セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
ミスタメア城についての噂が、スレスホールドの町を越え、街道沿いの宿屋や商人たちの口を伝って、カラーリー・エルフの集落にまで届くようになった頃、その話を初めから信じた者は、ほとんどいなかった。
もともと、旅人たちの語る話には尾鰭がつくものである。とりわけ冒険者の武勇談ともなれば、たった一匹のオークが十匹になり、森の中で見かけた熊が恐ろしい怪物に変わり、ようやく倒した相手が、いつの間にか近隣一帯を荒らし回っていた大悪党になっていることも珍しくはない。酒場で語られる話というものは、聞く者を楽しませるために多少の誇張が加わるのが常であり、長く生きるエルフたちは、そうした人間の習性をよく知っていたのである。
だから、ミスタメアの廃城に若いエルフの娘が住み着き、人間の若者たちを集めて冒険者として鍛えているという話を聞いたときも、彼らは特に驚かなかった。
人間たちの暮らしに興味を持ち、森を離れて冒険に出る同族は、数こそ多くないものの、昔から存在している。エルフの中には、若い頃に人間の冒険者たちと旅をして、その思い出を何十年も語り続ける者さえいた。人間の若者を弟子にするというのは少々風変わりではあったが、それだけなら、変わり者の同族がまた一人現れたという程度の話で済んだだろう。
ところが、その廃城ではコボルドが働いているのだという。
しかも、捕虜でも奴隷でもなければ、冒険者に命じられて無理やり働かされているわけでもない。赤い腕章をつけ、城の職員として給金を受け取り、壊れた扉を修理し、城内を掃除し、冒険者の訓練に使う罠まで仕掛けているらしい。そればかりか、丘の麓では人間の農夫から農作業を教わり、小麦や豆を育て、家畜の世話までしているというのである。
このあたりになると、さすがのカラーリーたちも、何かの聞き違いではないかと思い始めた。
コボルドが人間の城で働くこと自体は、絶対にあり得ない話ではない。しかし、それが自由な契約に基づく雇用であり、人間やエルフと同じ土地で暮らし、農作物を育てているとなると、彼らの知っている常識からは、かなり外れた話になってくる。
しかも、噂にはさらに続きがあった。
ミスタメアの城の地下には、一頭のグリーンドラゴンが住んでいる。
それだけならば、廃城が竜の巣になっているという、いかにも恐ろしい話である。実際、竜が住み着いたために周辺の集落が滅び、街道が通れなくなったという話なら、エルフたちもこれまでに幾度となく聞いていた。
だが、ミスタメアの竜は、それとはまるで違うのだという。
ヴァルザリオンと呼ばれるその若いグリーンドラゴンは、近隣の同族を次々に打ち負かしながらも、殺すことなく臣従させ、ついにはダイムラクに君臨していたアルゴスまで屈服させたという。そのため、人間たちはいつしか彼を《若き緑竜王ヴァルザリオン》と呼ぶようになり、今では竜たちを従える王として畏れられているらしかった。
そして、その竜王がミスタメアのエルフ娘と友誼を結んでいる。
ヴァルザリオンは、領内の人間を襲わず、家畜も盗まない。牛が食いたければ金貨を払って農家から買い、しかもその取引について、セラリスという娘とあれこれ相談しているというのである。
「……何だ、それは」
噂を聞いたカラーリーたちの反応は、おおむね同じだった。
しばらく話を聞いたあと、誰もが怪訝そうに眉をひそめ、やがて、何か大切なことを聞き落としたのではないかという顔で聞き返す。
「本当なのか、その話は?」
もちろん、答えが得られるはずもなかった。
話を持ち込んだ商人たちは、自分の目で見た者もいれば、別の商人から聞いただけの者もいた。酒場の客に至っては、竜王の噂を語ることそのものが楽しくて仕方がないらしく、話すたびにその巨体が大きくなったり、従える竜の数が増えたりするのだから、どこまで信じてよいものか、まったくわからない。
けれども、すべてが作り話だとして片づけるには、噂があまりにも具体的だった。
コボルドの赤い腕章、廃城の修復、畑を耕す人間の農夫、そして牛を金貨で買うグリーンドラゴン。奇妙なことに、それらの細かな点は、別々の経路から聞いた話でもおおむね一致していたのである。
やがて、これは一度確かめてみる必要があるのではないかという話になった。
最初にミスタメアへ向かったのは、移住を希望する者たちではなかった。
噂の真偽を調べ、同族の娘がいったい何をしているのかを確かめるために、三人のカラーリー・エルフが遣わされたのである。
三人のうち、もっとも年長なのは、長い髪に銀の混じり始めた男だった。髪を丁寧に編み込み、落ち着いた物腰を崩さない彼は、集落の中でも思慮深い人物として知られていたが、今回ばかりは自分の目で確かめるまで、何を信じればよいのかわからないでいた。
もう一人は弓を携えた森歩きの女で、木々の様子や獣の痕跡から、その土地で何が起きているのかを読み取ることに長けていた。そして最後の一人は、まだ若者と呼んでよい年頃の男であり、三人の中でもっとも率直に好奇心を表す一方、噂に対する疑いも隠そうとはしなかった。
彼らがミスタメアの城門へ到着したとき、最初に目にしたのは、噂に聞いた竜王でも、恐ろしい怪物でもなかった。
半ば崩れた城門の内側で、赤い腕章をつけた二匹のコボルドが、大きな板材を運んでいたのである。
一匹が三人に気づくと、板をいったん地面へ下ろし、少し首を傾げた。
「エルフか。セラリスに用?」
あまりにも当たり前のように尋ねられ、年長の男は一瞬返答に窮した。
「ああ、そうだ。セラリス殿にお会いしたい」
「中庭だ。まっすぐ行け。訓練してるから、木剣が飛んでくるかもしれない。気をつけろ」
コボルドはそれだけ言うと、相棒と一緒に板材を担ぎ直し、何事もなかったように歩いていった。
三人は、しばらくその背中を見送っていた。
彼らの知るコボルドであれば、エルフを見た途端に逃げるか、あるいは集団で取り囲んで威嚇するかのどちらかだっただろう。ところが、今の二匹には警戒らしい警戒もなく、相手が誰なのかを確かめると、用件を聞いて道を教え、そのまま自分たちの仕事へ戻ってしまった。
「……本当に働いているのですね」
若者が、半ば呆然として呟いた。
「そうみたいね。少なくとも、捕まって働かされているようには見えなかったわ」
弓を携えた女が答えた。
年長の男は何も言わなかったが、彼の胸の内では、噂というものは実際の出来事より大きくなるものだという、長年の経験に裏打ちされた確信が、早くも揺らぎ始めていた。
そして、どうやらこの城では、コボルドが城門を守っていることより、訓練中に木剣が飛んでくることの方が、訪問者にとって差し迫った問題であるらしい。
それは何とも奇妙で、同時に、妙におかしな話でもあった。
◇
城の中庭では、若い人間の男が一人、木剣を握ってセラリスに打ち込んでいた。
それは、傍目にもかなり厳しい稽古だった。
青年は決して手を抜いているわけではない。足を踏み込み、身体を捻り、全身の力を剣へ乗せて打ちかかっているのだが、その攻撃が届くより早く、相手の木剣が喉元へ突きつけられてしまうのである。
「はい、今ので死んだ。剣ばっかり見ないで、相手の足を見て。右に重心が寄ったら、次にどちらへ動くか、ある程度わかるでしょう?」
「わかっていても間に合わないんですけど!」
「そこは慣れだよ。最初から全部できるとは思ってないから、もう一回やってみよう」
青年は悔しそうに息を吐き、それでもすぐに構え直した。
セラリスは急かしもせず、軽く木剣を構えて相手を待っている。その姿勢には不思議な余裕があり、まだ若い娘にしか見えない外見とは裏腹に、彼女が武器を扱うことに十分な経験を積んでいるのは、離れた場所から見ている三人にも明らかだった。
次の打ち込みも、結果は変わらなかった。
青年が剣を振り上げた瞬間、セラリスは身体をわずかにずらし、その腕の動きが終わるより早く木剣を差し込んでいた。大きな音がしたわけでもなく、派手な技を繰り出したわけでもない。ただ、相手が攻撃を完成させるために必要な場所を、先に奪ってしまったのである。
「今度は、足を見る余裕はあった?」
「……一応、ありました」
「じゃあ、次はその動きを見て、自分がどう動くかを考えよう。相手が動き始めてから全部決めてたら、どうしても遅れるからね」
青年は不満そうに唇を結んだものの、今度はすぐに木剣を構え直さず、相手の足元をじっと見つめた。
その表情を見て、年長のカラーリーは少し感心した。
どうやら、この娘はただ強いだけではないらしい。
弟子が何を見落とし、どこで判断を誤ったのかを確かめ、それを次の試みに結びつけるように教えている。人間の若者を相手に、これほど根気よく稽古をつける同族というのも珍しかったが、それ以上に印象的だったのは、青年の方が失敗を恐れず、何度でも挑もうとしていることだった。
やがてセラリスが三人の存在に気づき、木剣を下ろした。
「ん? お客さん?」
年長の男は、改めて目の前の娘を眺めた。
噂の中心にいる人物である。
コボルドを雇い、竜王と友誼を結び、人間の冒険者たちを育てているという、何とも不可解なエルフの娘だった。
しかし実際に会ってみると、彼女は三人が密かに想像していたような、恐るべき魔女にも、竜王を従える女王にも見えなかった。黒い髪と金色の瞳を持つ、よく使い込まれた冒険者装備を身につけた娘であり、見た目だけならば、彼らの集落にもいそうな、少々活発な若い同族にすぎなかったのである。
「セラリス殿か」
「そうだけど。どうしたの?」
「我々はカラーリーの者だ。君の噂を聞いて、話を確かめに来た」
「どの話?」
そう聞き返され、年長の男は思わず困ってしまった。
どの話と言われても、あまりにも多すぎたのである。
「……ミスタメアのことだ。人間の若者たちに冒険を教え、コボルドを雇い、それからヴァルザリオンというグリーンドラゴンと友誼を結んでいると聞いた」
「ああ、ヴァルのことね」
セラリスは、まるで近所の知人の名前を聞いたかのように頷いた。
「会ってみる?」
三人は、すぐには返事ができなかった。
もちろん、彼らは竜の存在を確かめるためにも、この城へ来たのである。しかし、実際にグリーンドラゴンへ会うとなると、話は別だった。古い伝承の中でさえ、竜というものは、気軽に訪ねて話をする相手ではない。まして、近隣の竜たちを屈服させたという相手なら、たとえ友好的だと聞いていても、恐れを感じずにはいられなかった。
ところが、その日の午後、彼らは答えを決める必要すらなくなった。
突然、中庭へ大きな影が差したのである。
初めは雲が太陽を遮ったのかと思った。だが、頭上を見上げた若者は、次の瞬間、思わず息を呑んだ。
巨大な翼が空を覆っていた。
深い緑の鱗が陽光を受けて鈍く輝き、長い尾が空中で緩やかに弧を描く。その巨体は、翼を広げたまま城壁を越えると、恐ろしいほどの存在感をまといながら中庭へ降下してきた。
着地の瞬間、地面を打つ重い響きとともに風が巻き起こり、近くの木々が一斉に枝を揺らした。
カラーリーの三人は、否応なく身を固くした。
若い竜だと聞いていた。けれども、エルフの若さとドラゴンの若さを、同じ尺度で考えることなどできるはずがない。目の前にいる生き物は、長い首をもたげただけで人間を見下ろすことができ、その牙も爪も、戦士の鎧など容易に引き裂いてしまいそうな大きさだった。
しかも、その竜は、自分たちの存在を認めていないわけではない。
大きな瞳が中庭を一瞥し、そこに誰がいるのかを確かめたようだった。しかし、ヴァルザリオンは見知らぬエルフたちを特に気にかける様子もなく、まっすぐセラリスへ顔を向けた。
「セラリス。来月の牛だが、前回の農家のものは良かった。同じところから買え」
「向こうにも都合があるんだから、順番だってば」
「金は払う」
「それは知ってるよ。でも、牛だって急に増えるわけじゃないでしょう?」
「再来年の牛はどうだ?」
「農家には話を回してるよ。でも、百二十頭は最大だからね。それ以上は約束できないよ」
「足りなければ追加だ」
「だから、今からそういうこと言わないでよ。ほかの竜たちの分もあるんだから、ちゃんと調整しないと困るでしょう?」
ヴァルザリオンは、いささか不満そうに鼻を鳴らした。
セラリスは少しも怯む様子がなく、むしろ呆れたような顔をしている。
三人のカラーリーは、その会話をほとんど呆然として聞いていた。
彼らが知っているドラゴンとは、財宝を守り、縄張りへ踏み込んだ者を威嚇し、場合によっては恐るべき吐息で焼き払う存在である。人間が相手なら、気まぐれ一つで命を奪うこともあるだろうし、家畜を欲しがったとしても、わざわざ所有者の了解を得る必要などないはずだった。
そのドラゴンが、牛の購入先についてエルフの娘と相談しているのである。
しかも、どちらかといえば、竜の方がわがままを言い、エルフの娘がそれをたしなめているように見えるのだから、もはや何をどう受け止めればよいのかわからなかった。
「……本当だったんだ」
若者が、かすれた声で呟いた。
その声が聞こえたのか、ヴァルザリオンがゆっくりと顔を向けた。
大きな瞳に見据えられた途端、若者は反射的に弓へ手を伸ばしかけたが、年長の男が素早くその腕を押さえた。
不用意な動きをしてはならない。
その判断に、若者もすぐ気づいたらしく、硬くなった指をゆっくりと弓から離した。
「……同族か」
ヴァルザリオンが尋ねた。
「うん。カラーリーの人たちだよ。ミスタメアの噂を聞いて、見に来たんだって」
「そうか」
竜はそれだけ答えると、もう興味を失ったようだった。
獲物として値踏みする様子もなければ、脅しつけて服従を求める様子もない。彼にとっては、セラリスと同じ種族の者が三人増えたというだけのことらしく、そのことに特別な意味を見いだしているようには見えなかった。
しかし、年長の男にとっては、そうではなかった。
彼は竜の巨大な頭部を見上げ、慎重に口を開いた。
「……本当に、人を襲わぬのだな」
ヴァルザリオンは、少し考えた。
「俺からは襲わん」
「俺からは、ということは、襲ってくる者がいれば戦うという意味か?」
「俺を殺して財宝を奪おうとする者とは戦う。逃げれば追わぬこともあるが、それは俺が決めることだ」
その答えには、少しの迷いもなかった。
ヴァルザリオンは、人間やエルフのために自分の力を封じようとしているわけではない。ただ、理由もなく襲って奪う必要がないと考えているだけであり、自分に害をなそうとする者まで無条件に許すつもりはないのである。
年長の男は、しばらく黙って竜の顔を見上げた。
そして、ようやくゆっくりと頷いた。
「……それは、まあ、そうだろうな」
自分を殺そうとする者から身を守る権利があるのは、エルフでも人間でも、ドラゴンでも変わらない。その当然のことを認めてみれば、ヴァルザリオンの言葉は、少なくとも彼が恐れていたような理不尽なものではなかった。
横からセラリスが、少し困ったように口を挟んだ。
「シャーレーンが、正式にヴァルを襲うなって通達まで出したんだけどね。それでも来る冒険者がいるんだよ」
「なぜ、わざわざ竜王を襲いに来るんだ?」
年長の男が尋ねると、セラリスは一瞬、目を逸らした。
「……歌が流行って」
「歌?」
弓を携えた女が、怪訝そうに聞き返した。
「誰が歌ったの?」
「……私」
何とも微妙な沈黙が落ちた。
三人がその意味を理解するまでには、少し時間がかかった。どうやら、目の前の娘は、竜王を称える歌を広めた結果、その名を聞きつけた冒険者たちが、腕試しや財宝目当てに襲撃してくるという、いささか皮肉な事態を招いてしまったらしい。
ヴァルザリオンだけが、満足そうに首をもたげた。
「良い歌だ。俺の強さをよく表している」
「ヴァル、君は黙ってて」
セラリスが即座にそう返すと、若いカラーリーは、とうとう笑いをこらえきれなくなった。
彼は慌てて口元を押さえたが、もう遅かった。
年長の男も、隣の女も、どこか呆れたような顔をしながら、しかし先ほどまでとは違う眼差しで、エルフの娘とグリーンドラゴンのやり取りを眺めていた。
そこにあったのは、主人と家臣の関係ではなかった。
竜を魔法で屈服させて従えているわけでもなければ、恐ろしい怪物に取り入って、その庇護を得ようとしているようにも見えない。
おそらく、この二人は本当に友人なのだろう。
その事実は、目の前にいる竜の巨大さ以上に、三人を驚かせたのだった。
◇
三人がミスタメアで一夜を過ごし、翌朝、丘の麓に広がる畑を案内してもらったとき、彼らはまた別の意味で驚くことになった。
そこにあったのは、廃城をねぐらにしている怪物たちの荒れた土地などではなかった。
なだらかな斜面を利用して畑が拓かれ、麦の穂が風に揺れ、その隣には豆や玉葱、蕪などが育てられていた。畝と畝の間には細い通路が設けられ、雨水が溜まりやすい場所には排水溝が掘られている。畑の端では堆肥が積まれ、少し離れた場所には家畜を飼うための小屋まで建てられていた。
まだ農村として十分に整っているとは言いがたかったが、そこには、土地を耕し、作物を育て、収穫するという営みが、確かに根づき始めていたのである。
何より奇妙だったのは、その畑で働いている者たちだった。
人間の農夫がコボルドに鍬の使い方を教え、別のコボルドが土を掘り返し、その近くでは小柄な仲間たちが堆肥を運んでいる。人間の農夫は、相手がコボルドだからといって特別に遠慮する様子もなければ、怒鳴りつけて無理に働かせるわけでもなかった。
「そこは、もう少し深く溝を掘れ。雨が降ると水が溜まるからな」
「ここか?」
「そうだ。水は向こうへ流れるから、溝をそっちにつなげばいい」
「わかった。掘る」
コボルドは素直に頷き、教えられた場所へ鍬を入れた。
そのやり取りには、奇妙な緊張も、種族の違いを強く意識させるものもなかった。農夫にとっては、ただ仕事を覚えようとしている相手であり、コボルドにとっては、畑の作り方を教えてくれる経験者なのだろう。
少し離れた場所では、別のコボルドが豚小屋の柵を直していた。木材の寸法を合わせるのに手間取っているらしく、隣にいた仲間と何度か言い争っていたが、やがて二匹がかりで板を押さえ、釘を打ち直し始めた。
若いカラーリーは、その様子を興味深そうに眺めていた。
「……本当に、普通に暮らしているんですね」
「そうだね。最初はみんな農業のことなんて知らなかったけど、最近はかなり覚えてきたよ」
セラリスは楽しそうに答えた。
「まだ失敗も多いけどね。でも、何を育てればいいかとか、どうすれば水が溜まらないかとか、自分たちで考えるようになってきたから、だいぶ違うと思う」
年長の男は、しばらく畑を見渡していた。
エルフである彼にとって、森を拓いて畑を作るという行為には、少々複雑な思いがあった。もちろん、農耕そのものを否定するわけではない。だが、森の木々が切り倒され、そこに人間の都合だけで畑が広がっていく光景は、必ずしも好ましいものではなかった。
しかし、ミスタメアの畑は、彼が想像していたほど無秩序に広がってはいなかった。斜面の状態を見ながら必要な範囲だけが拓かれ、林や水辺も残されている。ここに暮らす者たちが、少なくとも土地を使い捨てるつもりではないらしいことは、その様子からもうかがえた。
そんな中で、弓を携えた女だけは、先ほどから畑よりも、その向こうに広がる森へ注意を向けていた。
やがて彼女は、不思議そうに呟いた。
「……妙ね」
「何がだ?」
年長の男が尋ねた。
「森が静かすぎるのよ」
その言葉に、二人も改めて周囲へ目を向けた。
鳥の声は聞こえている。木々の間には小さな獣の気配もあり、風が葉を揺らす音も絶えない。森が死んでいるわけでも、何かに怯えて息を潜めているわけでもなかった。
しかし、森歩きに慣れた彼女には、それとは別の違和感があった。
大きな獣が頻繁に通る獣道は少なく、オークやゴブリンの集団が野営したような痕跡も見当たらない。深い森であれば、ときおり見かけるはずの怪物の足跡や、縄張りを主張するために残された傷なども、驚くほど少なかったのである。
「このあたりには、危険な怪物がいないの?」
女が尋ねると、セラリスは首を傾げた。
「いないわけじゃないよ。でも、以前よりはかなり少なくなったと思う」
「どうして?」
「ヴァルの縄張りだからね。あの子が何度も上を飛ぶし、従ってる竜たちもいるでしょう? わざわざ竜王の縄張りに入り込もうとする怪物は、あんまりいないみたい」
「……竜がいるから、ほかの怪物が来ないということか」
年長の男は、思わず呟いた。
考えてみれば、理屈は通っていた。
ドラゴンは、森林地帯においてもっとも恐るべき捕食者の一つである。その竜が縄張りを定め、しかも近隣の同族まで従えているとなれば、多少の知恵を持つ怪物であれば、争いを避けようとするのは当然だった。オークやゴブリンが、わざわざ竜たちの目につく場所へ大きな集団で入り込む理由もない。
もちろん、それで危険が完全になくなるわけではないだろう。
森には猪もいれば狼もいるし、竜の存在を恐れない怪物が現れることもある。人間やエルフが安全に暮らせるという保証が、ただそれだけで得られるはずもなかった。
だが、以前ならば集落を滅ぼすほどの脅威となり得たドラゴンが、ここでは逆に、もっと小さな脅威を遠ざける存在になっている。
その事実は、彼らにとって容易に受け入れられるものではなかったが、否定しようにも、目の前には確かにそれを裏づける光景が広がっていた。
「……なるほどな」
年長の男は、もう一度森を眺めた。
スレスホールドへ通じる道があり、人間の農夫が働き、コボルドたちが畑を耕している。城の地下には強大な竜がいるというのに、丘の麓では、子供たちが遊び、家畜が草を食み、商人の荷車が何の妨げもなく行き来している。
そして、少し北へ進めば、まだ人の手がほとんど入っていない森が広がっているのだ。
そこまで考えたとき、彼の胸に、訪問するまでは思いもしなかった一つの可能性が浮かび上がってきた。
「……セラリス殿」
「何?」
「このあたりの森に、我々カラーリーが住むことはできるだろうか」
セラリスは、一瞬、質問の意味がわからなかったらしい。
「え? 住むって?」
「我々三人が、という意味ではない。故郷の集落を離れることを考えている家族が、いくつかいるのだ」
年長の男は、静かに説明を始めた。
それは、何か大きな災厄が起きたという話ではなかった。
故郷の森が焼かれたわけでもなければ、怪物の軍勢に追われているわけでもない。少なくとも今のところ、彼らの集落には、明日にも滅びるような危険が迫っているわけではなかった。
しかし、だからといって、誰もが現在の暮らしに満足しているわけではない。
森の中の小さな集落には、小さな集落なりの不安がある。強い怪物が一頭現れただけでも、住民たちが協力して対処しなければならず、森の外との交易が乏しければ、必要な道具や物資を手に入れるのにも苦労する。若者の中には人間の町との交流を望む者もいるが、年長者たちは古くからの森を離れることを好まず、幼い子を持つ親たちは、何よりも家族が安全に暮らせる場所を求めていた。
「我々は、森を捨てたいわけではないのだ」
男は、北側に広がる木々へ目を向けた。
「だが、森の中で暮らしながら、人間との交易もでき、必要なときには助けを求められる場所があるなら、そこへ移りたいと考える者もいるだろう。今の集落では、若い者と年寄りの意見がなかなか合わなくてな」
彼はそこで、少し寂しそうに笑った。
「人間に比べれば、我々は長く生きる。だが、長く生きるからといって、誰もが同じ場所で、同じ暮らしを続けたいと思うわけではないのだよ」
その言葉には、単なる移住の相談以上のものが含まれていた。
長い年月を生きるエルフにとって、故郷の森は、自分の人生と切り離せないほど深い意味を持っている。幼い頃に遊んだ木立も、親から教えられた泉も、何十年も通い続けた獣道も、彼らの記憶の中では、ただの風景ではなくなっているのである。
その森を離れるということは、生活の場所を変えるだけではない。
過去の自分と、少しずつ距離を置くことでもあった。
だからこそ、移住を考える者たちは迷っているのだろう。
安全な暮らしを求めたい。子供たちにもっと多くの可能性を与えたい。けれども、森とともに生きるエルフとしての暮らしを、すべて捨ててしまいたいわけではない。
そうした相反する願いを抱いたまま、長い時間をかけて考え続けているのだ。
そして今、ミスタメアという奇妙な土地が、その迷いに一つの答えを与えようとしているのかもしれなかった。
「……そっか」
セラリスは、男と同じ方向へ目を向けた。
北側の森は、まだほとんど手つかずのままだった。木々の間には小川があり、ところどころに平坦な土地もある。必要以上に木を切らず、森の様子に合わせて家を建てるのであれば、少人数が暮らし始めることは十分に可能だろう。
ただし、それを決める権限が自分にあるわけではない。
「この土地は私のものじゃないから、シャーレーンにはちゃんと話を通すよ。住む場所も、ほかの人たちと相談して決めないといけないしね」
「では、可能性はあると?」
「うん。私はいいと思うよ」
セラリスは笑った。
「森で暮らしたいなら、森に住めばいいじゃん。人間の町へ行きたいときには、スレスホールドまで行けるし、ここにも畑や仕事がある。みんなが納得できる場所なら、悪くないと思うんだ」
年長の男は、しばらく彼女の顔を見つめていた。
その返答は、あまりにも簡単なものだった。
もちろん、実際に移住するとなれば、土地の使用や水の確保、食料の調達など、決めなければならないことはいくらでもあるだろう。人間やコボルドとの間で問題が起きないという保証もない。
しかし、少なくとも目の前の娘は、同族が移り住んでくることを厄介事だとは考えていないようだった。
その事実は、故郷の人々から話を預かってきた男にとって、何より心強いものだった。
◇
最初にミスタメアへ移住してきたのは、三家族、合わせて十八人だった。
彼らは、故郷の集落を離れるにあたって多くの荷物を持ってきたわけではない。衣類や日用品、狩猟や木工に使う道具、それに大切に育ててきた植物の種や苗など、これから新しい暮らしを始めるために必要なものを選んで運んできたのである。
彼らが住む場所として選んだのは、城の北側に広がる森の中、小川からあまり離れていない一角だった。
そこには適度に日差しの入る場所があり、森の木々も比較的まばらだった。家を建てるためには多少の伐採が必要だったが、それでも大きな木をむやみに切り倒すことは避けられたし、周囲の地形を利用すれば、自然の景観を大きく損なわずに暮らすことができそうだった。
もっとも、移住してきたばかりの彼らにとって、最初から何もかもが順調だったわけではない。
同じカラーリーであっても、故郷の森とミスタメアの森とでは、地面の湿り具合も、水の流れも、日当たりのよい場所も違う。どこに家を建てればよいか、どの場所を小さな畑にすればよいかを判断するには、実際に土地を調べる必要があった。
そのとき、予想もしなかった者たちが、彼らに助言を与えることになった。
「ここ、畑するのか?」
赤い腕章をつけたコボルドが、森の中で地面を調べていたエルフに尋ねた。
「ああ、そのつもりだ。まだ、どこがよいか決めていないのだが」
「そこ、水が溜まる。雨のあと、ぬかるむ」
「……そうなのか?」
「向こうがいい。豆、育つ」
コボルドはそう言って、少し離れた場所を指さした。
最初、カラーリーたちは戸惑った。
何しろ、コボルドに農作業について教えられるなど、これまで考えたこともなかったのである。だが、実際に地面を調べ、雨水の流れを確かめてみると、彼らの指摘は正しかった。
コボルドたちは既に何か月もこの土地で畑を耕し、どこに水が溜まり、どの場所の土が柔らかく、どのあたりなら作物が育ちやすいかを、失敗を繰り返しながら覚えていたのである。
「……なるほど。確かに、このあたりの方がよさそうだな」
「豆なら、ここだ。水、溜まらない」
「教えてくれてありがとう」
礼を言われたコボルドは、少し不思議そうな顔をした。
「別に。畑、作るんだろう?」
「そうだが」
「だったら、いい場所の方がいい」
その返答に、カラーリーの男は思わず笑ってしまった。
どうやら、このコボルドにとっては、同じ種族かどうかなど、それほど重要な問題ではないらしい。畑を作るなら、作物が育ちやすい場所を選んだ方がよい。その程度のことであり、わざわざ恩に着せるような話ではないと考えているのだろう。
そして、こうした小さなやり取りが繰り返されるうちに、最初は互いを遠巻きに眺めていたエルフとコボルドたちも、少しずつ言葉を交わすようになっていった。
もちろん、最初から親しい隣人になったわけではない。
互いの暮らし方は違うし、ものの考え方も異なる。コボルドの中には、森の木々を大切にするエルフたちの態度を理解できない者もいたし、エルフの中には、穴を掘り、石を積み、地面へ積極的に手を加えようとするコボルドたちの習慣に戸惑う者もいた。
それでも、彼らには共通するものがあった。
自分たちの家族が安心して暮らせる場所を求めていることだった。
そのために必要ならば、他者から教わることを恥じる必要はない。少なくとも、ミスタメアへ移り住んできた者たちには、そう考えるだけの柔軟さがあったのである。
翌月には、さらに二家族が移住してきた。
その後も、薬草を扱う女や、若い猟師、馬を育てる夫婦などが加わり、北の森には少しずつ新しい住居が増えていった。
まだ村と呼ぶには小さすぎた。
家々を結ぶ道も十分に整っておらず、雨の日には足元がぬかるむ場所もあったし、共同で使う設備も、必要に応じて少しずつ造っているような状態だった。
しかし、朝になれば炊事の煙が立ち上り、昼には木を削る音が森に響き、夕方には仕事を終えた者たちが互いの家を訪ねるようになった。子供たちは新しい土地に慣れるのが早く、初めは親のそばを離れようとしなかった者まで、何日か経つうちには、近くの小川や木立の間を遊び場として覚え始めていた。
家が建ち、人が住み、毎日の仕事が繰り返される。
ただそれだけのことが、少しずつ土地の様子を変えていった。
森の中に、暮らしが生まれ始めていたのである。
◇
もっとも、ヴァルザリオンの縄張りだからといって、その土地が完全に安全になったわけではなかった。
それを改めて思い知らされる出来事が起きたのは、移住者たちの暮らしがようやく落ち着き始めた頃だった。
若いカラーリーの猟師が、森で巨大な猪に襲われたのである。
その猪は、普通の獲物とは明らかに違っていた。身体が大きいばかりでなく、気性も荒く、逃げるどころか、自分の縄張りへ踏み込んだ相手へ猛然と突進してきたという。猟師はどうにか致命的な一撃を避けようとしたものの、突き上げられた牙は腹を深く裂き、倒れた彼は自分の力で歩くことさえできなくなってしまった。
仲間たちが彼を発見したとき、既に大量の血が流れていた。
傷口を押さえ、急いでミスタメアへ運び込んだものの、担架の上で横たわる若者の顔色は悪く、息も浅くなっていた。運んできた者たちの手や衣服まで血に染まっており、その様子を見た城の者たちは、何が起きたのかを尋ねるより先に、治療できる者を呼びに走った。
セラリスとヴァレリアが駆けつけたのは、それから間もなくのことだった。
セラリスは傷口を確かめると、すぐに治療の準備を始めた。ヴァレリアも傍らに膝をつき、負傷者の状態を確認しながら、祈りによる治癒を施していく。
血に染まった布が取り除かれ、深く裂けていた傷が少しずつ塞がっていくのを見て、周囲にいたカラーリーたちは、ようやく息をつくことができた。
しかし、治療が終わるまでの間、誰もが胸の奥に重苦しい不安を抱えていた。
この土地へ来れば、子供たちを安全に育てられると思っていた。
竜王がいるから、大きな怪物は近づかないのだと聞いていた。
それでも、森には危険が残っているのであり、ちょっとした判断の誤りが、命を奪う結果につながることもあるのだ。
その現実を、彼らは改めて突きつけられたのである。
幸い、若い猟師は命を取り留めた。
意識を取り戻した彼が、まだ青ざめた顔で仲間たちに謝ろうとすると、セラリスは少し呆れたように首を振った。
「謝るのはあとでいいよ。今はちゃんと休んで。傷は治したけど、血もたくさん流したんだからね」
「……すみません」
「だから、今は謝らなくていいって。無事だったんだから、次から気をつければいいよ」
その言葉を聞いた猟師は、ようやく力を抜いた。
ヴァレリアも穏やかに頷き、しばらく休むように言い添えた。
周囲にいた者たちは、安堵のあまり声を出せずにいた。中には、若者が運び込まれてきたときの光景を思い出したのか、目を潤ませている者さえいたが、それを咎める者は誰もいなかった。
森に住む者にとって、獣に襲われること自体は珍しい話ではない。
だが、自分の家族や仲間が傷つき、その命が失われるかもしれないという恐怖は、何度経験しても慣れるものではなかった。
そして、その恐怖を感じるたびに、人は、自分たちが助けを求められる相手のいることが、どれほどありがたいことなのかを思い知るのである。
この日、ミスタメアの城で若い猟師が救われたという話は、北の森の移住者たちの間で、長く語られることになった。
◇
その夜、セラリスが自室へ戻ったときには、既に城内も静かになっていた。
窓の外には夜の闇が広がり、遠くの森から聞こえてくる虫の声が、部屋の中までかすかに届いている。昼間の騒ぎが嘘のような静けさだったが、セラリスの胸には、まだ負傷した猟師の姿が残っていた。
治療が間に合ってよかった。
その思いは、決して大げさなものではなかった。危険な場所に生きる以上、誰もがいつか傷つく可能性がある。それをすべて防ぐことはできないし、セラリス自身も、どこにいても誰かを守れるわけではない。
だからこそ、今回は間に合ったという事実が嬉しかった。
彼女は腰の袋を外そうとして、ふと手を止めた。
袋の中から、かすかな温もりが伝わってきたのである。
初めは、自分の気のせいかと思った。
だが、確かめるように袋へ手を入れると、その中に収めてあった一本の櫛が、確かに熱を帯びているのがわかった。
五インチほどの、桃色の櫛だった。
《コリガンたちの櫛》。
かつてミスタメアの地下から見つかり、炎の中で目覚めた、エネルギーのスフィアに属するレッサー・アーティファクトである。
セラリスは慎重に櫛を取り出した。
その表面には、以前と変わらない柔らかな桃色の光沢があり、外見だけならば、少々珍しい材質で作られた装身具にしか見えない。しかし、その内部には、人間やエルフが通常の魔法によって作り出す品物とは、まるで異なる力が秘められている。
そして今、その櫛が、彼女に何かを伝えようとしていた。
言葉が聞こえたわけではなかった。
誰かの姿が目の前に現れたわけでもなく、声によって説明を受けたわけでもない。ただ、櫛を手にした瞬間、今まで意識の奥に閉ざされていた何かが、静かに開かれていくような感覚があった。
それは、新しい知識を教えられるというよりも、ずっと以前から知っていたことを、不意に思い出すときの感覚に似ていた。
なぜそれを知っているのかはわからない。
けれども、どうすればよいのかは理解できる。
櫛の中に秘められた力の一つが、今、初めて彼女の前に姿を現したのである。
「……そういうことか」
セラリスは、しばらく櫛を見つめていた。
思い当たることはあった。
ミスタメアへカラーリーたちがやってきたこと。そして、彼らがこの土地に住みたいと望んだとき、それを受け入れ、暮らし始めるための手助けをしたこと。さらに今日、重傷を負った同族の若者を助け、命を失わせずに済んだこと。
それらは、彼女にとっては特別なことではなかった。
困っている者がいて、自分に助けられる力があるなら助ける。新しい土地で暮らしたいという者がいて、その願いを妨げる理由がないなら、必要な手続きを整えればよい。そうした行いについて、わざわざ誰かから褒められたいと思ったこともなかった。
だが、《コリガンたちの櫛》は、それらの行いに何らかの意味を見いだしたらしい。
同族と友誼を結び、彼らを受け入れ、傷ついた者を癒やす。
その行いに応じるように、櫛は今まで明らかにしていなかった秘密を、ほんの一つだけ彼女へ教えたのだった。
セラリスは、窓の外へ目を向けた。
ミスタメアの北に広がる森には、以前にはなかった灯りが幾つも浮かんでいた。
あれは、移り住んできたカラーリーたちの家の灯りだった。
小さな明かりの下では、家族が夕食を終え、明日の仕事について話し、子供たちが眠る支度をしているのかもしれない。傷ついた猟師も、今頃は仲間に囲まれ、無事に戻ってこられたことを喜んでいることだろう。
少し視線を移せば、丘の麓にはコボルドたちの住む場所がある。彼らもまた、以前は人間の冒険者たちに恐れられ、追われる立場だった。だが今では畑を耕し、城の修理を行い、給金を受け取って暮らしている。
さらに街道の向こうには人間の農家があり、スレスホールドへ通じる道には商人の荷車が行き来していた。
そして、城の地下には、ヴァルザリオンが住んでいる。
財宝を大切に抱え込み、牛の購入先に文句を言い、自分を称える歌が流行っていることを、心の底から喜んでいるグリーンドラゴンである。
セラリスは、思わず小さく笑った。
それぞれが、まったく違う生き物だった。
もともと同じ場所で暮らすことなど、誰も想像していなかった者たちである。人間とコボルドとエルフが近くに住み、その地下にドラゴンがいて、しかも互いを殺し合おうとせず、それぞれの仕事や暮らしに精を出している。
考えてみれば、ずいぶん奇妙な光景だった。
けれども、それが今のミスタメアなのである。
セラリスは櫛をそっと掌に包み込み、もう一度、北の森に浮かぶ灯りを眺めた。
誰かがあそこで眠っている。
そのことが、何となく嬉しかった。
◇
もちろん、ミスタメアの北にカラーリーの移住者が増えているという話は、領主であるシャーレーン・ハララン男爵のもとへも届いていた。
スレスホールドで報告書を受け取ったシャーレーンは、書類に目を通したあと、少し怪訝そうに顔を上げた。
「……四十三人?」
「はい。現在確認されている移住者の数です」
答えたのはアリーナだった。
彼女は父の向かいに立ち、ミスタメアの状況について、落ち着いた様子で説明を続けた。
「最初は三家族、十八人でした。その後も少しずつ移住者が増えまして、現在では四十三人になっています。まだ移住を希望している家族もあるようです」
「ふむ。なぜ、そこまでミスタメアへ集まるのだ?」
「安全だから、というのが一番大きな理由のようです」
シャーレーンは、すぐには答えなかった。
しばらくアリーナの顔を見つめ、それから、もう一度報告書へ目を落とした。
「……安全?」
「はい」
「ミスタメアが?」
「そうです」
「グリーンドラゴンの縄張りだから、安全だというのか?」
「はい。ヴァルザリオンが周辺を飛び回っているため、オークやゴブリンなどの集団が近づきにくくなっているそうです。もちろん、森の危険がすべてなくなったわけではありませんが、少なくとも大きな怪物の襲撃については、以前より心配が少なくなったようですね」
シャーレーンは、今度こそ言葉を失った。
彼はこれまで、領主としてさまざまな問題に対処してきた。街道に出没する盗賊、村を荒らす怪物、土地をめぐる争い、商人たちの訴え、領内の治安や徴税に関する陳情など、その内容は実にさまざまだった。
しかし、ドラゴンが住み着いたから安全になり、そこへ住民が移り住んでくるという事態は、さすがに経験がなかった。
「アリーナ。私は領主として、これまでそれなりに奇妙な陳情を受けてきたつもりだ」
「はい、父上」
「だが、ドラゴンの縄張りだから安全なので移住したい、という申請を受ける日が来るとは思わなかった」
アリーナは、思わず口元を緩めた。
「私もです」
「……それで、セラリスはどう言っている?」
「歓迎しています。もちろん、移住する土地については正式に許可を得る必要があると考えているようですが、本人としては、森に暮らしたい者が増えることを喜んでいるようです」
「だろうな」
シャーレーンは、半ば諦めたように呟いた。
あの娘なら、そう考えるだろう。
コボルドが仕事をしたいと言えば雇い、人間の若者が冒険者になりたいと言えば訓練し、グリーンドラゴンと話ができるとわかれば友誼を結ぶ。今度は同族のカラーリーが森へ移り住みたいと言い出したのだから、断る理由がなければ歓迎するに違いない。
彼女の行動には、一貫した考え方がある。
それが問題だった。
気まぐれな行動であれば、領主として注意することもできるだろう。しかし、セラリスのすることは、よくよく話を聞いてみれば、たいてい理屈が通っているのである。
コボルドを雇うのは、人手が必要であり、相手にも働く意思があるからだ。ドラゴンへ牛を売るのは、奪われるより商売になった方が双方にとって都合がよいからであり、カラーリーの移住を受け入れるのも、森に暮らしたい者たちがいて、土地に余裕があるからだった。
それらを個別に考えれば、必ずしもおかしな判断ではない。
しかし、その結果を一つにまとめると、ミスタメアはいつの間にか、人間とコボルドとエルフが暮らし、その地下にグリーンドラゴンが住むという、領主としては何とも説明に困る土地になっているのである。
「……ヴァルザリオンは、どう思っているのだ?」
「セラリスの同族なら構わない、と言っているそうです」
「それだけか?」
「はい。少なくとも、移住者たちを追い払うつもりはないようです」
シャーレーンは、またしても黙り込んだ。
グリーンドラゴンに領民の居住を認めてもらうというのも、考えてみれば妙な話である。しかし、相手が実際にその一帯を縄張りとしている以上、彼の意向を無視して住民を送り込むことが、決して賢明な判断とは思えなかった。
ましてヴァルザリオンは、人間を襲わず、家畜も金貨で購入しているという。
その事実を踏まえれば、領主として何より重要なのは、この奇妙な均衡を不用意に壊さないことなのだろう。
「……移住者の住む場所と人数は、きちんと記録しておくように。それから、森を無秩序に切り拓かせないことだ。土地をめぐる争いが起きても困る」
「はい。その点はセラリスにも伝えてあります」
「ならばよい」
シャーレーンは頷き、報告書を机へ置いた。
アリーナはその様子を見ながら、父がまだ何か考えているらしいことに気づいていた。
やがて、シャーレーンは小さく息を吐いた。
「……しかし、ミスタメアという土地は、いったいどこまで変わるのだろうな」
「少なくとも、しばらくは変化が続くと思います」
「そうだろうな。あの娘がいる限り、何も起きないということの方が考えにくい」
その言葉に、アリーナはとうとう笑ってしまった。
シャーレーンも少しだけ口元を緩めたが、次の瞬間には、領主としての苦労を思い出したのか、再び報告書へ目を落とした。
ミスタメアの守護官は、どうやら今日も、何か新しいことを始めているらしかった。
◇
それから数か月が過ぎると、ミスタメアの北に広がる森は、以前とは少し違った姿を見せるようになっていた。
もちろん、森そのものが大きく変わったわけではない。
相変わらず木々は枝を広げ、朝になれば鳥が鳴き、雨が降れば土と葉の匂いがあたりに満ちた。人間の町のように広い道路が造られたわけでもなければ、大きな建物が並ぶようになったわけでもない。
しかし、木々の間には小さな家々が建ち、細い道が少しずつ踏み固められ、夕方になると、以前にはなかった煙が幾筋も空へ立ち上るようになっていた。
森を歩いていると、遠くから子供たちの笑い声が聞こえてくることがあった。家畜を呼ぶ声や、薪を割る音、誰かが夕食の支度を始める気配なども、風向きによっては城の方まで届いてくる。
それは、かつてのミスタメアにはなかった音だった。
城の地下ではコボルドたちが暮らし、丘の麓には畑があり、そのさらに北ではカラーリーたちが森を傷めないように気を配りながら、新しい生活を始めている。
いつの間にか、この土地には、いくつもの異なる暮らしが寄り添うように存在するようになっていたのである。
ある夕暮れ、セラリスはミスタメア城の城壁に腰を下ろし、そんな北の森を眺めていた。
空は西の端から赤く染まり始め、丘の向こうには薄い金色の光が漂っている。遠くで麦畑が風に揺れ、その向こうに広がる木々は、暮れゆく空を背に、濃い緑から黒に近い色へと変わり始めていた。
城壁の上には、もう一つ、大きな影があった。
ヴァルザリオンだった。
巨大なグリーンドラゴンは、城壁の近くに身体を落ち着け、長い首をもたげて北の森を眺めていた。夕日を受けた鱗には、昼間とは違う深い光沢が宿り、その姿は、古い伝承に登場する竜王そのもののような威容を備えていた。
だが、その隣に腰かけたセラリスは、彼の姿を見ても、今さら畏れを感じたりはしなかった。
ヴァルザリオンが、ふと口を開いた。
「増えたな。お前の同族が」
「うん。少しずつね」
「俺の縄張りが安全だから、ここへ来たそうだ」
どこか誇らしげな声だった。
セラリスは横目で彼を見た。
「嬉しいの?」
ヴァルザリオンは、すぐには答えなかった。
彼はもう一度、森の方へ目を向けた。
木々の間には、小さな家の屋根がわずかに見えている。その近くでは、何人かのエルフが荷物を運び、少し離れた場所では子供たちが遊んでいた。彼らは城の上にいる巨大なドラゴンの存在を知っているはずだったが、だからといって慌てて家へ逃げ込む様子もなかった。
むしろ、何人かは彼の姿に気づき、こちらへ手を振っているようにも見えた。
「……悪くない」
ヴァルザリオンは、やがてそう答えた。
「何が?」
「俺が強いから、弱い怪物がここへ来ない」
「うん。そうだね」
「だから、あいつらは住めるのだろう」
セラリスは、少し驚いて彼を見た。
ヴァルザリオン自身は、何か特別なことを言ったつもりなどないのかもしれなかった。
彼はただ、自分がこのあたりでもっとも強い竜であり、その縄張りを恐れて怪物たちが近づかなくなったことを、当然の事実として語っているだけなのだろう。
しかし、セラリスには、その言葉が以前とは少し違って聞こえた。
初めて地下の洞窟で出会った頃のヴァルザリオンにとって、強さとは、何よりも自分自身のためのものだった。
自分の身を守るため。
財宝を奪われないため。
ほかの竜に侮られず、自分の力を認めさせるため。
彼が強くあろうとする理由は、常に自分自身へ向けられていた。竜という種族の性質を考えれば、それは何ら不思議なことではなかったし、セラリスも、彼に人間やエルフと同じ価値観を持つよう求めたことはなかった。
けれども今、ヴァルザリオンは、自分が強いことで、ほかの者たちが安心して暮らせるのだということを知っている。
それは、強さの意味が少しだけ変わったということなのかもしれなかった。
彼自身は、まだその変化を十分に理解していないだろうし、そもそも、理解する必要さえ感じていないかもしれない。
だが、セラリスには、それが何となく嬉しかった。
「そっか。そういうのも、悪くないね」
「何がだ?」
「ヴァルが強いおかげで、みんなが安心して暮らせるってことだよ」
「当然だ。俺は強いからな」
ヴァルザリオンは、誇らしげに首をもたげた。
そのあまりにも彼らしい反応に、セラリスは思わず笑ってしまった。
「うん。そうだね」
「何がおかしい?」
「別に。ちょっと嬉しくなっただけだよ」
「変な奴だ」
「ヴァルに言われたくないなあ」
セラリスがそう返すと、ヴァルザリオンは少し不満そうに鼻を鳴らしたが、それ以上は何も言わなかった。
二人は、しばらく並んで夕暮れの森を眺めていた。
やがて丘の麓から、仕事を終えたコボルドたちが戻ってきた。畑で使った道具を肩に担ぎ、何匹かは今日の収穫について話しているらしく、互いに短い言葉を交わしながら城へ向かっている。
その少し後ろを、人間の農夫が歩いていた。
遠くの街道では荷車がゆっくりと進み、その車輪の音が、夕方の静かな空気を通してかすかに伝わってくる。北の森からは、誰かが子供を夕食へ呼ぶ声が聞こえ、少し遅れて、元気のよい返事が返ってきた。
それらの音は、どれもありふれたものだった。
どこかの農村へ行けば、似たような光景を見られるだろうし、決して珍しい出来事というわけではない。
けれども、ミスタメアでは、そのありふれた暮らしを営んでいる者たちが、少々変わっていた。
コボルドが働き、人間が畑を耕し、エルフが森に家を建て、そのすべてを、グリーンドラゴンが自分の縄張りとして見下ろしている。
それは、少し前までなら誰も想像しなかった光景だった。
セラリスは、城壁の上で膝を抱えながら、そんな土地の様子を静かに眺めていた。
自分は、国を作りたかったわけではない。
誰かの女王になりたかったわけでもなければ、大勢の者たちを従え、自分の名を後世に残そうと考えたこともなかった。
ただ、ミハイルたちには、冒険者として生き延びるための力を身につけてほしかった。
出会ったコボルドたちが、殺さずに済む相手なら、無理に殺す必要はないと思った。話のできる竜がいるなら、まずは話してみればよいと考えたし、農地を作りたいという者がいれば、畑の作り方を教えてもらえばよいと思った。
そして、森に住みたいという同族が現れたなら、住める場所を探してやればよいと考えた。
その一つ一つは、彼女にとって、特別な決断ではなかった。
何か困ったことがあれば、どうすればよいかを考える。できることがあればやってみるし、自分にできないことは、できる者に頼めばよい。
それだけのことだったはずなのである。
しかし、そうした小さな選択が積み重なるうちに、ミスタメアには、以前には存在しなかったものが生まれ始めていた。
ここなら暮らしていけるのではないかと考える者が、一人現れる。
その者が家を建て、畑を耕し、家族とともに暮らし始める。
すると、別の者が、その暮らしを見て、自分たちもここへ来てみようかと考えるようになる。
それは、誰かが大きな理想を掲げ、皆を集めて作り上げる共同体とは、少し違うものなのかもしれなかった。
最初から立派な城壁があったわけでもない。
豊かな土地が約束されていたわけでもなければ、誰もが安心して眠れるほど安全な場所だったわけでもない。
それでも、ここで暮らしてみようと思う者が現れ、その隣へ、また別の誰かがやって来る。
そして、互いに助け合いながら暮らしているうちに、いつの間にか、一つの場所が故郷になっていく。
共同体というものは、案外、そうして生まれることもあるのではないだろうか。
セラリスは、そんなことを考えていた。
もっとも、彼女はその考えに、今すぐ答えを出そうとは思わなかった。
まだミスタメアには問題がいくらでもある。道路を整備しなければならないし、農地も増やさなければならない。コボルドたちには覚えてもらいたい仕事がたくさんあり、移住してきたカラーリーたちにも、これから新しい土地で暮らすために必要なことがあるだろう。
彼らがいつまでも仲良く暮らせるという保証もなければ、何か争いが起きたときに、すべてを簡単に解決できるというわけでもない。
けれども、今のところ、少なくとも彼らは同じ土地で暮らそうとしている。
そのことだけでも、十分に意味があるように思われた。
ふと、ヴァルザリオンが大きな翼を広げた。
夕日の残光を受けた翼膜が、城壁の上へ深い影を落とす。
その影は、やがて丘の麓へ伸び、畑の端をかすめ、北の森の木々へ重なっていった。
昔なら、その影を見ただけで、人々は恐怖に身をすくめたことだろう。
グリーンドラゴンが空を飛ぶということは、誰かの家畜が奪われるかもしれず、村が襲われるかもしれず、あるいは命を落とす者が出るかもしれないという、恐ろしい出来事だったからである。
しかし今では、その影を見て顔を上げる者はいても、慌てて逃げ出す者はほとんどいなかった。
コボルドたちは普段どおり城へ戻り、人間の農夫は荷車を引き、森の中ではカラーリーの子供たちが家路を急いでいる。
そればかりか、ヴァルザリオンの大きな翼が空を横切るのを見て、安心したような顔をする者まで現れ始めていた。
セラリスは、そんな光景を見ながら、静かに微笑んだ。
「ねえ、ヴァル」
「何だ?」
「ここに住んでるみんなが、君のことを怖がらなくなってきたね」
「当然だ。俺はあいつらを襲わん」
「うん。でも、それだけじゃないと思うよ」
「どういうことだ?」
「ヴァルがここにいるから、ほかの怪物が近づきにくいんでしょう? みんな、それがわかってきたんだと思う」
ヴァルザリオンは、しばらく考えているようだった。
やがて、ゆっくりと首をもたげた。
「ならば、俺の縄張りにいる方がよいということだな」
「そういうことだね」
「それなら、あいつらは賢い」
セラリスは笑った。
何ともヴァルザリオンらしい結論だった。
けれども、その声には、以前ならば感じられなかった、どこか満ち足りた響きがあった。
彼は相変わらず誇り高く、自分の強さを疑わず、財宝を大切にし、牛の購入についても自分の希望を通そうとするグリーンドラゴンだった。
おそらく、その本質はこれからも変わらないのだろう。
しかし、強いということが、ただ敵を倒し、財宝を守り、他者を屈服させるためだけのものではないと知ったことは、彼にとっても、決して小さな変化ではなかったのかもしれない。
セラリスは、そんな友人の横顔を眺めていたが、やがて再び森へ目を向けた。
夜の帳が少しずつ降り始め、北の森では、家々に明かりが灯り始めていた。
一つ、また一つと増えていく小さな光は、木々の間に散らばった星のようにも見えたが、その一つ一つには、誰かの暮らしがあり、今日一日の仕事があり、明日へのささやかな願いがある。
その灯りが、昨日より少しだけ増えている。
セラリスには、それが何より嬉しかった。
ミスタメアは、まだ小さな土地だった。
新しく住み始めた者たちも、ようやく自分の家を建て、日々の暮らしを整え始めたばかりである。これから先、どんな問題が起きるのかはわからないし、今の平穏がいつまでも続くという保証もない。
それでも、今夜、あの灯りの下では、誰かが安心して眠ろうとしている。
明日もここで暮らそうと思っている者たちがいる。
それで十分ではないかと、セラリスは思った。
隣では、若き緑竜王ヴァルザリオンが、巨大な身体を静かに横たえていた。
彼もまた、何を語るでもなく、北の森に浮かぶ灯りを眺めていた。やがて夜風が城壁を吹き抜け、その風に乗って、遠くの家々から夕食の支度をする音や、子供たちの笑い声がかすかに届いてきた。
ドラゴンの影の下で、エルフが暮らし、人間が畑を耕し、コボルドが明日の仕事に備えて眠る。
ほんの少し前までなら、誰もが荒唐無稽だと笑い飛ばしたであろう光景だった。
けれども、それは今、紛れもなく現実となって、ミスタメアの夜の中に息づいていたのである。
セラリスは、その答えを急ごうとは思わなかった。
ただ、昨日より少し増えた森の灯りを、いつまでも眺めていた。
そして、その隣ではヴァルザリオンもまた、自分の強さが守ることになった小さな灯りの数々を、どこか満足そうに見つめていたのだった。