セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
秋のミスタメアには、乾いた麦の匂いが漂っていた。
城跡から少し離れた、川沿いの比較的平らな土地で麦を作っているのはコボルドたちだった。
もともと畑だった土地ではない。石を拾い、根を掘り、低木を切り、土を起こし、自分たちで少しずつ畑に変えてきた場所だった。大きな農場というほどではないが、いくつもの細長い畝が並び、夏の終わりまで黄色く波打っていた麦は、いまではほとんど刈り取られ、束ねられて地面へ積み上げられている。
今年はよく実ったらしい。
だからこそ、コボルドたちは朝から忙しかった。
刈った麦を運ぶ者がいる。束を結び直す者がいる。地面へ敷いた布の上で麦束を棒で叩き、穂から粒を落としている者もいる。小柄な身体で一生懸命に棒を振るうので、その周囲には細かな麦殻と埃が舞い、時々くしゃみまで聞こえてきた。
セラリスたちは、その手伝いに来ていた。
まだミスタメアに人が多くなかった頃である。
ミハイルとヴァレリアとダリヤ。
それにセラリス。
今のように大勢の人間がいるわけでもなく、何かまとまった仕事があれば、出来る者が手を貸すのが当たり前だった。
「先生、そっちの束も持ってきますよ」
「うん。お願い」
ミハイルが両腕いっぱいに麦束を抱えて運んでくる。
身体を動かすことには慣れているので、こういう仕事では頼りになる。対してヴァレリアは、脱穀を終えた麦粒を布から集め、籠へ移していた。ダリヤは積まれた束の数と、脱穀を終えた分を確認しながら、時々コボルドたちと話をしている。
セラリスはしばらく棒を振っていた。
振って、麦を叩く。
向きを変えて、また叩く。
粒が落ちる。
まだ残っているので、また叩く。
十分ほど続けたところで、セラリスは棒を下ろした。
「……これ、大変だね」
近くにいたコボルドが、当たり前だという顔で頷いた。
「麦、いっぱいある。いっぱい叩く」
「うん。見れば分かる」
「今年、いっぱい採れた」
「それは良かったんだけどね」
セラリスは腰を伸ばした。
喜ばしいことなのは間違いない。
自分たちで土地を耕し、種を播き、育てた麦がこれだけ実ったのだ。冬を越す食料にもなるし、余れば交換にも使える。コボルドたちにとっては大成功と言っていい。
ただし、収穫量が増えれば、そのぶん脱穀の仕事も増える。
「まだどれくらいあるの?」
セラリスが訊くと、コボルドが麦束の山を指差した。
「あれと、あれ。それから向こう」
指差された方向を見て、セラリスは黙った。
ミハイルが笑った。
「先生、顔に出てますよ」
「出るよ。あれ全部叩くんでしょう?」
「俺たちの麦じゃないですけどね」
「手伝うって言ったからには手伝うよ」
ヴァレリアも小さく笑った。
「収穫が多いこと自体は良いことなのですから」
「それは分かってる」
セラリスはもう一度棒を持ち上げた。
「でも楽に出来るなら、楽にした方がいいよね」
少し離れたところで籠を数えていたダリヤが、すぐにこちらを見た。
「何か思いついたんですか?」
「まだ」
「『まだ』なんですね」
「だって、これを毎年やるんでしょう?」
セラリスは麦穂を一本取った。
手の中で転がし、それから指で穂をしごいてみる。
乾いた粒が数個、掌へ落ちた。
「叩かなくても取れるよね」
ヴァレリアが頷いた。
「手でしごけば取れます。でも一本ずつでは、叩くより時間がかかります」
「一本ずつだからだよね」
セラリスはもう一度穂を見た。
指で挟む。
引く。
粒が落ちる。
そこで動きが止まった。
「……指がいっぱいあればいいんだ」
ミハイルが眉をひそめた。
「先生、何言ってるんです?」
「こうやって挟んで引けば、粒が取れるでしょう」
「それは分かります」
「じゃあ、指みたいなのをいっぱい並べればいい」
セラリスは麦穂を持ったまま、地面へしゃがみ込んだ。
木切れを拾い、土の上へ線を引く。
一本の板。
そこへ、細い歯を何本も並べる。
「こういうの」
ダリヤが近づいてきた。
「櫛ですか?」
「大きな櫛みたいなものかな。歯と歯の間に麦の穂を入れて、束ごと引っ張るの」
ヴァレリアも覗き込む。
「穂だけが歯に引っかかって、粒が落ちる?」
「たぶん」
「たぶんですか」
「作ったことないから」
ミハイルがため息をついた。
「また始まった」
セラリスは顔を上げた。
「嫌なら麦叩いてていいよ」
「誰も嫌とは言ってません」
「じゃあ作ろう」
話は決まった。
*
もっとも、最初から立派な道具を作るつもりはなかった。
必要なのは、丈夫な板と、そこへ並べる細い歯である。
近くの作業場所から余っていた木材を持ってきて、板へ穴を開け、削った木の棒を差し込んでいく。鉄釘を使う案も出たが、最初の試作なら木で十分だったし、コボルドたち自身でも修理出来る方がよかった。
「ここ、もう少し細くした方がいいんじゃないですか」
ダリヤが言った。
「麦の茎まで引っかかったら使いにくいです」
「じゃあ先を細くして、根元は太く残そうか」
「それなら折れにくいですね」
ヴァレリアは削った歯の表面を指で確かめた。
「尖らせすぎない方が良さそうです。引いた時に茎を切ってしまうかもしれません」
「丸めよう」
ミハイルは黙々と木槌を振るっている。
「歯、何本付けるんです?」
「入るだけ」
「雑だなあ」
「多い方がいっぱい取れるでしょう」
「本当に?」
「たぶん」
「またそれだ」
周囲では何人かのコボルドが、作業の手を止めてこちらを見ていた。
最初は「何を作っているんだろう」という顔だったが、だんだん人数が増えてくる。
一匹が訊いた。
「それ、麦叩く道具?」
「叩かない道具」
セラリスが答えた。
「叩かない?」
「引っ張る」
「?」
「出来たら見せるよ」
コボルドは納得したような、していないような顔で戻っていった。
*
昼を少し過ぎた頃、試作品が出来た。
太い板に、細長い木の歯がずらりと並んでいる。
間隔は指一本より狭い。
見た目だけなら、確かに巨大な櫛に近かった。
セラリスはそれを地面へ置いた。
「固定しないと駄目だね」
「引っ張ったら動きますからね」
ミハイルが答える。
そこで二本の杭を打ち込み、板を縄で固定した。下には大きな布を敷いておく。外れた麦粒を拾いやすくするためだ。
いつの間にか、作業中のコボルドたちが十匹近く集まっていた。
「では」
ヴァレリアが少し改まった声で言った。
「実験ですね」
「そんな大したものじゃないよ」
セラリスは麦束から一掴み取り、穂先を歯の間へ差し込んだ。
そして手前へ引いた。
しゃらっ、と乾いた音がした。
麦粒が一斉に布の上へ落ちる。
一瞬、全員が黙った。
セラリスは手に残った茎を見た。
「……取れた」
ダリヤが布の上を見る。
「かなり取れてます」
ヴァレリアが茎を受け取り、まだ残っている粒を確認した。
「少し残っていますけれど、十分使えそうですね」
見ていたコボルドが身を乗り出した。
「もう一回」
「うん」
今度は少し多めに掴む。
歯の間へ差し込み、一気に引く。
ぱらぱら、というより、ざらざらと粒が落ちた。
「おお」
コボルドたちから声が上がった。
一匹がすぐに手を伸ばす。
「やる」
「どうぞ」
セラリスが場所を譲った。
コボルドは小さな手で麦を掴み、真似して歯の間へ入れた。
引く。
粒が落ちる。
もう一度。
今度は少し手首を返してから引く。
「取れる!」
「取れるね」
「棒いらない!」
「完全にはいらなくならないと思うけど、かなり減るんじゃないかな」
別のコボルドもやりたがった。
そして三匹目、四匹目と代わっていく。
コボルドたちは身体が小さいぶん、大きな棒を何度も振り上げて麦束を打ち続ける作業は楽ではない。ところが、この道具なら必要なのは束を差し込んで引く動きである。
すぐに差が分かった。
「これ、楽」
「速い」
「棒より楽」
「いっぱい出来る」
さっきまで疲れた顔で脱穀していた者まで集まってきた。
ミハイルが腕を組んで眺めている。
「……これは本当に使えそうですね」
「でしょう?」
「先生、さっきまで自分でも分からないって言ってたじゃないですか」
「出来たからいいんだよ」
*
しかしダリヤは、すでに別のところを見ていた。
板に並んだ歯を数えている。
「一本、二本、三本……」
「何してるの?」
「何本あるのかと思って」
「いっぱい」
「それは見れば分かります」
しばらく数えてから、ダリヤが言った。
「本当に千本はありませんけど」
「何の話?」
「歯がいっぱいあるから、千歯こきでいいんじゃないですか」
「千歯?」
ミハイルが笑った。
「千本もないぞ」
「千って、別に本当に千じゃなくてもいいでしょう。たくさんって意味で」
「名前、そこから?」
セラリスが訊いた。
「分かりやすいじゃないですか。歯がたくさん付いた、麦をこく道具」
ヴァレリアが頷いた。
「千歯こき。確かに覚えやすいですね」
近くにいたコボルドが口にしてみる。
「センバコキ」
もう一匹も続ける。
「センバコキ」
「うん。それでいいんじゃない?」
セラリスはあっさり決めた。
こうして名前まで決まった。
*
午後の作業は、朝とは明らかに違った。
最初の一台だけでは順番待ちになったので、ミハイルとセラリスでもう一台作り、ダリヤとヴァレリアが歯の間隔を少し変えた試作品を作った。
コボルドたちは自分たちで使い比べた。
「こっち、狭い」
「麦、小さいの取れる」
「こっちは太い束いける」
「歯、一本曲がった」
「交換出来るようにしようか」
セラリスが言うと、コボルドの一匹がすぐに曲がった木の歯を抜こうとした。
「これ、抜いて新しいの刺せばいい」
「そうそう」
それならコボルドたちだけでも直せる。
特殊な材料も魔法もいらない。
板と木材と、少しの加工技術があれば作れる。
それが何より良かった。
日が西へ傾く頃には、脱穀の済んだ麦の量は朝の予想を大きく上回っていた。
地面へ敷いた布から袋へ麦粒を移しながら、年嵩のコボルドが何度も頷いている。
「これ、明日も使う」
「そのために作ったんだよ」
「来年も使う」
「歯が減ったら交換してね」
「分かった」
「板が割れたら?」
「新しい作る」
「うん」
そこまで言えれば十分だった。
セラリスが作りたいのは、自分がいなければ使えない魔法道具ではない。
使う者が自分で直し、自分で工夫し、必要ならもっと良く出来る道具だった。
*
夕方、四人はコボルドたちから少し離れたところで休んでいた。
コボルドたちはまだ千歯こきを試している。
朝には疲れた顔で棒を振っていた者たちが、今は誰が一番速く脱穀出来るか競争のようになっていた。
ミハイルがそれを眺めながら言った。
「先生」
「なに?」
「俺たち、今日は麦の手伝いに来ただけですよね」
「うん」
「どうして道具作ってるんです?」
「その方が早く終わるから」
「そういうことじゃなくて」
ダリヤが横から口を挟んだ。
「いつものことじゃないですか」
「まだ『いつも』ってほど長くないだろ」
「でも、だいたいこうなります」
ヴァレリアが笑っている。
「結果的には助かりましたから、良いのではありませんか?」
「まあ、そうなんだけどさ」
セラリスは麦の積まれた袋を眺めた。
「来年はもっと作るかもしれないでしょう?」
「コボルドたちがですか?」
「うん。今年これだけ採れたなら、畑を広げるかもしれない」
近くでは、さっそくコボルド同士が何か相談していた。
聞こえてくる言葉からすると、どうやらもう「来年は何台作るか」という話らしい。
ダリヤがそれを聞き取って、小さく笑った。
「もう自分たちで作る気ですね」
「その方がいいよ」
セラリスは答えた。
「私たちが毎年来て作るものじゃないから」
使い方だけ覚えればいい。
作り方も難しくない。
あとは、実際に麦を育てているコボルドたちが、自分たちの使いやすいように変えていけばいい。
歯の間隔を狭くする者もいるだろう。
板を大きくする者もいるだろう。
座ったまま使える高さへ取り付ける者が出てくるかもしれない。
セラリスには、その先まで決めるつもりはなかった。
ただ今日、棒を振り続けるより少し楽になった。
それで十分だった。
*
その秋から、千歯こきはコボルドたちの麦畑で使われるようになった。
最初は数台しかなかった。
翌年には増えた。
その次の年には、誰が最初に作ったのかを知らない若いコボルドまで普通に使っていた。
やがて周囲の農家が、
「ミスタメアのコボルドが変な脱穀道具を使っているらしい」
と聞いて見に来るようになる。
そして実際に使わせてもらえば、欲しくなる。
特別な魔法は必要ない。
高価な金属も必要ない。
木工職人なら作れる。
壊れても直せる。
何より、秋の重労働が目に見えて短くなる。
後から振り返れば、それはミスタメアで起こった数々の変化の中では、ひどく地味な出来事だった。
竜が飛んだわけでもない。
巨大な魔法が使われたわけでもない。
街道が一夜で出来たわけでもない。
ただ、麦を作っていたコボルドたちの隣で、手伝いに来た四人が「もっと楽に出来ないか」と考え、木の板へたくさんの歯を並べただけだった。
けれど、その年からコボルドたちは、秋になるたび以前より少ない時間で麦を脱穀出来るようになった。
空いた時間は、別の畑仕事に使えた。
屋根を直すことも出来た。
冬支度も早く始められた。
子供と一緒に過ごす時間だって増えた。
省けたのは、ただの手間ではない。
人の――そしてコボルドの――時間だった。
後になってセラリスが洗濯や水汲みや調理や農作業を楽にする道具へ次々と手を出していく、そのずっと初めの頃。
ミスタメアの麦畑には、もうその考え方の小さな芽が出ていたのである。