」
「仕事を頼む」
「金貨出る?」
即答だった。
セラリスは思わず笑ってしまった。
ヴァルザリオンも、最近では彼らとの交渉の仕方を覚えている。
「一日、一人金貨一枚。財宝を無事に持ち帰れば、さらに一枚」
数匹のコボルドが、どこからともなく寄ってきた。
「食事は?」
「出す」
「肉?」
「山で狩る」
「行く」
あっという間に決まった。
その様子を、訓練を終えたばかりの若い冒険者たちが少し離れたところから眺めていた。
やがて一人が、恐る恐る手を上げる。
「あの……俺たちも行くんですか?」
ヴァルザリオンは青年を見下ろした。
「荷を背負えるなら来い」
「でも、赤いドラゴンと戦うんですよね?」
「戦うのは俺だ」
「俺たちは?」
「離れて見ていろ」
その言葉を聞いた途端、若者たちの顔つきが変わった。
怖がったのではない。
目が輝いたのである。
「……見てていいんですか?」
ヴァルザリオンは不思議そうに瞬きをした。
「近くへ来れば死ぬぞ」
「いや、そうじゃなくて!」
本物のドラゴン同士の戦い。
訓練でも芝居でもない。
二頭の竜が、財宝と縄張りを賭けて本気で争う。
冒険者として一生過ごしても、それを安全な場所から見物できる機会など滅多にない。
「俺、行きます」
一人が言った。
「俺も」
「俺も見たい」
「金貨一枚もらえて、ドラゴン同士の戦いも見られるのか?」
そこまで聞いたヴァルザリオンは、ますます人間という生き物が理解できなくなったようだった。
「お前たちは妙だな」
「ヴァル」
セラリスが横から口を挟んだ。
「ドラゴン同士の戦いなんて、普通の人間は一生見ないから」
「見る必要があるのか?」
「冒険者なら、かなり勉強になるよ」
言いながら、セラリス自身も少し考えた。
確かに、これは得難い実地教育だった。
ブレスを吐く距離。
空中での位置取り。
相手の攻撃直後に生まれる隙。
勝てないと判断した時の離脱。
大型の怪物同士の戦闘が、人間同士の剣戟とはまるで違うということ。
セラリスが口で百回説明するより、一度見せた方が早いかもしれない。
ただし。
「行ってもいいけど、条件があるよ」
若い冒険者たちが一斉にこちらを見る。
「ヴァルが決めた安全な場所から絶対に出ないこと。戦いが始まったら、宝のことは考えない。倒れた竜にも近づかない。それから――」
少し間を置いた。
「ヴァルが負けたら?」
若者たちが黙る。
その中の一人が、おそるおそる答えた。
「助ける?」
「違う」
セラリスは即答した。
「逃げる」
今度は別の青年が頷いた。
「荷物も捨てて?」
「全部捨てていい。自分の命だけ持って帰る」
ヴァルザリオンが不満そうに鼻を鳴らした。
「俺が負けることを前提にするな」
「負けないことを前提に準備する方が危ないの」
「以前より俺は強くなった」
「知ってるよ。でも相手も弱いとは限らないでしょう?」
ヴァルザリオンは何か言い返そうとしたが、やがて黙った。
以前なら、そこで「俺は勝つ」と言い張ったかもしれない。
いまは、自分より強い相手が存在するという単純な事実くらいは受け入れられる。
それもまた、セラリスとの訓練の成果だった。
*
翌朝。
ミスタメア城を出発した一行は、どこからどう見ても奇妙なものだった。
先頭には山道に慣れたコボルドたちが歩き、その後ろには背負子や空の袋、縄、木箱、野営道具を持った新人冒険者たちが続く。
そして彼らの遥か上空では、ヴァルザリオンが悠々と翼を広げていた。
旅の途中、若い冒険者の一人が空を見上げながら、どうにも納得がいかないという顔で呟いた。
「俺たち、冒険者だよな?」
「そうだろ」
「受けてる仕事は?」
「ドラゴンの財宝運搬」
「そんな依頼、聞いたことないぞ」
前を歩いていたコボルドが振り返った。
「金貨が出るなら仕事だ」
しごく簡潔な答えだった。
青年はしばらく考え、
「……そういうもんか」
と納得した。
冒険者という職業について、少し間違った理解を身につけ始めている気もしたが、誰も訂正しなかった。
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赤竜のねぐらがある山を望む場所へ到着すると、ヴァルザリオンは一行を谷のこちら側にある岩場へ残した。
大きな岩がいくつも重なり、上空からは姿を見つけにくい。
谷を挟んだ向こうには、黒っぽい岩肌の山腹と、その途中に大きく口を開けた洞窟が見える。
「あそこだ」
ヴァルザリオンが言った。
「ここから先へ来るな」
一人の新人が尋ねる。
「もし赤い方がこっちへ来たら?」
「森へ入れ。木の下なら上空から見つけにくい」
「ヴァルザリオンが戻ってこなかったら?」
竜は一瞬、嫌そうな顔をした。
「帰れ」
それだけ言うと、翼を広げた。
羽ばたきが風を生み、砂と枯れ葉が舞い上がる。
次の瞬間には、緑色の巨体は谷へ向かって飛び出していた。
若者たちは声もなく見送った。
しばらくは何も起こらない。
ヴァルザリオンが洞窟の上を大きく一周する。
そして。
山を揺らすような咆哮が響いた。
答えるように、洞窟の奥から別の咆哮が返ってくる。
赤い影が飛び出した。
若いとはいえ、人間から見ればどちらも十分に巨大である。
緑と赤。
二頭の竜が、谷の上空で向き合った。
「……本当に始まるぞ」
誰かが呟いた。
次の瞬間。
赤竜が口を大きく開いた。
炎。
空そのものが燃え上がったかと思えるほどの火炎が、ヴァルザリオンへ向かって伸びる。
だが。
緑竜は正面から受けなかった。
翼を畳み、一気に高度を落とす。
炎が頭上を通過する。
その直後には再び翼を広げ、赤竜の斜め下から横へ抜ける。
そして、赤竜が首を戻そうとした、その一瞬。
ヴァルザリオンの口から黄緑色の毒気が噴き出した。
「今の!」
新人の一人が声を上げた。
「セラリスさんが教えてたやつだ」
「ブレスを吐いた直後を狙った?」
「違う。吐かせてから位置を変えたんだ」
誰も目を離せなかった。
赤竜が怒りに任せて追う。
ヴァルザリオンは逃げる。
だが、ただ逃げているのではない。
高さを変える。
旋回する。
赤竜の正面から外れる。
そして相手が焦れて距離を詰めれば、今度は急に身体を返して爪を振るう。
二つの巨体が空中でぶつかった。
鱗が散る。
牙が閃く。
翼膜が風を打ち、谷に轟音が響き渡った。
一匹のコボルドが、感心したように言った。
「前のヴァルなら、もう噛み合ってる」
新人がちらりと彼を見る。
「分かるのか?」
「前は近づいたら、ずっと殴り合ってた」
「……本当にセラリスさんが鍛えたんだな」
その言葉には、初めて実感がこもっていた。
訓練場で「ドラゴンを鍛えている」と聞いた時には、半ば冗談のように思っていた。
だが、いま目の前で飛んでいるヴァルザリオンは、力任せに襲いかかる怪物ではない。
相手を見ている。
考えている。
攻撃したら離れる。
不利な位置では戦わない。
相手の得意な形に付き合わない。
それは、彼ら自身がミスタメアで教わっていることと、何も違わなかった。
ただし。
実践しているのがドラゴンである、という一点を除けば。
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決着は、彼らが思っていたより早く訪れた。
赤竜がヴァルザリオンを追って高度を下げた瞬間、緑竜が身体を翻し、横から体当たりするようにぶつかった。
二頭が絡み合う。
赤竜が翼の均衡を失った。
その巨体が岩場へ落ちる。
地面が震えた。
土煙が上がる。
ヴァルザリオンも無傷ではない。首にも翼にも深い傷があり、片方の前脚から血を流している。
それでも立っていた。
赤竜の首へ前脚を置き、牙を見せる。
二頭の間で何か言葉が交わされた。
こちらからは聞こえない。
やがて。
赤竜が首を伏せた。
「……降参した」
新人が呟いた。
コボルドが頷く。
「ヴァルの勝ち」
やがてヴァルザリオンが谷を渡って戻ってきた。
身体は傷だらけだったが、顔つきは実に満足そうだった。
「勝ったぞ」
そこで初めて、岩場から歓声が上がった。
「すげえ!」
「本当に勝った!」
「途中で赤い方が押してたのに!」
ヴァルザリオンは、いかにも当然という顔で首を持ち上げる。
「俺は以前より強い」
「それは分かった!」
興奮する若者たちをしばらく眺めていた竜は、やがて非常に現実的なことを言った。
「では仕事だ」
歓声が止まった。
「……仕事?」
ヴァルザリオンが谷の向こうを顎で示す。
そこには赤竜の洞窟がある。
そして洞窟の奥には。
金貨。
銀貨。
宝石。
酒器。
古い武器。
装飾品。
箱。
袋。
それらが、竜の財宝らしく無造作に積み上げられていた。
新人冒険者たちは、しばらくそれを見つめた。
一人が呟く。
「これ……全部?」
「全部ではない」
ヴァルザリオンが答える。
「三分の一だ。そういう約束になった」
「三分の一でも多すぎるだろ……」
コボルドたちはすでに背負子を下ろし、縄と袋を取り出している。
「何往復?」
と新人が尋ねる。
年嵩のコボルドは財宝の山を眺め、少し考えた。
「いっぱい」
それは見れば分かった。
/*/
後日。
ミスタメア城へ戻った新人冒険者の一人が、訓練仲間から羨ましそうに聞かれた。
「どうだったんだよ、ドラゴン同士の戦い!」
彼は少し考えた。
頭に浮かんだのは、空を焼いた炎。
毒のブレス。
絡み合う二頭の竜。
谷を震わせた咆哮。
確かに。
「人生で一番すごかった」
「いいなあ!」
「うん」
青年は頷いた。
そして。
ひどく疲れた腰をさすりながら付け加えた。
「でも次に行くなら、絶対もっと良い背負子を持っていく」
冒険者として何を学んだのかと問われれば。
それもまた。
決して間違った教訓ではなかった。