セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
ラハシアがセラリスたちを自分の家へ招き入れたとき、外ではまだ、若き緑竜王ヴァルザリオンの突然の来訪について語り合う人々のざわめきが、寄せては返す波のように続いていた。
無理もないことだった。コタ・フタンは灰色山の麓にある、古くからのカラーリー・エルフの集落であり、森を愛し、静かな暮らしを好む者たちにとって、グリーンドラゴンが村の上空へ現れたというだけでも、何年にもわたって語り継がれるほどの大事件だったろう。まして、その竜の背に五人もの者が乗っており、その中には救援を求めて送り出した使者と、噂に聞くミスタメアのセラリスがいたというのである。村人たちが興奮するのも当然であり、彼らがすぐに普段の暮らしへ戻れるとは、セラリス自身も思っていなかった。
しかし、家の扉を閉めてしまえば、外のざわめきも遠い潮騒のように柔らかくなり、そこには森のエルフの住居らしい、穏やかな空気が満ちていた。
磨き込まれた木の床には小さな敷物が置かれ、壁際の棚には素焼きの器や木彫りの装飾品が並んでいる。窓辺には乾燥させた薬草が小さな束になって吊るされ、その淡い香りが、木材の持つ清々しい匂いと混じり合っていた。家具は華美なものではなかったが、どれも長く大切に使われてきたことがわかる品ばかりで、住む者の慎ましさと、日々の暮らしを丁寧に営もうとする心遣いが、部屋のあちらこちらに感じられた。
その住まいの中で、セラリスは初めて、ラハシアという娘の姿を落ち着いて眺めることができた。
そして、思わず息を呑みそうになった。
美しい娘だった。
エルフという種族は、もともと人間たちから美しい容姿を持つ民として知られている。均整の取れた顔立ちや、長い年月を経ても若々しさを失いにくい姿は、ときとして人間の詩人たちに、妖精や精霊の美しさを思わせるものとして歌われることさえあった。
しかし、ラハシアの美しさには、そうした同族の中にあっても、なお一際人の目を引きつけずにはおかないものがあった。
薄いベールが髪と額を柔らかく覆い、その下から覗く顔は、ただ整っているというだけでは言い表せなかった。眉の描くなだらかな線も、澄んだ瞳の形も、細く通った鼻筋も、慎ましく結ばれた唇も、それぞれが不思議なほど自然な調和を保っており、どこか一つだけが優れているというより、そのすべてが一つの美しさを形作っているように思われた。
夜空には数えきれないほどの星が輝いているけれど、ひとたび太陽が昇れば、それらの星々は一つ残らず光の中へ姿を隠してしまう。
ラハシアには、それに似た美しさがあった。
もし大勢のエルフの娘たちの中へ彼女を立たせたとしても、人々の視線は自然にその姿へ引き寄せられてしまうだろう。それは高価な衣装や宝石によって飾り立てられた美ではなく、彼女自身の内側から静かに現れているような、いささか不思議な魅力を備えたものだったのである。
もっとも、今のラハシアには、その美しさを誇るような余裕など少しもなかった。
白い頬には疲労の色が浮かび、大きな瞳の下には、眠れぬ夜を幾度も重ねてきたことを物語る薄い影が落ちていた。時折見せる微笑みにも、若い娘らしい明るさより、訪問者を気遣おうとする懸命な心遣いの方が強く感じられ、薄いベールさえ、装いのためのものというよりは、自分自身を外の世界からわずかに隔て、今にも崩れそうになる心を守るための薄い幕のように見えた。
セラリスは、そんな彼女をしばらく眺めてから、卓を挟んだ向かい側へ腰を下ろした。
美しい娘だということは、確かに印象に残った。
しかし、それ以上に気になったのは、彼女がどれほどの不安を抱えているのかということだった。
目の前のラハシアは、決して頼りない娘には見えなかった。使者を送り、救援を求める手紙を書き、自分の知っている範囲で神殿の地図まで用意している。そうした行動を取れるだけの意志の強さを持っていることは、既に十分にわかっていた。
それでもなお、彼女の指先には、何かを必死に堪えている者だけが見せる、かすかな震えがあったのである。
「……二日前のことです」
ラハシアは、卓の上で組んでいた両手の指を、少し強く握り合わせた。
「シスワたちが、村を襲いました」
ミハイルが眉を寄せた。
「そのシスワというのは、神殿にいる戦士たちのことですか?」
「戦士ばかりではありません。神殿で学び、修行する者たちのことです。教師もいますし、若い生徒もいます。皆、私たちと同じカラーリーの者なのです」
ラハシアはそこまで答えると、一度言葉を切った。
彼女の声には、奇妙な痛みが含まれていた。
それは、恐ろしい敵について説明する者の声ではなかった。むしろ、よく知っている者たちの名を、敵として語らなければならないという、そのこと自体を苦しんでいる者の声だった。
「私たちは、彼らを昔から知っています。幼い頃に一緒に遊んだ者もいますし、村へ戻ればいつも挨拶を交わしていた者もいます。神殿で修行しているというだけで、私たちと何も違うわけではなかったのです。それなのに、二日前に村へやって来た彼らは、まるで別人になってしまったようでした」
「どう違ったの?」
セラリスが尋ねた。
ラハシアは少し考え、言葉を選ぶようにして答えた。
「話しかけても、ほとんど答えてくれませんでした。名前を呼んでも、昔のことを話しても、まるで聞こえていないかのようにこちらを見るだけなのです。答えてくれる者もいましたが、その者たちも、結局は同じことしか言いませんでした」
「何て?」
「ラヒブに従え、と」
その名前を口にしたとき、ラハシアの表情が強張った。
「ラヒブの命令に従い、抵抗するなと、何度も繰り返しました。私たちが理由を尋ねても、説明しようとはしませんでしたし、以前の彼らなら決してしなかったような乱暴な振る舞いまで……」
彼女は唇を噛んだ。
何かを思い出したのだろう。
その瞳に一瞬、強い恐怖が浮かんだ。
「私を連れて行こうとしたのです」
部屋の空気が、わずかに重くなった。
ミハイルは無意識に背筋を伸ばし、ヴァレリアも静かにラハシアの顔を見つめた。ダリヤは卓の上へ置いていた手を引き寄せ、それまでとは違う真剣な表情で話の続きを待っている。
「あなたは逃げられたんだね?」
セラリスが尋ねると、ラハシアは頷いた。
「はい。村の者たちが間に入ってくれました。シスワたちは武器を持っていましたが、私たちをその場で殺そうとしているわけではなかったらしく、混乱している間に、どうにか逃げることができたのです」
「追ってきた?」
「少しの間は。けれど、村の者たちが行く手を塞いでくれました。それで私は逃げられたのですが……」
ラハシアは、そこで言葉を詰まらせた。
両手の指が、白くなるほど強く握り合わされている。
セラリスは、何も言わずに待った。
急かす必要はなかった。
彼女がここまで話すだけでも、どれほど勇気を必要としているのかは、その表情を見れば十分にわかったからである。
「……シルヴァと、メリサを」
ラハシアの声が震えた。
「二人は、連れて行かれてしまいました」
「攫われたんだね?」
「はい」
ラハシアは、うつむいたまま頷いた。
「二人とも私の知っている娘たちです。あの子たちは、何も悪いことなどしていません。なのに、私の代わりに連れて行かれたのではないかと思うと、どうしても……」
そこで彼女は言葉を失った。
自分の代わりに、という思いが、どれほど深く彼女を苦しめているのか。
シルヴァとメリサが連れ去られたのは、ラハシアの責任ではない。そんなことは、理屈としては誰にでもわかるだろう。しかし、人の心というものは、必ずしも理屈だけで納得できるものではないのである。
もし自分が逃げなかったなら。
もし自分が捕まっていたなら。
そうすれば、あの二人は無事だったのではないか。
そんな考えが一度胸の中に生まれてしまえば、どれほど周囲から慰められたとしても、簡単には消えてくれないものなのかもしれなかった。
ラハシアはしばらく目を伏せていたが、やがて小さく息を吐くと、席を立った。
「……お待ちください。二人の姿を描いたものがあります」
彼女は部屋の奥へ向かい、小さな箱を開けると、中から丸められた羊皮紙を二枚取り出した。
それらを大切そうに抱えて戻ってくると、卓の上へ並べ、丁寧に広げた。
「これが、シルヴァとメリサです」
描かれていたのは、二人の若いエルフの姿だった。
旅人が人捜しのために描くような、顔の特徴だけを簡単に記した似顔絵ではなかった。おそらく、本人たちをよく知る者が描いたのだろう。目元の微妙な形や、口元の癖、髪の流れ方まで、かなり丁寧に捉えられている。
そこには、単に顔を見分けるためだけではない、描かれた者たちへの親しみが感じられた。
セラリスは、二枚の絵を見比べた。
シルヴァとメリサ。
名前を聞いただけなら、まだ遠い場所にいる見知らぬ娘たちにすぎない。
しかし、こうして顔を見せられると、それが途端に違ってくる。
そこには、どこかの家で生まれ、誰かに愛され、友人たちと笑い合いながら暮らしてきた、二人のエルフがいたのである。
「これ、持っていってもいいですか?」
ダリヤがすぐに尋ねた。
ラハシアは、少し驚いたように彼女を見た。
「ええ、もちろんです。そのために用意したものですから」
「ありがとうございます。じゃあ、みんなで顔を覚えておきましょう。神殿の中で会っても、間違えないようにしたいですし」
ダリヤは、まず二枚の絵をじっくりと眺め、それからミハイルへ渡した。
「ミハイルも、ちゃんと見てくださいね。暗いところで会ったら、髪の色だけじゃ見分けられないかもしれませんから」
「わかってるよ」
ミハイルは真面目な顔で頷き、描かれた二人の顔を見比べた。
続いてヴァレリアも羊皮紙を受け取り、しばらくその絵を眺めてから、静かに頷いた。
「この二人を探せばよいのですね」
「はい。どうか、よろしくお願いします」
ラハシアが深く頭を下げた。
その様子を見ながら、セラリスは、少しだけ満足そうに目を細めた。
三人が冒険を始めたばかりの頃なら、おそらく最初に尋ねたのは、敵が何人いるのか、どんな武器を持っているのかということだったろう。もちろん、それらも大切な情報である。しかし、今回の目的が囚われた者を救い出すことである以上、誰を探すべきなのかを知ることも、それと同じくらい重要だった。
今のダリヤは、言われるまでもなく、そのことに気づいている。
それが嬉しかった。
彼女は単に罠を見つける技術を覚えただけではない。自分たちが何のために危険な場所へ入るのかを考え、その目的に合わせて必要な準備をするようになってきたのである。
セラリスは、そんな弟子の成長を喜びながらも、今はあえて何も言わなかった。
わざわざ褒められなくても、自分の判断が役に立つということを、ダリヤ自身が少しずつ理解してくれればよいと思ったからだった。
◇
「それから、こちらも見ていただきたいのです」
ラハシアは、もう一枚、大きな紙を卓の上へ広げた。
今度は地図だった。
ただし、神殿全体を描いたものではない。
ラハシア自身が知っている範囲を、記憶を頼りに描き起こしたものらしく、入口から続く通路や、礼拝に使われていた広間、そこから枝分かれするいくつかの部屋などが、丁寧な線で記されていた。しかし、奥へ進むにつれて記述は少なくなり、あるところから先は、通路の線そのものが途切れている。
「ここまでは、私も入ったことがあります」
ラハシアは、地図の一角へ指を置いた。
「ですが、その先はシスワたちが修行するための場所です。村の者たちは普通、立ち入ることを許されていません」
セラリスは地図を引き寄せ、しばらく目を凝らした。
神殿というものは、必ずしも礼拝のための広間だけでできているわけではない。修行者が寝起きする場所もあれば、食料や道具を保管する部屋もあり、外部の者には知らされていない通路や、特別な儀式に使う場所などが設けられていることもある。
まして、灰色山にある神殿は、かなり古い建造物であるらしい。
その一部が山腹へ食い込むように造られているというのなら、目に見えている建物より、岩山の内部に広がる空間の方が大きい可能性さえあった。
「入口は一つ?」
「私が知る限りでは、こちらだけです」
「窓は?」
「ほとんどありません。神殿の一部は岩山を削って造られていると聞いていますし、奥の方には外の光が入らない場所もあります」
「地下はあるの?」
ラハシアは少し迷った。
「あるはずです。古い伝承にも、神殿の下に広い空間があるという話が残っています。ただ、私は見たことがありませんので、詳しいことはわかりません」
「そっか。じゃあ、地図に描かれてないところが結構ありそうだね」
「はい。お役に立てる情報が少なくて、申し訳ありません」
「いや、十分役に立ってるよ。何も知らずに行くのと、入口や通路の位置がわかってるのとでは、全然違うからね」
セラリスはそう答え、地図を三人の方へ向けた。
ミハイルは通路の幅や、戦闘になった場合に前衛が立てそうな場所を気にしているようだった。ヴァレリアは部屋と部屋のつながりを追い、負傷者を連れて引き返す場合に、どの道を使えばよいかを考えているらしい。
ダリヤだけは、入口から奥へ通じる道を目で追いながら、途中で何度か不思議そうに首を傾げていた。
「……先生」
「なに?」
「ここ、行き止まりになってますね」
ダリヤが指さしたのは、礼拝用の広間から分かれた短い通路だった。
地図では、その通路の先が壁で塞がれていることになっている。
「うん。そう描いてあるね」
「ラハシアさん、ここって本当に行き止まりなんですか?」
ラハシアは少し困ったように眉を寄せた。
「私が見たときには、そうでした。通路の先に石の壁がありましたので、その先へ進めるとは思いませんでした」
「壁に扉は?」
「見当たりませんでした」
「じゃあ、調べた方がよさそうですね」
ダリヤは、ごく自然にそう言った。
ラハシアは、少し驚いたように彼女を見た。
「……壁しかありませんでしたけれど?」
「うん。でも、壁しかないように見えるところに、隠し扉があることもありますから。行き止まりだって思い込まない方がいいと思うんです」
その言葉に、セラリスが笑った。
「そうだね。ちゃんと確認しよう」
「はい。壁の継ぎ目とか、床の仕掛けとか、いろいろ調べてみます」
ダリヤは嬉しそうに頷いた。
ラハシアは、そんな二人をしばらく見つめていた。
彼女にとって、壁があるということは、その先へ進めないという意味だった。誰でもそう考えるだろうし、それを疑う必要など、これまで感じたこともなかったのである。
しかし、目の前にいる冒険者たちにとっては違うらしい。
行き止まりだということは、本当にそこが終点なのかを確かめる必要があるということであり、見えているものがすべてだと考えること自体が、危険につながる場合もあるのだろう。
考えてみれば、それは神殿に限った話ではなかった。
ラハシアは、ふとそんなことを思った。
彼女自身もまた、これまで自分が見てきたものや、知っていると思っていたことだけを頼りに、寺院の異変を理解しようとしていたのではないだろうか。けれども、そこにはまだ知らない事情があり、見えていないものがあるのかもしれない。
もしそうなら、今までどうすることもできないと思っていたことにも、別の方法が残されている可能性がある。
それは、ほんの小さな希望だった。
しかし、今のラハシアには、その小さな希望さえ、ひどく大切なものに思われたのである。
◇
「ほかに、知っておいた方がいいことはある?」
セラリスが尋ねた。
それまで地図の説明を続けていたラハシアは、その問いを聞いた瞬間、顔色を変えた。
彼女は何かを言おうとして唇を開いたものの、すぐには声が出なかった。
その様子を見て、セラリスは口を閉じた。
急かしてはいけない。
そう思ったのである。
ラハシアがまだ話していないことは、きっと彼女にとって、ひどく辛いことなのだろう。だからこそ、話すべきだとわかっていても、なかなか口にできずにいるのかもしれなかった。
やがて、ラハシアは小さく息を吸った。
「……父も、神殿へ行ったのです」
セラリスは、静かに頷いた。
「いつ?」
「シスワたちが村を襲ったあとです」
ラハシアの指先が、卓の上でかすかに震えた。
「父は、何が起きているのか確かめなければならないと言いました。寺院には昔から父を知っている者たちもいますし、話せばわかってもらえるかもしれない、と」
「止めたんだね?」
「はい」
ラハシアは、ほとんど囁くような声で答えた。
「何度も止めました。今のシスワたちは、以前の彼らとは違うのです。父が行ったところで、話を聞いてくれるとは限りません。それなのに、父は……」
彼女は目を伏せた。
あの日のことを思い出しているのだろう。
父が出かける支度をしていたとき、自分は何と言ったのか。どれほど引き止めようとしたのか。そして最後に、父がどんな顔をして自分を見たのか。
そうした一つ一つの記憶が、まだ鮮やかに残っているようだった。
「……帰ってきてないんだね」
セラリスが言うと、ラハシアは小さく頷いた。
「はい。戻ってきません」
その声には、深い悲しみがあった。
しかし、それだけではなかった。
自分がもっと強く止めていればよかったのではないかという後悔と、父ならばきっと大丈夫だと思いたかった気持ちと、それでも帰ってこないという現実への恐怖が、複雑に絡み合っているように感じられた。
セラリスは、何も言わなかった。
安易に大丈夫だなどと言って慰めることはできなかったからである。
父が無事なのかどうかは、まだわからない。
神殿の中で何が起きているのかもわからない以上、今ここで安心させるような言葉を口にしても、それがどこまで意味を持つのか判断できなかった。
ただ、話を聞くことだけはできる。
そして、助けられる可能性があるなら、そのために行動することもできるのだった。
「……それから」
ラハシアが、さらに口を開いた。
その声は、先ほどよりも弱々しくなっていた。
「婚約者も、神殿へ行きました」
部屋の中が静まり返った。
ダリヤも、今度は何も言わなかった。
ラハシアの指先が、卓の上で固く組み合わされている。
彼女はその指を見つめながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「父が戻らなかったので、私は、自分で神殿へ行こうと思いました。あのまま待っていることなど、どうしてもできなかったのです。けれど、彼が止めました」
「婚約者の人が?」
「はい」
ラハシアは頷いた。
「私が行けば、また捕らえられるかもしれない。だから、自分が様子を見てくると言ったのです。父のことも、何かわかるかもしれないからと」
彼女の声は、そこで少しだけ幼くなった。
それまで懸命に保っていた落ち着きが失われ、年相応の若い娘が抱える、どうしようもない不安が、そのまま言葉になって現れたようだった。
「私は、行かないでほしいと言いました。もう少し待って、村の年長者たちと相談してからにしようと頼んだのです。でも、彼は……」
ラハシアは、目を閉じた。
しばらくの間、何も言わなかった。
やがて、ようやく声を絞り出した。
「……それが、最後です」
セラリスは、卓の上へ広げられた地図を見た。
シルヴァとメリサ。
ラハシアの父。
そして婚約者。
少なくとも四人が、今も神殿の中にいる可能性がある。
しかも、その神殿を守っているシスワたちも、本来ならば敵ではない。
彼らが本当にラヒブの魔法によって操られているのなら、殺さずに無力化し、可能であれば正気へ戻す方法を考えなければならなかった。
セラリスは、胸の中で小さく息を吐いた。
なかなか面倒なことになっている。
もっとも、彼女の考える面倒という言葉には、決して嫌悪の意味だけが込められているわけではなかった。
むしろ、こういうときにこそ、冒険者としての経験と判断が問われるのである。
単純に敵を倒せばよいという話なら、火球を撃ち込んでしまえば済む場合もあるだろう。だが、今回そんなことをすれば、助けに来たはずの相手まで巻き込んでしまうかもしれない。
神殿の中には、操られている者がいる。
自分の意思でラヒブに従っている者もいるかもしれない。
何も知らずに捕らえられた者もいれば、抵抗したために幽閉されている者もいるだろう。
それらを見分けながら、できるだけ犠牲を出さずに進まなければならないのである。
しかも、ラハシアの父や婚約者が無事だという保証はない。
今この時にも、彼らが何らかの危険にさらされている可能性があった。
だからといって、何も考えずに神殿へ飛び込むわけにはいかない。
急ぐ必要はある。
しかし、急ぐことと、慌てることとは違う。
それは、セラリスがミハイルたちに何度となく教えてきたことであり、彼女自身も決して忘れるつもりのない、冒険者としての基本だった。
「ラヒブ本人には会ったことがあるの?」
セラリスが尋ねると、ラハシアの表情が変わった。
先ほどまで浮かんでいた悲しみの中へ、初めて明確な嫌悪の色が混じったのである。
「……あります」
「どんな人?」
「最初は、旅の聖職者のように振る舞っていました。穏やかに話し、神殿のことにも関心を示していましたので、私たちも、あの人が何か悪いことを考えているなどとは思いませんでした」
「でも、途中から変わったんだね?」
「はい。あの人が神殿へ入り込んでから、シスワたちの様子がおかしくなり始めました。最初はほんの数人だったのですが、やがて、ラヒブの言葉に逆らおうとしない者が増えていったのです」
「魔法を使う?」
「はい」
「どんな魔法?」
ラハシアは、少し考えた。
「詳しいことはわかりません。ただ、あの人が言葉をかけた相手が、まるで自分の考えを失ってしまったように従うのを見たことがあります。命じられたことに疑問を抱く様子もなく、ほかの者が何を言っても耳を貸さなくなってしまうのです」
セラリスは、静かに頷いた。
精神に作用する魔法である可能性は、かなり高そうだった。
もっとも、現時点では断定できない。相手がどのような術を用いているのかによって、解除する方法も、対処するために必要な準備も変わってくるからである。
ラヒブが魔法使いなのか、聖職者なのか、あるいはそれ以外の特殊な能力を持つ者なのかも、まだ十分にはわからなかった。
いずれにせよ、安易に近づくべき相手ではないだろう。
セラリスは、腰に帯びたソーンウォッチの柄へ軽く指を置いた。
知性剣は、まだ何も語らなかった。
それでも、いつでも相談できる相手がいるということは、彼女にとって少なからぬ安心材料だった。
もちろん、だからといって、ソーンウォッチがすべての答えを知っているわけではない。知性を持つ魔法の剣であっても、実際に何が起きているのかを調べなければ、判断できないことはあるのである。
セラリスは、もう一度地図へ目を落とした。
そして、しばらく考えたあと、三人の弟子たちへ顔を向けた。
◇
「じゃあ、今回の冒険で一番大事なことを確認しておくね」
セラリスがそう言うと、ミハイル、ヴァレリア、ダリヤの三人が、一斉に彼女を見た。
その表情には、それぞれ違う緊張が浮かんでいた。
ミハイルは、戦士として前に立つ自分が、どのような相手と戦わなければならないのかを考えているらしかったし、ヴァレリアは、操られた者たちを救うために、自分の祈りがどこまで役に立つのかを確かめようとしていた。ダリヤは、先ほどから地図に目を落とし、見張りの配置や隠し通路の可能性を考えているようだったが、それでもセラリスが声をかけると、すぐに顔を上げて話を聞く姿勢になった。
「神殿の中でエルフに襲われても、相手を敵だと思ってすぐに殺さないこと」
三人は頷いた。
「もちろん、向こうが本気で攻撃してくるなら、こっちも身を守らなきゃいけないよ。でも、操られているだけなら、その人たちは本来の敵じゃないでしょう? だから、まずは殺さずに済ませる方法を考えるんだ」
「わかりました」
ミハイルが答えた。
セラリスは、そこで少し考えるように地図へ目を落とした。
「武器を落とさせるとか、動けなくするとか、眠らせるとか、方法はいろいろあるからね。それでも駄目なら、一度逃げて仕切り直してもいいんだよ。何も、出会った相手を全部倒して進まなきゃいけないわけじゃないんだから」
ヴァレリアが、静かに頷いた。
「精神を操られている方たちを、何とか正気に戻せるとよいのですが」
「そうだね。そこは魔法の種類を確かめてから考えよう。無理に解除しようとして、かえって危険なことになっても困るから」
「はい。私も、使える祈りを確認しておきます」
「うん。お願い」
セラリスは頷き、それからミハイルへ目を向けた。
「ミハイルは前衛だから、どうしても敵と直接ぶつかることが多くなると思う。でも、今回はいつもの戦闘とは違うからね。相手を斬らずに止める方法も、ちゃんと考えておいてほしいんだ」
「わかりました。盾で押さえたり、武器を弾いたりする方法もありますし、狭い通路なら、俺が前に立って通さないようにすることもできます」
「そうそう。そういうのがいいね。でも、無理して一人で全部止めようとしないでよ。みんなで協力すればいいんだから」
ミハイルは、真面目な顔で頷いた。
セラリスは、それから髪を束ねている細い紐へ指を触れた。
《String of Lashing》。
必要に応じて使うことのできる魔法の道具だった。
これがあれば、剣で相手を斬り倒す以外にも、取れる行動はある。
もちろん、魔法の道具があるからといって、すべての危険を簡単に解決できるわけではない。相手が複数いれば、同時に対処しなければならない場合もあるだろうし、狭い場所では、道具の使い方そのものを工夫する必要があるかもしれなかった。
それでも、選択肢が多いということは、それだけ殺さずに済ませられる可能性が増えるということでもあった。
「斬るのは、本当にそれしか方法がないときだけにしよう。危険だからって、すぐに剣を振り回す必要はないんだよ」
「はい」
三人の返事が重なった。
そのやり取りを、ラハシアはじっと聞いていた。
彼女は、初めのうちは、助けに来た冒険者たちがどの程度の力を持っているのかを、まったく知らなかった。セラリスが強いという噂は聞いているし、竜王ヴァルザリオンと友誼を結んでいるという事実は、自分の目で確かめたばかりである。
しかし、それが神殿での戦いにどれほど役立つのかは、まだわからなかった。
何より恐ろしかったのは、助けを求めた結果として、シスワたちが殺されてしまうことだった。
彼らは、敵ではない。
少なくとも、ラハシアはそう信じたかった。
幼い頃から知っている者たちが、ある日突然、恐ろしい命令に従うようになったからといって、それまでの暮らしや、交わしてきた言葉や、一緒に笑い合った時間のすべてが失われてしまったわけではないはずだった。
しかし、人間の冒険者を雇えば、彼らは自分たちへ襲いかかってくるシスワを、当然のように敵として扱うかもしれない。
そして、命を守るために剣を振るうことを、誰も責めることはできないだろう。
そのことが、ラハシアには何より恐ろしかったのである。
助けを求めるということが、ときには、自分の愛する者を救うために、別の愛する者を殺してくれと頼むことになってしまう。
そんなことは、どうしてもしたくなかった。
だからこそ、ミスタメアのセラリスという娘について、コボルドすら殺さずに雇い入れたという噂を聞いたとき、彼女は一縷の望みを抱いたのである。
この人なら、何か違う方法を考えてくれるのではないか。
人間やエルフが敵として恐れる者とさえ、話し合い、理解し合うことのできる人なら、操られた同族を救うための方法を、探してくれるのではないか。
その願いは、決して大きなものではなかった。
ただ、シスワたちを最初から殺すべき相手だと決めつけずにいてほしかったのである。
そして今、目の前のセラリスは、そのことを当たり前のように三人の弟子たちへ教えている。
ラハシアは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……セラリス様」
「なに?」
「それを聞けただけでも、あなたをお呼びしてよかったと思えます」
セラリスは、少し困ったように笑った。
「いや、まだ早いって。これから神殿へ行くんだからね」
「いいえ」
ラハシアは、静かに首を振った。
薄いベールが、かすかに揺れた。
「村を襲った者たちも、私にとっては知っている人たちなのです。以前の彼らがどのような人だったか、私は知っています。誰かが命を落とせば、その人を待つ家族がいることも知っています」
彼女は、そこで一度言葉を切った。
「……助けてほしいのに、助けを求めたせいで、その人たちが殺されるのではないかと、ずっと怖かったのです」
その声には、もう最初の頃のような取り繕った落ち着きはなかった。
ラハシアは、ようやく自分が何を恐れていたのかを、言葉にすることができたのだろう。
父が戻らない。
婚約者も帰ってこない。
シルヴァとメリサが連れ去られ、シスワたちは変わってしまった。
そのすべてを、何とかしたかった。
けれども、何かをしようとするたびに、別の誰かが傷ついてしまうかもしれないという恐怖が、彼女を縛っていたのである。
セラリスは、ラハシアの顔を見つめた。
その美しい娘が、今にも泣き出してしまいそうな表情で自分を見ていることに、胸の奥が少し痛んだ。
何と答えればよいのだろう。
絶対に大丈夫だと、言ってやれればよかった。
必ず全員を無事に救い出してみせると、約束してやれればよかった。
だが、そんなことはできない。
まだ神殿へ入ってもいないのだ。
敵が何人いるのかも、囚われている者たちが今どのような状態なのかも、ラヒブがどれほど強力な魔法を使えるのかさえ、十分にはわかっていなかった。
そのような状況で、何も心配するなと約束することは、セラリスにはできなかったのである。
それでも、何も言わずにいるわけにはいかなかった。
ラハシアは、今、自分たちへ助けを求めているのだ。
そして、セラリスには、その願いに応えようとする意志があった。
「大丈夫」
今度だけは、セラリスは少し強く言った。
「できる限り、みんな連れて帰るよ」
ラハシアが顔を上げた。
セラリスは、まっすぐに彼女を見返した。
「もちろん、何が起きるかわからないから、絶対にって約束はできない。でも、最初から誰かを見捨てるつもりはないし、助けられる方法があるなら、ちゃんと探すよ。だから、今はわかってることを全部教えてほしいんだ」
それは、飾り気のない言葉だった。
華々しい英雄が口にするような、壮大な誓いではなかったかもしれない。
けれども、ラハシアには、その言葉が何より頼もしく感じられた。
セラリスは、何も考えずに大丈夫だと言っているのではない。
危険を理解し、失敗する可能性も考えたうえで、それでも助けるためにできることを探そうとしているのである。
その違いが、ラハシアにはよくわかった。
彼女の頬へ、ほんのわずかに明るさが戻った。
それは、長い間厚い雲に覆われていた空から、太陽が不意に顔を覗かせたときのような、静かで美しい変化だった。
美しい娘が、初めて心から安堵した表情を浮かべる。
その瞬間、ラハシアの顔には、先ほどまでの悲しみの影を払うような柔らかな光が宿り、部屋の中の空気まで少し明るくなったように感じられた。
セラリスは、その表情を見て、少しだけ嬉しくなった。
何しろ、まだ何も解決していないのである。
シルヴァとメリサは囚われたままだし、父も婚約者も戻ってこない。寺院にはラヒブがいて、操られているらしいシスワたちが、その命令に従っている。
それでも、今のラハシアがほんの少しでも安心できたのなら、それは決して無駄なことではなかった。
恐怖に押し潰されそうになっている者に、まだ何かできるかもしれないと思ってもらうこと。
それもまた、助けるということの一つなのだろうと、セラリスは思ったのである。
◇
やがて話が一段落すると、ダリヤは卓の上に広げられた地図へ、もう一度目を落とした。
彼女は先ほどから、神殿の入口と、その奥へ通じるいくつかの通路を、何度も指でたどっていた。
最初に見たときから気になっていた場所があるらしく、ときおり眉を寄せ、別の道から回り込めないかを考えているようだった。
「先生」
「なに?」
「これ、見えてるところだけでも、たぶん罠がありますよ」
「うん。あるだろうね」
「それに、隠し扉もあると思います」
「ありそうだね」
ダリヤは、少々不満そうに顔を上げた。
「先生、わかってて言ってます?」
「何が?」
「ここ、絶対面倒ですよ。古い神殿で、地図も途中までしかなくて、しかも中には操られてるエルフまでいるんでしょう? 罠を一つずつ調べながら進んでたら、かなり時間がかかると思います」
「うん。そうだろうね」
「……そうだろうね、って」
ダリヤは、思わず口を尖らせた。
セラリスは、そんな彼女を見て笑った。
「だから、ダリヤを連れてきたんでしょう?」
その言葉に、ダリヤは一瞬黙った。
それから、何とも言えない顔になった。
「……先生、そういうこと言えば私が喜ぶと思ってません?」
「え? 喜ばないの?」
「喜びますけど!」
思わず大きな声で答えてしまい、ダリヤは慌てて口を閉じた。
ミハイルが、隣で小さく笑った。
「素直に喜べばいいじゃないか」
「ミハイルは黙っててください。どうせ罠を踏んだら、最初に文句を言うのはあなたなんですから」
「だから、お前に調べてもらうんだろう?」
「だったら、ちゃんと私の言うことを聞いてくださいね」
「もちろんだ」
二人のやり取りを聞きながら、ヴァレリアも穏やかに微笑んでいた。
その笑みには、まだ見知らぬ神殿へ向かう不安が含まれていないわけではなかったが、それ以上に、仲間たちがいつもどおりの調子で話していることへの安心感があった。
危険な場所へ行くからといって、必要以上に緊張し続けていては、かえって判断を誤ることもある。
笑う余裕があるうちに笑い、考えるべきことは真面目に考える。
そんな当たり前のことができるようになったのも、三人がこれまでに積んできた経験の成果なのかもしれなかった。
ダリヤは、もう一度地図へ目を落とした。
そして、ラハシアから預かった二枚の似顔絵を取り出し、丁寧に丸め直してから、革紐で留めた。
「……ちゃんと探しますからね」
彼女は、絵に描かれた二人へ言い聞かせるように呟いた。
その声は小さかったが、近くにいたセラリスには、はっきりと聞こえた。
ダリヤは、似顔絵を自分の荷物へ収めると、今度は盗賊用具の入った袋を確かめ始めた。細い針金や小さな工具を一つずつ指で触れ、必要なものが揃っているかを確認している。
彼女にとって、シルヴァとメリサは、もう単なる名前ではなかった。
ラハシアの話の中に登場する、顔も知らない囚われ人ではない。
自分がこれから探しに行く相手であり、見つけたならば助け出し、できることなら無事に村へ連れて帰ってやりたいと思う、二人のエルフの娘になっていたのである。
そして、そのことは、ミハイルやヴァレリアにとっても同じだった。
彼らは、何も知らないまま冒険へ向かおうとしているのではない。
誰を助けるために戦うのかを知り、そのためには誰を殺さずに済ませなければならないのかを考えながら、準備を始めているのだった。
セラリスは、そんな三人の様子を静かに眺めていた。
以前なら、すべて自分が決めなければならなかった。
どの道を進むべきか、誰が前に立つべきか、罠をどう調べ、敵と遭遇したらどのように対処するのか。その一つ一つを教えなければ、三人は危険な場所へ足を踏み入れることさえできなかったのである。
しかし今では、彼ら自身が考え始めている。
そして何より、敵を倒すことではなく、誰かを助けて帰ることを、自分たちの目的として受け止めるようになっていた。
それが、セラリスには何より嬉しかった。
もちろん、まだ十分ではない。
これから向かう神殿には、どのような危険が待っているのかわからないし、どれほど準備を整えても、思いがけない事態に遭遇することはあるだろう。
だが、少なくとも今の三人には、危険を避けるために考え、仲間の意見を聞き、必要なときには自分の判断を改めるだけの柔軟さが育ち始めている。
それは、剣を振るう力や魔法を使う能力とは別の、冒険者にとって欠かすことのできない強さだった。
セラリスは、ラハシアへ目を向けた。
薄いベールをまとった美しい娘は、少し疲れた表情を残しながらも、先ほどまでより落ち着いた様子で三人のやり取りを見守っていた。
その瞳には、まだ不安がある。
しかし、そこには同時に、何かを信じようとする者だけが持つ、静かな光も宿り始めていた。
セラリスは、そんな彼女の顔を見て、改めて思った。
この娘を、これ以上悲しませたくはない。
もちろん、自分にできることには限りがあるだろうし、すべてが望みどおりになるという保証もない。
それでも、少なくとも助けられる者を、助けられるだけ助けるために、自分たちはここへ来たのである。
そう考えれば、これから何をするべきかは明らかだった。
セラリスは地図を指さし、三人へ声をかけた。
「じゃあ、もう一度、入口から確認しようか。ラハシアが知ってるところはちゃんと覚えておいて、わからないところは現地で調べよう。急ぐ必要はあるけど、慌てて罠にかかったら意味がないからね」
「はい!」
ダリヤが元気よく答えた。
ミハイルも頷き、ヴァレリアは地図の上へ視線を落とした。
ラハシアもまた、三人のために何かできることがあればと考えたのだろう。彼女は卓へ身を乗り出し、神殿の入口から礼拝堂へ至る通路について、記憶をたどりながら、もう一度説明を始めた。
その声は、まだときおり震えていた。
けれども、先ほどまでのように悲しみに押し潰されそうなものではなくなっていた。
助けを求め、誰かに応えてもらえた者の声だった。
窓の外では、秋の風が木々の葉を揺らしていた。
村人たちのざわめきも、少しずつ遠のいている。ヴァルザリオンが飛び去ったあとの空には、薄い雲の間から柔らかな陽光が差し込み、木々の梢を金色に染め始めていた。
ラハシアの家の中では、四人の冒険者が地図を囲み、これから向かう神殿について話し合っている。
彼らの姿は、どこかの伝承に登場する英雄たちのように華々しいものではなかった。
ただ、自分たちに何ができるのかを考え、まだ会ったこともない者たちを助けるために、必要な準備を進めているだけだった。
しかし、ラハシアにとっては、その姿こそが何より頼もしかった。
恐ろしい竜王の背に乗って空から現れたエルフが、今、自分たちを救うために考えてくれている。
そして、その傍らにいる三人の若い冒険者たちもまた、シルヴァとメリサの顔を覚え、父や婚約者の行方を案じ、操られたシスワたちを殺さずに済ませる方法を探してくれているのである。
ラハシアは、静かに息を吐いた。
まだ何も解決していない。
神殿では今も、ラヒブが何かを企んでいるのだろうし、囚われた者たちがどのような状態にあるのかもわからない。
それでも、今の彼女には、つい先ほどまでとは違うものがあった。
自分たちは、もう一人ではない。
そのことが、これほど心強いものだとは思わなかったのである。
彼女は、卓の上に広げられた地図を見つめ、それからセラリスの横顔へ目を向けた。
黒髪のエルフの娘は、ダリヤが見つけた不自然な通路について、何かを相談しているところだった。ときおり笑いながら話しているものの、その金色の瞳は地図の細部を鋭く捉え、わずかな情報も見落とすまいとしているように見える。
ラハシアは、ふと思った。
噂というものは、いつだって現実を大きくしてしまうと聞く。
恐ろしい竜はさらに恐ろしく、強い冒険者はさらに強く、珍しい出来事はさらに奇妙なものとして、人から人へと伝えられていく。
だから、自分もこれまで、ミスタメアのセラリスについて語られる話の大半は、きっと誇張されているのだろうと思っていた。
しかし、今では少し違う考えが胸に浮かんでいた。
噂の中で語られているのは、竜王との友情や、コボルドたちを雇い入れたという珍しい出来事ばかりである。
けれども、なぜセラリスがそのようなことをしたのか、どうして自分たちのような見知らぬ同族を助けようとするのかについては、ほとんど語られていないのではないだろうか。
そして、もしそうなのだとしたら。
ミスタメアのセラリスについて人々が語っている噂は、現実より大きすぎるのではなく、むしろ、この娘の本当の姿を伝えるには、まだ少しばかり小さすぎるのかもしれなかった。
少なくとも、今のラハシアには、そう思えてならなかったのである。
彼女はもう一度地図へ目を落とし、まだ知られていない神殿の奥について、思い出せる限りのことを話し始めた。
そしてダリヤは、ラハシアが指し示す通路の一つ一つを確かめながら、腰の荷物の中に収めた二枚の似顔絵へ、そっと手を触れた。
シルヴァとメリサ。
今の彼女にとって、その二人はもう、ただの名前ではなかった。
見つけ出し、助け出し、できることなら家族や友人のもとへ連れて帰ってやりたいと思う、確かな顔を持った二人の娘になっていた。
その思いは、ミハイルにもヴァレリアにも、そしてセラリスにも、同じように芽生え始めていたのである。