セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
修正版では、会談の結論としてステファンが単にミスタメアを黙認するのではなく、**「納税と法の遵守を条件に、種族を問わず大公国の領民として扱う」**という原則を明言する形にします。これで最初のコボルド税問題が、最後に国家方針へ着地します。
スペキュラムから正式な呼び出しが届いたとき、セラリスは、とうとう来たか、と思った。
驚きはしなかった。
むしろ、よく今までスレスホールドの中だけで済んでいたものだ、と思ったくらいである。
ミスタメアの廃城へ住みついた冒険者たちが、経験の浅い若者を集めて訓練を始めた。それだけなら、多少変わった冒険者の根拠地ということで済んだだろう。
そこへコボルドが住みついた。
それも数人や十数人ではなく、ブロークンシールド氏族を中心として、今では百人ほどになっている。
彼らは人間の村を襲う代わりに畑を耕し、土を掘り、窯を焚いて、《ミスタメア焼き》だの《コボルド焼き》だのと呼ばれる器まで売り始めた。その税を取りに来た役人へ、セラリスが何気なく、
「税を払うなら、ちゃんと領民として扱ってくれるんだよね?」
と訊いたものだから、話はシャーレーン・ハララン男爵のところまで上がり、さらに大公府まで届いた。
その一件で、ステファン・カラメイコス大公が初めて《セラリス・オブ・カラーリー》という名前を知ったらしい、ということまでは聞いていた。
その後には、若い冒険者が討伐に出たはずのゴブリンと話し合い、なぜか何人か連れて帰ってきた。
彼らも畑を耕し始めた。
オーガまで来た。
こちらも人を食うでも村を襲うでもなく、畑の石をどけ、大木の根を抜き、開墾に恐るべき威力を発揮している。
シャーレーンなどは、ついには、
「ミスタメアだけ、誰か別の者に任せてはどうでしょう」
と大公府へ申し出たらしい。
ただ、ここまでなら、まだ政治と行政の問題だった。
大公国にとって見れば、妙な住民の増えた妙な集落をどう扱うか、という話でしかない。
ところが。
ミスタメア城の地下には、ヴァルザリオンがいた。
若いグリーンドラゴンである。
人を襲わない。
家畜を盗まない。
腹が減れば、近隣の農家から牛を買う。
しかも、ちゃんと代金を払う。
その程度なら、まだよかった。
問題は、ヴァルザリオンが強くなり始めたことだった。
そして、強くなり始めた理由の一端が自分にあることを、セラリスはよく知っていた。
ヴァルザリオンはもともと弱い竜ではなかった。
だが、戦い方がひどかった。
せっかく翼があるのに、敵の前へ降りる。
ブレスを吐いたあと、その場で相手が近づいてくるのを待つ。
牙に頼る。
尾を使うにも、翼を使うにも、戦術というものがない。
強靱な肉体と竜という種族そのものの力に任せて殴り合うだけだった。
それを見て、セラリスが黙っていられなかった。
飛べるなら飛べ。
上を取れ。
一度ブレスを吐いたら距離を取れ。
相手が空へ上がってきたら、速度と高度を使え。
地形を見ろ。
相手が自分より強いなら、真正面から噛み合うな。
そんなことを一つずつ教えた。
結果として。
ヴァルザリオンは、周辺の他の竜に勝ち始めた。
しかも殺さない。
打ち負かす。
屈服させる。
財宝の一部を差し出させる。
場合によっては、自分の下へつかせる。
その財宝をミスタメアへ運び込むために、コボルドや冒険者を人足として雇う。
賃金まで払う。
そうなれば、噂にならないはずがなかった。
街道沿いの酒場では、
ミスタメアに緑竜王がいる。
配下にも竜がいる。
城の地下には山ほどの金銀財宝が積まれている。
怪物と人間が一緒になって竜王に仕えている。
そして、そのすべての背後には、竜王さえ従える黒髪金眼のエルフの魔女がいる。
そんな話になっていた。
最後のところだけは訂正したかった。
非常に訂正したかった。
だが、ヴァルザリオンへ戦い方を教えたのは自分であり、彼が約束を破れば自分が止めることになっている以上、まったく関係ないとも言えなかった。
シャーレーンから届いた手紙には、ひどく簡潔に、
――大公殿下が直接事情を聞きたいとの仰せである。私とアリーナも同行する。
と書いてあった。
セラリスは二度読んでから、紙を畳んだ。
「まあ、そうなるよねえ」
腰の鞘からソーンウォッチが答えた。
「なるだろうな」
「他人事みたいに云わないでよ」
「私は剣だ」
「便利ね、その立場」
「実に便利だ」
セラリスはため息をついた。
/*/
スペキュラムは、スレスホールドとは何もかもが違っていた。
人が多い。
荷車が多い。
馬車が多い。
店が多い。
石造りの家々が連なり、港へ近づけば異国の船乗りまで歩いている。
それだけの人間を一つの秩序の中へ収めている大公府というものを目の前にすると、セラリスもさすがに、ミスタメアで起きていることが単なる仲間内の出来事ではないということを意識せざるを得なかった。
大公宮へ入ってからも、それは変わらなかった。
シャーレーン・ハララン男爵は、いつものように穏やかだった。
ただ、その穏やかさの奥に、今日は自分もまた地方領主として説明を求められる立場なのだという、わずかな緊張があった。
アリーナも普段より口数が少ない。
三人が通されたのは、大広間ではなかった。
比較的小さな会議室である。
衛兵はいる。
侍従もいる。
だが公開の場ではない。
そのことに、セラリスは少しだけ安堵した。
少なくとも、今日は裁判ではない。
部屋の奥にいた男が立ち上がった。
ステファン・カラメイコス大公。
まだ壮年であり、軍人として生きてきた者の身体つきを残している。けれども、彼の顔に刻まれているものは、剣を振るう者の単純な自信だけではなかった。
人間をまとめる。
異なる立場の者たちを同じ国の中へ置く。
誰かを守れば、別の誰かの利益を損なうことがある。
何か一つ決めれば、それが明日の前例になる。
そういうことを長いあいだ考え続けてきた者の顔だった。
セラリスは正式に礼を取った。
「セラリス・オブ・カラーリーです」
「ステファン・カラメイコスだ。遠いところをよく来てくれた」
声は穏やかだった。
それから彼は、ほんの少しだけセラリスを見た。
「そなたの名前は以前から知っている」
「あ」
セラリスには心当たりがあった。
「コボルドの税金?」
シャーレーンが目を閉じた。
アリーナが僅かに下を向いた。
ステファンは一瞬だけ黙った。
「……そうだ」
「やっぱり」
「今日はその話ではない」
「はい」
ステファンは三人へ席を勧めた。
テーブルの上には何通もの報告書が重ねられている。
その厚みを見ただけで、セラリスは少し嫌な予感がした。
ステファンは一枚を取った。
「まず確認したい。ミスタメア城地下に棲むグリーンドラゴン。名をヴァルザリオンというのだな」
「はい。私たちはヴァルって呼んでますけど」
「……ヴァル」
「本人もその方が早いって」
「そうか」
ステファンは何かを飲み込むように一度頷いた。
「そなたは、その竜と親しいのか」
「それなりには」
「家畜を買わせているのも?」
「最初に、盗むなって云いました」
「その結果、農家から買うようになった」
「はい」
「金はどこから出る」
「ヴァルの財宝から」
「なるほど」
ここまでは、まだよかった。
ステファンは次の紙を取った。
「そのヴァルザリオンが、近隣の他のドラゴンへ戦いを挑んでいる」
「はい」
「こちらの報告には『襲撃』とある」
「ヴァルは挑戦だと思ってるみたいです」
「相手は?」
「たぶん襲撃だと思ってるでしょうね」
シャーレーンの肩が、ごくわずかに落ちた。
ステファンはその答えをしばらく咀嚼した。
「……まあ、そうだろうな」
次の報告書。
「そして勝ったら竜を殺さず、服従させる」
「はい」
「財宝を差し出させる」
「全部じゃありません」
セラリスは反射的に云った。
ステファンの目が上がった。
「全部ではない?」
「一部です」
「そこは重要なのか」
「ヴァルにとっては、かなり」
ステファンは一瞬、何ともいえない顔をした。
「そうか」
大公国の支配者として、なぜ自分が竜同士の財宝徴収率を確認しているのか。
そう思ったのかもしれない。
「それを運ぶため、コボルドや人間の冒険者を雇用している」
「はい」
「賃金を払って」
「そこはちゃんとしてます」
「そこを問題にしているのではない」
「ですよね」
ステファンの口元が、ほんの少しだけ歪んだ。
「むしろ私には、なぜその部分だけ妙にまともなのかが分からない」
「働かせるなら給料を払いなさいって教えたので」
今度はステファンがシャーレーンを見た。
「確認したのか」
「しております」
シャーレーンは頷いた。
「強制労働ではありません。希望者を募っております。支払いも確認しました」
「コボルドにも?」
「同額かどうかは仕事によりますが、支給されています」
「人間にも?」
「はい」
「食事も?」
「出ます」
「……待遇に不満は」
シャーレーンは少し考えた。
「今のところ聞いておりません。むしろ、希望者の方が多いようです」
「なぜだ」
今度はアリーナが、少し言いにくそうに答えた。
「ドラゴン同士の戦いを近くで見られるから、と」
ステファンは黙った。
セラリスも黙った。
シャーレーンも黙った。
大公はゆっくりと額を押さえた。
「冒険者という者は……」
それ以上は云わなかった。
/*/
しばらくして、ステファンはもっとも重要な問いへ移った。
「現在、ヴァルザリオンの下にいる竜は何頭だ」
セラリスは答えた。
大公は報告書に記された数字と照らし合わせた。
「噂よりは少ないな」
「噂の方は、会うたびに一頭ずつ増えてます」
「だが実数が噂より少ないからといって、安心できる話ではない」
「それはそうですね」
「この先も増えるのか」
「ヴァルが勝てば」
「なぜ、そこまで続ける」
そこでセラリスは少しだけ姿勢を正した。
シャーレーンへ目をやる。
男爵は小さく頷いた。
秘密にする理由はない、ということだった。
「ヴァルは《昇華の儀式》を目指しています」
ステファンの表情が変わった。
それまであった、困惑や半ば呆れたような空気が消えた。
「説明してほしい」
セラリスは説明した。
竜がさらに強大な存在になるための儀式。
ただ歳を重ねるだけではなく、それに相応しい財宝と力を蓄え、自らの優越を示す必要があること。
ヴァルザリオンが他の竜へ挑むことも、財宝を集めることも、その過程の一部であること。
単なる気まぐれではない。
成功するまで、あるいは本人が諦めるまで、続くだろうこと。
話し終えるころには、ステファンの表情は完全に統治者のものになっていた。
「つまり、これは一時的な縄張り争いではない」
「はい」
「ヴァルザリオンは、意図的に勢力を拡大している」
「そうなります」
「成功すれば」
ステファンは一度言葉を切った。
「今よりさらに強くなる」
「はい」
「どの程度」
「かなり」
あまり役に立たない答えだった。
だが、無理に数字へ直せるようなものでもない。
「止められるのか」
ステファンが訊いた。
「ヴァルを?」
「そうだ」
セラリスは少し考えた。
絶対とは云いたくなかった。
戦闘に絶対などない。
だが、現在のヴァルザリオンなら。
「たぶん」
その答えに、ステファンは動かなかった。
ただ、その目だけが変わった。
「そなたが?」
「はい」
「他の者の力を借りずに?」
「状況によりますけど、止めるだけなら」
そこには誇張も虚勢もなかった。
自慢する様子すらない。
だからこそ、ステファンはその答えを軽く聞き流せなかった。
複数の竜を打ち破っているグリーンドラゴン。
その竜を、このエルフは「たぶん止められる」と云った。
「ならば」
ステファンは静かに訊いた。
「なぜ止めない」
セラリスは今度こそ少し考えた。
「ヴァルが、強くなりたいと思ってるからです」
「それだけで認めるのか」
「何をしてもいいとは云ってません」
セラリスは首を振った。
「人を襲わない。家畜を盗まない。村や街道の近くで戦わない。人の畑を荒らさない。負けた相手を、必要もないのに殺さない。従わせた竜にも、人を襲わせない。そこは約束させています」
「破ったら?」
「止めます」
「聞かなければ?」
少しの躊躇もなかった。
「殺します」
部屋が静かになった。
大きな声ではない。
威嚇でもない。
セラリスはただ、決まっていることを云っただけだった。
だが、その一言は、それまでの会話のどの言葉よりも重かった。
ステファンはしばらく彼女を見ていた。
シャーレーンは驚かなかった。
アリーナも同じだった。
二人はもう知っている。
セラリスは、戦わずに済む相手とは戦わない。
話せるなら話す。
助けられるなら助ける。
怪物だからという理由だけで殺すこともしない。
けれど、それは甘さとは違う。
一度引いた線を越え、自分が守ると決めた者を害する相手には、相手が何者であろうと容赦しない。
「……分かった」
ステファンはようやく云った。
/*/
「シャーレーン」
「はい」
「現在のミスタメア周辺の治安は」
「以前より良好です」
「以前より?」
「はい」
「街道での襲撃は」
「減っております」
「コボルドは?」
「ミスタメアに定住した者については、周辺村への襲撃はありません」
「ゴブリン」
「同様です」
「オーガ」
「開墾しております」
ステファンは少し黙った。
「では、野生の怪物や盗賊は」
「城周辺へは以前ほど近づかなくなりました」
「なぜ」
シャーレーンが少しだけ云いにくそうな顔をした。
「グリーンドラゴンの縄張りであることが、広く知られるようになりましたので」
また沈黙が落ちた。
ステファンは椅子へ深くもたれた。
本来ならば、話は逆でなければならないはずだった。
領内に竜が住みついた。
しかも他の竜を服属させ、勢力を拡大している。
ならば危険である。
討伐する。
少なくとも追い払う。
それが普通だ。
ところが、現実はどうか。
竜がいるので盗賊が近寄らない。
竜に従ったコボルドは、略奪の代わりに畑を耕している。
ゴブリンも同じだ。
オーガは開墾に使われている。
農家は牛を奪われる代わりに、金貨を受け取る。
冒険者は訓練場所を得た。
そして当のヴァルザリオンまで、人間社会の取引というものを少しずつ覚えている。
これを討伐すればどうなる。
ヴァルザリオンに従っている竜は再びばらばらになる。
コボルドたちの暮らしも崩れるかもしれない。
ゴブリンも逃げる。
オーガも消える。
何よりも、人を襲わず、約束を守っている相手を、大公国の方から先に攻撃したという事実が残る。
「……討伐した方が、むしろ問題が増えるのか」
ステファンは、ほとんど独り言のように云った。
「私もそう思います」
セラリスが即座に答えた。
ステファンは顔を上げた。
「もう少し云いにくそうに答えてくれないか」
「すみません」
アリーナがとうとう口元を押さえた。
シャーレーンは目を閉じた。
/*/
結局。
ステファンが選んだのは、討伐でも追放でもなかった。
かといって、好きにしろと放置するわけでもない。
条件を定め、その範囲内で認める。
それしかなかった。
「まず、人の住む土地を戦場にしない」
「はい」
「村、街道、農地、その上空も含む」
「分かりました」
「ヴァルザリオンだけではない。彼に従う竜にも守らせる」
「はい」
「大公国の臣民を襲わせない。家畜を奪わせない。必要なら正規に購入する」
「はい」
「人間、コボルド、ゴブリンその他を働かせる場合、本人の意思による契約とする。報酬を払う」
「それはもうやってます」
「今後も続ける」
「はい」
「勢力が大きく変わった場合、報告する」
セラリスの表情が少し曇った。
「毎回?」
「何頭も増えたら、だ」
「それなら」
ステファンは一瞬、頭痛を堪えるような顔をした。
「そして最後に」
声が低くなった。
「ヴァルザリオンが約束を破り、私の民を害するようになった場合」
「はい」
「そなたが責任を持って止める」
「分かりました」
「できれば」
ステファンは少し間を置いた。
「殺す前に止めてくれ」
「もちろん」
「その『もちろん』を、私はどこまで信じてよいのだろうな」
「かなり?」
「疑問形で答えるな」
「はい」
そこで一応、竜についての話はまとまった。
/*/
だが、それだけでは終わらなかった。
ステファンは目の前の書類を整理しながら、シャーレーンへ目を向けた。
「そなたは以前、ミスタメアを自領から切り離してはどうか、と云ってきたな」
「はい」
「今でも考えは変わらないか」
「変わりません」
シャーレーンは即答した。
「ただし、土地そのものを放棄したいという意味ではありません。あそこは私の領内ですし、その責任を否定するつもりもありません」
「では」
「通常の村として扱うのが難しくなっております」
それはステファンにも理解できた。
コボルドが百人。
ゴブリン。
オーガ。
冒険者。
そして竜。
普通の村役人へ任せて済む話ではない。
「土地の所属は当面、そのままとする」
ステファンはゆっくり云った。
「正式に領地を分けるには、まだ小さすぎる。境界も法も定まっていない」
「妥当かと存じます」
「だが管理については、別に考える必要がある」
そこでステファンはセラリスを見た。
「セラリス」
「はい?」
「そなたは、あそこで何をするつもりなのだ」
セラリスは少し考えた。
「若い子を鍛えて、死ににくくする」
「それだけか」
「最初は」
「今は?」
もう少し考えた。
「住みたいって云う人を、追い出す理由がなければ住ませてます」
「コボルドも」
「はい」
「ゴブリンも」
「はい」
「オーガも」
「はい」
「竜も」
「ヴァルは先にいました」
ステファンは思わず目を閉じた。
「……そうだったな」
しばらくして目を開く。
「つまり、そなた自身は領主になるつもりはない」
「ないです」
これも即答だった。
シャーレーンがわずかに視線を伏せた。
「では、領地は与えない」
「助かります」
「なぜ安心する」
「仕事増えるから」
ステファンは少しだけセラリスを見つめた。
「だが」
静かに続けた。
「実際にそこで起きていることを、一番よく知っているのはそなただ」
「……はい」
「コボルドたちはそなたの言葉を聞く」
「だいたい」
「ゴブリンも」
「今のところ」
「オーガも」
「たぶん」
「竜も」
「ヴァルは時々聞きません」
「そこは聞かせてくれ」
「はい」
ステファンは小さく息を吐いた。
「ならば、土地を与える代わりではない。正式な領主にするのでもない。だがミスタメアの特殊な住民と、そこに集まる冒険者、そして竜に関する現地の責任者は必要だ」
セラリスは嫌な予感がした。
非常に嫌な予感だった。
「大公直属の立場で、ミスタメアを守り、問題があればシャーレーンと私へ報告する者を置く」
「……誰を?」
ステファンは答えなかった。
ただ彼女を見た。
セラリスも見返した。
数秒。
「私?」
「そなた以外にいるのか」
「シャーレーン様」
「私へ戻すな」
シャーレーンが初めて少し強い口調で云った。
アリーナが今度こそ笑いを堪えきれず、横を向いた。
/*/
会談がほとんど終わりかけた頃。
ステファンは、机の端に置かれた最初の報告書へ、ふと視線を戻した。
コボルドの納税について書かれたものだった。
この会談の始まりよりも、さらに前。
そもそもセラリスというエルフの名前が、大公府へ初めて届く原因になった書類である。
「そういえば」
ステファンが云った。
「最初の話を、まだ片づけていなかったな」
「最初?」
「コボルドの税だ」
「あ」
セラリスは思い出した。
「それ」
「そなたは役人に訊いたそうだな」
「税を払うなら領民として扱ってくれるのか、って?」
「そうだ」
「だって税だけ取って、困った時は怪物だから知らない、って云われたら嫌でしょう?」
あまりにも当然の顔だった。
ステファンは少し黙った。
「シャーレーン」
「はい」
「現在、ミスタメアのコボルドたちは税を納めているのだな」
「はい。生産物と交易について、可能な範囲から徴収しております」
「ゴブリンは」
「定住して収入を得ている者については、同様に扱う方向で整理しております」
「オーガは?」
「まだ人数が少なく、現物納付を含めて検討中です」
ステファンは頷いた。
そして今度は、セラリスを見た。
「ならば、ここで決めておこう」
声が変わった。
それまでの、多少呆れを混ぜた個人的な会話ではない。
大公としての声だった。
シャーレーンが姿勢を正す。
アリーナも笑みを消した。
セラリスも、それにつられて背筋を伸ばした。
「カラメイコス大公国の領内に住み、大公府の定める税を納め、その法を守る者については」
ステファンは一度、言葉を区切った。
「人間であるか否かを、それだけで領民たる資格の基準とはしない」
セラリスの金の瞳が、少しだけ大きくなる。
「では」
ステファンは続けた。
「税を納め、大公府の定める法を守るならば、種族を問わず領民と認める」
部屋は静かだった。
それは、ほんの数語の決定に過ぎなかった。
しかしシャーレーンは、その言葉がどれほど多くの問題をこれから生むかを理解していた。
領民と認める。
ということは、税を取るだけでは済まない。
盗賊に襲われれば保護の対象になる。
財産を不当に奪われれば訴える権利を持つ。
契約を結べる。
商売ができる。
土地の利用を認める仕組みも必要になる。
人間がコボルドの財産を奪った場合にも、人間同士の場合と同じように法を働かせなければならない。
逆も同じだ。
これは慈善ではない。
まして、怪物を可哀想だから保護する、という話でもない。
税を払うなら法の内側へ入れる。
法の内側へ入るなら義務も負わせる。
その代わり、保護も与える。
国家としては、その方がずっと筋が通っている。
「……本当に?」
セラリスが訊いた。
「本当だ」
「コボルドでも?」
「今、種族を問わず、と云った」
「ゴブリンも?」
「法を守るならな」
「オーガも?」
「同じだ」
セラリスは少し考える。
「竜は?」
ステファンの顔が止まった。
シャーレーンが額へ手を当てた。
アリーナが俯く。
「……そなたは」
ステファンはゆっくり云った。
「どうして必ず、そこまで行くのだ」
「だって種族を問わずって」
「ヴァルザリオンは、まず税の話から考えさせてくれ」
「牛を買えるくらい金持ってますよ」
「そういう問題ではない」
「財宝への資産税とか?」
「今その制度はない!」
「あ、そっか」
セラリスは素直に引き下がった。
ステファンは長く息を吐いた。
「竜については別に定める」
「はい」
「今すぐだ」
「分かりました」
「だが」
ステファンは少し考え直すように云った。
「原則としては同じだ」
「え?」
「この国で暮らし、この国の法を守り、その義務を負う意思があるなら、その者が何者であるかだけを理由に敵とはしない」
今度の言葉は、先ほどよりも少し柔らかかった。
「だが、それは好きにしてよいという意味ではない」
「分かってます」
「コボルドにも伝えろ」
「はい」
「ゴブリンにも」
「はい」
「オーガにも」
「はい」
「ヴァルザリオンにも」
「税の話も?」
「法の話だけでいい」
「はい」
そこでようやく、ステファンは少しだけ笑った。
「税については、役人を泣かせる前にこちらで決める」
「役人さん泣いてたんですか?」
「比喩だ」
「よかった」
「何がだ」
シャーレーンが、ほんの少し肩の力を抜いた。
これは大公国にとって、大きな前例になる。
おそらく後で法務官も、税務官も、地方領主たちも頭を抱える。
だが、曖昧なままにしておくよりは良い。
今までのカラメイコスは、人間、トララダラ人、ジアティス人、エルフ、ドワーフ、ノームと、異なる出自を持つ者を一つの大公国へまとめようとしてきた。
ならば、その線をどこに引くのか。
人間に似ているか。
昔から友好的だったか。
姿が恐ろしくないか。
そのような基準では、いつか破綻する。
ステファンは統治者として、それを理解していた。
法を守るか。
義務を果たすか。
その方がまだ明確だった。
/*/
本当に会談が終わりかけた頃。
ステファンは、ふと思い出したように云った。
「セラリス。一つだけ、政治とは関係なく聞きたい」
「はい」
「ヴァルザリオンに戦い方を教えたのは、そなたなのだな」
「はい」
「なぜだ」
セラリスは、どうしてそんなことを訊かれるのか分からない、という顔をした。
「下手だったから」
ステファンは少し黙った。
「……何が」
「戦い方が」
「ドラゴンなのだろう?」
「ドラゴンでも下手なものは下手ですよ」
セラリスは少し身を乗り出した。
むしろ、その話になると本気で不満らしかった。
「強いんですよ。身体も大きいし、ブレスもある。でも、ブレスを吐いたらそのまま地上で待つんです。敵が近づいたら噛みつく。飛べるのにですよ?」
「……うむ」
「せっかく翼があるんだから高度を取ればいいでしょう。ブレスを吐いて離れて、また位置を変えればいい。それなのに、わざわざ降りて殴り合うんです」
「竜とは、そういうものではないのか」
「だから負けるんですよ」
あまりにも当然のように云われて、ステファンは返す言葉を失った。
「尻尾も雑に振るだけだし、翼も飛ぶためにしか使わないし、相手の癖も見ない。地形も使わない。あれだけの身体と能力があるのに、もったいないでしょう?」
ステファンはゆっくりとシャーレーンを見た。
シャーレーンもこちらを見た。
長い沈黙の末。
ステファンはようやく理解した。
シャーレーン・ハラランがミスタメアについて報告するとき、時折どうにも説明のつかない疲れた顔をする、その理由を。
セラリス・オブ・カラーリーは、国を混乱させようとしているわけではない。
亜人の権利を掲げて革命を起こそうとしているわけでもない。
竜の王国を作ろうとしているわけでもない。
ただ。
目の前に腹を空かせたコボルドがいれば、畑を耕せばいいと云う。
器が足りなければ、土を焼けばいいと云う。
税を取るなら、領民として扱うのが当然だと云う。
討伐に行った相手と話ができるなら、殺さず連れて帰ってくる。
オーガが力持ちなら、木の根を抜いてもらう。
そして、ドラゴンの戦い方が下手なら。
教える。
ただそれだけなのだった。
だが、その一つ一つの「ただそれだけ」が積み重なるたびに、それまで誰も考えなかった問題が生まれ、役人が困り、領主が困り、最後には大公の机の上まで届く。
しかも今日、その最後に。
ステファン自身が、
税を納め、法を守るならば、種族を問わず領民と認める。
そう云ってしまった。
いや。
云わされたわけではない。
自分で考え、自分で決めた。
それがこの国を治める者として、一番筋の通った答えだと思ったからだ。
だが、その問いを最初に持ち込んだのが、この黒髪金眼のエルフだったことだけは間違いない。
ステファンはしばらく何も云わなかった。
やがて、非常に静かな声で訊いた。
「セラリス」
「はい?」
「そなたは、これからもミスタメアにいるのだな」
「そのつもりです」
「そうか」
ステファンは頷いた。
その返事には、安心と、同じくらいの諦めが混じっていた。
「では私も、覚悟しておくことにしよう」
「何をですか?」
「次は何が来るのか、だ」
セラリスは少し首を傾げた。
その顔を見て。
シャーレーンは目を閉じ。
アリーナはとうとう笑い。
ステファン・カラメイコス大公は、この日、自分が下した決定が、やがてミスタメアだけではなく大公国そのものの姿を少しずつ変えていくことを、まだ知らなかった。
ただ一つだけ分かっていた。
次にこのエルフの名前が報告書へ載る時も。
おそらく、普通の話では済まない。