セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
コタ・フタンへ向かうことが決まったとき、ラハシアの手紙をミスタメアまで運んできた若いエルフの使者は、ようやく自分の役目が終わったのだと思っていた。
故郷を発ってからというもの、彼はほとんど休むことなく歩き続けてきた。森の中では獣に襲われ、脇腹に傷を負い、雨に濡れた道では靴を傷め、それでも手紙だけは失うまいと、何度も懐の包みを確かめながら旅を続けたのである。ミスタメア城へたどり着き、噂に聞いたセラリス・オブ・カラーリー本人へ手紙を手渡せたときには、身体中に溜まっていた疲労と、故郷に残してきた者たちへの不安とが一度に押し寄せてきて、正直なところ、もうしばらくは何も考えたくないような気分になっていた。
しかし、そうもしていられなかった。
セラリスは翌朝には出発すると言ってくれた。ならば、自分もできるだけ早く村へ戻り、ラハシアや年長者たちに、救援が来ることを知らせなければならないだろう。
それが使者としての最後の仕事になるはずだった。
「では、明朝には私も村へ戻り、皆にセラリス殿が来てくださることを知らせておきます。道の様子については、今夜のうちに詳しくお伝えして――」
「一緒に帰るよ」
セラリスは、何でもないことのように答えた。
使者は一瞬、彼女の言葉の意味を理解できなかった。
「……一緒に、ですか?」
「うん。私たちと一緒にコタ・フタンへ帰ろう」
「ですが、道についてはもうお教えできますし、私が先に戻って村へ知らせた方が、皆も安心すると思うのですが」
「それじゃ困るんだよね」
セラリスは軽く首を振った。
「だって、私たちだけで村へ行っても、本当にラハシアの手紙を読んで来たのか、村の人にはわからないでしょう? ミスタメアのセラリスだって名乗ったところで、誰も私の顔を知らないんだから」
「それは……確かにそうですが」
「それに、村にはラヒブに操られているかもしれないシスワがいるんでしょう? 知らない冒険者が三人も一緒に現れたら、余計な騒ぎになるかもしれないよ。あなたが一緒なら、ラハシアから手紙を預かって、ちゃんと返事を持ってきたんだって説明してもらえるからね」
言われてみれば、もっともな話だった。
コタ・フタンには、ミスタメアの噂を聞いたことのある者はいても、セラリス本人と面識のある者はいない。しかも村は、寺院で起きている異変によって、既に疑心暗鬼に陥りかけているのである。そこへ見知らぬ冒険者たちが突然現れ、助けに来たのだと言い出したところで、素直に信用してもらえるとは限らなかった。
何より、彼らが本当にラハシアの依頼を受けて来た者たちだと証言できるのは、手紙を運んだ自分なのである。
「……なるほど。わかりました。それでは、ご一緒させていただきます」
「うん。よろしくね」
セラリスは満足そうに頷いた。
使者もまた、自分なりに納得して頷いたのだが、実のところ、この時点では、彼はまだ自分が何に同意したのかを十分に理解していなかった。
そのことが明らかになったのは、セラリスが次の言葉を口にしたときだった。
「それに、歩いて行くと時間がかかるしね」
「はい。確かに、コタ・フタンまではかなりの距離があります」
「だから、ヴァルに送ってもらおうと思うんだ」
「はい。それでしたら……」
使者は頷きかけた。
そして、途中で動きを止めた。
「……ヴァル?」
「ヴァルザリオンだよ」
しばらく沈黙があった。
使者は、セラリスの顔をじっと見つめた。相手が何か冗談を言っているのではないかと考えたのだが、彼女の表情には、少なくとも人をからかって楽しんでいるような様子は見られなかった。
「……若き緑竜王ヴァルザリオン、ですか?」
「うん。そう呼ばれてるね」
「そのヴァルザリオン殿に、私たちを送っていただくのですか?」
「そうだよ。飛べば早いでしょう?」
実に簡単な理屈だった。
あまりにも簡単すぎて、使者には何をどう言い返せばよいのかわからなかった。
ドラゴンが空を飛ぶことは知っている。人間やエルフが地上を何日もかけて歩く距離を、空を飛ぶ生き物ならはるかに短い時間で移動できることも、理屈としては理解している。
しかし、だからといって、そのドラゴンに旅人を運んでもらうという発想は、彼の常識には存在しなかったのである。
そもそも、相手はグリーンドラゴンなのだ。
それも、ただのグリーンドラゴンではない。近隣の竜たちを次々に屈服させ、ダイムラクのアルゴスさえ従えたという、恐るべき竜王なのである。そのような存在に対して、遠くの村まで人を運んでくれと頼むこと自体、普通なら考えられない話だった。
「……まさか、その背に乗るのですか?」
「ほかにどうやって送ってもらうの?」
セラリスは不思議そうに首を傾げた。
使者は、とうとう言葉を失った。
彼女にとっては、馬に乗るのもドラゴンに乗るのも、移動の手段としてそれほど違わないことなのだろうか。いや、さすがにそこまで非常識なはずはないと思いたかったが、目の前の娘が本気でそう言っていることだけは、どうやら疑いようがなかった。
助けを求めるように周囲を見回すと、少し離れたところにいたダリヤが、何とも言えない表情でこちらを見ていた。
その顔には、妙な同情が浮かんでいた。
「……諦めた方がいいですよ」
ダリヤは、小さな声でそう言った。
使者は彼女を見た。
「あなたも、乗るのでしょう?」
「だから、わかるんです」
「……何がですか?」
ダリヤは、しばらく考えた。
そして、少々困ったように笑った。
「先生がこういうことを言い出したら、もう話は決まってるんだなってことです」
使者は、その言葉の意味を深く考えるのをやめた。
少なくとも、今さら歩いて帰りたいと言い出しても、セラリスがなぜわざわざ何日もかけて歩く必要があるのかと、不思議そうな顔をすることだけは容易に想像できたのである。
◇
翌朝、ミスタメア城の中庭へ出た使者は、改めてヴァルザリオンという生き物の大きさを目の当たりにして、昨日のうちにもう少し強く拒んでおくべきだったのではないかと考え始めていた。
若い竜だとは聞いていた。
しかし、エルフや人間が使う若いという言葉と、ドラゴンについて語るときの若いという言葉とでは、どうやら想像すべきものが違うらしい。
目の前には、深い緑の鱗に覆われた巨大な身体が横たわっていた。逞しい四肢には恐ろしいほど鋭い爪が生え、長い尾は少し動くだけで周囲の砂を払いのけ、その首をもたげれば、城壁の上からでもこちらを見下ろすことができそうだった。
何より恐ろしいのは翼だった。
左右に折り畳まれている状態でさえ、その大きさは容易に想像できたが、いざ広げれば、中庭にいる者たちの頭上へ大きな影を落とすことだろう。あれほど巨大なものが空を飛ぶという事実は、知識としては理解していても、実際に目の前で見ると、どうにも信じがたいものがあった。
そして、その恐るべき竜王の背中へ、コボルドたちが慣れた手つきで革製の乗馬具を取りつけていたのである。
もちろん、馬に使う鞍と同じものではない。
鱗の形や身体の動きに合わせて作られた簡易の鞍と、乗る者の身体を固定するための革帯であり、飛行中に身体が大きく揺れても落ちないよう、何か所にも留め具が設けられている。
ミハイルとヴァレリアも、その取りつけを手伝っていた。
使者は、しばらくその光景を眺めていた。
竜王の背に鞍を取りつけるコボルド。
その鞍の革帯を確かめる人間の冒険者。
しかも当の竜王は、特に怒るでもなく、面倒そうに首を動かしているだけなのである。
昨夜、自分は何か妙な夢を見ているのではないかと考えたことがあったが、どうやら夢ではないらしかった。
「五人も乗せるのか」
ヴァルザリオンが、いささか不満そうに言った。
「いつもより一人増えただけでしょう?」
セラリスは、鞍の取りつけ具合を確かめながら答えた。
「重くはない。だが、邪魔だ」
「ちゃんと座るから大丈夫だよ。それに、長い距離じゃないでしょう?」
「お前には短くとも、俺には余計な仕事だ」
「うん。だから、ありがとうって言ってるじゃん」
「まだ運んでおらん」
「じゃあ、着いたらもう一回言うよ」
ヴァルザリオンは鼻を鳴らした。
使者は、できるだけ自分の存在を目立たせないようにしていた。
重いことが問題なのではなく、邪魔だというのが少々気になったが、だからといって、竜王の目の前で自分のための場所をもう少し広くしてほしいなどと頼む勇気はなかった。
やがて、セラリスが彼のところへ来た。
「じゃあ、乗ろうか」
「……はい」
「革帯はちゃんと締めるから、身体を動かしても外れないはずだけど、念のため、ここを持っててね」
セラリスは鞍に設けられた握り手を示した。
「飛んでる途中で立たないで。あと、身を乗り出すのも駄目だよ」
使者は、思わず顔を上げた。
「……なぜ、飛んでいる途中で立つのです?」
「いや、そういうことする冒険者が時々いるんだよ」
「なぜですか?」
「私にもわからない」
使者は、思わず周囲を見回した。
ミハイルは真面目な顔で革帯を点検していたし、ヴァレリアは乗る者たちの荷物が落ちないようにまとめている。ダリヤに至っては、昨日から妙に同情的な顔をしているものの、今の注意については、特に驚いた様子もなかった。
どうやら、本当にそのようなことをする冒険者がいるらしい。
世の中には、いろいろな人間がいるものだと、使者は思った。
「それから、もし揺れても、慌てて身体を起こさないでね。革帯で固定してるんだから、無理に動く方が危ないよ」
「……そんなに揺れるのですか?」
「飛び方によるかな。でも、ヴァルにはゆっくり飛んでもらうから」
「そうですか」
「あと、落ちそうになっても慌てないでね」
使者は、もう一度顔を上げた。
「……落ちることがあるのですか?」
「いや、落ちないように縛ってるんだけどね」
「…………そうですか」
返事をした自分の声が、妙に遠く感じられた。
ヴァルザリオンが大きな首を回し、こちらへ顔を向けた。
「お前、顔色が悪いぞ」
「……まだ飛んでもいませんから」
「ならば大丈夫だな」
使者は、その理屈について考えるのをやめた。
ドラゴンにはドラゴンなりの考え方があるのだろうし、それを理解しようとしても、今の自分にはどうにも無理があるような気がしたのである。
セラリスは最後に全員の革帯を確かめ、荷物が固定されていることを確認すると、ヴァルザリオンの首の方へ声をかけた。
「じゃあ、お願いね。今日はお客さんもいるから、あんまり急に曲がらないでよ」
「わかっている」
その返事には、何となく不吉なものが感じられた。
使者は、握り手を両手でしっかりと掴んだ。
そして、これから自分が、地上で何百年も語り継がれるかもしれないほど珍しい経験をするのだという事実を、できればあまり深く考えないようにした。
◇
ヴァルザリオンが最初に大きく翼を打った瞬間、使者は、地面そのものが突然足元から消え去ったような感覚に襲われた。
身体を下から突き上げるような力があり、続いて激しい風が外套を叩いた。耳元では空気が唸り、握りしめた革帯へ思わず力が入る。頭では飛び上がったのだと理解しているものの、身体の方は、慣れ親しんだ地面が自分から遠ざかっていくという事態を、どう受け止めればよいのかわからないらしかった。
中庭が下へ落ちていった。
いや、もちろん、実際に落ちているのは中庭ではない。自分たちを乗せたヴァルザリオンが空へ舞い上がっているのだ。
しかし、使者にはどうしても、世界の方が急に小さくなっていくように感じられた。
城壁が足元へ遠ざかり、さっきまで大勢のコボルドたちが立っていた中庭は、たちまち石で囲まれた小さな広場に変わった。さらに高度が上がると、城の周囲に広がる畑や道までが一つの模様のようになり、そこを歩いている者たちの姿も、ほとんど見分けられなくなっていった。
使者は、声を出すことさえできなかった。
ヴァルザリオンが二度、三度と翼を打つうちに、ミスタメアの丘そのものが小さくなり、その向こうに広がる森と丘陵が、一望できるほどの大きさになってしまったのである。
「大丈夫?」
セラリスが振り返った。
「……大丈夫です」
使者は答えた。
自分でも驚くほど硬い声だった。
前の方に座っていたダリヤが、少しだけこちらへ顔を向けた。
「下、見ない方がいいですよ」
「私は、高いところが怖いわけではありません」
「私も最初はそう言いました」
「本当に怖くないのです」
「はいはい。わかります」
使者は、少々腹が立った。
初対面に近い人間の娘に、まるで何もかも見透かされているような顔をされるのは、あまり気持ちのよいものではない。そもそも、森に暮らすエルフが高い場所を恐れるなどと思われるのは、心外でさえあった。
しかし、反論しようとして何気なく下を見た瞬間、彼はすぐに視線を前へ戻した。
あまりにも高かった。
森の木々は、もはや一本ずつ数えられるようなものではなく、緑や黄色の濃淡を持つ一枚の巨大な絨毯のように見えた。そこを縫うように流れる川は、陽光を反射して銀色の細い糸となり、地上では険しく見えた丘陵の起伏も、今では柔らかく波打つ地面の皺のようにしか見えなかった。
そして、その広大な世界の上を、ヴァルザリオンは何の苦もなく進んでいくのである。
地上を歩いていたときには、半日かけて越えた尾根が、ほんの短い時間で背後へ消えていった。
川を渡るために浅瀬を探す必要もなく、険しい斜面を迂回する必要もない。獣の縄張りを避けるために遠回りすることもなければ、ぬかるんだ道で足を取られることもなかった。
ただ、山を越え、森を越え、目的地へ向かって飛んでいけばよいのである。
それは恐ろしく、同時に、どうしようもなく魅力的な経験だった。
使者は、思わず胸の奥で呟いた。
確かに、これなら早い。
ミスタメアからコタ・フタンまでの道のりを、彼は自分の足で歩いてきた。どれほど急いでも、一日で進める距離には限りがあり、夜になれば休まなければならず、雨が降れば足も遅くなる。
だが、ヴァルザリオンにとっては違う。
人間やエルフが百マイルという距離に感じる重さと、空を飛ぶドラゴンが同じ百マイルに感じる重さとは、そもそも比較することすら難しいのだろう。
その違いを、彼は今、初めて身体で理解し始めていた。
しかし、その感慨に浸っていられたのは、ほんの短い間だけだった。
前方に山が迫ってくると、ヴァルザリオンは大きく身体を傾け、斜面を回り込むように進路を変えたのである。
使者の身体が、横へ引かれたように感じられた。
革帯がなければ、自分は確実に空へ放り出されていたのではないかと思うほどだった。
「……今、ずいぶん傾きませんでしたか?」
使者が尋ねると、セラリスはごく普通に答えた。
「曲がったからね」
「それはわかります。しかし、もう少し穏やかに曲がることはできないのでしょうか」
「うん。ヴァル、もうちょっとゆっくりお願い」
「なぜだ?」
「お客さんが怖がってるから」
「怖がってはいません!」
使者は、反射的に否定した。
セラリスが振り返った。
「でも、顔が真っ青だよ?」
「風が冷たいのです」
「そう?」
「風です」
ダリヤが、前の方で小さく笑った。
「それも私、言いました」
使者は、もう何も言わなかった。
代わりに、握り手をさらに強く掴み、できることなら、このまま一度も進路を変えることなくコタ・フタンへ着いてほしいと、心の底から願ったのである。
もっとも、その願いが叶うはずもなかった。
ヴァルザリオンにとって、空を飛ぶという行為は、地上の者たちが歩くのと同じくらい自然なものだった。向かい風が強ければ翼の角度を変え、山の形に合わせて進路を修正し、上昇気流があれば、それを利用して高度を取る。そうした動きの一つ一つは、彼にとっては何の苦もないことだったが、背に乗っている者たちにとっては、なかなか慣れることのできない感覚だったのである。
それでも、使者は次第に、ただ恐れているだけではいられなくなった。
目の前には、地上を歩いていたときには決して見ることのできなかった世界が広がっていた。
幾重にも重なる丘陵の向こうには、淡い霞に包まれた山々が見え、その麓を縫うように森が続いている。遠くの村からは細い煙が立ち上り、道を行く荷車の列が、蟻のようにゆっくりと進んでいた。
その光景には、人を圧倒するような広大さがあった。
自分が知っている世界は、これほど大きかったのか。
そして、その大きな世界を、ドラゴンという生き物は、こんなにも自由に飛び回ることができるのか。
使者は、恐怖とは別の感情が、少しずつ胸に湧き上がってくるのを感じていた。
それは羨望に近いものだった。
もちろん、自分がドラゴンになりたいなどと思ったわけではない。
ただ、あれほど大きな翼を持ち、森も山も関係なく空を進むことができたなら、世界というものは、どれほど違って見えるのだろうかと思ったのである。
そのとき、セラリスがもう一度振り返った。
「少し慣れた?」
「……多少は」
「そっか。もう少しだからね」
「はい」
使者は答えた。
先ほどまでとは違い、今度は少しだけ、落ち着いた声で返事をすることができた。
◇
コタ・フタンで最初に異変へ気づいたのは、森の外れで木の実を拾っていた子供たちだった。
その日は朝から薄い雲が流れていたものの、雨の気配はなく、村の者たちはいつもどおりの仕事をしていた。森では猟師たちが獲物の痕跡を探し、家々では冬へ備えた薪の準備が進められ、子供たちも、年長者からあまり遠くへ行かないよう言いつけられながら、森の浅いところで木の実を集めていたのである。
そんな穏やかな午前の空気を、突然、大きな影が横切った。
初めは雲の影だと思った子供もいた。
しかし、その影は木々の間を恐ろしい速さで移動し、しかも、まるで巨大な鳥の翼のような形をしていたのである。
一人の子供が、何気なく空を見上げた。
そして、そのまま手にしていた籠を落とした。
「……ドラゴン!」
叫び声が森に響いた。
近くにいた子供たちも空を見上げ、次の瞬間には悲鳴を上げて走り出していた。木の実の入った籠が地面へ転がり、拾い集めた実が落葉の上へ散らばったが、誰もそれを気にする余裕などなかった。
やがて村の方から、警鐘が鳴り始めた。
その音は木々の間へ広がり、家々からエルフたちが飛び出してきた。
弓を手にする者がいる。
子供を家の中へ押し込む者もいれば、老人を安全な場所へ連れていこうとする者もいた。村の広場では、何が起きたのかわからないまま走り回る者たちの声が重なり、いつもの静かな森の集落は、たちまち緊張と混乱に包まれていった。
空には、巨大なグリーンドラゴンがいた。
深い緑の鱗に覆われた身体が陽光を受けて鈍く輝き、その大きな翼がゆっくりと動くたびに、地上へ広い影が落ちる。首は長く、四肢は逞しく、離れた場所から眺めても、その生き物が森の獣たちとはまったく異なる力を持っていることは明らかだった。
カラーリーたちは、グリーンドラゴンがどのような生き物なのかを知らないわけではなかった。
だからこそ、恐ろしかったのである。
竜が村を襲うつもりなら、弓を持った者が何人いたところで、どこまで抵抗できるかわからない。まして、相手が空から襲いかかってくるのであれば、家々の間へ逃げ込んだところで安全とは限らないのだ。
だが、竜は襲ってこなかった。
一度、村の上空を大きく旋回すると、森の外れにある開けた草地へ向かい、ゆっくりと高度を下げ始めたのである。
「……待て! 背中に誰かいるぞ!」
弓を構えていた一人が叫んだ。
周囲の者たちが、はっとして空へ目を向けた。
確かに、竜の背には人影があった。
一人や二人ではない。
五人ほどが、何やら鞍のようなものに身体を固定し、巨大な竜の背へ乗っているのである。
その光景だけでも十分に信じがたいものだったが、村人たちの驚きは、それでは終わらなかった。
「あれは……!」
一人のエルフが、思わず声を上げた。
「手紙を持って行った使者じゃないか!」
その言葉に、近くの者たちが一斉に顔を上げた。
見間違いではなかった。
ラハシアの手紙を携え、ミスタメアへ向かったはずの若い使者が、何とグリーンドラゴンの背に乗って帰ってきたのである。
その事実が明らかになった途端、村の混乱は収まるどころか、かえって深まった。
使者は確かにミスタメアへ向かった。
それは誰もが知っている。
そして、もしセラリスというエルフが噂どおりの人物なら、救援を引き受けてくれるかもしれないという、かすかな希望を抱いて送り出したのも事実だった。
しかし、だからといって、その使者がグリーンドラゴンに乗って帰ってくるなどと、いったい誰が想像できただろう。
救援を連れてきたのか。
それとも、何か恐ろしいことが起きたのか。
そもそも、竜の背に乗っているということは、その竜に捕らえられているのではないのか。
さまざまな疑問が村人たちの胸に湧き上がったが、それに答えられる者は一人もいなかった。
ただ、巨大な竜がゆっくりと高度を下げ、村外れの草地へ降りようとしていることだけは、誰の目にも明らかだったのである。
◇
ヴァルザリオンが地上へ降りると、その大きな翼が巻き起こした風によって、草地の草が一斉に伏せられた。
近くの木々は枝を揺らし、落葉が舞い上がり、遠巻きに見守っていたエルフたちは、思わず数歩後退した。巨大な爪が地面を掴み、重い身体が着地した瞬間には、足元から鈍い振動まで伝わってきたように感じられた。
村人たちは、弓を構えたまま動けなかった。
その目の前で、竜の背から一人のエルフの娘が降りてきた。
黒髪と金色の瞳を持つ、細身の娘だった。
彼女は慣れた様子で革帯を外し、まず周囲を確かめてから、ほかの者たちへ声をかけた。
「着いたよ。みんな、大丈夫?」
続いて、人間の青年と女僧侶、それに盗賊らしい身軽な装備をした娘が降りてきた。
最後に、若いエルフの使者が革帯を外した。
彼は慎重に鞍から身体を下ろし、地面へ足をつけた。
その瞬間、胸の奥から深い安堵が湧き上がってくるのを感じた。
大地とは、何と素晴らしいものだろう。
足元が揺れない。
急に横へ傾くこともなく、身体を下から突き上げるような風に襲われることもない。自分がどれほど身体を動かしたとしても、地面そのものが突然高度を変えることなどないのである。
そんな当たり前のことが、今は信じられないほどありがたかった。
「大丈夫?」
セラリスが、そばへ来て尋ねた。
「……大丈夫です」
「顔、青いよ?」
「風です」
「そう?」
「風です」
使者は、きっぱりと言い切った。
近くでダリヤが何か言いかけたため、彼は先にそちらを睨んだ。
ダリヤは、笑いをこらえながら口を閉じた。
どうやら、この娘は一生、今日のことを忘れてくれないのではないかという気がしたが、使者はその考えを振り払った。
今は、それどころではなかったのである。
彼は周囲を見回した。
村人たちは、まだ弓を構えたまま遠巻きにこちらを見つめている。
知った顔がいくつもあった。
幼い頃から顔見知りの者もいれば、同じ村で暮らしてきた友人もいる。中には、自分が旅へ出るときに見送ってくれた者までいた。
しかし、その誰もが、すぐには近づこうとしなかった。
無理もなかった。
自分たちの背後には、巨大なグリーンドラゴンがいるのである。
ここで使者は、ようやくセラリスが自分を連れてきた理由を、本当の意味で理解した。
もし、この娘たち四人だけが空から現れていたら、村人たちは何を考えただろう。
見知らぬエルフと人間の冒険者たちが、グリーンドラゴンに乗って村へやって来たのである。たとえ助けに来たのだと説明されても、その言葉を信じるより先に、何か恐ろしい目的があるのではないかと疑う者がいても、少しも不思議ではなかった。
まして、寺院では既に、シスワたちの様子がおかしくなっている。
人々の心に疑いが生まれ始めているときほど、誰が味方で、誰が敵なのかという問題は、容易に解決できなくなるものだった。
使者は深く息を吸った。
そして、村人たちの前へ進み出た。
「皆、聞いてくれ!」
その声に、何人かが顔を上げた。
聞き慣れた声だった。
若い使者は、自分の無事な姿を見せるように、さらに一歩前へ出た。
「私はラハシアから手紙を預かり、ミスタメアへ行った! そして、確かにセラリス殿へ手紙を届けた!」
村人たちの間に、ざわめきが広がった。
彼は隣に立つセラリスを示した。
「こちらが、ミスタメアのセラリス・オブ・カラーリー殿だ! ラハシアの願いを聞き入れ、我々を助けるために、三人の仲間とともに来てくださった!」
その名が告げられた瞬間、村人たちの表情が変わった。
「セラリス……?」
「ミスタメアのレディか?」
「コボルドを雇い入れたという、あのエルフなのか?」
「竜王と友誼を結んでいるという話は、本当だったのか……」
小さな囁きが、波のように広がっていった。
しかし、まだ誰も完全には安心していない。
彼らの目は、どうしてもセラリスの背後へ向いてしまうのだった。
そこには、ヴァルザリオンがいる。
恐ろしい牙と爪を持つ、深緑の巨竜である。
やがて、一人の老エルフが慎重に口を開いた。
「……では、その竜は何者なのだ?」
使者は、一度ヴァルザリオンを振り返った。
昨日までの自分なら、この名を故郷の者たちへ、こんな形で紹介する日が来るなどとは夢にも思わなかっただろう。
そもそも、竜王を紹介するという役目が、普通のエルフの人生に何度も訪れるはずがないのである。
しかし、今はそれをしなければならなかった。
「若き緑竜王ヴァルザリオンだ」
周囲が静まり返った。
「セラリス殿の友として、我々をここまで運んでくださった」
使者は、そう説明した。
その言葉が村人たちの間へ行き渡るより早く、ヴァルザリオンが大きな首を動かし、セラリスへ顔を向けた。
「セラリス」
「なに?」
「帰りはどうする?」
「うーん。神殿を調べるのに、何日かかかると思うんだよね」
「迎えに来いというのか?」
「必要になったら呼ぶよ。今は大丈夫」
「わかった」
ヴァルザリオンは短く答えた。
そして、もう一度周囲のエルフたちを眺め、それからセラリスへ向けて、まるで何でもないことのように言った。
「危なくなったら呼べ」
「うん。ありがとう、ヴァル」
そのやり取りを聞いていた村人たちの顔が、再び変わった。
今度は単なる驚きではなかった。
巨大なグリーンドラゴンが、一人のエルフの娘へ、危なくなったら呼べと言っている。
しかも、その娘はまるで古い友人と話しているように、気軽に礼を言っているのである。
使者は、内心でひどく疲れたため息をついた。
まったく、だから自分のような説明役が必要だったのだ。
これを何の前触れもなく見せられて、普通の冒険者が助けに来たのだと理解できる者など、いるはずがなかった。
◇
「ありがとう、ヴァル。助かったよ」
「構わん」
ヴァルザリオンは、いかにも大したことではないという調子で答えた。
彼にとって、ミスタメアからコタ・フタンまで飛ぶことは、取り立てて困難な仕事ではなかったのだろう。もちろん、人間やエルフを背に乗せることは、竜としての誇りを少々傷つけるところがあるのかもしれないが、セラリスの頼みであれば、その程度のことは許してやってもよいと考えているらしかった。
もっとも、その友情にも、竜らしい事情がまったく関わっていないわけではなかった。
「帰ったら、牛の件も確認しておいてね」
セラリスが思い出したように言った。
「百二十頭だぞ」
「最大で、だからね! 最初から全部買えると思わないでよ」
「足りなければ、もっと増やせばよい」
「牛は急に増えないんだってば。農家にも都合があるんだから、そこはちゃんと相談してね」
「金は払う」
「それは知ってるよ!」
周囲のカラーリーたちは、今度は別の意味でざわめき始めた。
「……百二十頭?」
誰かが小さく呟いた。
ほかの者も、思わず顔を見合わせている。
何しろ、普通の村で百二十頭もの牛を飼うとなれば、それだけで相当な財産である。そんな数の牛を、まるで毎日の買い物について相談するかのように話しているのだから、驚くのも無理はなかった。
使者は、少々疲れた顔で答えた。
「……それについては、あとで説明します」
本当のところ、彼自身にも、完全に説明できる自信はなかった。
何しろ、ヴァルザリオンの食事のために、なぜそこまで大量の牛を手配する必要があるのか、そして、それをセラリスがどのような方法で農家と相談しているのかについて、彼はまだ十分に理解していなかったのである。
ただ一つ確かなのは、竜王が牛を奪うのではなく、買おうとしているということだった。
それだけでも、コタ・フタンの者たちにとっては、十分に驚くべき話だったろう。
やがてヴァルザリオンは大きな翼を広げた。
再び風が巻き起こり、草地の草が伏せられ、村人たちの外套が激しくはためいた。近くにいた者たちは思わず顔を背け、目に入ろうとする砂埃を避けた。
そして、巨大なグリーンドラゴンは地面を蹴り、空へ舞い上がった。
大きな翼が一度、二度と打たれるたびに、その身体は驚くほどの速さで高度を上げていく。やがて木々の梢より高くなり、村の上空で大きく進路を変えると、ミスタメアの方角へ向かって飛び去っていった。
村人たちは、長い間、その姿を見送っていた。
誰もが、何かを言いたそうだった。
しかし、何を言えばよいのかわからなかったのである。
ただ、恐ろしいグリーンドラゴンが村を襲うことなく飛び去り、その竜の背に乗ってやって来た四人の冒険者が、今、自分たちの目の前に立っている。
その事実だけが、秋の薄い陽光の下で、まるで夢のように感じられた。
◇
ラハシアが駆けつけてきたのは、それからほどなくしてのことだった。
村外れにグリーンドラゴンが現れたという知らせを受けたとき、彼女は一瞬、何が起きたのかわからなかった。
寺院の異変だけでも、村には十分すぎるほどの不安が広がっている。そのうえ、今度はドラゴンまで現れたというのでは、いったいどこまで災いが続くのかと思わずにはいられなかったのである。
しかし、駆けつけた村人の一人が、竜の背には人が乗っており、その中にミスタメアへ向かった使者の姿もあったと言ったとき、ラハシアの胸には、恐怖と同じくらい強い期待が湧き上がった。
まさか。
そんなことが、本当にあるのだろうか。
彼女は、急いで草地へ向かった。
人垣をかき分け、見知った顔の間を通り抜けると、まず、手紙を託した若い使者の姿が目に入った。
「無事だったのですね!」
思わず声を上げると、使者はようやく少しだけ笑った。
「ああ。ちゃんと届けたよ」
「怪我はありませんか? 長い道のりだったでしょう?」
「途中で少し傷を負ったが、ミスタメアで治してもらった。今は大丈夫だ」
ラハシアは、ほっと息を吐いた。
その表情には、使者が戻ってきたことへの安堵があった。しかし、すぐに別の心配が浮かんできたのだろう。
「……手紙は?」
「届けた」
「それで、セラリス殿は何と?」
使者は、隣に立つ黒髪のエルフの娘を見た。
そして、長い旅の疲労と、ようやく役目を果たせた安堵とが入り混じった、何とも言えない表情で答えた。
「返事も連れてきた」
ラハシアは、初めてセラリスへ目を向けた。
噂に聞いていたエルフだった。
ミスタメアの廃城を拠点とし、人間の冒険者たちを育て、コボルドたちを殺さずに雇い入れ、森へ移り住んできたカラーリーの同族を受け入れたという娘である。
しかも、若き緑竜王ヴァルザリオンと友誼を結び、その竜の背に乗って空からやって来たというのである。
そんな人物が、今、自分の目の前に立っていた。
しかし、実際に会ってみると、セラリスはラハシアが想像していたような、恐ろしい魔女にも、威厳に満ちた領主にも見えなかった。
黒髪と金色の瞳を持つ、若いエルフの娘だった。
身につけている装備はよく使い込まれており、その立ち姿には隙のない落ち着きがあったが、表情は驚くほど気さくで、少なくとも人を威圧しようとする様子はまったくなかった。
ラハシアは、思わず胸へ手を当てて頭を下げた。
「……セラリス様、でしょうか」
「うん。セラリスでいいよ」
「本当に、来てくださったのですか?」
「うん。手紙を読んだからね。困ってるって聞いたし、私たちにできることがあるなら手伝おうと思って」
その言葉を聞いた途端、ラハシアの瞳がわずかに潤んだ。
彼女は、ここしばらく、ずっと不安の中で暮らしてきたのである。
寺院では異変が起き、知っている者たちが以前とは違う様子になり、父や婚約者の身を案じても、どうすればよいのかわからなかった。誰かに助けを求めようにも、相手を間違えれば、シスワたちと殺し合いになるかもしれない。
それだけは、どうしても避けたかった。
だからこそ、遠いミスタメアへ使者を送ったのである。
会ったこともないエルフの娘が、噂どおりの人物であることを願いながら。
その願いに、今、返事が届いたのだった。
「……ありがとうございます」
ラハシアは、深く頭を下げた。
セラリスは、少し困ったように笑った。
「お礼はまだ早いよ。何もしてないんだから」
「ですが、来てくださっただけでも……」
「うん。でも、助けるために来たんだから、これからちゃんと仕事をしないとね」
セラリスはそう言うと、少しだけ表情を引き締めた。
「まず、何が起きてるのか、全部教えてほしいんだ。手紙は読んだけど、まだわからないことが多いからね」
ラハシアは、しっかりと頷いた。
その顔には、まだ不安が残っていた。
しかし、先ほどまでのように、ただ助けを待つしかないという絶望的なものではなくなっていた。
少なくとも今、自分とともに考えてくれる者がいる。
それだけで、胸の奥に少しだけ力が戻ってくるように感じられたのである。
◇
寺院の奥にいたラヒブのもとへ、村で起きた異変が伝えられたのは、それからほどなくしてのことだった。
報告に現れたエルフは、普段ならば叱責されるほど息を乱していた。
廊下を急ぎ、扉の前で一度足を止めたものの、十分に呼吸を整える余裕さえなかったらしい。彼は許しを得るとすぐに室内へ入り、ラヒブの前に頭を下げた。
「申し上げます」
「何だ。騒々しい」
ラヒブは、手元の仕事から顔を上げようともせずに答えた。
彼にとって、村の者たちの動きなど、取り立てて注意を払うほどのものではなかったのだろう。少なくとも今のところ、自分の計画を妨げることのできる者が村にいるとは考えていなかったし、たとえ多少の騒ぎが起きたところで、それを鎮めるための手段は既に用意してあるつもりだった。
しかし、報告者の次の言葉を聞いたとき、その余裕にはわずかな亀裂が生じた。
「村の外へ、グリーンドラゴンが降りました」
ラヒブは、すぐには反応しなかった。
「この森に竜が現れること自体は、さほど珍しいことではあるまい。村を襲ったのか?」
「いいえ。そうではありません」
「ならば何だ。わざわざ私のところへ知らせに来るほどのことか?」
「ですが、その竜は……」
報告者は、言葉を選ぶように少しためらった。
その様子に、ラヒブはようやく顔を上げた。
「何だ。はっきり言え」
「ヴァルザリオンです」
その名が告げられた瞬間、ラヒブの手が止まった。
「……何?」
「ミスタメアの若き緑竜王、ヴァルザリオンです」
ラヒブは、ゆっくりと報告者の顔を見た。
その瞳には、先ほどまでの苛立ちとは違う、冷たい警戒の色が浮かび始めていた。
「……なぜ、あれがここにいる」
「人を運んで来ました」
「誰をだ?」
「人間の冒険者三人と、セラリスという名のエルフです。それから、ラハシアが手紙を持たせて送り出した使者も、一緒に乗っていました」
ラヒブは、すぐには意味を理解できなかった。
使者。
ラハシアが手紙を持たせて送り出したという、その使者のことである。
確かに、遠くのミスタメアへ助けを求めたらしいという話は、耳に入っていた。だが、それがどれほどの意味を持つものなのかについて、彼は深く考えていなかったのである。
助けを求めたところで、何日も離れた場所から冒険者が来るまでには相応の時間がかかるだろうし、そもそも、噂に聞いたエルフが本当に救援を引き受けるかどうかもわからなかった。
ところが、現実はどうだ。
その使者が、グリーンドラゴンの背に乗って帰ってきたというのである。
「……待て」
ラヒブは、低い声で言った。
「手紙を届けに行ったエルフが、戻ってきたのか?」
「はい」
「ヴァルザリオンの背に乗って?」
「……そのとおりです」
「それで、セラリスというエルフと、人間の冒険者三人を連れてきたというのか?」
「はい」
ラヒブは、しばらく何も言わなかった。
何かが、自分の考えていた世界の形から、大きく外れている。
その感覚が、じわじわと胸の奥へ広がり始めていた。
遠い村へ助けを求めた使者が、竜王を連れて帰ってくる。
それだけでも、常識では考えられない事態だった。
しかも、その竜王は、近隣のドラゴンたちを屈服させ、ダイムラクのアルゴスすら従えたという、恐るべき存在なのである。
もし、そのヴァルザリオンがラハシアの依頼を受け、寺院の異変へ介入しようとしているのだとしたら、事態は極めて厄介なことになるだろう。
しかし、ラヒブはすぐに、自分の考えを修正した。
「……竜は、今どこにいる?」
「すでに飛び去りました」
その答えに、彼はほんのわずかに安堵した。
少なくとも、今すぐ巨大なグリーンドラゴンが寺院へ襲いかかってくるというわけではないらしい。あれほど強大な相手であっても、ここにいなければ対処する時間はあるし、竜のような生き物が、わざわざエルフの村の揉め事へ深く関わるとも限らない。
そう考えたとき、報告者がさらに口を開いた。
「ただ、飛び去る前に、ヴァルザリオンはセラリスへ言いました」
「……何と?」
「危なくなったら呼べ、と」
ラヒブは、再び黙り込んだ。
今度の沈黙は、先ほどよりも長かった。
竜は去った。
それだけなら、まだよい。
問題は、戻ってくる可能性があるということだった。
しかも、その可能性を判断するために必要な情報が、何一つない。
セラリスは、どうやってヴァルザリオンを呼ぶのか。魔法を使うのか、それとも何か別の手段があるのか。呼んでからどれほどの時間で竜が到着するのか。そして何より、あれほど誇り高いはずのグリーンドラゴンが、一人のエルフの娘の求めに、どこまで応じるつもりなのか。
何もわからなかった。
わからないということは、それだけ危険だった。
相手が何をできるのか知っていれば、それに対して備えることができる。しかし、相手の能力も、行動も、目的もわからないとなれば、どこまで警戒すべきなのかさえ判断できないのである。
「……そのセラリスというエルフは、何者なのだ?」
ラヒブは、低い声で尋ねた。
「ミスタメアの守護官であり、カラーリーのエルフだと聞いております。人間の冒険者を育て、コボルドを雇い入れ、ヴァルザリオンと友誼を結んでいるそうです」
「それは噂だろう」
「ですが、ヴァルザリオンの背に乗って村へ来たのは事実です」
報告者は、慎重に答えた。
ラヒブは、思わず目を細めた。
確かに、その一点だけは疑いようがなかった。
噂がどこまで真実なのかはわからない。
しかし、少なくとも、一人のエルフの娘が、あの竜王を旅の足として利用できるほど親しい関係にあるという事実は、目撃した者たちによって確認されているのである。
そして、その娘は今、ラハシアの依頼を受け、コタ・フタンへ来ている。
ラヒブは、しばらく考え込んだ。
もし、この娘が単に強い冒険者というだけなら、対処する方法はいくらでもあるかもしれない。罠を仕掛け、配下の者を使い、必要ならば囚われた者を利用することも考えられるだろう。
しかし、相手がどの程度の力を持っているのかがわからない。
何より、その背後にはヴァルザリオンがいる。
万一、何かの拍子にあの竜王を呼び戻されれば、寺院そのものが脅威にさらされる可能性さえあった。
いや、待て。
ラヒブは、さらに考えた。
本当に恐れるべきなのは、飛び去った竜なのだろうか。
あれほど強大な存在を、まるで古い友人のように扱い、遠い村へ救援に駆けつけたエルフの娘こそ、最も警戒すべき相手なのではないか。
竜の力を借りられるということは、単に強い味方がいるというだけではない。自分自身もまた、竜から友人として認められるだけの何かを持っているということなのだから。
「……ラハシア」
ラヒブは、低く呟いた。
その声には、抑えきれない苛立ちと、冷たい警戒が混じっていた。
「お前は、いったい何を呼び寄せたというのだ……」
答える者はいなかった。
ただ、ラヒブの頭の中では、これまで当然のように進められると思っていた計画について、初めて深刻な疑問が生まれ始めていたのである。
◇
一方その頃、セラリスは、ラヒブが寺院の奥でそんなことを考えているとは夢にも思わず、ラハシアの家で広げられた地図を覗き込んでいた。
村の騒ぎは、ようやく少し落ち着き始めていた。
もっとも、グリーンドラゴンが空から現れたという出来事が、そう簡単に忘れられるはずもなく、家の外では今も何人かの村人たちが、竜王とセラリスについて興奮した様子で話している声が聞こえていた。
しかし、家の中にいる者たちは、もはやそんな噂に気を取られている余裕はなかった。
ラハシアが広げた地図には、寺院へ至る道と、彼女の知っている範囲の内部構造が描かれていた。
古い建造物であるため、すべての部屋や通路が明らかになっているわけではない。むしろ、地図に記されていない場所の方が多い可能性さえあったが、それでも何も知らずに踏み込むよりは、はるかに役に立つ資料だった。
「寺院はここだよね?」
セラリスが地図の一角を指さした。
「はい。村から北へ向かった、灰色山の方です」
「シスワたちは、どこから出入りしてるの?」
「以前は、主にこちらの入口を使っていました。ただ、最近は警備の者が増え、私たちが近づくことも難しくなっています」
「ふうん。ほかにも入口はある?」
「あるとは聞いていますが、私が知っているのは、ここに描かれた範囲だけです」
セラリスは頷いた。
わからないことがあるのは当然だった。
ラハシアは寺院を管理する立場にあるわけではないし、まして現在のように、ラヒブによって警戒が厳しくなっている状況では、内部の様子を詳しく調べることなどできなかっただろう。
「じゃあ、知ってるところから確認していこうか。まず、見張りの人数と交代の時間を知りたいね」
「それでしたら、村の者たちが見かけた範囲でお話しできます」
「うん。お願い」
ラハシアは、地図の上へ細い指を置いた。
彼女は、寺院へ向かった者たちのこと、戻ってこなくなった者たちのこと、以前とは明らかに様子が変わってしまったシスワたちについて、一つずつ説明していった。
その声は落ち着いていたが、ときおり、どうしても抑えきれない感情が滲むことがあった。
とりわけ、以前は親しくしていた者が、今では自分を見ても何の反応も示さず、ただラヒブの命令に従っているという話になると、彼女は少しだけ言葉を詰まらせた。
セラリスは、その様子を見ながら、改めて今回の冒険の難しさを考えていた。
相手が単なる怪物であれば、倒すことを考えればよい場合もあるだろう。
しかし、今回は違う。
シスワたちは、ラハシアや村の者たちにとって、昨日までの仲間なのである。彼らが本当に魔法によって操られているのなら、何も知らずに戦って命を奪うことは、できるだけ避けなければならなかった。
もちろん、だからといって自分たちが危険に身をさらしてよいわけではない。
相手が剣を振るってくれば、それを止める必要があるし、魔法で攻撃してくるのなら、防がなければならない。だが、敵を殺すことと、戦闘能力を奪うこととは、必ずしも同じではなかった。
セラリスには、そのための手段があった。
相手を眠らせる魔法もあれば、動きを封じる方法もある。さらに、髪を束ねるために使っている細い紐には、《String of Lashing》という魔法の力が備わっていた。
必要なら、そうした道具も利用できるだろう。
ただし、使える手段があるからといって、必ずうまくいくとは限らない。
狭い通路で複数の敵と遭遇した場合には、誰を先に無力化するべきなのか。囚われた者が近くにいるなら、どのような魔法を使えば安全なのか。敵の中に操られていない者が混じっていたら、どう見分ければよいのか。
考えなければならないことは、いくらでもあった。
「……先生」
ミハイルが、地図を覗き込みながら口を開いた。
「もしシスワたちが襲ってきたら、どうします?」
「まずは、殺さずに済ませる方法を考えよう」
セラリスは、すぐに答えた。
「眠らせたり、動けなくしたりできれば、それが一番いいと思う。ただ、危険な状況になったら、無理に相手を助けようとして自分たちが死んじゃ駄目だからね」
「はい」
「特に、操られてる人と操ってる人を間違えたくないんだ。だから、できれば最初は戦わずに様子を見たいと思ってる」
ヴァレリアが頷いた。
「まず、どのような魔法が使われているのかを確かめる必要がありますね」
「そうだね。魅了なのか、もっと別の精神支配なのか、それとも魔法以外の理由で従ってるのか。そこがわからないと、どうすれば助けられるかも決められないから」
ダリヤは、地図の通路を指でたどりながら考えていた。
「それなら、見張りに見つからないように入る方法を探した方がいいですね。正面から行ったら、きっと戦いになっちゃいますし」
「うん。そこはダリヤに期待してるよ。でも、罠があるかもしれないから、急がなくていいからね」
「わかってます。ちゃんと調べますよ」
その返事には、以前にはなかった自信が感じられた。
セラリスは、少し嬉しくなった。
ミスタメアで三人を育て始めた頃なら、こういう話をしても、彼らはただ自分の指示を待っていただろう。何を持っていけばよいのか、誰が先頭に立つべきなのか、敵と遭遇した場合にどうするべきなのかも、すべて彼女が決めなければならなかった。
だが、今は違う。
ミハイルは仲間を守るために戦闘を考え、ヴァレリアは魔法による支配を解除する方法を考え、ダリヤは敵に見つからずに侵入するための経路を探している。
それぞれが自分の役割を理解し、何ができるのかを考え始めているのだ。
もちろん、まだ十分ではない。
危険な場面に遭遇すれば、判断を誤ることもあるだろうし、経験の浅さから見落とすこともあるに違いない。
しかし、それでも確かに成長しているのである。
セラリスは、そのことを喜ばしく思った。
そして同時に、今回の冒険では、そうした成長を確かめる以上に、大切なことがあるのだということも忘れなかった。
ラハシアの願いに応えること。
囚われた者たちを助けること。
操られているかもしれないシスワたちを、できるだけ殺さずに済ませること。
そして何より、四人全員が生きて帰ることだった。
「じゃあ、まず様子を見ようか」
セラリスは、地図の一点を指した。
「寺院の中で何が起きてるのか確かめて、それからどうするか決めよう。最初から戦うつもりで入る必要はないでしょう?」
「はい」
ミハイルが頷き、ヴァレリアも静かに同意した。
ダリヤは、既に地図に描かれた通路の形を覚えようとしているらしく、目を凝らして細かな記号を追っていた。
ラハシアは、そんな四人の様子をじっと見つめていた。
彼女は、セラリスがどれほど強い魔法使いなのかを知らない。
その剣の腕も、実際に見たわけではないし、どのような魔法を使えるのかも、まだ十分には理解していなかった。
ただ、目の前の娘が、竜王と友誼を結ぶほどの人物であることだけは知っている。
そして、その恐るべき竜王の背に乗って空から現れた娘が、今、何よりも先に考えているのは、どうすれば敵となった同族を殺さずに済ませられるのかということだった。
その事実が、ラハシアには不思議なほど胸に沁みた。
噂というものは、たいてい現実を大きくしてしまう。
人は、聞いた話を誰かへ伝えるとき、少しばかり面白くしようとするし、恐ろしい出来事はより恐ろしく、勇敢な者の行いはより華々しく語られるものである。
だからラハシアも、ミスタメアのセラリスについて聞いたとき、きっと何かの誇張が含まれているのだろうと思っていた。
コボルドを殺さずに雇い入れたという話も、実際にはもっと複雑な事情があるのかもしれない。グリーンドラゴンと友誼を結んだという話も、相手が人間やエルフを襲わないようにするために、何らかの取引を結んだだけなのかもしれなかった。
しかし、今では、そんなふうに考えていたこと自体が、少しばかり恥ずかしくなってきた。
なぜなら、実際に会ってみたセラリスは、噂の中で語られているほど大げさな人物には見えないのに、その行動は、噂を聞いただけでは想像できなかったほど自然で、そして優しかったからである。
彼女は、自分が強いことを誇示しようとはしなかった。
竜王の友人であることを利用して、村人たちに何かを命じようともしなかった。
まして、助けに来たのだから感謝しろなどと言うこともなかった。
ただ、困っている者がいると聞いたから来たのだと言い、どうすれば助けられるのかを考えているのである。
それは、ラハシアにとって、何よりも信じたいと思っていた救いの形だった。
「……セラリス様」
「なに?」
セラリスが顔を上げた。
ラハシアは、少しためらってから口を開いた。
「私たちのために、危険な場所へ行ってくださるのですね」
「うん。でも、まだ危険かどうかも、どのくらいかわかってないからね。ちゃんと調べてから行くよ」
「それでも……ありがとうございます」
セラリスは、少し困ったように笑った。
「だから、お礼はまだ早いってば。ちゃんと助けられてからにしてね」
ラハシアは、その言葉を聞いて、今度はほんの少しだけ笑った。
そして、ようやく理解したのである。
この娘は、おそらく本気でそう考えているのだ。
助けを求められたから来た。
できることがあるなら手伝う。
危険があるなら、できるだけ避ける。
敵を殺さずに済むなら、殺さない方法を探す。
それらは、彼女にとって特別な美徳でもなければ、誰かに褒められるための行いでもなく、ごく当たり前の判断なのだろう。
だからこそ、ラハシアには、その当たり前のことを実際に行える強さが、ひどく眩しく感じられたのである。
遠いミスタメアで暮らすエルフの娘について、人々はさまざまな噂を語っていた。
竜王を友とする魔法使い。
コボルドを雇い入れた、変わり者のエルフ。
人間の冒険者たちを育てる、ミスタメアのレディ。
ラハシアは、それらの噂を聞くたびに、どこまでが真実なのだろうと思っていた。
けれども、今では少し違うことを考えていた。
もしかすると、噂というものは、現実を大きくしてしまうばかりではないのかもしれない。
人々が語っている話は、恐ろしい竜王のことや、珍しい種族が一緒に暮らしていることばかりである。しかし、その中心にいるセラリスという娘が、なぜそうした者たちと友誼を結び、なぜ困っている者を助けようとするのかについては、ほとんど語られていないのではないだろうか。
そのことに気づいたとき、ラハシアの胸には、今まで感じたことのなかった、静かな期待が生まれ始めていた。
自分たちは、もしかすると、本当に助かるのかもしれない。
父も、婚約者も、寺院で捕らえられた者たちも、そして、以前とは変わってしまったシスワたちも、まだ救えるのかもしれないのである。
もちろん、それはまだ希望にすぎなかった。
何も解決していないし、ラヒブがどのような手段で寺院を支配しているのかもわからない。これから先、何が起きるのかを考えれば、恐ろしい気持ちは少しも消えていなかった。
それでも、今のラハシアには、先ほどまでとは違うものがあった。
自分たちだけではないという安心感である。
ラハシアは、もう一度セラリスの横顔を見た。
黒髪のエルフの娘は、地図を覗き込みながら、ダリヤへ何かを説明しているところだった。ミハイルもヴァレリアも、それぞれ自分の考えを口にし、セラリスはそれを聞きながら、必要なときだけ意見を加えている。
そこには、竜王を従えて敵を蹴散らそうとするような、華々しい英雄の姿はなかった。
ただ、仲間とともに危険を調べ、できるだけ多くの者を助けようとする、一人の冒険者の姿があった。
そしてラハシアは、その姿を見ているうちに、ふと考えた。
もしかすると、ミスタメアのセラリスについて人々が語っている噂は、大きすぎるのではなく、むしろ彼女という人物の本当の姿を伝えるには、まだ少しばかり小さすぎるのかもしれなかった。
少なくとも今のラハシアには、そう思えてならなかったのである。