セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
スケルトン牛そのものは、思っていた以上によく働いた。
疲れない。腹を空かせない。喉も渇かない。夏の日差しの下でも歩調を変えず、生きた牛ならとうに休ませなければならない頃になっても、同じ力で鋤を引き続ける。畑仕事のためだけに考えるなら、これほど都合のよい牽引力もそうはなかった。
ただし、一つだけ、ひどく当たり前で、そして致命的な問題があった。
「止まれ!」
農夫が叫ぶ。
白骨の牛は止まらない。
「おい、止まれって!」
なおも進む。
鋤が土を返し、そのまま畑の端へ近づいてゆく。
セラリスが少し離れたところから声を飛ばした。
「止まって」
すると、スケルトン牛はぴたりと止まった。
農夫はしばらく牛を見た。それからセラリスを見る。
「……先生」
「うん」
「これじゃ、俺が使えねえ」
「そうだね」
そこは反論の余地がなかった。
死霊術によって動かされたアンデッドは、基本的には術者の命令に従う。セラリスが命じれば前へ進み、右へ曲がり、止まる。けれど農夫が同じことを言っても、何の意味もない。
それでは農具として使い物にならない。
セラリスが毎朝畑へ出て、
「前へ」
「右」
「止まって」
と一日中スケルトン牛へ指示を出すわけにはいかなかった。
それでは農夫の仕事を減らすために作ったものが、魔法使い一人を畑へ貼りつけるだけの道具になってしまう。
「命令する人を最初から決めておけば?」
ダリヤが言った。
「この人の言うことを聞け、って」
「出来ると思う」
セラリスは頷いた。
「でも、それだと使う人を変えるたびに私が来ないといけないね」
「息子に貸したいとか、隣の畑で使いたいとか?」
「そうそう」
農夫も頷く。
「俺が怪我したら、倅に使わせることもあるしな」
「だよね」
セラリスは腕を組んだ。
難しい問題ではない。
少なくとも彼女はそう思った。
命令する人間を固定すると不便なら、人間ではなく何か別のものを基準にすればいい。
持っている人。
身につけている人。
あるいは、特定の印を持っている人。
その程度の条件分けなら、魔法具では珍しくもない。
鍵を持っている者だけが開けられる扉。
印章を持つ者だけが起動できる道具。
特定の言葉を口にした者だけが使える術式。
それと同じではないか。
そう考えながら、セラリスの目が畑の端に置かれていた古いカウベルへ止まった。
「……これでいいか」
農夫が怪訝そうに振り返った。
「それ?」
「うん」
セラリスはカウベルを手に取った。
ごく普通のものだった。
牛の首へ下げ、どこにいるか音で分かるようにするための鐘。青銅製で、農家ならどこにでもある。高価でもないし、扱い方を教える必要もない。
「これに魔法を付けよう」
「何の?」
「命令する人の印」
セラリスは地面へ座り込み、ベルを膝の上へ置いた。
複雑な魔法ではなかった。
新しいアンデッドを作るわけでも、スケルトン牛そのものの術式を根本から組み替えるわけでもない。ただ、もともとセラリスへ向けられている命令受諾の条件へ、一つだけ例外を加える。
《このカウベルを所持している人間の命令を、私からの命令として扱え》
それだけである。
セラリスは術式を組みながら、何度か条件を修正した。
「持ってる、だけだと近くに置いてある時に誰の命令を聞くか分かりにくいな」
「首から下げる?」
「農夫が?」
ダリヤが笑った。
「牛じゃないんだから」
「手に持ってればいいんじゃねえか」
農夫が言った。
「使う時だけ腰に下げてもいいし」
「じゃあ、所有じゃなくて携行者にしよう」
術式を少し変える。
さらに考える。
「盗まれたら?」
ヴァレリアが尋ねた。
「盗んだ人が牛を使えるね」
「駄目じゃないですか」
「でも普通の牛だって盗まれたら使われるよ」
「ああ……」
皆が少し考えた。
「なら同じか」
ミハイルが言った。
「同じだね」
問題はあっさり片づいた。
後世の魔術師がこの場にいたなら、おそらくそう簡単には済ませなかっただろう。
術者本人に紐づいている死霊術上の支配権を、外部の魔法具を認証媒体として、第三者へ一時的に委任する。
それは単なる命令語の追加ではない。
術者の意思を通さず、術者ではない者を、限定された範囲で事実上の指揮者として認識させる術式である。
もし理論として整理すれば、アンデッドだけではなく、ゴーレム、使い魔、魔法仕掛けの守護者、さらには一定の条件で命令を受ける各種の魔法具にまで応用出来る可能性があった。
命令権そのものを、人物ではなく《資格を示す物》へ結びつける。
術者がそこにいなくてもよい。
誰が使うかを、術者が逐一指定しなくてもよい。
言ってしまえば、魔術的な鍵による代理権の譲渡であった。
それがどれほど便利で、どれほど危険で、そしてどれほど多くの応用を生み得る考え方なのか。
その場にいた者は、誰一人として気づかなかった。
セラリス自身もである。
彼女が考えていたのは、ただ一つ。
これなら農夫が自分で牛を使える。
それだけだった。
/*/
「出来た」
しばらくして、セラリスはカウベルを農夫へ渡した。
「持って」
「ああ」
「そのまま牛に命令してみて」
農夫はベルを片手に持ったまま、少し緊張した顔でスケルトン牛へ向き直った。
「前へ」
牛が歩いた。
男の目が大きくなる。
「止まれ」
止まった。
「右へ」
骨だけの身体がぎこちなく向きを変えた。
「左」
今度は逆へ向く。
「……おお」
農夫の顔に笑みが浮かんだ。
それまで多少なりとも残っていた、死霊術で動く牛への気味悪さが、見る見るうちに薄れていった。
自分の言うことを聞く。
それは家畜を扱う者にとって、思っていた以上に大きな意味を持っていた。
「先生、これなら使えるぞ」
「でしょう?」
「もう一回やっていいか?」
「どうぞ」
農夫は鋤をつないだ。
「前へ」
スケルトン牛が歩く。
黒い土が返されてゆく。
「少し右」
向きを変える。
「そのまま」
進む。
「止まれ」
止まる。
今度はセラリスが何も言う必要はなかった。
畑仕事を知っている人間が、自分の判断で、自分の必要なように牛を動かしている。
それだけで、スケルトン牛は初めて本当の意味で農具になった。
セラリスは満足そうに頷いた。
「よし」
ミハイルがカウベルを見た。
「そんな小さいものでいいんですね」
「命令する資格を示すだけだからね」
「先生がいなくても?」
「うん」
「誰でも?」
「ベルを持ってる人なら」
「便利だなあ」
「便利でしょう?」
その言葉で終わった。
誰も、
それは死霊術師本人にしかなかったはずの支配権を、本当に他人へ渡しているのではないか、
とは考えなかった。
農夫はもっと考えなかった。
「これ、家に持って帰っていいんだよな?」
「もちろん」
「じゃあ明日は朝から西の畑をやる」
「壊さないでね」
「牛を?」
「骨の方」
「分かってるよ」
男は笑った。
スケルトン牛の牽具を確認し、カウベルを腰へ結びつける。
少し歩くと、ベルがからん、と小さく鳴った。
その音に反応したわけではない。
けれど白骨の牛は、当然のように男の後ろをついていった。
その光景は奇妙だった。
畑帰りの農夫。
腰にはカウベル。
その後ろには肉も皮もない牛。
さらにその後ろには鋤。
それだけ見れば、何か不吉な伝承の一場面にでもなりそうだったが、当の農夫はそんなことを気にしていない。
「先生!」
少し離れたところから振り返る。
「これ、明後日は弟に貸してもいいか?」
「ベルごと貸せば使えるよ!」
「分かった!」
男は片手を上げた。
そして歩いていった。
セラリスは、それを見送りながら満足していた。
「これで私が畑に来なくてもいいね」
「先生」
ヴァレリアが言った。
「何?」
「最初からそこが問題だったんですよね?」
「そうだよ」
「解決しましたね」
「うん」
それだけだった。
/*/
数日後には、カウベルの使い方はさらに洗練された。
前進。
停止。
右。
左。
後退。
ゆっくり。
速く。
それ以上の複雑な命令は受けつけさせない。
人を襲えと言われても従わない。
畑と農作業に関係のない命令も原則として無視する。
そうしておけば、誰かがベルを盗んでもスケルトン牛を兵器として使うことは難しい。
「人を踏め、と言われたら?」
ミハイルが尋ねた。
「無視する」
「荷車を壊せ、は?」
「無視」
「敵を追え」
「無視」
「畑へ行け」
「聞く」
「鋤を引け」
「聞く」
ミハイルが頷いた。
「牛ですね」
「牛だよ」
「死んでますけど」
「そこは今はいいでしょう」
さらにベルには小さく所有農家の印を刻んだ。
なくした時に戻ってくるためである。
魔法的には大した意味を持たない。
ただの名前札だった。
それでも農夫には、その方がよほど重要だった。
「高いからな、これ」
「ベルが?」
「骨牛の方だよ」
「ああ」
セラリスはようやく納得した。
農夫から見れば、魔法で動く牛は貴重な農業資産なのだ。
その操作具であるカウベルをなくすなど、とんでもないことだった。
そのうち農夫たちは、自分で革紐を付け替えたり、腰から落ちないよう留め金を付けたり、ベルの表面に家紋代わりの印を刻んだりし始めた。
セラリスが何も言わなくても、道具は使う人間の手で使いやすい形へ変わっていった。
そして春の畑では、奇妙な光景が少しずつ普通になった。
生きた牛が鋤を引いている畑。
その隣では、白骨の牛が同じように鋤を引いている。
農夫の腰ではカウベルが鳴る。
疲れた農夫が休めば、スケルトン牛も命じられた場所でじっと立っている。
夕方になれば、
「今日は終わりだ。小屋へ」
その一言で牛は農具置き場へ歩いてゆく。
餌をやる必要はない。
水もいらない。
ただし、骨にひびが入っていないかだけは確認する。
いつしか農夫たちは、それを《骨牛》と呼ぶようになった。
「骨牛、今日は借りられるか?」
「ベルは親父が持ってるぞ」
「じゃあ親父から借りてくる」
そんな会話さえ珍しくなくなった。
誰もそこに魔法理論上の革命を見てはいなかった。
農夫にとっては、疲れない牛が便利だった。
セラリスにとっては、自分がいなくても農夫がそれを使えるようになったことが便利だった。
それだけで充分だったのである。
けれども、もしこの仕組みを専門の死霊術師が目にしていたなら、カウベルそのものよりも、その背後にある条件式へ目を奪われただろう。
術者が支配するものを、別の者へ直接譲るのではない。
《これを持つ者》という空席を作り、その席に座った者へ限定された支配権を与える。
今日それを使うのが父親でもよい。
明日は息子でもよい。
翌日は隣人でもよい。
術者は、その一人一人を知らなくてもよい。
ただカウベルという資格証だけがあればいい。
それは命令の仕組みそのものを変える考え方だった。
だが。
その発明者であるセラリスは、夕暮れの畑で白骨の牛がきちんと小屋へ戻っていくのを眺めながら、そんなことはまるで考えていなかった。
「これならあと二頭くらい作ってもいいかな」
隣でミハイルが嫌そうな顔をした。
「またヴァルさんに骨をもらうんですか?」
「うん」
「骨は骨で美味しいって言ってましたよね」
「今度は四頭分くらいお願いしてみようかな」
「増えてる」
「便利だったから」
セラリスは何でもないことのように答えた。
そして遠くでは。
腰に小さなカウベルを下げた農夫が、白いスケルトン牛を連れて家路についていた。
からん。
からん。
夕暮れの農道に、のどかな鐘の音が響いていた。
その音が、この世界の魔法にとって思いのほか大きな意味を持つものになるかもしれないなどとは。
まだ誰も。
本当に、誰一人として気づいてはいなかった。