セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
ヴァルザリオンが、再来年の夏から秋にかけて大量の食糧を用意しておけ、と言い出した時、セラリスは最初、それをいかにも竜らしい大雑把な注文だと思っていた。
大量とはどのくらいなのかと尋ねても、「大量だ」としか答えない。牛だけで足りるのかと聞けば、「足りなければ他のものも食う」と答え、何日ほど食べ続けるつもりなのかと問い直せば、「目覚めてみなければ分からぬ」と来る。話を聞いている方からすれば、もう少し具体的な数字を出してほしいところだったが、考えてみれば、ヴァルザリオン自身にも初めてのことなのだから、正確な量を答えろという方が無理なのかもしれなかった。
《知識の探求》は、ただ長いあいだ眠るというだけのものではない。肉体を巣の奥深くに残したまま、竜の精神はこの世界から遠く離れ、常人には窺い知ることも出来ない領域をさまよい、《昇華》へ必要となる知識を求める。その間、肉体はほとんど食を取らぬまま季節を越え、長ければ一年近い時間を眠りの中で過ごすことになる。
そして、帰ってきた時には飢えている。
少し腹が減った、などという程度ではない。長い眠りのあいだに失われたものを巨大な肉体が一度に取り戻そうとでもするかのように、数日、場合によっては何週間にもわたって食べ続ける。その時期そのものが《大食》と呼ばれるほどなのだから、普通の食事量を想定していては話にならない。
セラリスはミスタメア城の一室へ紙を広げ、腕を組んだまましばらく数字を書いていた。一日にどれほど食べるか。二週間続いた場合。三週間。四週間。途中で食欲が落ちる可能性はあるか。逆に、想定を超える可能性はあるか。牛一頭の肉量を大雑把に見積もり、骨や内臓までかなり食べるヴァルザリオンの食性も考えに入れ、数字を書いては消し、また書いた。
やがて、ひとまず最悪に近いところまで余裕を見ることにして、紙の端に一つの数字を丸で囲んだ。
「……百二十頭くらいかなあ」
同じ部屋で帳面を整理していたダリヤが、何気なく顔を上げた。
「何がです?」
「牛」
「何頭?」
「百二十」
ダリヤの手が止まった。
「百二十頭?」
「うん」
「何するんです?」
「ヴァルが食べる」
ダリヤはしばらくセラリスの顔を見ていた。冗談ではないらしい、と理解するまでに少し時間がかかったらしい。
「……全部?」
「全部食べるとは限らないよ。でも食べ続ける期間が長引いた時に、途中で足りなくなるのは嫌だから、最大でそのくらいは用意出来るようにしておきたい」
話を聞きつけてミハイルも寄ってきた。
「先生、牛百二十頭って、ものすごい金になりますよ」
「なるね」
「一度に買うんですか?」
「一度にミスタメアへ連れてきたら、今度は牛の餌で困るでしょう。何回かに分けて用意することになると思う」
ヴァレリアが紙の数字を見ながら、静かに尋ねた。
「それでも、近隣の農家だけで用意出来るんでしょうか」
そこだった。
セラリス自身、さっきから同じところで考え込んでいたのである。
百二十頭というのは、一軒の農家へ頼んで何とかなる数ではない。それどころか、スレスホールド周辺の市場から短期間でそれだけの牛を買い集めれば、牛そのものの値段を押し上げる可能性がある。農耕に必要な牛まで食肉用として買ってしまえば、翌年の畑仕事にも影響が出るし、繁殖用の雌牛を過剰に減らせば、その先何年にもわたって頭数が戻らなくなるかもしれない。
しかも、必要なのは今ではない。
再来年である。
それなら。
「育ててもらおう」
セラリスが言った。
ミハイルが眉を上げる。
「今から?」
「今から」
仔牛を増やしてもらう。繁殖に使う雌牛を多めに残す。飼料を確保し、冬越しの干草を増やし、必要なら牧草地を広げ、二年後に売れる大きさまで育ててもらう。
百二十頭の牛を、必要になった時に突然買い集めるのではない。
二年後に百二十頭近い需要が生まれると分かっているなら、その需要そのものに合わせて、今から供給を増やしておけばいい。
そう考えた瞬間、これはもう冒険者が食糧を買うという程度の話ではなくなっていた。
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最初に話を持ち込まれた農夫は、かなり長いあいだセラリスの顔を見つめていた。
「……百二十?」
「全部あなたのところから買うって意味じゃないよ」
「それは分かるが」
男は腕を組んだ。
日に焼けた五十近い農夫で、すでに何度かヴァルザリオンへ牛を売った経験がある。血抜きを済ませ、内臓を洗った牛をミスタメアへ届ければ、約束した金貨はきちんと払われる。竜が気まぐれに値切ることもなければ、気に入らないからと農夫ごと食うこともない。それはもう知っている。
だから、ドラゴンが牛を食うという話そのものには驚かなかった。
だが、百二十頭となると話が違う。
「何があるんだ、再来年」
「ヴァルが長い眠りから目を覚ます予定なの」
「冬眠か?」
「ちょっと違う」
「それで腹を減らす?」
「ものすごく」
農夫は黙った。
セラリスは、竜の昇華だの精神が外方の世界を旅するだのと難しいことを説明しても仕方がないと思い、出来るだけ簡単に話した。再来年の夏から秋頃になる可能性が高いこと。正確な日はまだ分からないこと。百二十頭全部を必ず買うと決まったわけではないが、必要になった時に牛が足りないという事態だけは避けたいこと。そのため、周辺の農家へ声をかけ、無理のない範囲で今から頭数を増やしておいてほしいこと。
そして、必要になった牛については、きちんと買う。
相応の値段で。
それを聞いたところで、農夫の顔つきが少し変わった。
「買い取りは確実なのか?」
「必要になった分はね」
「余ったら?」
「普通に市場へ出せばいいよ。ただ、出来るだけ余り過ぎないように全体で調整するつもり」
「値切らんか?」
「しない」
「現金か?」
「金貨で」
そこで、話は怪物の食糧準備から、農家にとって分かりやすい商売の話へ変わった。
農夫というものは、地に足のついた人間である。
グリーンドラゴンがどのような神秘の儀式へ入るのかということより、二年後、自分が育てた牛にまとまった買い手がいることの方が、はるかに切実である。
男はしばらく黙って牛舎の方角を見ていたが、やがて言った。
「うちなら、六頭は増やせる」
「無理しなくていいよ」
「無理じゃない。二年先に買い手が決まってるなら、今年のうちに牛舎を少し広げてもいい。牧草も、南の畑を一枚そっちへ回せる」
「市場で売れなくても大丈夫な範囲でね」
「分かってる。だが、買い手があると分かって育てるのと、育ててから売り先を探すのとじゃ話が違う」
それを聞いた時、セラリスは初めて、自分が考えていた以上にこの話が大きくなるかもしれないと気づいた。
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そこから先は早かった。
そもそもヴァルザリオンへ牛を売る商売は、もう一年近く続いていた。おおむね月に一頭。血抜きを済ませ、内臓を洗い、食べやすいよう処理したものをミスタメアへ届ける。その奇妙な取引は、最初こそ誰もが半信半疑だったものの、今では周辺農家にとって、それほど珍しい話ではなくなっている。
何よりヴァルザリオンは、約束を守った。
勝手に牧場へ降りて牛を奪わない。
払うと決めた代金を値切らない。
受け取ったあとで難癖をつけて金貨を取り返そうともしない。
牛一頭を売る相手として考えるなら、少なくとも支払いについては下手な人間より信用出来る、とまで言う農夫が出始めていた。
だから、「再来年、最大で百二十頭ほど買う可能性がある」という話が広がった時、最初に起きたものは恐怖ではなかった。
相談だった。
「仔牛を増やすなら、今年のうちだな」
「雌を一頭余計に残すか」
「雄は足りるのか?」
「北村から借りればいい」
「牧草が足りなくならんか」
「西の休耕地を借りられないか聞いてみる」
「干草を増やすなら、納屋も広げないと駄目だぞ」
「牛舎を直すなら冬になる前だ」
二年先に売り先がある。
それだけで、農家の考え方は変わる。
今までなら売れるかどうか分からないから増やせなかった牛を、一頭、二頭と余計に育てられる。飼料に金を使える。牛舎を直せる。牧草地を借りられる。
そして、そうした話がシャーレーン・ハララン男爵の耳へ届くまで、さほど時間はかからなかった。
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「……百二十頭?」
シャーレーンは、手にした報告書へもう一度目を落とした。
数字を読み間違えたのではない。
十二ではない。
百二十である。
向かいの椅子にはセラリスが座っており、その傍らにはアリーナもいる。
「最大でね」
セラリスが言った。
「最大というのは?」
「ヴァルが目を覚ましてから、どれくらい食べ続けるか分からないから」
「分からないのか」
「本人にも分からないみたい」
「本人にも?」
「初めてだから」
シャーレーンは報告書を机の上へ置き、少しのあいだ何も言わなかった。
彼ももう長いこと、セラリスとミスタメア城に関わっている。
コボルドを雇う。
グリーンドラゴンと取り決めを結ぶ。
そのドラゴンへ人間との戦い方を教える。
その竜が他の竜を臣従させる。
竜同士の争いで得た財宝を運ぶため、コボルドや新人冒険者を人足として雇う。
話を聞くたび、最初は一度、何を言っているのだろうと思う。
ところが説明を聞いてゆくと。
理屈が通っている。
それが一番困る。
「百二十頭全部を、一度にミスタメアへ集めるわけではあるまいな」
「そんなことしたら、今度は牛の世話だけで大変になるよ」
「それはそうだな」
「ヴァルの食べ方を見ながら、何日かごとに必要な数を運ぶつもり」
「何頭ずつだ」
「そこも、食欲を見ないと分からない」
シャーレーンは額へ手を当てた。
するとアリーナが、傍らから静かに言った。
「叔父上」
「何だ」
「用意しなかった場合も考えた方がよろしいかと」
シャーレーンは顔を上げた。
「……聞こう」
「何か月、あるいはそれ以上、ほとんど食を取らず眠り続けたグリーンドラゴンが、極度の飢餓状態で目を覚まします」
そこでシャーレーンはしばらく動かなかった。
想像したのだろう。
腹を空かせた竜。
しかも、それはもう、初めて聞いた頃の若い竜ではない。
他の竜を打ち負かし、配下を持ち、《若き緑竜王》などと呼ばれるようになったヴァルザリオンである。
「百二十頭、用意しよう」
判断は早かった。
セラリスも頷いた。
「私も、その方がいいと思う」
「これはもう、竜を甘やかすかどうかという話ではない」
シャーレーンは低い声で言った。
「極度に腹を空かせた竜へ、『牛は市場の都合で三日待て』などと言いたくはない」
「ヴァルなら待つとは思うけど」
「試したくない」
「それはそうだね」
そこにはセラリスも異論がなかった。
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ところが、百二十頭を用意するという方針が決まったところで、話は終わらなかった。
むしろ、そこからが本番だった。
牛を揃える。
それだけでは食事にはならない。
誰が血を抜くのか。
誰が解体するのか。
誰が内臓を洗うのか。
どこで処理するのか。
水をどれほど使うのか。
血や内臓の不要部分をどう始末するのか。
誰がミスタメアまで運ぶのか。
荷車は何台いるのか。
真夏なら肉はすぐ傷む。
ならば全部を先に解体しておくわけにはいかない。
生きた牛をある程度近くまで集め、必要になった分だけ処理する方がよい。
だが、百頭を超える牛をミスタメア周辺へ集めるなら、今度は柵がいる。
水場がいる。
飼料がいる。
世話をする人間もいる。
城のすぐ近くまで連れてくれば、長い眠りから目を覚ましたばかりのヴァルザリオンが匂いにつられて飛び込んでくるかもしれない。それはそれで、管理する側としては困る。
ならば、何マイルか離れた場所へ仮の集積牧場を作る。
そこから、その日の分だけ運ぶ。
解体場所も必要になる。
牛一頭なら農家の納屋でもどうにかなるが、一日に何頭も処理することになれば、専門の屠畜人や肉屋を集めなければならない。
気がつけば、一頭の竜へ腹いっぱい食べさせるというだけの話が、牛の生産、買い付け、輸送、解体、衛生、保管、人員配置まで含めたかなり大きな計画へ変わっていた。
そして、シャーレーンの執務室には、ついに一枚の正式な書類が作られた。
役人たちは表題だけでもかなり悩んだらしい。
最終的に、そこにはこう書かれた。
《ヴァルザリオン長期休眠後における食糧供給計画》
セラリスはそれを見て、しばらく目を瞬かせた。
「なんか、大事になったね」
シャーレーンは本気で睨んだ。
「誰のせいだと思っている」
「ヴァル?」
「半分はお前だ」
「半分も?」
アリーナが、傍らから静かに口を挟んだ。
「もう少し多いと思う」
「アリーナまで」
「事実です」
セラリスは反論しようとして、結局やめた。
ヴァルザリオンへ牛を買って与える仕組みを作ったのも、人間から家畜を奪わず金で買うよう教えたのも自分である。
考えれば考えるほど、責任の割合が増えそうだった。
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しかし。
農家にとっては、悪い話ばかりではなかった。
むしろ、二年先に大きな需要があるということは、農村にとってかなり大きな意味を持った。
今年生まれる仔牛。
来年生まれる仔牛。
繁殖用の牛。
飼料。
牧草。
牛舎。
柵。
農具。
人手。
牛を一頭多く飼えば、その一頭を育てるために別の仕事が生まれる。牧草を余分に刈る者がいる。干草を置く納屋を直す大工がいる。柵を増やす木材がいる。牛舎の金具を作る鍛冶屋がいる。
それらに金が動いた。
しかも、相手は二年後に突然現れるかもしれない商人ではない。
ミスタメア城にいる。
逃げない。
そして今のところ、牛の代金を一度も踏み倒していない。
いつしか近隣の村では。
「緑竜景気」
などという、何とも奇妙な言葉まで使われ始めていた。
「お前んところ、何頭増やす?」
「八頭かな」
「八頭も?」
「牧草地一枚借りられそうなんだ」
「うちは四頭だな」
「少なくないか」
「土地が足りん」
「隣の休耕地を借りろよ」
「それなら、お前んとこの雄を使わせてくれ」
「仔が生まれたら一頭分、餌代負担しろ」
「それならいい」
牛を。
ドラゴンが食う。
そのために。
人間の村へ仕事が増え。
牛舎が建ち。
牧草地が広がり。
少しずつ金が回る。
そんなことを。
最初にミスタメアの洞窟でヴァルザリオンと出会った時のセラリスが聞いたなら、たぶん信じなかっただろう。
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そして、その頃。
当のヴァルザリオンは、自分が周囲の農村へ何を引き起こしているのかなど、ほとんど気にしていなかった。
ミスタメア城の中庭で、いつものように血抜きを済ませた牛を食べながら、セラリスから計画の進み具合を聞いている。
「百二十頭くらいまでは、ちゃんと用意出来そうだよ」
「そうか」
「農家の人たちが、今から少しずつ増やしてくれるって」
「良いことだ」
「お金はちゃんと払ってよ」
ヴァルザリオンは肉を噛み切りながら、怪訝そうにセラリスを見た。
「当然だ」
「ならいいけど」
「内臓は?」
「それも準備する」
「洗ってあるものだぞ」
「分かってるって」
「腸の中身は要らん」
「それ、何回聞いたと思ってるの!」
ヴァルザリオンは、何を怒っているのだという顔をした。
セラリスは額へ手を当てたが、結局は笑っていた。
まだ時間はある。
来年になれば、ヴァルザリオンは《知識の探求》へ入る。
長い眠り。
肉体をこの世界に置き。
精神は、セラリスにも見ることの出来ない遠い領域へ向かう。
そして再来年。
夏なのか。
秋なのか。
それはまだ分からない。
けれど、この緑竜は長い旅から帰ってくる。
その時。
ミスタメア城の丘の下では、おそらく牛が待っている。
荷車が並ぶ。
農夫がいる。
屠畜人がいる。
肉屋がいる。
コボルドが走り回る。
荷運びに雇われた者もいるだろう。
シャーレーンの役人が帳簿を持って立っているかもしれない。
水を運ぶ者。
柵を直す者。
牛を追う者。
肉を運ぶ者。
金貨を数える者。
一頭のドラゴンが腹を空かせて目を覚ます。
ただ、それだけのために。
おそらく何十人もの人間とコボルドが動き。
二年前から何軒もの農家が牛を育て。
男爵家の役人が計画書を作り。
村では牛舎が増築され。
牧草地まで広がっている。
セラリスは、目の前で何も知らずに肉を食べているヴァルザリオンをしばらく眺めた。
「……ねえ、ヴァル」
「何だ」
「百二十頭で足りなかったら?」
ヴァルザリオンは、そこで初めて少し考えた。
それから大きな口を開き、次の肉へ牙を立てながら、実に当たり前のことを言うように答えた。
「その時は追加で買え」
セラリスはしばらく彼を見ていた。
どうやら。
竜にとって。
百二十という数字にも。
百五十という数字にも。
たいした違いはないらしい。
「……今から百五十頭くらいまで余裕を見ておこうかな」
「多い方がよい」
「君はそう言うと思ったよ」
セラリスは長い息を吐いた。
そして遠く、ミスタメア城から見えない丘の向こうでは。
まだ再来年に何が起こるのかを詳しくは知らない農夫たちが。
二年後には良い値で売れるであろう仔牛を一頭、また一頭と数えながら。
今年の牧草をどれだけ増やすべきか、真剣に相談し始めていた。