セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
そのエルフがミスタメア城へたどり着いたのは、秋もようやく深まろうとしている、薄曇りの午後のことだった。
丘陵を覆う森は、まだ夏の名残をとどめていたが、梢の高いところでは既に葉が黄や赤へ色づき始めており、ときおり吹き抜ける風には、間もなく訪れる冬の気配がかすかに混じっていた。足元に積もった落葉は、数日前に降った雨を吸って重く湿り、その上を踏んで歩くたびに、柔らかな土の匂いが立ち上ってくる。森に暮らすエルフにとっては決して珍しい風景ではなかったが、この日の彼には、季節の移り変わりを楽しむ余裕などほとんど残されていなかった。
彼は若かったが、旅慣れぬ者ではなかった。
森の道を選び、危険な獣の縄張りを避け、夜になれば身を隠せる場所を探して休むことくらいは、誰に教えられるまでもなく心得ていた。しかし、その外套には乾いた泥が白くこびりつき、片方の靴には切れた留め革の代わりに紐が巻きつけられている。腰の水袋も軽くなっており、肩に食い込んだ荷紐の跡は、彼が必要な休息さえ惜しんで歩き続けてきたことを物語っていた。
コタ・フタンを発ったときには、これほどまでに急ぐつもりではなかったのである。
だが、森の中を歩き、スレスホールドへ通じる道へ近づくにつれて、故郷に残してきた者たちの顔が、何度となく脳裏に浮かんできた。とりわけ、最後に手紙を託してくれたラハシアの表情を思い出すたび、もう少し早く歩けるのではないか、休んでいる時間を減らせるのではないかという思いが、彼の足を先へと急がせたのだった。
そして、その無理がたたったのか、森の中では獣に襲われ、脇腹に傷まで負ってしまった。
幸い、どうにか追い払うことはできたものの、急いで処置した傷はまだ完全に塞がっておらず、歩くたびに鈍い痛みが走った。それでも引き返すという選択肢だけは、彼の頭に浮かばなかった。
自分には、届けなければならない手紙がある。
その手紙を読んでもらうまでは、たとえどれほど疲れていようとも、立ち止まるわけにはいかなかったのである。
やがて森が途切れ、丘の上にミスタメア城の姿が見えてきたとき、彼は思わず歩みを緩めた。
噂では、何度も聞いていた。
かつて冒険者たちの間で知られていた廃城に、一人の若いエルフの娘が住み着いているという。彼女は人間の若者たちを集め、冒険者として生き延びるための技術を教え、城に住んでいたコボルドたちを殺す代わりに雇い入れ、今では彼らに給金まで支払っているらしい。
しかも、その城の地下には一頭のグリーンドラゴンが住んでいるという。
ヴァルザリオンと呼ばれるその竜は、近隣のドラゴンたちを次々に打ち負かし、ついにはダイムラクのアルゴスまで屈服させたため、人間たちから《若き緑竜王》と呼ばれるようになった。そして、そんな恐ろしい竜王が、城に住むエルフの娘とは親しい友人同士であり、家畜を食いたければ農家に金貨を払って購入しているのだというのである。
故郷で最初にその話を聞いたとき、彼は思わず笑ってしまった。
いくら何でも、話ができすぎていると思ったのだ。
コボルドを雇うエルフというだけでも珍しいのに、グリーンドラゴンと友誼を結び、その竜が近隣一帯の怪物を遠ざけているなどという話は、酒場の語り部が客を喜ばせるために作り上げた冒険譚としか思えなかった。
しかし、今では笑って済ませることなどできなかった。
丘の麓には畑が広がっていた。
麦は既に収穫を終えた区画も多かったが、畑の間には排水溝が通され、冬に備えて土を整えている者たちの姿が見える。そして、その畑で働いているのは人間ばかりではなかった。
赤い腕章をつけたコボルドたちが、鍬を担いで歩いている。
そのうちの一匹は人間の農夫と何事か相談しており、別の一匹は、畑の端に積まれた石を荷車へ載せていた。彼らの様子には、捕らわれた者が監視の下で働かされているような緊張も、いつ人間に襲われるかわからないという怯えも見えなかった。
ただ、仕事をしていた。
それがかえって、若いエルフには信じがたい光景だった。
「……本当なのか」
思わず声が漏れた。
自分が知っているコボルドというものは、人間やエルフにとって敵であることが多かった。彼らが洞窟や廃墟に住み着けば、冒険者が討伐に向かう。街道で姿を見かければ、商人たちは警戒し、武器を持つ者たちは剣へ手を伸ばす。
ところが、ここではコボルドが人間と並んで畑を耕しているのである。
しかも、どうやら自分の方が、珍しいものを見るような目で見られているらしかった。
「誰?」
鍬を肩に担いだ一匹のコボルドが近づいてきた。
小柄な身体に粗末ながら丈夫そうな作業着をまとい、左腕には噂に聞いた赤い腕章をつけている。目つきは決して人間やエルフに愛想よく作られたものではなかったが、少なくとも敵意は感じられなかった。
若いエルフは少し戸惑い、それから答えた。
「コタ・フタンから来た」
「遠い?」
「……遠い」
「セラリスに用?」
その名があまりにも当然のように口にされたため、彼はかえって胸の奥が軽くなるのを感じた。
少なくとも、ここが探していた場所であることは間違いないらしい。
「そうだ。急ぎの用件がある。どうか、セラリス殿に会わせてほしい」
コボルドは彼の顔を見上げ、それから泥に汚れた外套へ視線を落とした。
「怪我してる」
「いや、大した傷ではない。それよりも、セラリス殿へ伝えなければならないことがあるのだ」
「血、出てる」
言われて目を向けると、外套の脇腹にあたる部分が、赤黒く染まっていた。
森で受けた傷が、また開いてしまったらしい。自分では歩き続けられる程度だと思っていたものの、実際にはそれなりの血が流れていたようだった。
「……少し、傷が開いただけだ」
「大したかどうか、ヴァレリアが見る」
「ヴァレリア?」
「治す人だ。先に治療する」
「だが、私は急いでいるのだ」
「わかった。先に治療。それからセラリス」
コボルドは、いかにも話は終わったという顔で城を指さした。
その態度には、相手がエルフだからといって卑屈になる様子もなければ、怪我人を気遣うことへの迷いもなかった。ただ、傷ついた者が来たのなら治療できる者へ連れていく。それがこの城で決められている手順であり、彼自身もそうするべきだと考えているらしかった。
若いエルフは、何とも複雑な気持ちになった。
恐ろしいグリーンドラゴンの住む廃城へ、命がけで助けを求めに来たはずだった。
ところが実際には、城へ入る前からコボルドに怪我を見つけられ、治療を受けろと叱られているのである。
噂というものは、たいてい現実よりも奇妙なものだと思っていた。
しかし、どうやら世の中には、その逆もあるらしかった。
◇
城内へ足を踏み入れると、彼はさらに驚くことになった。
ミスタメア城は、確かに古い建物だった。
石壁には長い年月の間に生じた亀裂が残り、ところどころには崩れた部分を新しい石材で補修した跡がある。廊下の床もすべてが完全に修理されているわけではなく、古い敷石の間に新しい石が混じり、修復作業の途中らしい場所には木材や工具が置かれていた。
しかし、だからといって荒れ果てた廃墟という印象は受けなかった。
そこには、人が働き、暮らし、少しずつ建物を使いやすくしている場所だけが持つ、独特の活気があったのである。
廊下では人間の若者たちが、十フィートほどの長さを持つ棒を手に、床や壁を調べていた。彼らは何やら真剣な顔で小声を交わし、一人が床石の継ぎ目を棒で押すと、別の者が壁際へ身を寄せて何かを確かめている。
そのすぐ隣では、赤い腕章をつけたコボルドが、開いた壁の一部に手を入れ、仕掛けを調整していた。
「そこ、触るな。まだ直してない」
「わかった。じゃあ、こっちから調べる」
「こっち、いい。向こう、危ない」
どうやら、罠を調べる訓練をしているらしい。
しかも、その罠を整備しているのがコボルドなのである。
若いエルフは、思わず足を止めた。
「……ここは、いったい何なのだ?」
案内役のコボルドが振り返った。
「訓練所」
「それは聞いているが、あの者たちは何をしている?」
「罠、探す練習」
「罠を?」
「冒険者、ここで死なない練習する。失敗しても死なない」
実に簡潔な説明だった。
しかし、それで十分だった。
実際の遺跡や地下迷宮では、罠を見落とすという失敗が、そのまま命を失う結果につながることがある。だから、命を失わずに失敗できる場所を作り、そこで繰り返し練習するというわけなのだろう。
考えてみれば、合理的な話だった。
だが、冒険者というものは実際の冒険によって経験を積み、危険を潜り抜けることで成長していくものだと考えていた彼にとって、その発想は少しばかり意外だったのである。
危険な場所へ出かける前に、危険へ対処する方法を練習しておく。
言葉にすれば当たり前のことなのに、実際にそのための設備を整え、しかも本来なら敵であるはずのコボルドに訓練用の罠を製作させているというのは、やはり普通の冒険者が考えることではなかった。
さらに廊下を進むと、今度は木剣が打ち合わされる音が聞こえてきた。
広間では、一人の人間の青年が木剣を握り、その正面に細身のエルフの娘が立っていた。
青年はかなり真剣な様子だった。
足を踏み込み、木剣を振り上げ、全身の力を込めて相手へ打ちかかっている。少なくとも、遊び半分で剣を振るっているようには見えなかったし、その構えも、完全な素人というわけではなさそうだった。
しかし、結果はあまりにも一方的だった。
青年が剣を振り下ろすより早く、エルフの娘は半歩だけ身体を動かし、その木剣の先を相手の喉元へ突きつけていたのである。
「はい、今ので死んだ」
「またですか!」
「また。しかも、今回はさっきより悪いよ。焦って肩から動いてるでしょう?」
「わかってるんですけど、どうしても先に動いちゃうんですよ!」
「うん。だから、そこを直そうって言ってるんだよ。剣を振ろうとする前に、相手がどこへ動けるのか考えてみて」
娘の口調は、驚くほど気軽だった。
相手を叱りつけるでもなく、失敗したことを嘲るでもなく、ただ、何を間違えたのかを教え、もう一度試してみるよう促している。
青年は悔しそうに唇を結んでいたが、それでも嫌になった様子はなく、すぐに構え直そうとしていた。
案内役のコボルドが、その娘を指さした。
「あれ、セラリス」
若いエルフは、思わず立ち止まった。
あれが、セラリス・オブ・カラーリー。
ミスタメアのレディと呼ばれ、人間の若者たちを育て、コボルドを雇い、若き緑竜王ヴァルザリオンと友誼を結んだという、噂の中心にいる人物だった。
彼は、もっと威厳に満ちた女性を想像していたのである。
あるいは、年齢を重ねた強大な魔法使いか、森の奥で神秘的な力を振るう巫女のような存在を思い描いていたのかもしれない。
しかし、目の前にいるのは、黒髪と金色の瞳を持つ、若いエルフの娘だった。
身につけている装備は使い込まれた冒険者のものであり、立ち姿にも不自然な気負いはない。長い旅をしてきた使者の目には、彼女がどこにでもいるエルフの娘だとは映らなかったものの、少なくとも、自分が想像していたような伝説上の人物には見えなかった。
ただし、その木剣の扱いだけは、明らかに尋常ではなかった。
無駄のない身のこなしと、相手の動きを見切る眼差しには、長い修練によって得られたものだけが持つ確かさがあり、若い外見からは想像できないほどの経験が感じられた。
それでもなお、彼には、噂の中の恐るべき人物と、目の前で人間の青年に剣を教えている娘とを、うまく結びつけることができなかった。
やがてセラリスが彼らの存在に気づき、木剣を下ろした。
「ん? お客さん?」
案内役のコボルドが頷いた。
「コタ・フタンから。怪我してる」
その地名を聞いた瞬間、セラリスの表情が、ほんのわずかに変わった。
あまりに小さな変化だったため、使者は気づかなかった。
しかし、彼女の中では、既に何かが動き始めていた。
「コタ・フタン?」
「はい」
若いエルフは一歩進み、胸へ手を当てて頭を下げた。
「突然の訪問をお許しください。私はコタ・フタンから参りました。どうしても、あなたにお届けしなければならないものがあるのです」
「私に?」
「はい。どうか、お受け取りください」
彼は外套の内側へ手を入れた。
そこには、旅の間ずっと身体から離さずに持ち歩いてきた、小さな包みが収められていた。雨に濡れぬよう何重にも布で包み、夜に休むときにも手の届くところへ置き、獣に襲われたときには、傷を負った自分の身体より先に守ろうとしたものである。
彼は慎重に布をほどき、その中から一通の手紙を取り出した。
「ラハシアという娘からです」
セラリスは、完全に動きを止めた。
ラハシア。
その名前を、彼女は知っていた。
少なくとも、この世界で実際に会った人物として知っていたわけではない。故郷の集落について話を聞いたこともなければ、ラハシアという娘から手紙を受け取る心当たりもなかった。
けれども、知っているのである。
遠い昔、今となっては前世と呼ぶしかない人生の中で、幾度となく読んだ冒険の記録。その中に登場した一人のエルフの娘の名前が、不意に記憶の底から浮かび上がってきたのだった。
寺院があり、シスワたちがいる。
ラヒブという名の人物が現れ、その手によって事態が大きく変わっていく。
そして、その渦中にいる若いエルフの娘が、ラハシアだった。
セラリスは、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
偶然の一致であればよい。
同じ名前の人物が別の土地に住んでいたところで、不思議ではないだろう。エルフの名にも、それぞれの地方で好まれる響きがあり、似た名前を持つ者など、探せばいくらでもいるはずだった。
しかし、コタ・フタンから使者が来たという事実が、その希望をひどく頼りないものにしていた。
何より、手紙を持ってきた若いエルフの表情が、単なる挨拶や近況を伝えるためのものではないことを、はっきりと物語っていたのである。
「……読んでいい?」
「そのために、ここまで持って参りました」
若いエルフの声には、抑えようとしても抑えきれない期待が混じっていた。
セラリスは手紙を受け取った。
紙には何度も折り畳まれた跡があり、封蝋の一部は欠けていたが、丁寧に包まれていたおかげで文字は損なわれていなかった。
彼女は封を開き、最初の一行へ目を落とした。
そこには、ラハシアの置かれている状況が、切実な言葉で綴られていた。
父のこと。
婚約者のこと。
寺院へ向かったまま戻らない者たちのこと。
以前とは明らかに様子の変わってしまったシスワたちのこと。
そして、その変化の中心にいるらしい、ラヒブという名の人物について。
読み進めるほどに、セラリスの胸の奥では、古い記憶と目の前の現実が、否応なく重なり始めていた。
やはり、そうなのだ。
これは偶然ではない。
彼女が知っている、あの冒険の出来事が、今まさにコタ・フタンで起きているのである。
しかし、そう理解したからといって、書かれていることのすべてを知っているわけではなかった。
手紙の中には、記憶している筋書きとは異なる事情も含まれていたし、ラハシアの知っていること自体が限られているらしい箇所もあった。そもそも、かつて書物の中で読んだ出来事を、現実に生きている者たちの運命と完全に同一視することなど、できるはずがなかった。
冒険の記録であれば、登場人物が何をして、どのような危険に遭い、どこで命を落とすかが、あらかじめ決められていることもある。
しかし、この世界では違う。
傷つけば血が流れ、痛みに苦しみ、帰らない者を待つ家族がいる。
そして、命を失ってしまえば、その悲しみは単なる物語の一場面として片づけられるものではない。
セラリスは顔を上げ、目の前に立っている若い使者を見た。
彼は疲れていた。
旅の泥に汚れ、傷口から血を滲ませ、それでもなお、自分の役目を果たそうとして、必死に立っている。
この男は、書物の中に記された、名前さえ与えられていない使者などではなかった。
故郷へ帰れば、彼の帰還を待っている者がいるのだろう。幼い頃から知っている友人もいれば、村の年長者たちもいるに違いない。そして何より、彼に手紙を託したラハシアが、今もどこかで返事を待っているはずだった。
セラリスは、再び手紙へ目を落とした。
最後の数行には、こう書かれていた。
> ミスタメアのレディと呼ばれる方が、もし噂に違わぬ方であり、同族を見捨てぬ方であるならば、どうか私たちをお助けください。
読み終えたあとも、セラリスはしばらく手紙を見つめていた。
どうやら、ミスタメアのレディという呼び名は、彼女の知らないところで、既にコタ・フタンにまで伝わっているらしい。
それだけでも十分に困った話だったが、今はそれどころではなかった。
同族を見捨てぬ方であるならば、という言葉が、妙に胸へ引っかかっていたのである。
ラハシアは、セラリスのことを知らない。
会ったこともなければ、どのような人物なのか、自分の目で確かめたこともないのだろう。それでも、遠くの森に住む同族の娘なら助けてくれるのではないかと考え、使者を送り出したのだ。
しかも、その根拠となっているのは、ミスタメアでコボルドを殺さずに雇ったという、何とも奇妙な噂なのである。
それを思うと、セラリスは少しだけ困ったような気持ちになった。
「先生?」
いつの間にか近くへ来ていたダリヤが、心配そうに声をかけた。
「何て書いてあるんですか?」
セラリスは手紙を丁寧に畳んだ。
「その前に、一つ言っていい?」
「はい?」
「レディはやめてほしいんだけど」
使者は、呆気に取られた。
「……そこですか?」
「そこも大事なの」
セラリスが真面目な顔で答えたため、ダリヤはとうとう小さく吹き出してしまった。
ミハイルは困ったように二人の顔を見比べていたが、ヴァレリアだけは少し離れたところから、使者の脇腹へ注意を向けていた。
「先生。その方、まだ出血しています。お話の前に傷を診てもよろしいでしょうか」
「あ、そうだった。ごめん。先に治療しよう」
「いえ、私は大丈夫です。それよりもラハシアの手紙を――」
「大丈夫かどうかは、ちゃんと診てもらってから言ってね」
セラリスはそう言うと、若い使者へ椅子を勧めた。
彼はまだ何か言いたそうだったが、ヴァレリアが手際よく傷を確かめ始めると、ようやく自分の身体が思っていた以上に疲れていることを自覚したらしい。椅子へ腰を下ろした途端、張りつめていた気力が少し緩み、額には冷たい汗が浮かんだ。
傷は幸い、命に関わるほど深いものではなかった。
しかし、十分な処置を受けずに長い距離を歩いてきたため、傷口は何度も開いていたらしい。ヴァレリアは汚れた布を取り除き、傷を清めてから治癒の祈りを捧げた。
やがて傷が塞がり始めると、若いエルフは驚いたように目を見開いた。
「……ありがとうございます」
「無理をなさいましたね。今夜はきちんと休んでください」
ヴァレリアは穏やかに答えた。
使者は何度も頷いたが、その視線はすぐにセラリスへ戻った。
傷が治ったことへの安堵より、故郷に残してきた者たちへの心配の方が、まだはるかに大きいのだろう。
そのことは、セラリスにもよくわかった。
彼女は手紙を机の上へ置き、使者の正面に腰を下ろした。
「じゃあ、詳しく聞かせて。ラヒブという者について、わかっていることを全部話してほしいんだ」
若いエルフは、表情を引き締めた。
「はい。あの者が寺院に現れてから、シスワたちの様子が変わりました」
「どう変わったの?」
「以前なら、決してしなかったようなことをするようになりました。仲間の訴えを聞かず、命令されたことを疑いもせずに実行する者がいるのです。中には、まるで別人になってしまったように見える者さえいます」
「その変化は、一度に起きたの?」
「いいえ。最初は一部の者だけでした。しかし、日が経つにつれて、同じような様子を見せる者が増えたのです」
「ラヒブに逆らった人は?」
使者は、そこで少し言葉を詰まらせた。
「……捕らえられた者がいます」
「殺された人は?」
「まだ、それほど多くはありません。しかし、寺院の内部で何が起きているのか、我々にも十分にはわからないのです。戻ってこない者もいますし、捕らえられた者が今どうなっているのかも……」
最後の言葉は、わずかに震えていた。
セラリスは、その震えを聞き逃さなかった。
この使者は、単に状況を説明しているのではない。自分の仲間がどうなってしまったのかもわからないまま、何とか助けを求めてきたのである。
その胸の内にある恐怖は、想像するよりもずっと大きいのだろう。
「シスワたちに、魔法を使われている可能性はある?」
「そう考えている者もいます。ですが、確かな証拠はありません。あれほど忠実だった者たちが、なぜ突然ラヒブに従うようになったのか、我々にもわからないのです」
セラリスは頷いた。
魔法による魅了や精神支配であれば、説明のつく部分はある。しかし、そうした術が使われていると決めつけるわけにはいかなかった。相手がどのような手段でシスワたちを従わせているのかによって、取るべき対処も変わってくる。
それに、実際の状況を確かめないうちから、敵と味方を決めるのは危険だった。
「……もし、シスワたちと戦うことになったら?」
セラリスが尋ねると、若いエルフは顔を伏せた。
彼は、しばらく返事をしなかった。
やがて、何かを振り絞るように口を開いた。
「シスワは……我々の仲間です」
「うん」
「寺院を守ってきた者たちです。私も知っている者がいますし、ラハシアも、彼らを敵だとは思っていません。ですが、このままでは……」
使者はそこで言葉を切った。
目の前の若い娘に、いったい何を頼めばよいのだろう。
仲間を助けてほしい。
だが、仲間を助けるためには、その仲間と戦わなければならないかもしれない。
敵に操られているのだとしても、彼らの手には本物の武器が握られている。こちらが殺すつもりなどなくても、相手は容赦なく襲いかかってくるかもしれないし、そのとき命を守るために剣を振るえば、取り返しのつかない結果になることもあるだろう。
ラハシアも、村の年長者たちも、そのことを恐れていた。
だからこそ、誰に助けを求めるべきか、ずいぶん迷ったのである。
「……人間の冒険者を雇えば、きっと戦いになります」
使者は、うつむいたまま続けた。
「彼らにとって、シスワは敵でしょう。襲われれば剣を抜き、危険な相手は倒すはずです。それが間違っているとは言いません。ですが、我々には、どうしても……」
「うん。わかるよ」
セラリスは、静かに頷いた。
「だから、殺さない」
若いエルフは、思わず顔を上げた。
その瞳には、驚きと、それ以上に強い戸惑いが浮かんでいた。
「……できるのですか?」
「できるように考えるよ。全員を絶対に助けられるとは言えないけど、最初から殺すつもりで行く必要はないでしょう?」
セラリスは少し考え、それから付け加えた。
「操られているなら、本人が悪いわけじゃないもの。まずは、どういう魔法が使われているのか確かめたいね。それに、眠らせたり、動けなくしたりする方法もあるから、戦わずに済む相手まで殺す必要はないよ」
それは、決して気休めの言葉ではなかった。
セラリスは、自分の持つ魔法と装備、そして同行する三人の能力を頭の中で確かめながら、現実に取り得る方法を考えていた。敵を倒すだけなら選択肢はいくらでもある。しかし、操られた者たちを救い、囚われている者を助け、可能な限り犠牲を出さずに事態を収めようとするなら、最初からそれに合わせた準備が必要だった。
そして、そうした準備をする時間は、まだ残されているはずだった。
使者は、しばらくセラリスの顔を見つめていた。
彼がどのような答えを想像していたのかはわからない。
ただ、少なくとも、これほどあっさりと殺さずに済む方法を考えようと言われるとは、思っていなかったらしい。
張りつめていたものが、少しだけ緩んだ。
彼は何か言おうとして口を開いたものの、すぐには声が出なかった。長い旅の間、何度も繰り返してきた不安が、ようやくわずかに薄らいだのかもしれなかった。
「……あなたへ頼めと言った者がいました」
「誰が?」
「村の年長者です。人間の冒険者を雇えば、シスワたちと殺し合いになるかもしれない。だが、コボルドすら殺さずに雇い入れたというエルフなら、別の方法を考えてくれるのではないか、と」
セラリスは、少し困ったように笑った。
「……噂って、妙なところまで伝わるんだね」
彼女にしてみれば、コボルドを雇ったことと、操られたエルフを救うこととは、まったく別の問題だった。
しかし、村の年長者たちにとっては、そうではなかったのだろう。
敵であるはずのコボルドを殺さずに済ませた人物であれば、同族が相手ならなおさら、殺さずに救う方法を考えてくれるのではないか。そのような期待を抱くことは、決して不自然なことではなかった。
もっとも、そうして自分の知らないところで評判が広がり、会ったこともない者から頼りにされるというのは、何とも落ち着かない話だったが。
「積み重ねた評判というものだな」
腰の鞘から、ソーンウォッチの低い声がした。
「……あなたは黙ってて」
セラリスが即座に答えると、使者は驚いたように剣へ目を向けた。
「……今、剣が?」
「うん。気にしないで」
「いや、それは……」
「気になると思いますけどね」
ミハイルが小声で口を挟んだ。
隣にいたダリヤが、その脇腹を肘で軽くつついた。
「ミハイル、静かに」
「……お前だって聞こえただろう」
「聞こえたけど、今はそういう話じゃないでしょう?」
二人の小さなやり取りに、ヴァレリアが苦笑した。
使者はしばらく困惑したままだったが、やがて、この城では魔法の剣が言葉を発することくらい、さほど珍しい出来事ではないらしいと理解したのか、それ以上は尋ねようとしなかった。
もっとも、その理解が正しかったかどうかは、また別の話だった。
◇
使者から聞き取れるだけの話を聞き終えると、セラリスは改めて手紙を広げ、しばらく考え込んだ。
ラハシア。
寺院。
シスワ。
ラヒブ。
それらの名前は、遠い記憶の中では、既によく知っている出来事と結びついていた。
しかし、だからといって、これから何が起こるのかを完全に予測できるわけではない。記憶にあるのは、あくまでも冒険のために用意された筋書きであり、現実の人間やエルフたちが、必ずそれと同じ行動を取るという保証などなかった。
むしろ、わかっているつもりでいることの方が危険なのかもしれない。
敵の数や配置が違っている可能性もある。
知っているはずの通路に新しい罠が仕掛けられているかもしれないし、以前なら安全だった場所に、今では別の危険が潜んでいるかもしれない。
それに何より、ラヒブという男がどのような人物であれ、彼の周囲にいる者たちは、この世界で実際に生きている者たちなのである。敵として現れたからといって、無条件に命を奪ってよいわけではないし、仲間だと聞いているからといって、必ず助けられるというものでもない。
セラリスは、そうしたことを一つずつ考えながら、自分が持つ魔法と装備について、頭の中で確認していた。
正面から押し通るだけなら、それほど難しい相手ではないかもしれない。
少なくとも、通常の人間やエルフの戦士が何人か相手になる程度なら、彼女一人でも対処する方法はいくらでもある。魔法によって眠らせることもできれば、戦闘能力を奪う方法もあるし、いざとなれば、自分自身が危険な場所へ踏み込んで、囚われている者を救い出すことさえ考えられるだろう。
だが、それだけでは十分ではなかった。
もし寺院の内部で、操られている者と操っている者とが入り混じっていたらどうするのか。囚われた者を人質に取られたら、どのような方法で救い出せばよいのか。魔法によって精神を支配されているのなら、その効果を解除できるのか。そもそも、ラハシアの手紙に書かれていること以外に、まだ知られていない事情が存在する可能性もある。
考え始めれば、確かめなければならないことはいくらでもあった。
そして今回の冒険には、もう一つ、セラリスにとって大切な意味があった。
ミハイル、ヴァレリア、ダリヤの三人である。
彼らは、ミスタメアで冒険者としての訓練を受け始めた頃に比べれば、随分と成長していた。戦闘の技術だけでなく、罠を警戒し、仲間の位置を確かめ、退路を意識しながら進むことも、少しずつ身につけている。
それでも、まだ経験は十分ではなかった。
危険な相手と遭遇したとき、どうすれば全員が生きて帰れるのか。誰かが負傷した場合に、戦闘を続けるべきなのか、それとも撤退するべきなのか。相手を倒すことが目的ではないとき、どのように自分たちの力を使えばよいのか。
そうした判断は、実際の冒険を通じて学ばなければならない。
今回の依頼は、その意味でも、三人にとって貴重な経験になるだろう。
しかし、だからといって、セラリスはこの冒険を単なる訓練の機会として扱うつもりはなかった。
ラハシアは本当に困っている。
寺院では実際に人が捕らえられ、誰かが命を落としている可能性さえある。
そのような状況で、弟子たちを鍛えるために危険を長引かせたり、助けられる者を見捨てたりすることなど、あってはならない。彼らに判断を任せる場面はあっても、その判断が取り返しのつかない結果を招く前に介入できるよう、常に備えておく必要があった。
冒険の経験を積ませることと、仲間の命を危険にさらすことは違う。
セラリスは、その区別だけは決して曖昧にしたくなかった。
しばらく考えたあと、彼女は顔を上げた。
「ミハイル」
「はい」
「ヴァレリア、ダリヤも、ちょっといい?」
三人が揃ってセラリスを見た。
彼女は机の上の手紙を指さした。
「コタ・フタンから助けを求められてるんだ。寺院で何が起きてるのか調べて、捕らえられた人たちを助けたいと思ってる」
ミハイルは真面目な顔で頷いた。
ヴァレリアも静かに話を聞いている。
ダリヤは、何か面白そうな依頼が始まるのではないかという期待と、先ほど聞いた話への不安とが入り混じった表情をしていた。
「ただ、今回は相手を倒せば終わりって話じゃないんだよ。シスワたちが操られているなら、できるだけ殺さずに助けたいし、囚われてる人がいるなら、その人たちも救い出さないといけない。どんな魔法が使われているのかも、まだわからないんだ」
三人は、黙って聞いていた。
「だから、少し難しい仕事になると思う。危険もあるし、場合によっては途中で引き返すことも考えなきゃいけない。それでも、行ってみる?」
ミハイルは、すぐには答えなかった。
彼は一度、使者の方へ目を向けた。
疲れ果てた様子で椅子に座っている若いエルフは、先ほど治療を受けたおかげで顔色こそ少しよくなっていたものの、その表情には、故郷に残してきた者たちへの心配が色濃く残っている。
ミハイルには、彼がどれほどの思いでここまで来たのか、すべてを理解することはできなかった。
しかし、助けを求められているということだけは、よくわかった。
「……先生」
「うん?」
「その人たちは、俺たちに助けてほしいんですよね」
「そうだね」
「だったら、行きます」
答えは、思いのほか簡潔だった。
ミハイルは、自分でも少し驚いていた。
冒険を始めたばかりの頃なら、まず相手がどれほど強いのかを考え、自分に戦えるだろうかと不安になっていたはずだった。しかし今では、危険があることを承知したうえで、それでも助けを求めている者がいるのなら、できることをしたいと思うようになっていたのである。
もちろん、恐ろしくないわけではない。
むしろ、以前よりも危険の意味がわかるようになった分だけ、軽々しく大丈夫だと言うことはできなくなっていた。
それでも、目の前で困っている者を見捨てるという選択は、彼にはどうにも考えられなかった。
ヴァレリアも頷いた。
「私も行きます。操られている方たちを救える可能性があるのなら、まずは確かめたいです。それに、負傷した方がいるのでしたら、私にもできることがあると思います」
「うん。ありがとう」
セラリスは嬉しそうに答えた。
それから、ダリヤへ目を向けた。
彼女は手紙をじっと見つめていたが、やがて何かを思いついたように顔を上げた。
「先生、一つ聞いてもいいですか?」
「なに?」
「宝は?」
ミハイルが、思わず振り返った。
「お前なあ……」
「だって、大事でしょう?」
ダリヤは少し不満そうに答えた。
「助けに行くのはいいですけど、私たちだって冒険者なんですよ。寺院で何が起きてるか調べて、危険な目に遭って、何日もかけて戻ってくるんでしょう? 食料も道具も必要ですし、報酬について聞いておくのは普通じゃないですか」
ミハイルは何か言い返そうとしたが、セラリスが先に笑ってしまった。
「それはそうだね」
「でしょう?」
ダリヤは、いかにも当然だという顔をした。
「別に、助けないって言ってるわけじゃないですよ。ただ、何も聞かずに引き受けるのもどうかと思ったんです」
「うん。ダリヤの言うこともわかるよ。冒険者として仕事をするなら、報酬のことを確認するのも必要だからね」
セラリスは頷き、使者へ目を向けた。
「もちろん、今ここで何かを約束してもらう必要はないよ。ラハシアたちが困ってるのはわかってるし、まずは助けることを考えたいから。でも、寺院で見つけた財宝をどう扱うかとか、そういう話はあとでちゃんと確認しよう」
使者は、何とも言えない表情になった。
彼にしてみれば、同族の命に関わる危機について助けを求めているところで、突然、宝の話を始められたのである。困惑するのも無理はなかったが、一方で、セラリスがその質問を叱るどころか、冒険者として当然の確認だと認めたことにも、少々驚かされたらしかった。
ミハイルは頭を掻いた。
「……まあ、確かに必要な話ではあるんだよな」
「そうですよ。先生だって、冒険する前には準備と費用のことを考えろって言ってるじゃないですか」
「それはそうだけどな」
二人のやり取りを聞きながら、セラリスは、また少し嬉しくなった。
ダリヤは、以前から金銭に関わることには敏感な娘だった。だが、その関心を単なる欲深さとして片づけるつもりはない。冒険者が生きていくには金が必要であり、装備を整え、負傷したときに備え、次の冒険へ出かけるための費用を確保しなければならない。それを考えることも、冒険者としての大切な能力なのである。
しかも今のダリヤは、ただ宝を欲しがっているわけではなかった。
助けを求める者を見捨てるつもりはないが、だからといって、自分たちの仕事の価値を考えなくてよいわけではない。その二つを、彼女なりに両立させようとしているのだろう。
それもまた、成長の一つだった。
「じゃあ、決まりだね」
セラリスは三人の顔を順に見た。
「今回は四人で行こう。ミハイルはいつもどおり前衛をお願い。ヴァレリアは治療と補助、ダリヤは探索と罠の確認を中心にしてもらうよ。私は後ろから全体を見て、必要なときに魔法を使うからね」
三人が頷いた。
「ただし、無理はしないこと。操られている人と戦うことになったら、できるだけ殺さずに済ませたいけど、そのために自分たちが死んだら意味がないからね。危険だと思ったら、ちゃんと撤退するんだよ」
「はい!」
返事が重なった。
その声を聞いて、セラリスは満足そうに頷いた。
今の三人なら、きっと大丈夫だろう。
もちろん、何の危険もなく仕事を終えられるとは思っていない。そもそも未知の寺院へ踏み込み、魔法によって操られているらしい者たちを助けようというのだから、簡単な冒険になるはずがなかった。
しかし、彼らには以前よりも多くの経験があり、仲間として互いに助け合うことも覚え始めている。
そして、いざとなれば、自分が彼らを守ればよい。
そのための力と準備は、今のセラリスには十分にあった。
◇
「明日の朝、出よう」
セラリスがそう告げると、若い使者は驚いたように顔を上げた。
「……本当に、来てくださるのですか?」
「うん。今日中に準備して、明日の朝に出発するよ。道案内はラハシアからの手紙を見ながら考えるから、あなたは今夜ゆっくり休んでね」
「ですが、私は……」
「怪我してたんでしょう? ヴァレリアに治してもらったからって、無理していいわけじゃないよ。それに、コタ・フタンまでの道は聞けばわかるし、私たちだけでも行けると思う」
使者は、何か言おうとして口を開いた。
しかし、言葉が出てこなかった。
彼は、ここまで何日もかけて歩いてきた。
途中では獣に襲われ、傷を負い、それでも引き返すことなく、ようやくミスタメアへたどり着いたのである。もし噂が間違っていたらどうしよう。セラリスという娘が助けを拒んだら、次はどこへ行けばよいのだろう。そんな不安を抱えながら、それでもほかに頼れる者が思いつかず、ただひたすらに歩き続けてきたのだった。
その旅が、ようやく終わったのである。
少なくとも、彼に託された役目は果たされた。
それだけでも、胸の奥に重く沈んでいたものが、随分と軽くなったように感じられた。
「……ありがとうございます」
使者は、深く頭を下げた。
セラリスは少し困ったように笑った。
「まだ何もしてないよ。お礼は、ちゃんと助けられてからにしてね」
「それでも、来てくださるというだけで、我々には希望になります」
その言葉には、飾り気がなかった。
だからこそ、セラリスには重く感じられた。
希望というものは、時として人を助ける力になる。
だが、誰かの希望になるということは、それだけ期待されるということでもある。助けられると思っていた者を助けられなかったとき、その失望がどれほど大きなものになるかを、セラリスは知らないわけではなかった。
それでも、目の前の使者に対して、自分には何もできないなどと言うつもりはなかった。
できることを、できるだけやる。
そのために、今は準備を進めればよい。
「手紙を届けてもらったのに、読んで終わりってわけにもいかないでしょう?」
セラリスは、そう言って笑った。
「それに、同族を助けるのは嫌いじゃないからね」
使者は、もう一度頭を下げた。
その姿を見ながら、セラリスは改めて、手紙を書いたラハシアという娘のことを考えていた。
ラハシアは、まだ自分のことを知らない。
そして自分もまた、この世界で生きているラハシアが、どのような娘なのかを知らなかった。
前世の知識の中には、一つの冒険の筋書きとして彼女の名が残されている。しかし、その記憶だけで、現実に生きている相手のすべてを理解したつもりになることはできないだろう。
むしろ、会ってみたいと思った。
彼女がどんな声で話し、どんな表情で笑い、何を恐れ、何を望んでいるのかを、自分の目で確かめてみたかったのである。
そして、もし彼女が本当に困っているのなら、少しでもその力になってやりたかった。
それは、古い冒険の筋書きに書かれているからという理由ではなかった。
今、この世界で助けを求めている同族がいる。
ただ、それだけのことだった。
「ミハイル、あとで装備を確認しよう。今回は人質がいるかもしれないから、普通の戦闘とは違う準備も必要になると思う」
「わかりました」
「ヴァレリアは、精神を操る魔法への対処を考えておいてくれる? 使える祈りと、持っていくものを整理したいんだ」
「はい。私も確認しておきます」
「ダリヤは探索道具をお願いね。古い寺院だから、罠もあると思うんだ。使えそうなものは、忘れずに持っていこう」
「任せてください。今度は予備の道具も多めに持っていきます」
「うん。よろしくね」
セラリスは頷き、それからもう一度、三人の顔を見た。
ミハイルは既に装備のことを考え始めているらしく、腰の剣へ目を向けていた。ヴァレリアは、どの祈りを用意するべきかを頭の中で確かめているようだったし、ダリヤに至っては、何が必要になるかを思いつくたびに指を折って数え始めている。
最初に出会った頃の三人なら、これほど自然に準備の相談を始めることなどできなかっただろう。
今では、それぞれが自分の役割を理解し、何を持っていけばよいのかを考えるようになっている。
そのことが、セラリスには嬉しかった。
彼らを連れて冒険へ出ることには、もちろん危険がある。
しかし、それ以上に、彼らが新しい経験を通じて成長する姿を見ることは、今のセラリスにとって、大切な楽しみの一つになっていた。
もっとも、その楽しみのために命を失わせるつもりなど、毛頭なかったが。
明日の朝には、コタ・フタンへ向かう。
そこで何が待ち受けているのかは、まだわからない。
けれども、少なくとも今の彼女には、考え得る限りの準備を整え、仲間たちとともに危険へ立ち向かうだけの力があった。
セラリスは、手紙をもう一度丁寧に畳み、腰の袋へ収めた。
そのときだった。
袋の中に入れてあった、五インチほどの桃色の櫛が、ほんのわずかに温かくなったような気がしたのである。
《コリガンたちの櫛》。
ミスタメアの地下から見つかり、彼女が同族を助けたことに応じて、少しずつその秘密を明らかにし始めていた、不思議なレッサー・アーティファクトだった。
セラリスは一瞬、手を止めた。
これまでにも、櫛が何かに応じるような気配を示したことはある。コリガンたちが、彼女の行動をどのような基準で見ているのか、完全に理解できたわけではない。しかし、同族と友誼を結び、困っている者を助け、傷ついた者を癒やすという行いに、何らかの意味を見いだしているらしいことは、今では何となくわかっていた。
今回も、そうなのだろうか。
それとも、気のせいだったのか。
確かめようと思えば、袋から櫛を取り出して調べることもできただろう。
しかし、今はその必要を感じなかった。
明日の冒険について考えなければならないことは、まだいくらでもあったし、何より、ラハシアたちが助けを待っているのである。
セラリスは袋の口を閉じると、三人の弟子たちへ声をかけ、出発の準備を始めることにした。
中庭には、いつものように人の声が響いていた。
訓練を終えた若者たちが道具を片づけ、赤い腕章をつけたコボルドたちが修理のための板材を運び、どこかでは木剣を打ち合わせる音まで聞こえている。丘の麓では農作業を終えた者たちが城へ戻り始めている頃だろうし、北の森ではカラーリーたちが夕食の支度を進めていることだろう。
ミスタメアには、既に日々の暮らしがあった。
それは、つい少し前までなら想像もできなかったような、さまざまな種族の営みが入り混じった暮らしだったが、今では彼女にとって、すっかり馴染み深いものになっていたのである。
そして明日、その暮らしの中から四人の冒険者が出発する。
見知らぬ土地で助けを待っている同族のために、古い寺院へ向かうのだ。
セラリスは、そんなことを考えながら、ふと使者の方へ目を向けた。
若いエルフは、ヴァレリアに勧められた温かい飲み物を両手で包むように持ち、ようやく少し落ち着いた表情を浮かべていた。疲れはまだ残っているだろうし、故郷のことを思えば、心から安心できるはずもない。それでも、ミスタメアへ到着したときのような、追い詰められた眼差しではなくなっていた。
その変化を見て、セラリスは少しだけ嬉しくなった。
まだ誰も救い出してはいない。
ラヒブを倒したわけでも、シスワたちを正気に戻したわけでもない。
それでも、助けを求めて長い道を歩いてきた若者を、少なくとも今夜は安心して休ませてやることができる。
ならば、明日はその先へ進めばよい。
ラハシアの手紙に書かれていた、切実な願いに応えるために。
そして、もし可能であるならば、誰一人として無駄に命を失わせることなく、この事件を終わらせるために。
セラリスはそう考えながら、いつものように軽い足取りで、装備を整えるために自室へ向かった。
腰の袋に収められた桃色の櫛は、既に温もりを失い、何事もなかったかのように静かになっていた。
その小さな変化が何を意味していたのか、今の彼女にはまだわからなかったが、コタ・フタンへ向かうという決断そのものを、櫛の反応によって変えるつもりはなかった。
助けを求めている者がいるから、助けに行く。
自分にできることがあると思うから、そのための準備をする。
そして、危険な場所へ向かうのなら、何があっても生きて帰れるように、仲間とともに考える。
それは、彼女がミスタメアで三人の弟子たちへ繰り返し教えてきたことであり、同時に、彼女自身が冒険者として決して忘れるつもりのないことでもあった。
秋の夕暮れは、静かに城を包み始めていた。
間もなく夜になれば、中庭の騒がしさも収まり、城のあちらこちらに灯りがともるだろう。明日の朝には、その灯りの下で支度を整えた四人が、コタ・フタンへ向かう道を歩き始めることになる。
その先に何が待っているのか、セラリスは知っているようでいて、まだ何も知らなかった。
古い記憶は彼女に手掛かりを与えてくれるだろうが、実際に何を選び、誰を助け、どのような結果へたどり着くのかは、これから自分たちの手で決めなければならないのである。
そしてセラリスは、そのことを少しも恐れてはいなかった。
むしろ、誰かが書いた筋書きどおりに物事が進むわけではないからこそ、自分たちがここにいる意味があるのだと、彼女は考えていた。
少なくとも、ラハシアの手紙を届けてくれた若者が、再び故郷へ帰るときには、今よりも少しだけ明るい顔をしていられるようにしたかった。
そのためにできることを、一つずつ確かめていけばよい。
セラリスは最後にもう一度、静かになりかけた中庭を振り返り、それから明日の旅支度を始めるため、自室へと歩いていったのだった。