セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
シャーレーン・ハララン男爵が、ミスタメアの古い城跡に人が住みつき、しかもそこを根城にするだけでは飽き足らず、若い冒険者たちを集めて訓練まで始めたという話を初めて耳にしたのは、もちろん昨日や今日のことではなかった。
スレスホールドとその周辺を預かる領主として、自分の領内で何が起こっているかを知らずに済ませられるほど、シャーレーンは怠惰でもなければ無責任でもない。ましてミスタメアは、地図の外へ忘れ去られた荒野ではなく、かつて城があり、人が住み、いまなお街道からそう遠くない場所に残された古い廃墟であったから、そこへ人が入り込み、崩れかけた石壁を直し、火を焚き、物資を運び込んで生活を始めたとなれば、遅かれ早かれ領主の耳へ届くのは当然のことだった。
最初にその報告を受けた時、シャーレーンは少しばかり眉をひそめた。
「訓練所?」
「はい、閣下」
「冒険者の?」
「若者を集めて、武器の扱いだけではなく、野営や探索、地下遺跡での行動なども教えているようです」
「誰がやっている?」
「中心になっているのは、セラリス・オブ・カラーリーというエルフです」
その名には聞き覚えがあった。
アリーナからも、何度か聞いている。
少々変わったエルフだという話だった。
もっとも、アリーナが誰かを評して「少し変わっている」と言う時には、その少しという言葉をどこまで信用してよいものか、叔父であるシャーレーンにもよく分からなかったが、それでも少なくとも、悪意を持って人を害するような者ではないらしいということだけは分かっていた。
「問題は起こしているのか?」
「今のところは」
「周辺の村との揉め事は?」
「ありません」
「盗賊まがいのことは?」
「ありません」
「街道を通る商人への迷惑は?」
「特に報告されておりません」
「ならば、しばらく見ておきなさい」
それだけを命じた。
冒険者というものが面倒な人種であることを、シャーレーンはよく知っていた。怪物を退治し、盗賊を追い払い、普通の兵士では近寄れない場所へ入って問題を解決してくれることもあれば、酒場で喧嘩を始め、他人の畑を荒らし、拾った財宝の所有権をめぐって揉め事を起こすこともある。役に立つからといって全面的に信用するわけにはいかず、面倒を起こしやすいからといって追い払えば、それはそれで必要な時に困る。
だからこそ、何も起こしていないうちは余計なことをしない。
それが一番だった。
少なくとも、その時のシャーレーンはそう考えていた。
*
ところが、それからしばらくすると、ミスタメアに関する報告の内容が、少しずつ妙な方向へ変わり始めた。
「畑を開いております」
ある日、そう報告された。
「誰が?」
「ミスタメアの者たちです」
「冒険者が農業を始めたのか?」
「冒険者もおりますが……その、主にコボルドが」
シャーレーンは顔を上げた。
「コボルド?」
「はい」
「飼っているのか?」
「いえ」
報告役の男は、その問いにどう答えたものか迷ったように口ごもった。
「一緒に暮らしている、と申しますか」
「どういう意味だ、それは」
「そのままの意味であるようです。ミスタメアの中に住居を持ち、働いております」
それだけ聞いても、シャーレーンにはまだ状況がよく呑み込めなかった。
コボルドがいる。
それ自体は珍しくない。
カラメイコスの辺境を預かっていれば、洞穴や古い坑道にコボルドの群れが住みついたという話など、いくらでも耳に入る。しかし、それは普通、討伐すべきか、追い払うべきか、少なくとも警戒すべき存在として報告されるものであって、畑を耕しているという文脈で聞くものではなかった。
そこで、また様子を見させた。
すると次の報告が来た。
「窯を作りました」
「何の窯だ?」
「陶器を焼く窯です」
「誰が?」
シャーレーンは訊きながら、すでに答えが分かっているような気がしていた。
「コボルドです」
やはりそうだった。
「……売っているのか?」
「はい」
「誰に?」
「街道を通る商人や、近隣の村人に。冒険者にも売っております」
「何を?」
「皿、鉢、壺、水甕、それから最近では穀物や塩漬け肉を保管するための大きな壺も作っているそうです」
「品質は?」
「悪くない、と」
「そうか」
シャーレーンは、それ以上何を言えばよいのか分からなかった。
コボルド。
その名から普通の人間が思い浮かべるものは、おそらく決まっている。
洞穴。
罠。
錆びた武器。
数を頼んで旅人へ襲いかかる、小柄で狡猾な亜人。
少なくとも、朝から畑を耕し、粘土をこね、窯の温度を見ながら器を焼き、出来上がった壺の値段を商人と相談している姿ではない。
だが、現実にそうしているという。
畑を開き。
作物を育て。
陶器を作り。
物を売る。
しかも周囲の人間を襲っていない。
若い冒険者たちの訓練にも協力しているらしい。
ならば、それでよいのではないか。
シャーレーンはそう思った。
少なくとも、その段階では。
*
本当の問題が表面へ出てきたのは、それより少し後のことだった。
「税?」
執務室へ呼び出した税務官を前にして、シャーレーンは聞き返した。
「はい、閣下」
「取れなかったのか?」
「いえ、そうではありません」
「では、払わないと言ったのか?」
「それも違います」
税務官は、いかにも困ったという顔をしていた。徴税の現場では、人間はしばしば税を払いたくない理由をいくらでも考え出すものであり、その程度の揉め事で彼がここまで困惑した様子を見せることは珍しかった。
「ならば何だ」
「セラリス・オブ・カラーリー殿から、一つ確認を求められまして」
「確認?」
「はい」
男は手にしていた帳簿へ目を落とし、それから、言葉を間違えないように確かめるような調子で言った。
「『税は払うから、正式な住民として認めてくれるんだよね』と」
シャーレーンは、しばらく何も言わなかった。
「誰をだ」
「コボルドです」
部屋の中が静かになった。
窓の外では風が木々を揺らしていたが、その音さえ妙に遠く聞こえるようだった。
「もう一度言ってくれ」
「コボルドから税を徴収するのであれば、その者たちを正式な領民として扱うという理解でよいのか、と尋ねられました」
税務官はさらに続けた。
「商売をしている以上、税を払うこと自体には異存がない。しかし税を取るのであれば、領主の法の下にいる者として、財産を持つ権利、商売をする権利、契約を結ぶ権利、そして争いが起きた場合に裁判を受ける権利も認められるのか、と」
「……なるほど」
「私には答えられませんでした」
「それは、そうだろうな」
シャーレーンは責めなかった。
税務官がその場で答えられなかったことを、怠慢とも無能とも思わなかった。
なぜなら、今こうして報告を受けている自分にも、すぐには答えが出なかったからである。
*
その日の午後、シャーレーンは人払いをし、税務官から受け取った報告書をもう一度最初から読み返した。
紙の上には、簡潔な言葉しか並んでいない。
コボルド。
農耕。
陶器製造。
販売。
納税意思あり。
治安上の問題なし。
文字にしてしまえば、それだけである。
だが、その中で最初の一語だけが、他のすべてを押しのけるほど重く見えた。
コボルド。
敵。
怪物。
亜人。
討伐対象。
長いあいだ、その言葉にはそういう意味がまとわりついてきた。村の人口台帳へ記される名前でもなければ、納税者として数えられる存在でもなく、領地の住民という言葉の中へ含めることなど、誰も考えてこなかった。
まして徴税台帳へ、
職業――陶工。
所有財産――窯一基。
耕作地――若干。
などと書き込むことなど、誰が想像しただろう。
シャーレーンは椅子の背へ身体を預け、しばらく天井を見た。
もし彼らが人間なら、何の問題もない。
エルフでもよい。
ドワーフでもよい。
ハーフリングなら、なおさら誰も疑問を持たないだろう。
土地を耕し。
物を作り。
それを売り。
税を払う。
それなら領民だ。
では、なぜコボルドなら違うのか。
「……コボルドだから、か」
声にしてから、その言葉の頼りなさに気づいた。
それは本当に理由なのだろうか。
人を襲うから、領民には出来ない。
それなら分かる。
盗みを働くから。
街道を荒らすから。
領主の法に従わないから。
村人を殺すから。
そういう理由なら、領主として判断出来る。
だが報告書に書いてあるのは、それとは正反対のことばかりだった。
畑を耕している。
窯を焚いている。
商品を売っている。
商人と契約をしている。
冒険者訓練所で仕事をしている。
人間との争いはない。
犯罪の記録もない。
つまり、彼らは何も問題を起こしていないのである。
何も。
問題があるとすれば、ただ彼らがコボルドであるという、その一点だけだった。
*
「アリーナなら、何と言うかな」
ふと、そんな独り言が口から出た。
姪ならば、おそらくほとんど迷わない。
人を襲っていないなら、それでいいじゃないですか。
そう言うだろう。
そして、その言葉は彼女らしく単純であると同時に、たぶん本質からそれほど外れてはいない。
だが、シャーレーンはアリーナではなかった。
彼は聖職者だった。
しかも大司教であり、同時にこの土地を預かる領主でもある。
一匹の腹をすかせたコボルドへ食事を与えることと、ある集団を正式な領民として認めることは、まったく違う。
領民と認めるということは、単に「住んでいてもよい」と言うことではない。
法の内側へ入れることだ。
税を課す。
財産の所有を認める。
売買契約を認める。
借金をすれば債務者として扱い、金を貸せば債権者として扱う。
誰かに商品を盗まれれば、それを盗難事件として捜査する。
誰かに傷つけられれば、被害者として裁判所が扱う。
逆に彼らが罪を犯せば、怪物として討伐するのではなく、犯罪者として裁くことになる。
それはつまり、彼らを「法の外にいる怪物」から「法の内にいる住民」へ移すことであった。
そして一度それを認めれば、次からは前例になる。
「コボルドを領民として認めた」
という前例が。
それを、自分一人で決めてしまってよいものなのか。
シャーレーンは額へ指を当てた。
「私が決めても良いのだろうか……」
誰に聞かせるでもない言葉だった。
返事はない。
ただ、静かな部屋の中で、その問いだけが妙に大きく残った。
*
やがてシャーレーンは書記を呼んだ。
「大公府へ書状を出す」
「はい、閣下」
「草案を取ってくれ」
書記が紙と筆記具を用意し、机の端に座る。
シャーレーンはすぐには話し始めず、少し時間をかけて言葉を選んだ。
「領内ミスタメアに居住するコボルドについて」
書記の筆が動いた。
「彼らは現在、人間およびその他の住民と争うことなく居住し、農耕ならびに陶器製造に従事している」
さらに筆が走る。
「作物および陶器を販売し、街道を往来する商人との取引を行っている。税務官が徴税のため赴いたところ、彼らは納税そのものについて異議を唱えなかった」
そこでシャーレーンは少し言葉を切った。
「ただし」
書記が顔を上げる。
「納税を行うのであれば、自らを領民として正式に認めることを希望している」
筆先がほんの一瞬だけ止まった。
書記にも、その言葉の意味が分かったのだろう。
だが何も言わず、続きを待った。
「現在までのところ、当該コボルドによる略奪、暴行、窃盗その他、治安上の問題は報告されていない。農地を耕し、陶器を製造し、若年冒険者の訓練にも協力している」
そこまで言ってから、シャーレーンは少し考えた。
そして最後に、
「領内で平和裏に生活し、経済活動を行い、納税の意思を示すコボルドを、正式な領民として認めても良いだろうか」
と告げた。
書記が書き終える。
「さらに、彼ら自身が領民として認められることを希望している、と付け加えてくれ」
「承知しました」
書記が紙をまとめようとしたところで、シャーレーンはそれを止めた。
「待ちなさい」
「はい?」
「私個人としては、認めることに反対していない、と書いておこう」
書記がわずかに目を見開いた。
「よろしいのですか」
「事実だからね」
「はい」
「ただし、これはミスタメアだけで終わる問題ではないかもしれない、とも」
そこが、シャーレーンにとってもっとも重いところだった。
今日、ミスタメアのコボルドを領民と認める。
では明日、どこかの村の近くへゴブリンが住みつき、畑を耕し始めたらどうする。
オーガが鍛冶場を開き、武器ではなく農具を作り始めたら。
ノールの一団が街道警備を請け負い、給金を得て暮らしたいと言い出したら。
バグベアが森で木材を切り、税を払うと言ったら。
その時にも、同じ原則を適用するのか。
おそらく、その問いはいつか必ず来る。
だからこれは、陶器に課す税率の話ではなかった。
もっと深いところで、国というものが誰をその内側へ入れるのかという話だった。
*
書状は封をされ、大公府へ向けて送り出された。
それですべてが終わったわけではない。
むしろ、本当の問題はそこから始まるのだろう。
シャーレーンは窓辺に立ち、暮れかけたスレスホールドの町を眺めていた。
屋根の上から煙が上がっている。
どこかで犬が吠える。
市場を片づける人々の声がする。
町はいつもと変わらず、人間の営みを続けている。
不思議なものだ、と彼は思った。
もしミスタメアのコボルドたちが武器を手にして村へ押し寄せてきたのであれば、話は遥かに簡単だっただろう。
兵を出せばよい。
戦わせればよい。
追い払うか、降伏させるか、それだけで済む。
ところが、彼らは武器の代わりに鍬を持った。
土を掘った。
畑を作った。
粘土をこねた。
窯へ火を入れた。
皿を焼いた。
壺を売った。
そして最後には、税を払うと言い出した。
その瞬間から、ことは戦争より難しくなった。
「怪物でいてくれた方が、簡単だったのかもしれんな」
シャーレーンは小さく呟いた。
だが、その声音には嫌悪も苛立ちもなかった。
むしろ、自分自身の立場を可笑しく思うような、疲れた苦笑に近いものがあった。
領主としては面倒だった。
大司教としても、考えなければならないことは増えた。
既存の法には、この問いへの十分な答えがない。
古い慣習にもない。
人々の感情がすぐについてくるとも思えない。
それでも、人を襲っていた者たちが、襲わずに生きる方法を選んだというのなら。
奪わなければ生きられなかった者たちが、自分で作り、自分で売り、その対価で食べてゆく方法を身につけたというのなら。
それを悪いことだと、シャーレーンにはどうしても思えなかった。
むしろ、もし彼らが本当に法に従い、働き、税を払い、隣人として生きようとしているのであれば、その道を閉ざすことの方が、聖職者としても領主としても、どこか間違っているように思えた。
ただし、自分一人の善意だけで国の原則を作ることも出来ない。
だからこそ、ステファン大公へ問うたのだ。
カラメイコスという国は、何をもって自らの民とするのか。
血なのか。
種族なのか。
生まれなのか。
それとも、その土地に住み、その法に従い、働き、税を払い、隣人を害さずに暮らそうとする意思なのか。
その答えがどうなるのかは、まだ分からない。
そしてシャーレーン自身も、この時点では知る由もなかった。
ミスタメアの小さな窯場で焼かれた、少し形の歪んだ皿や壺から始まった税の話が、やがてコボルドだけではなく、ゴブリン、ノール、オーガ、バグベア、そしてそれまで「人間の国」の外側にいるものと思われていた多くの種族について、カラメイコスそのものへ問いを突きつけることになるとは。
誰を領民と呼ぶのか。
誰に税を課すのか。
誰を法が守るのか。
そして結局のところ、国家というものは何によって「自分たち」と「それ以外」を分けるのか。
その大きな問いは、戦場でも宮廷でもなく、コボルドが焼いた一枚の皿と、その売上にいくら税をかけるのかという、ごく小さな出来事から始まったのである。