セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
大公府へ届く書状は、一日に一通や二通ではなかった。
地方領主からの報告、軍からの上申、商人組合からの陳情、裁判に関する照会、税収の報告、街道や橋の修繕を求める文書。国というものを治めていると、紙というものはいくらでも増えるらしく、ステファン・カラメイコス大公の机の上には、その日も朝から何通もの書状が積まれていた。
その中に、見慣れた封蝋を見つけた時、ステファンは特に身構えもしなかった。
「シャーレーンからか」
スレスホールド領主、シャーレーン・ハララン男爵。
カラメイコス教会の大司教であり、領主としても長く信頼している人物である。
彼から大公府へ直接書状が来ること自体は珍しくない。
教会に関する話か。
スレスホールド周辺の治安か。
あるいは街道の話か。
その程度に考えながら、ステファンは封蝋を確認し、短剣の先で封を切った。
紙を開く。
最初の数行を読む。
眉が、わずかに動いた。
さらに読み進める。
最後まで読んだ。
そこでステファンは、何も云わずに紙を最初へ戻した。
もう一度読んだ。
今度は先ほどよりもゆっくりと。
そして、二度目を読み終えたあと、しばらく手元の書状を眺めたまま動かなかった。
やがて三度目を読み始めた。
「コボルド……」
低く、呟いた。
書き間違いではない。
見間違いでもない。
確かにそう書いてある。
スレスホールド領内、ミスタメア旧城址付近に居住するコボルド。
農耕に従事。
陶器製造。
商人との取引。
周辺住民への襲撃、略奪、窃盗などの問題は、現在まで確認されていない。
若い冒険者の訓練にも協力。
そして税務官が現地へ赴いたところ、納税そのものについては異議を唱えなかった。
ただし。
納税を求めるならば、自分たちを正式な領民として認めてほしい。
「うむ……これは……」
ステファンは書状を机の上へ置いた。
困った、と思った。
いや。
正確には、どう考えればよいのか分からなかった。
コボルドを討伐したという報告なら、何も難しくはない。
街道へ出て旅人を襲った。
村から家畜を盗んだ。
洞穴へ立て籠もった。
そういう話なら、兵を出すなり、冒険者を募るなりすればよい。
ところが、この書状に出てくるコボルドは畑を耕している。
窯を焚いている。
皿や壺を作っている。
それを商人に売っている。
そして税まで払うと云っている。
ステファンは椅子の背へ身体を預けた。
「税を払うコボルド、か」
口にしてみると、ますます妙だった。
*
もう一度、書状へ目を落とす。
シャーレーン自身の意見も書かれていた。
彼らは今のところ領内の治安を乱していない。
人間その他の住民と平和に暮らしている。
農耕と陶器製造によって自ら生活を立てている。
したがって、自分個人としては領民として認めることに異存はない。
しかし、コボルドを正式な領民として扱うという判断を、一領主の裁量だけで下してよいのか判断しかねる。
ゆえに大公の裁可を仰ぎたい。
いかにもシャーレーンらしい。
慎重でありながら、自分の考えも隠していない。
そして確かに、これは一領主の税務処理だけで済む問題ではないかもしれなかった。
「人間ならば、何も問題はないのだが」
ステファンは独り言のように云った。
エルフでもよい。
ドワーフでもよい。
ハーフリングでも、おそらく問題にはならない。
この国に住み。
働き。
法に従い。
税を払う。
それなら領民である。
だが、コボルド。
なぜそこで躊躇するのか、と問われれば、答えは単純だった。
コボルドだからである。
そして、その答えを頭の中で口にした瞬間、ステファンは自分で少し眉をひそめた。
「……それは理由になるのか?」
誰も答えない。
領民として認めない理由が、襲撃や略奪であるならば分かる。
法に従わない。
税を払わない。
他者の財産を奪う。
人を殺す。
ならば保護の対象にはし難い。
だが、この者たちは、そのどれもしていない。
シャーレーンの報告を信じるならば、普通に働いて暮らしているだけだ。
それなのに、
姿がコボルドだから。
それだけで法の外に置く。
大公として、それを明確に説明できるかと問われれば、ステファン自身、自信がなかった。
*
そこで、書状の中に見慣れない名があることへ気づいた。
税務官へ問いを投げかけた者として記されている。
ステファンはその箇所へ指を置いた。
「セラリス・オブ・カラーリー……」
聞いたことのない名前だった。
少なくとも記憶にはない。
「誰だ?」
思わず口にした。
書状を読み返す。
どうやらミスタメアの旧城址に住みついた冒険者たちの中心人物らしい。
エルフ。
それ以上は、この文面からはほとんど分からない。
ステファンは呼び鈴を鳴らした。
ほどなく侍従が入ってくる。
「お呼びでしょうか、大公閣下」
「セラリス・オブ・カラーリーという名に覚えはあるか」
「セラリス……でございますか?」
「エルフらしい。スレスホールド領内のミスタメアにいる」
侍従は少し考えたが、首を横へ振った。
「申し訳ございません。存じません」
「冒険者だそうだ」
「でしたら、冒険者関係の記録を調べさせましょうか」
「頼む」
「直ちに」
侍従が退出する。
ステファンはまた紙を見た。
「セラリス・オブ・カラーリーか」
もう一度、その名を口にした。
この時が、ステファン・カラメイコスがその名を意識して覚えた、最初の瞬間だった。
*
しばらくすると、調べに出した者が戻ってきた。
大した情報はなかった。
セラリス・オブ・カラーリー。
エルフ。
冒険者。
何人かの仲間とともにミスタメア旧城址を拠点としている。
近ごろ、経験の浅い若者に冒険の技術を教えているらしい。
周辺で犯罪を起こした記録はなし。
大公府と直接関わった記録もなし。
それだけだった。
「つまり、ほとんど何も分からないのだな」
「はい」
ステファンは苦笑した。
「その、ほとんど何も分からぬエルフが、コボルドの身分について大公府へ問題を持ち込んだ、と」
「本人が大公府へ訴えたのでございますか?」
「いや」
ステファンはそこでもう一度、わずかに苦笑した。
「もっと面倒だ」
「と申しますと?」
「税務官が税を取りに行ったらしい」
「はい」
「するとそのエルフが、『税は払うから、正式な住民として認めてくれるんだよね』と訊いた」
侍従は一瞬、言葉を失った。
「……それだけでございますか?」
「それだけだ」
「それで税務官が」
「答えられず、シャーレーンへ持ち帰った」
「そしてシャーレーン男爵が」
「私のところへ持ってきた」
侍従は何ともいえない顔をした。
ステファンも同じような顔をしていたかもしれない。
「本人は、大事にするつもりがあったのだろうか」
「いかがでしょう」
「なかったのだろうな」
何となく、そんな気がした。
まだ一度も会ったことのない相手である。
それでも文面を読む限り、このセラリスというエルフが大公府へ政治的な要求を突きつけようとして、わざと問題を作ったようには見えない。
ただ、本当に疑問に思ったのだろう。
税を取る。
なら領民なのではないか。
それだけだ。
だが、その単純な問いに、大公府はすぐ答えられなかった。
*
ステファンは改めて、大公として問題を整理した。
税を徴収する。
それは統治権を行使することだ。
ならば同時に、その者を法の下へ置くことになる。
税だけ取る。
しかし財産は保護しない。
商売は認めない。
裁判所へ訴えることも許さない。
誰かに商品を奪われても知らぬ。
それでは領主ではなく、単なる収奪者である。
「それはできんな」
ステファンは小さく呟いた。
ならば道は二つしかない。
コボルドだから税を取らない。
つまり彼らを大公国の統治外に置いたままにする。
あるいは。
税を取る代わりに、領民として法の保護も与える。
どちらかである。
だが、前者を選んだ場合、もっと妙なことになる。
人間の陶工は税を払う。
隣で同じ皿を焼いているコボルドは払わない。
コボルドの方が有利ではないか。
「それもおかしい」
税を取らないことが差別なのか特権なのか、分からなくなってくる。
ステファンは額を押さえた。
「シャーレーンめ……」
思わず領主の名を呟いた。
しかしシャーレーンを責めることもできない。
彼もまた、自分だけで決めてよい話なのか迷ったのだ。
*
さらに問題なのは前例だった。
コボルドを認める。
ではゴブリンは。
ノールは。
オーガは。
どこまで認める。
そこでステファンはしばらく考え、やがて別の疑問へたどり着いた。
「いや……」
種族を一つずつ列挙するから難しくなるのではないか。
コボルドなら認める。
ゴブリンならどうだ。
オーガならどうだ。
そうではない。
もっと単純な線を引くことはできないのか。
領内に定住する。
法に従う。
他の領民を襲わない。
生業を持つ。
必要な税を負担する。
領主の裁判権を受け入れる。
そういう者を領民とする。
それなら、相手が人間かエルフかコボルドかということは、本来、条件ではない。
だがそれを法として認めれば、これまで怪物や亜人として一括りにされてきた者たちについて、国の考え方そのものが変わることになる。
「……私がそこまで決めてよいのか」
呟いてから、ステファンは少し笑った。
大公である。
自分が決めずに誰が決めるのか。
だが、大公だからといって、何でも軽々しく決めてよいわけでもない。
*
「オリヴィアを呼んでくれ」
やがてステファンは云った。
「それから法務に明るい者も。教会からも一人欲しい」
「シャーレーン大司教では?」
「当人はスレスホールドだ。意見はこの書状にある」
「承知しました」
「それと」
侍従が止まる。
「セラリス・オブ・カラーリーについて、もう少し調べておいてくれ」
「監視を?」
「いや」
ステファンはすぐ否定した。
「そこまでは要らない。どんな人物なのか知りたいだけだ」
「承知しました」
侍従が出ていった。
*
一人になったあとも、ステファンはしばらくシャーレーンの書状を机に置いたまま眺めていた。
妙な事件だった。
反乱でもない。
怪物の襲撃でもない。
国境問題でもない。
たかが小さな窯場の税金である。
皿と壺を売った。
だから税務官が行った。
それだけのことだった。
それなのに。
その小さな話の中に、国とは何かという問いが潜んでいた。
誰を守るのか。
誰から税を取るのか。
誰を法の内側へ入れるのか。
見た目が違えば、同じことをしていても扱いを変えるのか。
ステファンはもう一度、書状の中の名前を見た。
「セラリス・オブ・カラーリー」
エルフ。
冒険者。
ミスタメア旧城址に住みついて、若者へ冒険を教えている。
それしか知らない。
顔さえ知らない。
声も知らない。
何歳なのかも知らない。
それなのに、その名はもう記憶に残った。
「……妙なエルフだな」
ステファンは、ほんの少しだけ笑った。
もちろん、その時の彼には知る由もなかった。
この日、自分が初めて覚えたその名前を、これから先、何度となく大公府で聞くことになるということも。
そのたびに彼女が、本人には大事を起こしているつもりなどほとんどないまま、これまで誰も考えなくてよかった問題を一つずつ大公府の机の上へ載せてくることになるということも。
この時のステファンにとって、セラリス・オブ・カラーリーとは、ただ一人の見知らぬエルフだった。
そしてその見知らぬエルフが大公へ最初に突きつけた問いは、魔法でも、竜でも、戦争でもなかった。
「税を取るのなら、この者たちはあなたの領民なのではないか」
ただ、それだけだったのである。