セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
ミスタメア城の北に広がる森へ、カラーリーのエルフたちが移り住むようになってから、まだそれほど長い月日が経ったわけではなかった。
それでも、人の暮らしというものは、一度そこへ根を下ろし始めると、思いがけないほど早く周囲の景色を変えてゆくものである。
最初にやって来たのは、三家族、合わせて十八人だった。彼らは森の中を流れる小川の近くに住まいを定め、必要なだけの木を切り、周囲の地形をできるだけ生かしながら、小さな家を建て始めた。やがて二家族が加わり、さらに猟師や薬草を扱う者、馬を育てる者たちが移り住むようになると、それまで人の手がほとんど入っていなかった森には、細い踏み分け道が生まれ、木々の間に人の住む家の屋根が見えるようになった。
まだ、村と呼ぶにはあまりにも小さな集まりだった。
家々は互いに離れて建てられており、集会所と呼べるものもなければ、市場が立つわけでもない。森を愛するカラーリーたちは、できることなら木々を切り拓いて広い空間を作るより、もともとの森の姿を残したまま、その中へ自分たちの暮らしを収めたいと考えていた。そのため、家と家を結ぶ道もまっすぐではなく、古い木を避け、小川を回り込み、ときには獣道を利用しながら、自然の地形に沿って続いている。
けれども、朝になれば炊事の煙が立ち上り、子供たちが家の前を走り回り、昼には木を削る音や馬のいななきが聞こえるようになった。夕暮れともなれば、仕事を終えた者たちが互いの家を訪ね、食事の支度をする匂いが森の中へ漂い始める。そうした小さな営みが積み重なるうちに、かつてはただの森だった場所が、そこに暮らす者たちにとって、少しずつ故郷と呼べる場所へ変わり始めていたのである。
もちろん、人が集まって暮らし始めれば、それだけ困りごとも増える。
どこに新しい家を建てるべきか。小川の水をどのように使うか。狩りをする者同士が、同じ獲物を追いかけて争いになった場合にはどうするのか。森の木を切るにしても、どこまでなら許されるのか。
故郷の集落では、そうしたことを決めるための習慣や、長老たちの間に蓄積された経験があった。しかし、ミスタメアへ移り住んできた者たちは、必ずしも同じ集落の出身ではなかったし、新しい土地についても、まだ十分に知っているわけではない。
そして、何か困ったことが起きたとき、彼らが最初に相談しようとする相手は、たいてい決まっていた。
セラリス・オブ・カラーリーである。
当の本人は、そのことに特別な意味があるとは、少しも考えていなかった。
◇
「セラリス殿、少しよろしいか」
その日の朝も、ミスタメア城の中庭で弟子たちの訓練を終えたばかりのセラリスのもとへ、一人のカラーリーが訪ねてきた。
銀の混じった長い髪を丁寧に編み込んだ、年長のエルフの男だった。彼は最初にミスタメアの噂を確かめにやって来た三人のうちの一人であり、その後も移住を希望する同族たちとセラリスの間に立って、さまざまな相談を取り次いでいる。
「うん。どうしたの?」
セラリスは手にしていた木剣を脇へ置き、額の汗を拭いながら男へ向き直った。
「北の小川沿いに、もう一軒家を建てたいという家族がいるのだが、あの辺りは城の猟場と重ならないだろうか」
「ああ、あそこか。小川が大きく曲がってる辺り?」
「そうだ。少し高くなった場所があって、雨が降っても水に浸からずに済みそうなのだが」
「うん、場所はわかるよ。私の猟場ってわけじゃないし、たぶん大丈夫だと思う。ただ、ヴァルにも聞いてみるね」
「ヴァルザリオン殿に?」
「そう。あの辺りもヴァルの縄張りだからね。別に断られるとは思わないけど、知らないところに家が増えるより、先に話しておいた方がいいでしょう?」
年長のエルフは、少し複雑そうな顔になった。
同族の娘と話しているつもりなのに、土地を使う相談の途中で、当たり前のようにグリーンドラゴンの意向を確認するという話になる。ミスタメアへ来てから、こうしたことには少しずつ慣れてきたつもりだったが、それでも、よく考えてみれば実に奇妙なことである。
「では、家を建ててもよいと伝えてよいだろうか」
「うん。でも、シャーレーンにも一応知らせておくよ。男爵の土地なんだから、そこはちゃんとしないとね」
「承知した。では、正式な許可を得るまでは、場所の確認だけにしておこう」
「そうしてくれると助かるよ。あと、大きな木はなるべく残した方がいいと思うけど、家を建てる人たちと相談して決めてね」
男は礼を言い、穏やかな表情で去っていった。
セラリスはその背中を見送ると、何事もなかったように木剣を片づけ始めたが、それからいくらも経たないうちに、今度は別のカラーリーの女が訪ねてきた。
「セラリス殿。スレスホールドの商人が、定期的に布を持ってきたいと申し出ているのだけれど」
「へえ。いいんじゃない? 買いたい人もいるでしょう?」
「もちろん、布を売りに来てもらえるのはありがたいのだけれど、森の中へ荷車を入れてよいものかと思って」
「ああ、そういうことか。荷車が通れる道はまだ限られてるからね。森の奥まで無理に入らなくても、城の近くで荷物を下ろして、そこから運べばいいんじゃないかな」
「なるほど。では、商人にはそのように伝えるわ」
「うん。道を塞がないようにしてもらえば大丈夫だと思うよ」
女は頷いたものの、すぐには立ち去ろうとしなかった。
「それから、もし値段のことで揉めたら、どうしたらよいかしら」
「え? まずは当人同士で話せばいいでしょう?」
「それでも折り合いがつかなかったら?」
「無理に買わなければいいんじゃない? でも、品物を渡したあとで代金のことで揉めたとか、約束したものと違うものを売られたとか、そういう話なら私も聞くよ」
「ありがとう。その方が安心できるわ」
女はほっとしたように笑い、丁寧に礼を述べて帰っていった。
セラリスにしてみれば、ごく普通の相談だった。商人が来たいというのなら、道の使い方を確かめればよいし、取引について問題が起きたのなら、事情を聞いて解決できるかどうか考えればよい。自分が何もかも決める必要はないが、困ったときに相談されることまで拒む理由もなかった。
ところが、昼食を終えて少し休もうと思った頃には、今度は若い猟師が訪ねてきた。
「セラリス殿。森の西側で、大きな熊の足跡を見つけた」
「普通の熊?」
「おそらく。ただ、かなり大きい。あの辺りで見かける熊より、ひと回りは大きいと思う」
「ふうん。ほかに変わったことは?」
「木の幹に爪を立てた跡がある。獲物を食った痕跡も見つけたが、人を襲った様子はない」
セラリスは少し考えた。
熊というだけなら、森に住んでいても何ら不思議はない。だが、あまりに大型の個体が人の住む場所へ近づいてくるようなら、放っておくわけにもいかなかった。まして、移住してきたばかりの者たちが、まだ土地の危険を十分に把握していないのであれば、先に調べておくに越したことはない。
「じゃあ、場所を教えて。ヴァルの巡回する辺りと重なってなかったら、私も一度見に行くよ」
「狩った方がよいだろうか」
「まだ決めなくていいと思う。普通の熊なら、こっちからわざわざ追いかけ回す必要もないでしょう? まずは人の住むところへ近づいてこないか確かめようよ」
「わかった。足跡の場所は案内できる」
「うん。じゃあ、あとでお願いするね」
その猟師が帰ったあと、セラリスはようやく自室へ戻ろうとしたのだが、夕方になると、また別の騒ぎが持ち込まれた。
今度はカラーリーの子供だった。
泣きながら城へ駆け込んできたその子は、飼っていた子馬がいなくなったのだと訴えた。森の近くで草を食ませていたところ、少し目を離した間に姿が見えなくなり、いくら探しても見つからないという。
「ちゃんと繋いであった?」
「……ううん」
「そっか。じゃあ、どっかへ歩いて行っちゃったのかな」
セラリスは子供の顔を覗き込み、できるだけ落ち着いた声で尋ねた。
「最後に見た場所は覚えてる?」
子供は涙を拭いながら頷いた。
「うん。でも、探したのにいなかったんだ。森の方へ行ったかもしれない」
「わかった。じゃあ、一緒に探そうか。でも、次からはちゃんと大人の人に知らせるんだよ。森へ一人で探しに行ったら危ないからね」
そう言うと、セラリスはダリヤを呼び、二人で森へ向かった。
ダリヤは草の倒れ方や蹄の跡を調べ、子馬が小川の方へ向かったらしいことを突き止めた。二人が小川を渡ってさらに先へ進むと、低木の茂みの中から、心細そうな嘶きが聞こえてきた。
子馬は蔓に後脚を絡ませ、身動きが取れなくなっていたのである。
「いた!」
ダリヤが嬉しそうに声を上げた。
「よかった。でも、ちょっと待って。暴れると危ないから、ゆっくり近づこう」
セラリスは子馬を落ち着かせながら絡みついた蔓を取り除き、脚に傷がないことを確かめた。幸い大きな怪我はなく、子馬は自由になると何度か脚を踏み鳴らし、ようやく安心したように鼻を鳴らした。
その子馬を連れて戻ると、待ちくたびれていた子供は泣きながら駆け寄ってきた。
セラリスは、今度こそちゃんと大人に相談してから行動するよう念を押し、子馬を引き渡した。
その頃には、すっかり日が暮れかけていた。
こうして、一日が終わった。
もちろん、セラリスにしてみれば、何か特別な仕事をしたという意識はなかった。近くに住む者たちが困ったことを相談しに来て、自分にできる範囲で手を貸しただけである。
だが、そうしたことが、毎日のように繰り返されるようになっていた。
◇
「先生」
「なに?」
翌日、朝の訓練のあとでダリヤに呼び止められたとき、セラリスは訓練用の木剣を片づけながら、何気なく顔を上げた。
ダリヤは、何とも言いがたい表情をしていた。
何かを言おうとしているのだが、それを口にしてよいものかどうか迷っているらしい。普段は思ったことを比較的すぐに言葉にする娘だけに、その様子は少々珍しかった。
「先生、最近ずっと誰かに呼ばれてません?」
「そうだね。人が増えたから、相談も増えたみたい」
「そういうことじゃなくてですね。昨日なんて、朝から晩まで何か頼まれてたじゃないですか」
「まあ、ちょっと忙しかったね」
「ちょっと、ですか?」
ダリヤは呆れたように眉を上げた。
「朝は新しい家を建てたいっていう相談で、その次は商人の話でしょう? 昼には熊が出たっていう猟師さんが来て、夕方には子馬を探しに行ったじゃないですか」
「うん。でも、子馬は見つかったからよかったよね」
「そうですけど、そういう話じゃないんです」
セラリスは、少し不思議そうに首を傾げた。
ダリヤはそこで、いったん息を整えた。言いたいことは自分でもわかっているのだが、目の前の先生にそれを理解してもらうには、どう説明すればよいのか、少々考える必要があったのである。
「最近、土地の相談まで先生のところへ来るでしょう?」
「うん。でも、最後はシャーレーンに確認するよ」
「森に怪物が出ても、先生ですよね」
「それは私が調べられるからね」
「商人と揉めても、先生です」
「守護官だし。何かあれば話を聞くよ」
「じゃあ、カラーリーの人同士で揉めたら、誰のところへ来るんです?」
セラリスは、そこで少し考えた。
「……そういえば、最近はそれも来るね」
「でしょう?」
ダリヤは、ようやく言いたいことへたどり着いたという顔になった。
「それって、領主じゃないですか?」
「違うよ」
返事は即座だった。
あまりにも迷いのない否定だったため、ダリヤは思わず口を閉じたが、すぐに気を取り直した。
「どこが違うんです?」
「だって、私、税金なんて取ってないでしょう?」
「領主って、税金を取るだけの人じゃないと思うんですけど」
「裁判権もないよ。正式なことはシャーレーンが決めるんだから」
「でも、相談はみんな先生のところへ来るじゃないですか」
「それは近くにいるからでしょう?」
「土地のことまで?」
「だから、それはシャーレーンに確認するって」
「怪物のことは?」
「私が調べるよ」
「ドラゴンのことは?」
「それも私だね。ヴァルと話せるし」
「じゃあ、エルフ同士の揉め事は?」
「……話を聞くくらいなら、私にもできるけど」
ダリヤはとうとう両手を広げた。
「だから、それが領主みたいだって言ってるんですよ!」
セラリスは何か反論しようとして、口を開いた。
しかし、すぐには言葉が出てこなかった。
もちろん、ダリヤの言っていることはわかる。人が集まれば相談事が増え、その相談を持ち込まれる相手が共同体の中心になっていくというのも、理屈としては理解できる。
しかし、それと自分が領主になることとは、まったく別の話ではないか。
彼女は、ミスタメアの土地を所有しているわけでもなければ、住民たちへ勝手に税を課す権利を持っているわけでもない。そもそも、この城に暮らしているのは、冒険者としての拠点が必要だったからであり、大勢の住民を抱えて領地を経営したかったからではないのである。
「……いや、やっぱり違うと思うけど」
「先生がそう思ってても、周りの人はそう思ってないかもしれませんよ?」
「ええ?」
セラリスは、思わずダリヤを見た。
その言葉は、彼女が考えていたよりも、ずっと鋭いところへ触れていた。
そのときだった。
中庭の入口から、何人かのエルフが近づいてくるのが見えた。
先頭に立っているのは、最初にミスタメアを訪れた年長の男だった。その後ろには、弓を携えた女と、最近移住してきた家族の代表らしい二人が続いている。四人とも普段より改まった様子で、何か大切なことを相談しに来たらしいことが、その表情からもわかった。
「セラリス殿。少し時間をいただけるだろうか」
「うん。今度は何?」
セラリスは中庭の端に置かれていた木箱へ腰を下ろした。
ダリヤもその横に立ったまま、何となく話の成り行きを見守ることにした。先ほどからの疑問が解消されないままであるうえ、カラーリーたちが何を相談しに来たのかについても、少々興味があったのである。
「今後、新しくこの森へ移り住む者たちについて、一度相談しておきたいと思っている」
「人数が増えてきたから?」
「それもある。ありがたいことに、故郷の集落では、こちらの暮らしについて話を聞きたいという者が増えているのだ。家族を連れて移住することを、真剣に考え始めた者も少なくない」
「へえ。それはいいことだね」
セラリスは素直に喜んだ。
同族が増えること自体は悪い話ではない。彼らが森を大切にし、近隣の住民たちとも折り合いをつけて暮らしてくれるのであれば、新しい集落ができることには十分な意味があるだろう。今はまだ小さな家々が散らばっているだけだが、住民が増えれば、互いに仕事を分担したり、必要な品物を融通したりすることも容易になるはずだった。
しかし、年長の男が考えていたのは、それだけではなかった。
「ただ、人が増えれば、それだけ決めなければならないことも増える。森のどこに家を建てるか、どの範囲を狩場とするか、小川の水をどのように使うか。今は互いに遠慮し合って済んでいることでも、住民が増えれば、いつまでも曖昧にはしておけないだろう」
「うん。それは決めた方がいいね。あとから揉めるのも困るし」
「我々も、そう考えている」
男は頷き、それから少し言葉を選んだ。
「もちろん、日々の細かな取り決めまで、すべてあなたに決めていただこうとは思っていない。我々自身で話し合い、守るべき決まりを作ることはできる。ただ、この森で新しい暮らしを始めるにあたって、まず誰に相談するべきなのかということは、はっきりさせておきたいのだ」
「それならシャーレーンでしょう? ここの領主なんだから」
「男爵の許可が必要なことは、承知している」
年長のエルフは穏やかに答えた。
「だが、我々が日々暮らしていくのは、この森なのだ。何か危険が起きたとき、最初に助けを求める相手も、森の使い方について相談する相手も、必ずしもスレスホールドにいる男爵ではない」
「……まあ、そうだろうけど」
「そこで、ミスタメアのレディたるあなたに、まず相談しておくべきだと思った」
セラリスは、ぴたりと動きを止めた。
年長の男は、まだ何か続けようとしていたが、彼女がまったく反応しなくなったことに気づき、不思議そうに口を閉じた。
少し離れたところで聞いていたダリヤだけが、何やら納得したように頷いている。
「……今、なんて?」
やがて、セラリスが尋ねた。
声はいつもと変わらなかったが、その表情には、明らかな戸惑いが浮かんでいた。
「ミスタメアのレディ、と申し上げたのだが」
「私が?」
「ほかに誰がいるというのだ?」
男は心底不思議そうだった。
「いや、ちょっと待って。私は守護官だよ?」
「それは承知している。大公より授けられた官職だろう」
「そうだよ。だから、レディとか、そういうのじゃないんだけど」
「我々は、官職の名であなたを呼んでいるわけではない」
年長のエルフは、静かに首を振った。
彼の声には、相手を言い負かそうとするような響きはなかった。ただ、自分たちの考えていることを、できるだけ誤解されないように伝えようとしているらしかった。
「あなたは、この城を拠点として暮らし、若い冒険者たちを育て、コボルドと人間をともに働かせ、我々がこの森に住むことを助けてくれた。森に危険があれば調べ、傷ついた者がいれば癒やし、人間の領主や商人との間に立ち、さらには竜王ヴァルザリオンとさえ友誼を結んでいる」
「いや、それは……」
「我々は、あなたがこの土地の所有者ではないことも、正式な領主ではないことも知っている。だが、だからといって、あなたが我々にとって何の意味も持たない人物になるわけではないのだ」
男はそこで言葉を切り、セラリスの顔を見つめた。
「我々は、この森に新しい暮らしを求めてやって来た。あなたがここにいたからこそ、安心して移り住むことができた者もいる。そのような場所の中心にいる同族を、我々がレディと呼ぶことに、何か不都合があるだろうか」
セラリスは、返事ができなかった。
何かが、胸の奥でゆっくりとつながり始めていた。
城がある。
そこを拠点として暮らす、高位に達したエルフがいる。
周囲には森が広がり、怪物たちの脅威が抑えられた、安全な領域がある。そこへ同族が集まり始め、住居が建ち、畑ができ、やがて暮らしの決まりごとについて相談が持ち込まれるようになる。
その中心には、望むと望まざるとにかかわらず、城を拠点とするエルフがいる。
セラリスは、何とも嫌な予感を覚えた。
転生以前の記憶にある、古いゲームの規則が、不意に頭の中で形を取り始めたのである。
ある程度以上の力を得たエルフがストロングホールドを構えれば、その周囲には同族が集まり、新しい共同体が生まれることがある。それは単に高いレベルへ到達した冒険者が立派な城を所有するという話ではなく、その存在を頼って移住してくる者が現れ、やがて彼らを中心に、エルフの領域とでも呼ぶべきものが形を取っていくという、一つの発展の仕方だった。
知識としては、よく覚えていた。
しかし、自分がその当事者になるなどとは、少しも考えていなかったのである。
そもそもセラリスには、領地を欲しいという願望がなかった。大勢の従者を抱え、家臣を集め、城を中心として一つの勢力を築き上げるような暮らしは、彼女の望むものとは正反対だった。冒険へ出かけたくなれば出かけ、研究したいことがあれば研究し、必要なときには人を助ける。そのためには、できるだけ身軽でいたかったのである。
ところが現実には、ミスタメア城を拠点として選び、人間の弟子を育て、コボルドたちと協力し、竜王と友誼を結び、森へ移住してくる同族を歓迎していた。
そして今、その同族たちが、彼女をレディと呼び始めている。
領主になろうとしたわけでも、誰かを従えようとしたわけでもなかった。
それなのに、結果だけを見れば、まるで古い規則に従っているかのように、一つ一つの出来事が積み重なっていたのである。
セラリスは、思わず額に手を当てた。
何ということだろう。
城を持ち、周囲へ同族が集まり、その中心にいる者が自然と敬意を集める。
高位エルフが拠点を構えたときに起こる、あの出来事そのものではないか。
「……なってるじゃん」
思わず、声が漏れた。
横にいたダリヤが首を傾げた。
「何がです?」
「いや、なんでもない」
「絶対、なんでもなくないですよね」
「うん。まあ、ちょっとね」
セラリスは曖昧に笑ったが、年長のカラーリーたちは、そんな彼女の様子を不思議そうに眺めていた。
彼らにしてみれば、何もおかしなことを言ったつもりはなかったのである。
自分たちが暮らす森の中心に、頼りになる同族がいる。その者が人間の領主から正式な役職を与えられていることも、竜王と親しくしていることも知っている。ならば、敬意を込めてレディと呼ぶのは、ごく自然なことではないか。
相手がなぜこれほど困惑しているのか、むしろそちらの方が理解できないらしかった。
「……セラリス殿」
年長の男が、少し気遣わしげに声をかけた。
「我々の呼び方が気に障ったのであれば、改めよう。あなたに何かを強いるつもりはないのだ」
「いや、そういうことじゃないんだけどね」
セラリスは困ったように笑った。
「ただ、私は領主になるつもりなんてないし、みんなを家臣にするつもりもないんだよ。そこはちゃんとわかってほしいな」
「もちろんだ。我々も、あなたへ臣従の誓いを立てに来たわけではない」
「……そうなの?」
「我々が望んでいるのは、この森で安心して暮らすことだ。そして、そのために必要な決まりごとを、住民自身で作っていきたいと考えている。ただ、これまで我々を助けてくれたあなたを差し置いて、何も相談せずに進めることはできないと思ったのだ」
その言葉を聞いて、セラリスは少しだけ安心した。
少なくとも、今すぐ自分に領主としての権限を与え、すべての責任を負わせようとしているわけではないらしい。
だが、安心したのはほんの一瞬だった。
なぜなら、正式な権限も臣従の誓いもないまま、誰もが当然のように自分を頼りにしているということは、考えようによっては、もっと厄介な事態なのではないかと思い至ったからである。
権限がなければ、責任もない。
そんな理屈が、人の暮らしの中で、いつでも通用するわけではない。
森の中で誰かが危険に遭い、セラリスなら助けられると信じている者がいたら、彼女はその願いを簡単に無視できるだろうか。土地の使い方を巡って争いが起き、双方が彼女の判断を求めてきたとき、正式な裁判権がないからといって、何も聞かずに追い返せるだろうか。
もちろん、できないことはできないと言うしかない。
しかし、それは最初から誰も頼ってこないということとは、まったく違うのである。
ダリヤが、隣で小さく咳払いをした。
「先生」
「……なに?」
「だから、領主みたいだって言ったじゃないですか」
「……今、それ言う?」
「だって、私の言ったとおりでしょう?」
ダリヤは、いかにも得意そうだった。
セラリスは、何か言い返したかったが、残念ながら適当な反論が思いつかなかった。自分の弟子にこうまで嬉しそうな顔をされるのは、少々癪だったが、少なくとも今回ばかりは、彼女の方が先に事態を見抜いていたのかもしれない。
そして、まるでその話に決着をつけるためであるかのように、突然、中庭の上へ大きな影が差した。
◇
城壁の向こうから、重い翼音が聞こえてきた。
そこにいた者たちが一斉に空を見上げると、深い緑の鱗を陽光に輝かせながら、ヴァルザリオンがゆっくりと降下してくるところだった。
巨大な翼が風を巻き起こし、中庭の砂埃が舞い上がる。着地した竜は、長い尾を器用に動かして身体を落ち着けると、そこに集まっていたカラーリーたちへ一瞥をくれ、それからセラリスへ顔を向けた。
「セラリス」
「なに?」
「北の森に、またエルフが増えたな」
「うん。新しく来た家族がいるからね」
「お前の民か?」
「違う!」
あまりにも勢いよく返事をしたものだから、カラーリーたちが少し驚いた。
ヴァルザリオンも、大きな首を傾げた。
「では、何だ?」
「勝手に住んでるだけだよ」
その言葉を聞いた年長のカラーリーは、すぐに口を挟んだ。
「勝手ではない。セラリス殿の庇護と、ハララン男爵の許しを得て暮らしているのだ」
「ほら」
ヴァルザリオンが、いかにも得意そうに言った。
「何が、ほら、なの」
「お前の民ではないか」
「違うってば。私の家臣になったわけじゃないし、私が税金を取ってるわけでもないでしょう?」
ヴァルザリオンは、しばらくセラリスの顔を眺めていた。
竜にとって、土地とそこに暮らす者たちの関係は、エルフや人間の考えるものとは少し違う。強い者が縄張りを持ち、その力を認めた弱い者がそこに暮らす。それは彼にとって、ごく自然な秩序だった。もちろん、セラリスがヴァルザリオンの配下ではなく、互いに友人として付き合っていることは理解している。しかし、だからこそ彼女のもとへ同族が集まり、その庇護を求めて暮らし始めたのなら、それは彼女が自分の勢力を持ち始めたということではないのか。
ヴァルザリオンは、どうやらそのように考えたらしかった。
そして、次の瞬間、その巨大な口元に、何やら面白そうな表情が浮かんだ。
「……なるほど。お前も王になったのか」
「なってない!」
「俺も、最初から竜王だったわけではないぞ」
「だから、その比較やめて!」
「だが、人間どもが俺を竜王と呼ぶようになった。歌まで作られたからな」
「その歌を作ったのは私でしょう!」
「そうだったな。良い歌だ」
「いや、今は歌の話じゃないから!」
ヴァルザリオンは満足そうに頷いた。
自分を称える歌について思い出したことが、よほど嬉しかったのだろう。彼はしばらく考えるように首を傾け、それから、何かよいことを思いついたという調子で口を開いた。
「ならば、お前も歌えばよい」
「何を?」
「《ミスタメアのエルフ女王セラリス》だ」
「絶対歌わない!」
ダリヤが、とうとう堪えきれなくなった。
「……ふふっ!」
彼女は慌てて口元を押さえたが、いったん漏れてしまった笑いは、そう簡単には収まらなかった。肩を震わせながら横を向き、何とか平静を装おうとしているものの、目の端には笑い涙まで浮かんでいる。
カラーリーたちも、さすがに口元を緩めていた。
少し前まで、彼らはセラリスをレディと呼ぶことについて、ずいぶん真面目に話し合っていたのである。それが、ドラゴンが現れた途端、エルフ女王の歌を作るという話になってしまったのだから、笑わずにいろという方が難しかった。
「何だ。気に入らんのか?」
「気に入るわけないでしょう!」
「俺の歌は評判がよいぞ」
「だから、ヴァルの歌と私の話は関係ないんだってば!」
「だが、お前も強いだろう」
「強かったら女王になるわけじゃないよ!」
「ならば、何が足りんのだ?」
「何も足さなくていいの!」
セラリスは、とうとう両手で顔を覆った。
最悪だった。
まったくもって、最悪の展開である。
ダリヤに領主みたいだと言われただけでも困っていたというのに、カラーリーたちは自分をレディと呼び、そこへヴァルザリオンまで現れて、今度は女王になったのかなどと言い出したのである。
しかも、彼が冗談を言っているのか、それとも本気でそう考えているのか、今ひとつ判然としないところが始末に悪かった。ヴァルザリオンは、自分が竜王と呼ばれるようになったことを心の底から喜んでいるのだから、セラリスも同じように喜ぶはずだと思っているのかもしれない。
いや、違う。
よく見れば、どう考えても楽しんでいる。
竜の表情を人間と同じように読み取ることは難しいが、それでも、目の前のグリーンドラゴンがこちらの困惑を面白がっていることくらいは、セラリスにも十分にわかった。
「……ヴァル」
「何だ?」
「その話、もう終わり」
「そうか。残念だな」
そう答えたヴァルザリオンの声には、少しも残念そうな響きがなかった。
ダリヤは再び吹き出しそうになり、セラリスに睨まれると、慌てて顔を逸らした。
その様子を見ていた年長のカラーリーは、やがて穏やかに口を開いた。
「セラリス殿。我々はあなたを女王にしたいと言っているわけではないのだ」
「……うん。それはわかってるけど」
「ただ、この森で暮らす者たちが、あなたを頼りに思っているということだけは、知っておいてほしい」
男は、そこでわずかに頭を下げた。
「それだけのことだ」
その言葉には、ヴァルザリオンの冗談とは違う、静かな重みがあった。
セラリスはしばらく男の顔を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……そっか。わかったよ」
何をどう答えればよいのか、まだ十分には整理できていなかった。
ただ、少なくとも今は、彼らが自分に何を求めているのかを、少しだけ理解できたような気がした。
◇
夕暮れになると、ミスタメア城の北側の城壁からは、森の中に点在するカラーリーたちの家々が見えるようになった。
もちろん、森の木々が邪魔をして、すべての家を見渡せるわけではない。屋根の一部が枝葉の間から覗いていたり、薪を燃やす煙が細く立ち上っていたりする程度である。それでも、かつてそこがただの森であったことを知っているセラリスにとっては、そのわずかな変化だけでも、人の暮らしが確かに増えたことを感じさせるには十分だった。
セラリスは城壁の上に腰を下ろし、夕日に染まる北の森を眺めていた。
昼間、カラーリーの年長者から言われた言葉が、まだ頭の中に残っている。
ミスタメアのレディ。
何とも落ち着かない呼び名だった。
人間の貴族が使う称号とも似ているし、エルフたちが敬意を込めて用いる呼び名でもある。少なくとも、彼らは正式な爵位を与えられた人物としてセラリスを呼んでいるわけではないのだろう。むしろ、自分たちが暮らす森の中心にいる者を、同族として敬っているにすぎないのかもしれなかった。
しかし、そう考えても、心の中の居心地の悪さは消えなかった。
自分は、領地など欲しくなかったのである。
それは、今でも変わらない。
土地を所有し、住民を抱え、その者たちから税を徴収し、争いが起きれば裁判を行い、外敵が攻めてくれば兵を集めて戦う。そのような立場は、セラリスが望む冒険者としての暮らしとは、あまりにもかけ離れていた。
彼女が欲しかったのは、いつでも旅へ出られる自由であり、必要なときには仲間と冒険し、興味を持った魔法を研究し、若者たちが成長する姿を見守ることのできる時間だった。
立派な城も、家臣の集団も、領地から上がる税収も、彼女にとっては、それほど魅力的なものではなかった。
だからこそ、ミスタメアでは、あくまで守護官という立場にとどまっているつもりだった。土地はシャーレーン・ハララン男爵のものであり、自分は大公から与えられた役目を果たしているだけである。住民たちの暮らしについても、必要な手助けはするが、彼ら自身が決められることまで奪うつもりはなかった。
しかし、そうした本人の考えとは別に、人々は彼女のもとへ集まり始めていた。
城があり、そこに強いエルフがいる。
危険な怪物が現れれば、退治することも、追い払うこともできる。
怪我をした者がいれば治療し、商人との間で問題が起きれば話を聞き、人間の領主と相談する必要があれば、その間に立つこともできる。
さらに、そのエルフは、近隣でもっとも恐れられるグリーンドラゴンと、まるで古い友人のように話をしている。
住民たちにとって、それがどれほど心強いことなのか。
セラリスは、昼間の会話を思い返しながら、ようやくその意味を考え始めていた。
人というものは、必ずしも命令されたから誰かのもとへ集まるわけではないのだろう。
そこにいれば安全だからという理由で、住む場所を選ぶ者もいる。
困ったときには話を聞いてもらえるからと、近くへ家を建てる者もいる。
子供を育てるのに都合がよく、仕事があり、隣人たちと助け合って暮らせるという理由で、故郷を離れてやって来る者もいる。
そして、そうして集まった者たちは、いつの間にか、自分たちを守ってくれる存在を共同体の中心として見るようになる。
それは、必ずしも土地を支配する権利を持つ者とは限らない。
正式な爵位を持たず、家臣を抱えず、税を徴収することもない者であっても、人々がその者を頼り、敬い、その存在を中心として暮らし始めることはあるのだろう。
そのことに気づいたとき、セラリスは、何とも複雑な気持ちになった。
彼らが安心して暮らせることは、嬉しい。
自分が少しでもその役に立てているのなら、なおさら嬉しい。
だが、だからといって、自分が彼らの領主になることまで望んでいるわけではない。その二つの感情は、彼女の中で少しも矛盾することなく存在していた。
「……レディ、かあ」
思わず、声に出していた。
悪い響きではなかった。
少なくとも、同族が敬意を込めてそう呼んでくれるというのであれば、腹を立てるようなことではない。自分が何かを命じたわけでもないのに、そのように思ってもらえることは、むしろありがたいことなのかもしれなかった。
だが、そこまで考えたところで、セラリスは慌てて首を振った。
「いやいや、ちょっと待って」
危ないところだった。
名前を呼ばれて悪い気がしないからといって、それをそのまま受け入れてしまえば、次には何を期待されるかわかったものではない。そもそも、正式な領主ではないのだから、勝手にそのような立場になったつもりで振る舞うわけにもいかなかった。
そんなふうに考え込んでいたとき、城壁の下から元気な声が聞こえてきた。
「セラリスさまー!」
反射的に顔を出すと、北の森からやって来たカラーリーの子供が二人、こちらへ向かって手を振っていた。
「なにー?」
「明日、森の奥まで木の実を取りに行ってもいいー?」
「大人の人と一緒ならねー! 勝手に奥まで行っちゃ駄目だよー!」
「はーい!」
子供たちは、元気よく返事をすると、すぐに森へ向かって走っていった。
セラリスは、しばらくその後ろ姿を見送っていた。
何の変哲もないやり取りだった。
森で暮らす子供たちが、木の実を取りに出かけたいと言い、それに対して、危ないから大人と一緒に行きなさいと答えただけのことである。
しかし、子供たちが何の疑問もなく自分へ許可を求めに来たという事実に気づいたとき、セラリスは、またしても妙な気分になってしまった。
なぜ、自分に聞きに来るのだろう。
彼らには親がいるし、森の中には同族の年長者もいる。木の実を取りに出かけてよいかどうかなど、本来ならば家族に相談すれば済むことではないか。
それなのに、彼らは城までやって来て、セラリスへ尋ねたのである。
もちろん、彼女が以前から危険な森へ勝手に入らないよう注意していたことも、理由の一つなのだろう。子供たちにとっては、何かをしてよいかどうかわからないとき、とりあえずセラリスに聞けばよいという習慣が、いつの間にかできていたのかもしれなかった。
それは、信頼されているということでもあった。
そして、やはり、少々困ったことでもあった。
「……私、何をやってるんだろう」
セラリスは、思わず苦笑した。
守護官としての仕事と、冒険者の指導と、近隣住民からの相談とが、いつの間にか一つになり始めている。どれも自分が引き受けた仕事であり、手伝ってよかったと思うことばかりなのだが、それらをすべて一人で続けていれば、いずれ自分の時間がなくなってしまうのではないか。
それは、さすがに困る。
そう思ったとき、城壁の下から、巨大な首がゆっくりと持ち上がってきた。
「レディ」
「……やめて」
セラリスは振り返りもせずに答えた。
ヴァルザリオンだった。
彼は城壁の外側に身体を落ち着け、長い首だけをセラリスの横へ伸ばしてきたらしい。大きな瞳には、明らかに面白がっているような光が浮かんでいた。
「エルフ・レディ」
「やめてってば」
「ミスタメアのレディ」
「ヴァル」
「何だ?」
セラリスは、ゆっくりと振り返った。
ヴァルザリオンは、いかにも何も悪いことなどしていないという顔をしていた。しかし、セラリスには、彼が自分をからかって楽しんでいることが、もう十分にわかっていた。
「それ、面白がってるでしょう?」
「お前は妙なことを言う。俺は、あいつらがお前をそう呼んでいるから、同じように呼んでいるだけだ」
「君、普段は私のことをセラリスって呼んでるじゃん」
「そうだったな。では、エルフ女王セラリスと呼ぼう」
「もっと悪くなってる!」
ヴァルザリオンは、満足そうに喉の奥を鳴らした。
その声は、どう聞いても笑っているようにしか思えなかった。
「何がそんなにおかしいの?」
「お前が、そんなに嫌がるとは思わなかった」
「当たり前でしょう? 私は女王になりたいなんて、一度も言ってないんだから」
「だが、俺も竜王になりたいと言ったわけではないぞ」
その言葉に、セラリスは一瞬黙った。
確かに、ヴァルザリオンは自分から竜王を名乗り始めたわけではない。近隣の竜たちを従え、アルゴスを屈服させた結果として、人間たちが彼を竜王と呼ぶようになったのである。
もっとも、それを本人が大いに気に入り、自分を称える歌まで喜んでいることは、また別の話だった。
「……でも、ヴァルは気に入ってるでしょう?」
「当然だ。俺は強いからな」
「私はそういうの、別に欲しくないんだよ」
「ならば、断ればよい」
「断ってるじゃん!」
「だが、あいつらはお前をレディと呼んでいるぞ」
まったく、何とも腹立たしい。
竜というものは、人間やエルフとは違う価値観で物事を考えるため、ときには驚くほど話が通じないことがある。しかし、今のヴァルザリオンは、どう考えても話を理解したうえで、わざとこちらが困るようなことを言っているのである。
セラリスは、とうとう諦めたようにため息をついた。
「……もういいよ。好きに呼べば?」
「そうか。では、レディ・セラリス」
「だから!」
ヴァルザリオンは、再び楽しそうに喉を鳴らした。
セラリスは彼を睨んだものの、その大きな瞳が実に愉快そうにこちらを見ているのを認めると、とうとう自分でもおかしくなってしまった。
まったく、困った友人を持ったものである。
だが、その友人のおかげで、北の森では今夜も安心して眠ることのできる者たちがいる。
そのことを考えると、いつまでも腹を立てているわけにもいかなかった。
セラリスは再び森へ顔を向けた。
夕日は既に丘の向こうへ沈みかけており、木々の間には、家々の明かりが一つずつ灯り始めていた。最初の三家族が移り住んできた頃には、ほんのわずかしかなかったその灯りも、今では森のあちらこちらに見えるようになっている。
その一つ一つに、誰かの暮らしがあった。
仕事を終えて帰ってきた者がいて、夕食を待つ子供がいて、明日の仕事について家族と話し合っている者がいるのだろう。新しい土地にようやく慣れ始めた者もいれば、故郷を思い出して寂しくなる夜を過ごしている者もいるかもしれない。
彼らは、それぞれ違う理由で、この森へやって来た。
安全を求めた者もいれば、人間との交易に可能性を見いだした者もいる。故郷の集落では得られなかった仕事を探しに来た者もいれば、子供たちにもっと広い世界を見せたいと考えた者もいるだろう。
その願いのすべてを、セラリスが叶えてやれるわけではない。
彼ら自身が考え、働き、ときには失敗しながら、新しい暮らしを作っていくしかないのである。
だが、少なくとも、ここで暮らしていこうと思った者たちが、安心して家へ帰れるようにするために、自分にもできることがある。
そして、彼らがそのことを知っているからこそ、セラリスを頼りにしてくれるのだろう。
「……ねえ、ヴァル」
「何だ?」
「私、別に領主になるつもりはないんだよ」
「知っている」
思いがけず、あっさりとした返事が返ってきた。
セラリスは少し驚いて彼を見た。
「知ってるの?」
「お前は、面倒なことを嫌うからな」
「……まあ、そうだけど」
「だが、困っている者が来れば、結局は助けるのだろう?」
セラリスは、すぐには答えられなかった。
ヴァルザリオンは、その沈黙を特に気にする様子もなく、北の森へ目を向けた。
「だから、あいつらもお前のところへ来るのだ」
それは、ドラゴンにしては妙に人の心を見透かしたような言葉だった。
もちろん、彼は難しいことを考えて言ったわけではないのかもしれない。困っている者がいれば助ける。頼りになる者がいれば、そこへ集まる。ただそれだけのことを、彼なりの言葉で述べたにすぎないのだろう。
けれども、セラリスには、その言葉が不思議なほど胸に残った。
領主になるつもりはない。
誰かの女王になるつもりもない。
それでも、困っている者がやって来れば、話くらいは聞くだろう。自分にできることなら手を貸すだろうし、できないことなら、できる者を紹介することもあるだろう。
そして、そうしたことを続けているうちに、人々が彼女を頼るようになったのだとしたら、それは今さら、呼び名を変えた程度で消えてしまうものではないのかもしれなかった。
「……そっか」
セラリスは小さく頷いた。
だが、次の瞬間には、いつものように少しだけ口元を引き締めた。
「でも、だからって何でも私に任せられたら困るんだよ。みんなにも、自分たちでできることは自分たちでやってもらわないとね」
「それなら、そう言えばよい」
「うん。明日にでも年長者の人たちと相談してみるよ。土地のことや人間との正式な取り決めはシャーレーンに確認するけど、森の中の細かいことまで全部私が決める必要はないんだから」
「好きにするがよい」
ヴァルザリオンは、いかにもどうでもよさそうに答えた。
しかし、しばらくしてから、また思い出したように口を開いた。
「レディ・セラリス」
「……ヴァル」
「何だ?」
「やっぱり、その呼び方はやめて」
「なぜだ? 似合っているぞ」
「似合うとか、そういう問題じゃないの!」
セラリスは再び抗議したが、ヴァルザリオンは、今度こそ隠そうともせずに笑った。
その低い笑い声が夕暮れの城壁に響き、近くを通りかかったコボルドたちが何事かと顔を上げた。彼らは巨大なドラゴンと、何やら不満そうな顔をしているエルフの娘を見比べると、いつものことだとでも思ったのか、すぐに自分たちの仕事へ戻っていった。
セラリスは、そんな彼らの姿を眺めながら、もう一度ため息をついた。
どうやら、ミスタメアでは、本人の望みとは関係のないところで、いろいろなことが決まり始めているらしい。
ただ、それが本当に悪いことなのかと問われれば、必ずしもそうとは言い切れなかった。
北の森には、新しい家々が建っている。そこに暮らす者たちは、今日も仕事を終えて家へ帰り、明日もまた、ここで暮らしていこうと考えている。
彼らがセラリスを何と呼ぼうとも、その暮らしを支えているのは、彼ら自身の働きであり、互いに助け合おうとする気持ちだった。自分がその手助けをできるのであれば、少なくとも今のところ、それを拒む理由はないように思われた。
けれども、これだけは、はっきりさせておかなければならない。
自分は、領主になるつもりなどないのである。
セラリスは、そのことを改めて胸の中で確認した。
そして、いずれは弟子たちを独り立ちさせ、ミスタメアを離れて冒険へ出かけることもあるのだから、今のうちから住民たち自身が相談事を処理できるようにしておかなければならないと、少々現実的なことを考え始めていた。
その思いは決して、彼らを見捨てようというものではなかった。
むしろ、自分がいなくても、彼らが安心して暮らしていける場所になってほしいという願いだったのである。
やがて森の家々に灯る明かりが増え、夕暮れはゆっくりと夜へ変わっていった。
セラリスは、昨日よりも少しだけ賑やかになった北の森を見つめながら、どうすれば彼らが自分たちの力で暮らしを整えていけるのかと考えていた。
その隣では、若き緑竜王ヴァルザリオンが、どこか満足そうに同じ森を眺めていた。
彼にしてみれば、セラリスがいくら否定しようとも、既に答えは出ているのだろう。
強い者のもとへ、安心して暮らしたい者たちが集まってくる。
それは、彼が竜たちを従えるようになったことと、どこか似ているようにも思えた。
もっとも、セラリスがそんな比較を聞かされれば、またしても全力で否定するに違いなかったから、ヴァルザリオンは今のところ、その考えを口にすることはしなかった。
ただ、その代わりに、彼はセラリスへもう一度だけ顔を向けた。
「レディ」
「……まだ言うの?」
セラリスが呆れたように睨み返すと、ヴァルザリオンは実に愉快そうに喉を鳴らした。
どうやら、この新しい呼び名をめぐる争いは、当分の間、終わりそうになかった。
そして、北の森にまた一つ新しい家の明かりが灯ったことに、二人が気づいたのは、それから少し経ってからのことだった。