セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
ヴァルザリオンが、自分の縄張りというものをどこからどこまでだと考えているのか、セラリスが初めてまともに尋ねてみたのは、秋の気配が山の空気へ混じり始めた頃のことだった。
その日は風がよく澄み、ミスタメア城の屋上からは、遠くの丘陵も森もいつもより輪郭を鮮やかに見せていた。セラリスは大きな地図を石床へ広げ、風に煽られぬよう四隅を石で押さえると、その前へヴァルザリオンを呼び、彼が普段どこまでを自分の土地と意識しているのかを一つずつ指し示させた。
「ここから、だいたいこの辺までだな」
緑色の爪が紙の上をゆっくり滑る。
セラリスはその動きを目で追い、距離を頭の中で見積もり、それから顔を上げた。
「……端から端まで百マイルくらいあるんだけど」
「そうか」
「そうか、じゃないでしょう」
「飛べば近い」
ヴァルザリオンは本気で不思議そうだった。
人間なら、荷を背負い、橋を渡り、峠を越え、街道を辿り、何日もかけて移動しなければならない距離である。だが翼を持つ竜にとって、山も川も道も、人間ほど大きな意味を持たないらしい。
彼にとって縄張りとは、日が暮れるまでに歩いて帰れる範囲でもなければ、毎日自分の目で巡回出来る範囲でもない。何か異変があれば飛んでゆき、そこへ降り立ち、「ここは俺の土地だ」と示せる範囲なのであるらしかった。
それでも、若い竜一頭が持つ土地としてはかなり広い。
もっとも、今のヴァルザリオンはもう完全に一頭きりでそこを押さえているわけではなかった。
彼に敗れた小さな竜たちが、縄張りの外縁にあたる山地や森林へ散らばっている。それぞれが自分の巣を持ち、自分の狩場を持ちながら、その上にヴァルザリオンがいるという関係を受け入れていた。
だから、ヴァルザリオン自身が毎日のように何十マイルも飛び回る必要はない。
外から竜が入り込めば、どこかの竜が気づく。
ゴブリンやオークの大きな群れが移動すれば、空から見つける者がいる。
森で妙な火の手が上がっても、山道を大きな集団が越えても、何らかの形で話が届く。
セラリスは地図の上に散る印を眺めながら、そこでふと気づいた。
いつの間にか。
ミスタメアの地下でバーグルに雇われていた一頭の若いグリーンドラゴンが、自分自身でもそれほど強く意識しないまま、小さな竜の王国のようなものを作り始めている。
そこまで考えたところで、嫌な予感がした。
「ヴァル」
「何だ」
「その顔、何か考えてるでしょう」
「東へ行く」
「どこまで?」
ヴァルザリオンの爪が動いた。
今まで示していた自分の縄張りの縁を越える。
さらに東へ。
セラリスの眉が少しずつ寄っていく。
「……そこ、もうあなたの縄張りじゃないよ」
「知っている」
「百マイル以上あるよ」
「それも知っている」
爪が止まった。
ダイムラクの森。
「ここにアルゴスという緑竜がいる」
セラリスは少し黙った。
その名を知っていた。
転生前に持っていた知識が、一瞬で一頭の竜の姿を頭の中へ作り上げる。
歳を重ねた、大きなグリーンドラゴン。
若いヴァルザリオンとは体格が違う。
経験が違う。
純粋な力も違う。
真正面から戦えば、まず勝てない。
「ヴァル」
「何だ」
「そいつ、君よりずっと大きいよ」
「知っている」
「ずっと歳上」
「知っている」
「強い」
「だから行く」
セラリスはしばらく何も言えなかった。
やがて、半ば呆れたように尋ねる。
「……そういうものなの?」
「そういうものだ」
ヴァルザリオンは平然としていた。
《力の探求》。
より強い者へ挑む。
そこで自分の力を示す。
勝てば従わせる。
そのために、相手が自分より強いという事実は、避ける理由にはならないらしい。
むしろ、強いからこそ挑む意味がある。
「正面から戦ったら負けるよ」
セラリスがそう言うと、ヴァルザリオンはほんの少し口の端を上げた。
竜が笑うと、どうしても善良な顔には見えない。
「正面から戦うとは言っていない」
セラリスは今度こそ黙った。
しばらくしてから、小さく尋ねる。
「……誰にそんなこと教わったの」
「お前だ」
即答だった。
「そうだった」
セラリスは額を押さえた。
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ヴァルザリオンがダイムラクへ向かってから、七日が過ぎた。
戻らない。
十日。
まだ戻らない。
十二日目になって、ミスタメア城の西空に小さな黒点が現れた。
最初に気づいたのはコボルドだった。
「ヴァルだ!」
その声に、城にいた者たちが次々と外へ出てきた。
セラリスも。
ミハイルも。
ヴァレリアも。
ダリヤも。
みな、空を見た。
やがて緑色の翼が見えた。
飛び方がおかしい。
片方の翼をかばっている。
首から胸へかけても黒っぽい傷がいくつも走り、何枚もの鱗が剥がれているのが遠目にも分かった。
それでも飛んでいる。
そして何より。
ひどく機嫌がよさそうだった。
中庭へ降りたヴァルザリオンは、重い身体を地面へ下ろすと、大きく息を吐いた。
「戻ったぞ」
セラリスはすぐ駆け寄った。
「ちょっと、傷!」
「勝った」
「それは後!」
「アルゴスに勝ったぞ」
「だから治療が先!」
ヴァレリアはすでに祈りの準備へ入っている。
だがヴァルザリオンは、どうしても先に報告したかったらしい。
「従わせた」
セラリスの動きが止まった。
「……誰を?」
「アルゴスを」
「本当に?」
「だから言っている」
「どうやって」
そこでヴァルザリオンは、実に満足そうな顔をした。
/*/
最初から、力で勝とうとは思っていなかったらしい。
近くで見たアルゴスは、ヴァルザリオン自身が認めざるを得ないほど大きかった。
翼の幅。
首の太さ。
牙。
爪。
ブレス。
真正面から比べれば、ほとんどすべてにおいて自分が劣る。
昔のヴァルザリオンなら、それでも戦っただろう。
ブレスを吐き。
そのまま突っ込み。
噛みつき。
爪を立て。
どちらかが動かなくなるまで力をぶつける。
だが、それはもうしなかった。
セラリスから何度も教えられた。
強い方が勝つのではない。
自分の強いところを使い、相手の強いところを使わせなければよい。
だから、まず調べた。
アルゴスがどこを飛ぶか。
どこで眠るか。
どの谷をよく通るか。
巣の入口。
朝の風。
夕方の風。
森。
沼。
岩場。
ブレスを吐いたあと、どちらへ首を向けるか。
追撃する時、どのくらい深追いするか。
そして何より。
アルゴスが慎重な性格であること。
何か一つでも予定外のことが起きれば、考える。
すぐには動かない。
考え。
疑い。
さらに考える。
それが彼の癖だった。
そこでヴァルザリオンは、予定外のことを次々に起こした。
最初の日は正面から現れた。
堂々と名を告げ。
戦いを求めた。
アルゴスは笑った。
「若造が」
そしてブレスを吐いた。
ヴァルザリオンは逃げた。
アルゴスは追った。
だが、追いきれない。
ヴァルザリオンは一度もまともに噛み合うことなく、そのまま姿を消した。
翌日。
また来た。
今度は一度だけブレスを吐き、すぐ逃げた。
三日目。
来なかった。
四日目。
夜明け前に現れた。
五日目。
姿を見せたが、攻撃せずに消えた。
アルゴスは次第に混乱した。
何を狙っている。
どこから来る。
いつ来る。
自分をどこかへ誘っているのか。
罠か。
他の竜がいるのか。
人間の魔法使いを連れているのか。
その頃になると、ヴァルザリオンは冒険者たちから手に入れた魔法の品まで使い始めた。
姿を隠す。
動きを速める。
偽りの像を作る。
傷を癒す。
人間の冒険者たちが、自分より強い怪物から生き延びるために。
あるいは、正面からでは勝てない相手を倒すために。
何十年もかけて積み重ねてきた。
小賢しく。
卑怯で。
そして恐ろしく効果的な戦い方。
とうとうアルゴスは怒った。
「竜ならば竜らしく戦え!」
そう叫んだという。
ヴァルザリオンは、その時少し考えたらしい。
そして。
「なぜだ?」
と答えた。
アルゴスはさらに怒った。
「牙と爪で来い!」
「お前の方が大きい」
「それがどうした!」
「だから嫌だ」
話にならなかった。
そして話にならないまま、戦いは続いた。
ヴァルザリオンはアルゴスの正面へ長く留まらない。
ブレスを吐かせる。
逃げる。
追わせる。
魔法を使う。
高度を変える。
時には傷ついたふりをして、わざと追わせる。
そして、大きな身体には不向きな狭い谷へ誘い込む。
アルゴスはそこで翼を十分に広げられない。
旋回が遅れる。
速度を落とさざるを得ない。
ヴァルザリオンは、そのわずかな差を何度も使った。
最後には。
アルゴスの背へ回った。
首の付け根へ牙をかけた。
深く噛めば殺せる。
だが、噛まなかった。
そこまでで止めた。
アルゴスも意味を理解した。
そして。
屈した。
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話を聞き終えたセラリスは、しばらく何も言わなかった。
ヴァルザリオンは、どうだ、と言わんばかりの顔をしている。
「……ヴァル」
「何だ」
「なんか、ものすごく嫌な戦い方するようになったね」
「褒めているのか?」
「半分くらい」
「ならよい」
「よくない気もするんだけど」
鞘の中から、ソーンウォッチが低く笑った。
「お前の弟子らしい」
「ヴァルは弟子じゃない」
「似たようなものだろう」
「違う」
「どこが」
セラリスは答えられなかった。
そして、本当に困ることが分かったのは、それから数日後だった。
/*/
アルゴスが臣従した。
ただ、それだけならまだよかった。
アルゴス自身にも、従っている竜がいた。
さらに、その下にも別の竜がいた。
ヴァルザリオンは、そのことをまるで後から思い出したように言った。
「そういえば」
「なに?」
「増えたぞ」
「何が?」
「竜」
セラリスは嫌な顔をした。
「何頭?」
「知らん」
「知らないって何!」
「アルゴスの下にいた奴らが、そのまま俺の下に入った」
「だから何頭!」
「数えていない」
「数えて!」
その日の午後。
セラリスはまた地図を広げた。
ヴァルザリオン。
アルゴス。
その配下。
さらに、その配下。
名前が分かる者。
場所だけ分かる者。
色しか分からない者。
一つずつ印を置き。
関係が分かるところには線を引いた。
すると、妙なものが出来上がった。
ヴァルザリオン自身が、自分の直接の縄張りと考えている範囲は、ほとんど変わっていない。
ミスタメア城を中心に、およそ百マイルほど。
ところが、臣従関係だけを地図へ落とすと。
線が東へ伸びる。
山地。
森。
谷。
飛び地のように散らばる竜の巣。
それらが細い線で繋がり、最終的にはミスタメアへ集まっていく。
セラリスはしばらく地図を見つめた。
「……これ」
ヴァルザリオンが首を伸ばす。
「何だ」
「君の縄張りは広がってないのに」
「そうだな」
「勢力だけ、ものすごく広がってるんだけど」
「良いことだ」
「君にはね!」
ヴァルザリオンは、本気で何が問題なのか分からない顔をしていた。
/*/
そして。
当然ながら。
シャーレーン・ハラランのもとにも報告は届いた。
最初の書類は、ひどく簡潔だった。
余計な推測をせず、確認出来たことだけを書くよう命じられた役人が、慎重に言葉を選んだ結果である。
《ミスタメアのヴァルザリオン、ダイムラク森のアルゴスを決闘にて破り、臣従させた模様》
シャーレーンは長い間、その一行を見つめていた。
読み間違いではない。
もう一度読んでも、意味は変わらない。
やがて、傍らにいたアリーナへ尋ねた。
「アルゴスとは」
「はい」
「私の知っているアルゴスか?」
「おそらく」
「ダイムラクの?」
「はい」
「大きな緑竜の?」
「はい」
シャーレーンはもう一度紙へ目を落とした。
「ミスタメアから、どれほど離れている?」
「直線で百五十マイル前後でしょうか」
男爵はしばらく黙った。
窓の外には、いつものスレスホールドがある。
市場。
荷車。
宿屋。
馬。
人。
普通の日常。
ほんの少し前までなら、ミスタメア城に若い緑竜が一頭住みついた、というだけの話だった。
家畜を襲わないよう取り決める。
街道を通る人間を襲わないよう話をつける。
逆に冒険者が勝手に襲撃しないよう布告を出す。
その程度で済むはずだった。
それが今では。
百五十マイル先の森に住む大きなグリーンドラゴンを破り。
臣従させ。
しかもその配下までまとめて自分の勢力へ取り込んでいる。
シャーレーンは非常に静かな声で言った。
「アリーナ」
「はい」
「これはもう」
少し間を置いた。
「私の領内で起きている『近隣のドラゴン問題』ではないのではないか」
アリーナは少し考えた。
そして。
「そうですね」
と答えた。
シャーレーンは目を閉じた。
たぶん。
その答え以外を期待していたわけではない。
ただ、自分以外の誰かに確認したかったのだろう。
翌日。
スペキュラムへ新しい報告書が送られた。
件名については、役人たちがかなり悩んだ。
《ヴァルザリオン問題》
では、まるで敵対しているように見える。
《ミスタメアの竜について》
では、事態の大きさがまるで伝わらない。
《ダイムラク森における竜の臣従関係》
では、何の話なのか分かりにくい。
何度も書き直した末。
最終的に。
《ミスタメア城を本拠とする緑竜ヴァルザリオンの勢力拡大について》
となった。
そして報告書の最後には。
シャーレーン自身の筆で。
一文だけ。
付け加えられていた。
《なお、現在も大公国臣民への敵対行動は確認されていない》
それが。
現時点においては。
せめてもの。
そして実のところ、非常に大きな。
救いだった。