セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
ミスタメア城跡に訓練所を作ってから、しばらく経った頃のことだった。
まだここを「町」と呼ぶには早かった。
古びた城壁と半ば崩れた石造建物の間に、訓練用の広場が均され、標的や木人が並び、道具を収める小屋が建っている。朝になるとスレスホールドや近隣から若者がやってきて、剣を振り、走り、転び、怒鳴られ、また走る。
城そのものはまだ、かつての廃墟の面影を色濃く残していた。屋根の抜けた部屋もあれば、壁の一部が崩れたままの区画もあり、地下へ下りればブラック・イーグル男爵の時代に使われていた陰気な部屋がいくつも残っている。少しずつ片付けや補修は進んでいたが、人が気持ちよく寝起きする場所を整えるより、まず訓練場や倉庫を使えるようにする方が優先されていたのである。
そして、その訓練場から少し離れた敷地の隅に、一張りのテントがあった。
最初は誰も気にしなかった。
訓練所を作っている途中なのだから、誰か職人でも泊まっているのだろうと思っていた。
ところが毎朝、そのテントから出てくるのがセラリスだった。
「おはよう」
「……先生」
ミハイルが眉を寄せた。
「なんでテントなんですか?」
「なんでって?」
セラリスは振り返り、自分のテントを見た。
丈夫な緑色の布地で、冒険用としてはかなり上等である。前には小さな焚き火跡があり、薪が積まれ、水桶と鍋まで置いてある。数日の野営をする冒険者の仮宿というより、すでにちょっとした生活の場所になっていた。
「ここで寝てるから」
「それは見れば分かります」
ミハイルの横でヴァレリアが首を傾げた。
「スレスホールドの宿から通っていたんじゃなかったんですか?」
「最初はね」
「だったら、どうして」
「出勤してくるのが面倒になったから」
三人が黙った。
ダリヤが少し考えてから云う。
「……三マイルくらいですよね?」
「三マイルもあるよ」
「先生なら歩いても大した距離じゃないでしょう」
「歩けるのと、毎日歩きたいのは別でしょう?」
「それは……そうですけど」
セラリスは当然のように云った。
「朝来て、夜スレスホールドに帰って、また次の日ここまで来るくらいなら、拠点が出来るまではテントでいいかなって」
ミハイルが背後の城跡を見上げた。
「でも、ここ城ですよ?」
「まだ住める場所、ちゃんと出来てないでしょう?」
「バーグルが使ってた部屋なら残ってますよね。ベッドもあったでしょう?」
セラリスは、あからさまに嫌そうな顔をした。
「嫌だよ」
「なんでです?」
「変な夢見そう」
ミハイルは一瞬、返事に詰まった。
確かにバーグルの旧私室にはベッドが残っていた。城のほかの場所に比べれば状態も悪くなく、埃を払い、寝具を新しいものへ交換してしまえば、雨風をしのぐという一点だけならテントなどよりずっと快適である。
だが、ついこの前までそこを使っていたのがバーグルだと思えば、セラリスの気持ちもまるで理解出来ないというほどではなかった。
ヴァレリアが思い出したように云った。
「研究室の方はどうですか? あそこなら机も椅子も残っていましたよね」
「あそこも嫌。それに、そもそも寝る部屋じゃないでしょう」
「でも先生なら研究室に寝泊まりしてても違和感ないですよ」
「どういう意味?」
「研究を始めると長いですから」
「それとこれは別だよ」
セラリスは少し不満そうに云ってから、あの部屋のことを思い出した。
最初に見つけたときには、いかにも魔法使いの研究室らしく見えたのである。棚には呪文書が並び、机には紙束や筆記具が散らばり、書物の余白には書き込みまで残されていた。
ところが、実際にそれらを調べてみると、そこでバーグルが何か新しい魔法を研究していた形跡はほとんどなかった。
「研究室って呼ばれてたけど、研究とは名ばかりだったしね」
セラリスは云った。
「そうなんですか?」
「うん。あそこにあったの、出所の怪しい呪文書ばっかりだったでしょう。たぶん奪ったり、どこかから持ってきたりしたものを読んで、知らない呪文を覚えてただけ」
ミハイルが目を瞬いた。
「それって研究じゃないんですか?」
「勉強ではあるよ。でも研究とは違うでしょう」
「違うんですか?」
「違うよ。誰かが作った術式を読んで覚えるのは勉強。どうしてそうなるのか調べたり、新しい術式を組んだり、別のやり方を試したりするのが研究でしょう」
ダリヤが首を傾げた。
「先生の基準では?」
「普通そうじゃない?」
「魔法使いじゃないので分かりません」
「少なくとも、強奪してきた呪文書を机に積んで順番に読んでるだけの部屋を研究室って云うのは、私はちょっと違うと思う」
ミハイルが苦笑した。
「バーグルに聞かれたら怒りそうですね」
「別に聞かれないからいいよ」
「そういう問題かなあ」
「そもそも人の呪文書を奪った方が悪いでしょう」
それについては誰も反論しなかった。
セラリスは改めて自分のテントを振り返った。
丈夫な布で作られた幕舎の中には、毛布も寝具もあり、荷物を置く場所もある。雨が降れば布を叩く音がするし、風が強ければ少し揺れるが、それは長い冒険生活の中で何度も経験してきたことで、彼女にとってはむしろ馴染みのある環境だった。
それに比べると、いくら掃除したところでバーグルの寝室に横になるというのは、どうにも気分がよくない。
「ちゃんとした部屋が出来るまで、ここでいいよ」
セラリスは云った。
「雨漏りもしないし」
ミハイルは城を見、それからテントを見た。
「石造りの城より、テントの方を『雨漏りしない』って評価する人、初めて見ました」
「城の方はあちこち壊れてるでしょう?」
「まあ、そうですけど」
ダリヤが少し面白そうにセラリスを見た。
「先生、もしかしてバーグルの部屋が怖いんですか?」
「怖くはないよ」
「でも寝たくない?」
「寝たくない」
「変な夢を見そうだから?」
「そう」
セラリスは少し考え、それから真面目な顔で付け加えた。
「夢の中までバーグルに出てこられたら嫌でしょう?」
ミハイルが吹き出した。
「それは俺も嫌だな」
「でしょう?」
そこでようやく、セラリスは理解してもらえたという顔をした。
ヴァレリアが心配そうにテントの周囲を見る。
「でも、一人で寝ていて危なくないですか?」
「ああ、それなら大丈夫だよ」
セラリスはテントの周囲を指した。
「眠る前に《警報》を張ってるから」
「警報?」
「ここから中に何か入ってきたら分かる結界。だから見た目ほど不用心でもないよ」
「毎晩?」
「毎晩」
ミハイルが妙な顔をした。
「盗賊が忍び込んできたら?」
「起きるよ」
「それから?」
「それから?」
セラリスが不思議そうに聞き返した。
「……その盗賊がどうなるかです」
「ああ」
少し考える。
「困るんじゃない?」
「でしょうね」
三人とも、それ以上は聞かなかった。
確かに不用心なのはセラリスではなく、夜中にこのテントへ忍び寄った側である。
その頃のミスタメアには、まだ夜警の兵士もいなかった。今のような守備隊も巡回もなく、訓練生たちが帰ってしまえば、城跡には工事途中の建物と倉庫、それにセラリスのテントが残るばかりだった。
「でも先生、わざわざテント暮らしするほどここにいたいんですか?」
ダリヤが訊いた。
「うん。キャンプ生活もこれはこれで楽しいよ」
「楽しい?」
「朝は鳥の声で起きるし、夜は星が見えるし」
そこでセラリスは焚き火跡へしゃがんだ。
燃え残った薪を一本拾い、明日の朝にも使えそうだと脇へ除ける。
「雨の日にテントへ当たる音も嫌いじゃないし、外でご飯作るのも楽しいよ」
「先生、普通にキャンプ楽しんでますね」
「だからそう云ってるでしょう?」
「もっと仕方なく住んでるのかと思ってました」
「別に嫌ならスレスホールドへ戻るよ」
セラリスはそう云って、少し笑った。
「それに朝起きたらすぐ訓練出来るでしょう?」
ミハイルが途端に嫌そうな顔をした。
「今のは聞かなかったことにしたいです」
「なんで?」
「先生がここに泊まるようになってから、朝の訓練が早くなった気がするんですよ」
「気のせいじゃない?」
「気のせいじゃありません」
ヴァレリアまで頷く。
「前より一刻くらい早いです」
「朝は涼しいから走りやすいよ」
「やっぱり早くなってるじゃないですか」
ダリヤが溜息をついた。
けれど三人も、そのうち慣れた。
朝来れば、セラリスはもう起きている。
焚き火で湯を沸かしていることもあれば、水を汲んで戻ってくることもある。時には丸太へ腰を掛け、剣や手斧の手入れをしながら朝食を食べていた。
最初のうちは、訓練所へやってきた若者たちも、敷地の隅にいる彼女を見て同じことを訊いた。
「先生、住んでるんですか?」
「うん」
「ここに?」
「ここに」
「なんで?」
「通うの面倒だから」
その答えも何度か繰り返されるうちに、やがて誰も訊かなくなった。
セラリスが訓練所にいるのと同じように、その端に緑色のテントがあることも、ごく当たり前の風景になってしまったのである。
それどころか夕方になると、訓練が終わった若者が何人かテントの近くへ残るようになった。
セラリスが焚き火を起こしているからである。
「先生、これ焼いていいですか?」
「なに?」
「ソーセージです」
「いいよ」
「パンもあります」
「じゃあ炙ろうか」
ミハイルが当然のように丸太を持ってきて座り、ヴァレリアが鍋を覗き込み、ダリヤはいつの間にか薪の置き方を直している。
「これ、火が片方に寄ってますよ」
「そう?」
「鍋をこっちへ」
「じゃあ任せる」
「先生の夕飯ですよね?」
「もう私の夕飯じゃなくなってるでしょう」
そこへ別の訓練生がやってきた。
「何してるんです?」
「夕飯」
「先生の?」
「みんなのになった」
「俺もいいですか?」
「何か持ってきた?」
「干し肉があります」
「じゃあ座って」
別の日には誰かが玉葱を持ってきた。
別の者は固いチーズを持ってきた。
農家出身の少年が卵を六つ持ってきたこともあった。
それらを鍋へ放り込み、焼けるものは串へ刺し、パンは火のそばへ置いて温めた。
料理と呼ぶには大雑把なことも多かったが、一日中走り回ったあとの若者にとっては、それで十分に美味かった。
こうして、一人暮らしだったはずのテント前が少しずつ賑やかになっていった。
訓練の話をする者がいる。
冒険者になったらどこへ行くかを話す者がいる。
昼間に何度も転ばされたことを愚痴る者がいて、その原因をミハイルに指摘され、また明日やり直せと云われる。
セラリスはたいてい、その輪の中で鍋をかき混ぜながら聞いていた。
日が落ち、森の向こうが暗くなり始める頃には、一人、また一人と立ち上がる。
「先生、ごちそうさまでした」
「うん。暗くなるから気をつけてね」
「明日も来ます」
「遅れないでね」
「先生の朝が早すぎるんですよ」
「朝は朝だよ」
若者たちは笑いながらスレスホールドや、それぞれが泊まっている場所へ帰っていった。
最後に残るのはセラリスだけだった。
火へ土を掛け、完全に消えたことを確かめる。
鍋を洗い、残った食料を片付け、武器と魔法具を手の届く場所へ置く。
それからテントの周囲に《警報》を張る。
城跡を渡る風の音がする。
近くの草むらでは虫が鳴き、森の方からは夜鳥の声が聞こえる。天気のいい夜には、城壁の崩れた向こうに星が広がっていた。
セラリスはそれを別に寂しいとも思わなかった。
むしろ、バーグルが寝ていた部屋の石天井を見ながら眠るより、こちらの方がよほどよかった。
ある晩など、夜半から雨になった。
細かな雨粒がテントの布をぱらぱらと叩き始め、しだいに一定の音を立てるようになった。
セラリスは毛布の中でその音を聞きながら、少しだけ笑った。
雨漏りはしていない。
それだけで十分だった。
「先生」
ある夕方、ミハイルが訊いた。
「いつまでテントなんです?」
「拠点が出来るまで」
「その拠点って、いつ出来るんです?」
「もうちょっと」
「前にも聞いた気がする」
「そう?」
「言ってましたよ」
ヴァレリアが笑った。
「このままだと先生、建物が出来てもテントで寝てそうですね」
「それはないよ」
セラリスはすぐに答えた。
ダリヤが横から、
「本当に?」
と聞く。
「本当だよ。ちゃんと部屋が出来たらそっちへ移るから」
そう云ってから、セラリスは少し考えた。
三人がそれを見ている。
「……夏なら、たまにはいいかも」
「ほら」
ダリヤが云った。
「もう気に入ってるじゃないですか」
「キャンプ楽しいよ?」
「そういう問題じゃないでしょう」
ミハイルは呆れたように云ったが、セラリスはどうして自分が呆れられているのか、いまひとつ分かっていない顔をしていた。
その言葉通り、後になってミスタメアにちゃんとした居室が出来てからも、夏の風が気持ちよく、雨の心配もない夜には、時々同じ場所に緑色のテントが張られることになる。
だがその頃にはもう、最初のように一張りだけということもなかった。
若い訓練生が野営の練習だと云って近くへ幕舎を張り、焚き火を囲む者が増え、いつしかそこは訓練所の中でも少し変わった場所になってゆく。
もちろん、この時のミハイルたちには、まだそんなことを知る由もなかった。
彼らが知っていたのはただ、古びたミスタメア城の片隅に、バーグルのベッドを嫌がった一人のエルフが、通勤が面倒だという理由でテントを張って暮らし始めたということだけだった。