セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
ラハシアは、神殿まで自分が案内すると申し出た。
それは彼女にしてみれば、ごく当然のことだったのだろう。村に降りかかった災厄は、決して他人事ではない。まして、これから向かおうとしているのは、彼女自身がよく知り、同時に、今では恐れずにはいられない場所でもあった。そこへ危険を承知で赴こうという者たちを、何もせずに見送ることには、どうしても抵抗があったらしい。
だが、セラリスはその申し出を断った。
「道はわかったから大丈夫。ここからは私たちだけで行くよ」
「ですが、私なら神殿までの道を知っています。それに、少しでもお役に立てることがあるかもしれません」
ラハシアの声には、懇願にも似た響きがあった。自分の村を守るために何かをしたいという気持ちは本物なのだろうし、ただ安全な場所で結果を待っていることが、彼女にとってどれほど辛いことかも、セラリスには理解できた。
しかし、それを理解することと、彼女を連れていくこととは別の問題だった。
「ラハシアが来ても、守らなきゃいけない人が一人増えるだけでしょう?」
セラリスは穏やかに、けれども少しも言葉を濁さずに言った。
冷たく聞こえるかもしれないことは承知していた。それでも、これから向かう先では、どんな危険が待ち受けているのかわからない。敵と遭遇するかもしれず、罠にかかるかもしれず、場合によっては、誰かを助けるよりも先に自分たちが逃げなければならない状況に陥ることさえ考えられた。そのとき、戦闘や探索の訓練を受けていない者が一人加わるだけで、取れる行動がどれほど制限されるかを、セラリスはよく知っていたのである。
「それに、村の方も心配でしょう? ラハシアがいなくなったら、残った人たちも困ると思うよ」
「……そう、ですね」
ラハシアは目を伏せた。
納得したというより、納得するしかないことを認めたような表情だった。自分にもできることがあるはずだと思いたい気持ちと、彼女自身が村に残るべきだという責任感とが、まだ胸の中でせめぎ合っているのだろう。だが、やがて彼女は小さく息を吐き、セラリスの顔を見上げた。
「わかりました。どうか、お気をつけて」
「うん。できるだけ早く戻るよ。でも、何かあったら予定より遅くなるかもしれないから、無理に迎えに来たりしないでね」
最後まで念を押すセラリスに、ラハシアはかすかな苦笑を浮かべた。
その笑みを見て、セラリスもようやく表情を和らげた。危険な場所へ向かう者が、残る者にできる約束など限られている。必ず無事に帰ると軽々しく言うよりも、帰るためにできることを一つずつ積み重ねる方が、彼女にとってはよほど確かな誠意だった。
そうして四人は、コタ・フタンを後にした。
村の端から北へ延びる小道は、しばらくの間、丘陵の緩やかな起伏に沿って続いていた。そこから先は木々の密度が少しずつ増し、やがて、昼間であっても薄暗い森の中へと入り込んでいく。足元には昨年のものと思われる枯葉が積もり、その間から若い草が伸びていたが、よく見れば地面は踏み固められており、長い年月にわたって人々が往来してきた道であることがわかった。
ただし、最近はあまり使われていないらしい。
道の中央にまで草が進出しているところがあり、倒れた細い枝も片づけられずに残っている。かつては神殿へ向かう人々が日常的に歩いていたのかもしれないが、今ではその道に、人の営みが少しずつ森へ呑み込まれていくような寂しさが漂っていた。
先頭を行くのはダリヤだった。
彼女の後ろをミハイルが歩き、その少し後方にヴァレリアが続く。セラリスは最後尾に位置し、道の左右へ目を配りながら、三人の様子を見守っていた。
この隊形は、ミスタメアを出る頃から自然に定着したものだった。
盗賊としての技術を持つダリヤが前方の危険を探り、戦士であるミハイルが不意の戦闘に備え、その後ろで僧侶のヴァレリアが全員の状態を確かめる。そして、四人の誰に何が起きても対応できる位置に、セラリスが控えているのである。
最初からこうだったわけではない。
冒険を始めたばかりの頃の三人なら、おそらくセラリスを先頭に置こうとしただろう。誰よりも強く、誰よりも多くの魔法を使い、危険な場所で何をすればよいのかを知っている彼女の後ろについていれば、それだけで安心できたからだ。
だが、それではいつまで経っても、自分たちで危険を見つけ、自分たちで判断することができるようにはならない。
セラリスは、三人を自分の庇護の下でしか生きられない冒険者に育てるつもりはなかった。いつか彼女がいない場所でも、彼ら自身が危険を察知し、仲間を守り、生きて帰るための判断を下せるようになってほしいと考えている。そのためには、彼らに任せるべき仕事を奪わず、失敗が致命的な結果にならない範囲で経験を積ませることが必要だった。
その成果は、少しずつではあるが、確かに現れ始めていた。
ダリヤが不意に足を止め、道端へしゃがみ込んだ。
「何人か通っていますね」
彼女は落葉をそっと払い、露出した土の表面を調べた。柔らかい地面にはいくつかの足跡が重なっており、そのうちの一つは、比較的新しいものに見えた。
「最近の足跡?」
セラリスが尋ねると、ダリヤはすぐには答えなかった。
彼女は足跡の縁を指でなぞり、周囲に残る雨の痕跡を見比べた。以前なら、何かを発見したこと自体が嬉しくて、確かめるより先に報告していただろう。だが今では、自分が見つけたものが何を意味するのか、少しでも多くの手掛かりを得ようとする習慣が身についていた。
「たぶん、最後に雨が降ってからですね。古い足跡は縁が崩れていますけど、こっちはまだ形が残っています」
「何人くらい?」
「はっきりしません。何度か同じ道を通っているみたいですし、足跡が重なってますから。でも、少なくとも複数ですね」
「シスワかな」
「わかりません。ただ、靴を履いた人間型の足跡です。獣ではありません」
そこまで確認すると、ダリヤは立ち上がり、何事もなかったように再び歩き始めた。
セラリスは何も言わなかった。
口を出したくなることがないわけではない。足跡の深さや歩幅から推測できることもあるだろうし、周囲の草の倒れ方を見れば、道を外れた者がいるかどうかを調べることもできるかもしれない。しかし、それを毎回教えていては、ダリヤ自身が考える機会を奪ってしまう。
今の彼女は、少なくとも何を見ればよいかを自分で考え始めていた。
それが嬉しかった。
かつては罠を探せと言われると、ひたすら床ばかり眺めていた娘である。それが今では、道に残された足跡から人の往来を読み、周囲の草木や天候の変化まで手掛かりとして扱うようになっている。技術の熟練度だけで測ることのできない成長というものが、確かにそこにはあった。
やがて森が薄くなり始めた。
木々の間から差し込む光が少しずつ強くなり、枝葉の向こうに、灰色の巨大な影が姿を現す。
独立峰である灰色山だった。
コタ・フタンからも見えていた山だが、間近に迫ると、その印象はまるで違っていた。遠くから眺めたときには、ただ樹木の少ない岩山に見えたものが、近づくにつれて、あまりにも整いすぎた輪郭を持っていることがわかってきたのである。
最初に異変に気づいたのは、ミハイルだった。
「……あれが神殿ですか?」
彼が指さした先には、山腹を覆う巨大な灰色の壁面があった。
いや、壁面という言葉さえ、どこか適切ではないのかもしれなかった。
それは山に寄り添うように建てられた建築物ではなく、山そのものを何者かが削り、巨大な建造物へ作り替えてしまったような姿をしていた。自然の岩壁であれば存在するはずの不規則な凹凸が、あるところで突然途切れ、代わりに人の手によるとしか思えない長い直線や、巨大な角が現れている。周囲の山肌と同じ灰色をしているために、遠目には岩山の一部と見分けがつかなかったのだろう。
ミハイルは、思わず立ち止まった。
城や砦であれば、これまでにも見たことがある。しかし、これほどの規模で岩山を加工した建築物となると、その製造方法を想像することさえ難しかった。いったいどれほどの人手と年月をかければ、このようなものを造り上げることができるのだろう。
「……すごいですね」
ヴァレリアの声にも、隠しようのない驚きが混じっていた。
「ずいぶん古い神殿なのでしょうね。あれほど大きなものを、どうやって造ったのでしょう」
「さあ。魔法を使ったのかもしれないし、長い時間をかけて掘ったのかもしれないね」
セラリスも目を細めた。
ラハシアから聞いた話と、手渡された地図の内容は頭に入っている。しかし、目の前にそびえる構造物の規模を考えると、あの地図に描かれている部分など、神殿全体のほんの一部にすぎないように思われた。
見えているものだけでこれほど大きいのだから、山腹の奥へどれほどの空間が広がっているのかはわからない。
そして、広大な遺跡には、それに見合った危険が潜んでいることもある。
セラリスは、三人が神殿の威容に目を奪われている間も、その周囲の地形と、接近するための経路を確かめていた。
正面から近づけば、こちらの姿を隠せる場所は限られる。見張りが配置されていれば発見される可能性は高いし、神殿の内部へ入る前から戦闘になることも考えられた。相手が何人いるのか、どの程度の警戒態勢を敷いているのかもわからない以上、入口を見つけたからといって、そのまま近づくのは得策ではなかった。
そのとき、ダリヤが何かを見つけた。
「先生。あそこに建物があります」
神殿へ続く道の手前に、小さな石造りの建物があった。
周囲の巨石や、背後にそびえる神殿の途方もない規模に比べれば、あまりにも小さな建物だった。石を積み上げた簡素な外観には目立った装飾もなく、数人が入ればそれだけで窮屈になりそうな祠にすぎない。
しかし、ダリヤがわざわざ足を止めたのには理由があった。
「これは、ラハシアさんの地図にありました?」
ミハイルが尋ねると、セラリスは記憶を確かめるように少し考えた。
「なかったと思う」
「では、調べてみます」
ダリヤはすぐに祠へ近づこうとはせず、まず建物の周囲を一巡した。窓のない石壁を確かめ、扉の前に不自然な足跡がないかを調べ、それから入口の敷居へ視線を落とす。
罠を警戒するときに大切なのは、怪しい場所だけを探すことではない。何もないように見える場所に、どのような仕掛けがあり得るかを考えることだった。
扉には鍵がかかっていなかった。
ダリヤは扉の縁と蝶番を調べ、開閉に連動する仕掛けがないことを確かめてから、ゆっくりと押し開いた。扉は古びた軋みを立てたものの、矢が飛んでくることも、頭上から何かが落ちてくることもなかった。
「今のところ、罠は見つかりません」
「うん。じゃあ、中を調べようか」
四人は警戒を解かずに祠へ入った。
中はほぼ正方形の一室だった。外から見た印象より少し広く感じられたが、それでも四人が入れば余裕のある空間とは言いがたい。古い石造りの床は長い年月を経て滑らかに摩耗し、壁面にはかつて何らかの装飾が施されていたらしい痕跡が残っている。
奥にあたる北側には、さらに小さな部屋へ続くような開口部があった。
ただし、その前には祭壇が置かれていた。
そして祭壇の上には、一体の石像が鎮座していた。
長い髭をたくわえた、逞しい男の像だった。
男は堂々と足を組んで座り、何者にも屈したことなどないとでもいうような、不敵な表情で正面を見据えている。厚い胸板と力強い腕、ゆったりとした姿勢に宿る揺るぎない自信は、冷たい石を彫って造られたものとは思えないほど生々しく、まるで今にも立ち上がって言葉を発しそうな迫力があった。
ダリヤは思わず像を見上げた。
「……なんだか、すごく強そうですね」
ミハイルも真面目な顔で頷いた。
「確かに。かなり強そうだな」
「二人とも、石像を見て強そうって何?」
セラリスが思わず笑うと、ダリヤは少し不満そうに振り返った。
「だって、そう見えるじゃないですか。なんていうか、偉そうというより、実際に強いから偉そうにしていられる人みたいで」
「……なるほど。そう言われると、確かにそういう顔かもしれないね」
セラリスは改めて石像を眺めた。
何者を表した像なのかはわからない。イモータルなのか、かつてこの地を支配した英雄なのか、それとも神殿を建造した者の姿なのか。いずれにせよ、こんな場所にわざわざ祭壇を設け、これほど堂々とした像を置いている以上、ただの装飾とは考えにくかった。
そのときだった。
「セラリス」
腰に帯びた知性剣、ソーンウォッチの声がした。
それまでどこか楽しげだったセラリスの表情が、すぐに変わった。
「なに?」
「魔法の場がある」
「どこ?」
「その像の裏だ。何らかの魔法的な作用が働いている」
セラリスは祭壇の向こうへ目を向けた。
そこには、奥の小部屋へ続くらしい暗がりがあるだけだった。床も壁も、少なくとも外見上は手前の部屋と変わらない。しかし、魔法による仕掛けが存在するというのなら、見た目だけを頼りに近づくわけにはいかなかった。
「ダリヤ、ちょっと待って」
祭壇の横から奥を覗こうとしていたダリヤが、ぴたりと足を止めた。
「何かあるんですか?」
「まだわからない。ソーンウォッチが魔法を見つけたんだ」
「魔法の罠でしょうか」
「その可能性もあるね」
セラリスは床へ落ちていた小さな石片を拾い上げた。
掌の中で軽く転がして重さを確かめ、それから祭壇の向こう側へ向かって、低い軌道を描くように放った。
石片は祭壇の横を通り抜け、暗がりの向こうへ落ちていった。
いや、正確には、落ちるはずだった。
床に触れる直前、石片は何の前触れもなく姿を消した。
跳ねる音もなければ、転がる音もしない。壁へぶつかった様子もなく、ただ空間そのものに吸い込まれたかのように、石片だけが消失したのである。
「……え?」
ダリヤが思わず声を漏らした。
ミハイルの手が反射的に剣の柄へ伸び、ヴァレリアも祭壇の向こうへ目を凝らした。しかし、何かが飛び出してくる気配はなく、祠の内部には先ほどまでと変わらない静けさが満ちている。
セラリスは、もう一つ石片を拾った。
今度は祭壇の手前へ軽く放る。
石は乾いた音を立てて床へ落ち、二度ほど跳ねてから、壁際まで転がっていった。
「なるほど。向こう側だけなんだ」
彼女は祭壇の位置と床の継ぎ目を見比べ、石片が消えた場所の手前へ慎重に近づいた。何もない空間に見えていても、その先には明らかに何らかの境界が存在している。
「テレポータかな」
「転移する仕掛けですか?」
ヴァレリアが尋ねた。
「たぶんね。石が壊れたり燃えたりした様子もないし、何かに運ばれたようにも見えなかった。どこか別の場所へ送られる仕組みだと思う」
「どこへ飛ばされるんでしょう」
ダリヤは祭壇の横から、恐る恐る暗がりを覗いた。
「それがわかれば苦労しないんだけどね」
「神殿の中でしょうか」
「そうかもしれない。でも、決めつけない方がいいよ。離れた場所へ飛ばされる可能性もあるし、行った先が安全だという保証もないからね」
セラリスは、もう一度石像を見上げた。
神殿へ向かう道の途中に、わざわざ小さな祠を設け、その奥に転移の仕掛けを隠している。偶然ここに作られたとは考えにくい配置だったが、問題は、この仕掛けが何のために存在するのかということだった。
神殿へ入るための秘密の入口なのか。それとも、神殿から逃げ出すための脱出口なのか。
「……非常口かな」
セラリスが呟くと、ミハイルは怪訝そうに眉を寄せた。
「神殿へ入れるのでしたら、入口ではないんですか?」
「こっちから入れるなら、そういう使い方もできるね。でも、向こう側から戻る仕組みがあるかもしれないでしょう? それなら、いざというときに神殿から逃げ出すための通路としても使えるんだよ」
「なるほど。神殿の中にいる人間が、ここへ逃げてくるための仕掛けということですか」
「うん。でも、まだ何も確かめてないからね。非常口かどうかは、向こう側を見ないとわからないよ」
ダリヤは少し考えたあと、当然のように口を開いた。
「では、私が見てきましょうか?」
セラリスは即座に首を振った。
「いや、駄目」
「でも、こういうときの偵察は私の仕事でしょう?」
「行った先がわかってるならね。でも、今回はどこへ飛ばされるのかもわからないんだよ」
「だから、それを調べるための偵察なんですけど」
「戻ってこられる保証がないでしょう?」
ダリヤは口を閉じた。
反論したい気持ちはあった。自分だって、いつまでもセラリスに守られているだけの冒険者ではない。罠の発見も、隠れた通路の探索も、以前に比べればずっと上達したという自信がある。こういうときにこそ、自分の技能を役立てたいと思うのは、決して単なる強がりではなかった。
だが、セラリスの言うことも正しかった。
行った先がどこかわからず、帰る方法もわからない場所へ、一人で飛び込むことが果たして偵察と呼べるのだろうか。危険を調べることと、何の準備もなく危険の中へ身を投じることは違う。その区別を、彼女はこれまで何度も教えられてきたのである。
「……わかりました」
ダリヤは不承不承ながら頷いた。
その様子を見て、セラリスは少し表情を和らげた。
「ダリヤの仕事がないって言ってるわけじゃないよ。向こうが普通の通路につながってるなら、罠を調べてもらわないと困るしね。でも、最初の一歩だけは、私が行った方が安全だと思うんだ」
「先生なら、戻ってこられるんですか?」
「少なくとも、みんなより逃げる方法はたくさん持ってるからね」
そう答えると、セラリスは身につけたエルブンクロークの襟元を整えた。
森の中で身を隠すための外套は、周囲の色合いへ巧みに溶け込む性質を持っている。魔法による完全な透明化とは異なるものの、身の置き方と動きを工夫すれば、近くにいる者の目さえ欺くことができる。さらに彼女の足には、歩く音をほとんど立てないエルブンブーツがある。
偵察に必要な装備としては、申し分のないものだった。
「向こうに誰かいても、見つからなければいいんだよ。見つかったとしても、戦わずに逃げる方法はあるしね」
「……一人で行くんですか?」
ミハイルが尋ねた。
その声には、はっきりとした心配が滲んでいた。
セラリスが強いことは知っている。自分たち三人が束になっても及ばないほどの魔法と武技を持ち、危険な相手と遭遇しても、冷静に対処するだけの経験を積んでいることも知っている。
それでも、だから安心できるというものではなかった。
彼女が自分たちを守ろうとしていることは、今では十分に理解している。だが同時に、そのために彼女自身が危険を引き受けることもあるのだと思うと、どうしても落ち着かない気持ちになるのである。
「すぐに戻るよ。まずは向こうがどうなってるか、少し見てくるだけだから」
「気をつけてください」
ヴァレリアが静かに言った。
「うん。みんなも、ここから動かないでね」
セラリスは祭壇の横を回り、慎重に足を進めた。
外套の色が周囲の石壁に馴染み、彼女の輪郭が少しずつ見分けにくくなっていく。そこにいると知っている三人の目には、まだかすかな姿が捉えられていたが、もし初めから何も知らずに祠へ入ってきた者がいたなら、壁際に立つ小柄なエルフの存在には気づかなかったかもしれない。
「じゃあ、ちょっと行ってくる」
最後にその声が聞こえた。
ほとんど音を立てない足取りで、セラリスは祭壇の裏へ踏み込んだ。
そして、その姿が見えなくなった。
何かが光ったわけではない。空気が揺らぐことも、魔法の発動を告げる音が響くこともなかった。ただ、先ほどまでそこにいたはずのセラリスが、次の瞬間には、どこにも見当たらなくなっていたのである。
「……行っちゃいましたね」
ダリヤが呟いた。
「そうらしいな」
ミハイルも祭壇の向こうを見つめていたが、そこには何の変化もなかった。
祠の内部には、妙に重苦しい静寂が訪れた。
三人はその場で待った。
最初のうちは、誰もがすぐにセラリスが戻ってくるものと思っていた。何しろ彼女は、ちょっと見てくると言い残して出かけたのである。これまでの冒険でも、彼女は何度となく人並み外れた手際のよさを見せてきた。何か危険があればすぐに戻ってくるだろうし、敵がいても、無理に戦闘を始めたりはしないだろう。
しかし、一分が過ぎ、二分が過ぎても、セラリスは戻ってこなかった。
時間というものは、不思議な性質を持っている。
自分が何かに夢中になっているときには、驚くほど早く過ぎ去るくせに、誰かの帰りをただ待っているときには、まるで意地悪な生き物のように、その歩みを遅くするのである。
ミハイルは何度目かになる視線を祭壇へ向けた。
当然ながら、そこには何もない。
ヴァレリアは静かに祈りの言葉を唱えていたが、その表情は決して穏やかなものではなかった。普段は落ち着いた物腰を崩さない彼女でさえ、仲間がどこへ行ったのかわからず、しかも自分たちには何もできないという状況には、不安を覚えずにいられなかったのである。
ダリヤは床へしゃがみ込み、石片が消えた場所をじっと見つめていた。
だが、いくら調べても、そこに目で見える境界はない。罠を見つける技術を身につけていることが、かえって悔しかった。自分の技能が役に立たない種類の仕掛けを前にしているという事実を、認めたくなかったのである。
五分ほど経った頃、ミハイルがとうとう口を開いた。
「……少し、遅くないか?」
「まだ五分くらいですよ」
ヴァレリアが答えた。
「そうだな。まだ、それほど経ってはいないか」
ミハイルは頷いたものの、その声には自分自身を納得させようとする響きがあった。
彼はセラリスを信頼している。だが、信頼することと、心配しないことは違う。敵地のどこかへ一人で飛ばされた仲間が戻ってくるのを待つというのは、相手がどれほど強くても、決して気楽なことではなかった。
「先生が戻ってこなかったら、どうします?」
ダリヤが顔を上げて尋ねた。
その問いに、ミハイルはすぐには答えられなかった。
「……待つしかないだろう」
「どれくらい?」
「それは……」
言いかけて、ミハイルは口を閉じた。
何も決めていなかったのである。
セラリスがどの程度の時間で戻るつもりだったのかも、何分経って戻らなければ異常と判断するべきなのかも、そして万一戻ってこなかった場合に、自分たち三人がどう行動すべきなのかも、まったく打ち合わせていなかった。
そのことに気づいた瞬間、ミハイルの胸には、セラリスの身を案じる気持ちとは別の、苦い感情が湧き上がった。
自分たちは、まだまだ彼女に頼りすぎている。
危険な場所へ偵察に行くと決まった時点で、帰還までの時間と、連絡が取れなくなった場合の行動を確認しておくべきだった。それは冒険を続けるうえで、決して難しい知識ではない。これまで何度も教わってきた、ごく基本的な備えだったのである。
「……そこまで決めていなかったな」
ミハイルがそう認めると、ダリヤは少し困ったような顔になった。
「私も、聞いておけばよかったです」
「今から決めても、先生に伝えられませんね」
ヴァレリアの言葉に、三人は顔を見合わせた。
誰も口にはしなかったが、同じことを考えていた。
もしセラリスが戻ってこなかったら、どうするのか。
自分たちも転移の仕掛けへ飛び込むのか。それとも、ここで待ち続けるのか。あるいは、コタ・フタンへ戻って助けを求めるべきなのか。
どれを選んでも、別の危険があるように思えた。
そのときだった。
「そういうの、先に決めておいた方がいいね」
背後から声がした。
三人は文字どおり飛び上がった。
「うわっ!」
ダリヤが叫び、ミハイルは反射的に剣の柄へ手をかけた。ヴァレリアも驚いて振り返り、声の主を認めた途端、張り詰めていた表情を大きく崩した。
セラリスが、祠の入口近くに立っていた。
周囲の色に馴染ませていた外套を元に戻し、何でもなかったような顔をしている。その様子は、つい先ほどまで正体不明の転移装置の向こうにいた人物というより、少し離れた場所へ散歩に出かけて戻ってきた者のようだった。
「先生!」
ダリヤは思わず胸に手を当てた。
「びっくりしたじゃないですか!」
「ごめん。戻ってくるところを見られたくなかったから、ちょっと離れた場所まで隠れたまま歩いてきたんだ」
「そういうことじゃありません! どこから戻ってきたんですか!」
「神殿の方からだよ」
「だから、それを聞いてるんですってば!」
ダリヤは半ば怒ったように言ったが、その声には、隠しようのない安堵が混じっていた。
つい先ほどまで胸の奥に重く沈んでいた不安が、目の前に立つ小柄なエルフを見た途端、一気にほどけてしまったのである。怒りたい気持ちと、よかったという気持ちが入り混じり、彼女自身にも、どんな顔をすればよいのかわからなかった。
セラリスはそんなダリヤの様子を見て、少し申し訳なさそうに笑った。
「うん。説明するね。まず、あの仕掛けはやっぱりテレポータだったよ」
彼女は祭壇の向こうを指さした。
「転送された先は、かなり古い石造りの部屋だった。地下なのはほぼ間違いないと思う。外の光も入ってこなかったし、通路もあったからね」
「神殿の地下ですか?」
ミハイルが尋ねると、セラリスは頷きかけ、それから少し考えて答えた。
「たぶんね。でも、地図に載ってる場所とは照合できなかったから、正確な位置まではわからないよ」
「それで、どうやって戻ってきたんです?」
「向こう側にも転送の仕掛けがあったんだ。石造りの部屋から通路へ出られるようになっていて、その部屋へ戻れば、こっちへ転移できるようになってた。戻ってきた場所は祠の外側だったから、あの祭壇の裏から出てくるわけじゃないんだね」
それを聞いて、三人はようやく、セラリスが祠の入口側から姿を現した理由を理解した。
しかし、疑問はまだいくらでもあった。
「向こうには誰かいましたか?」
ダリヤが尋ねた。
「いたよ。シスワらしい警備の者が来たから、魔法で眠らせた」
「……戦ったんですか?」
「いや、戦闘になる前にね。こっちは見つかりたくなかったし、向こうが何人いるのかもわからないから、できるだけ静かに済ませたんだ」
セラリスは、まるで道端で邪魔な枝を片づけたという程度の気軽さで説明した。
だが、その場にいた三人は、そう簡単には受け止められなかった。
見知らぬ場所へ転移し、敵らしい相手と遭遇し、それを戦闘に発展させることなく無力化して戻ってくる。言葉にすればそれだけのことだが、実際に行うには、周囲の状況を瞬時に判断する力と、迷わず行動できる経験が必要になる。
自分たちが同じ場所へ送り込まれていたなら、果たしてそこまで冷静に対処できただろうか。
ミハイルは、そう考えずにはいられなかった。
「……罠はありませんでしたか?」
ヴァレリアが尋ねると、セラリスは首を傾げた。
「少なくとも、私が歩いた範囲では何も起きなかったよ。でも、詳しく調べたわけじゃないからね。ダリヤがいないんじゃ、見落としてるものもあると思う」
その言葉に、ダリヤは少しだけ顔を上げた。
自分が役に立つ場面は、ちゃんと残されている。
それは嬉しかった。セラリスは何でもできるように見えるが、だからといって自分たちを不要なものとして扱っているわけではない。むしろ、自分の知らないことや不得意なことを認めたうえで、仲間の技能を頼ろうとしている。
そのことは、ダリヤにとって何より大きな励みだった。
「じゃあ、向こうへ行くなら、私が調べます」
「うん。そのときはお願いするよ」
セラリスは頷いてから、もう一度祭壇へ目を向けた。
「それでね、あの転送路なんだけど、やっぱり非常口みたいな使い方を考えて作られたものかもしれない」
「どうしてそう思うんです?」
「神殿の地下らしい場所から、こんな離れた祠まで移動できるんだよ。しかも、戻るための仕掛けもある。秘密の通路として便利だし、神殿の正面から逃げられなくなったときにも使えるでしょう?」
「なるほど。神殿の人間が逃げるための道ということですか」
「そう。ただ、こっちから入ることもできるから、最初から出入りの両方を考えて作った可能性もあるね。まだ、どっちが本来の目的なのかはわからないよ」
ミハイルは祭壇の向こうを見つめた。
そこに見えるのは、ただの石造りの床と暗がりだけだった。
しかし、その何もないように見える場所へ一歩踏み込めば、神殿の地下へ移動できる。正面入口から入る必要はないし、見張りの配置によっては、敵の警戒を大きく迂回することも可能だろう。
それは、非常に魅力的な選択肢だった。
同時に、ひどく危険な選択肢でもあった。
正面から進めば、少なくともラハシアから受け取った地図を頼りにすることができる。敵が待ち受けている可能性は高いが、途中の通路や部屋について、ある程度の見通しを持つことができるのだ。
一方、転送路を利用すれば、いきなり神殿の地下へ入り込める。しかし、そこから先の通路がどこへ続いているのかはわからない。敵が何人いるかも不明であり、万一転送装置が使用できなくなれば、退路を失う危険すらあった。
セラリスは、そんな三人の顔を順に見た。
「それで、どうする?」
問いかけられた三人は、すぐには答えられなかった。
セラリスは続けた。
「正面から行くなら、ラハシアの地図が使える。こっちから入れば、いきなり地下へ行けるけど、その先はほとんどわからない。どちらにも利点と危険があるんだよね」
ダリヤが、何か言いたそうに口を開いた。
しかし、セラリスは答えを急がせなかった。
「私は、みんながどう考えるか聞きたいな」
その言葉には、三人とも覚えがあった。
これまでもセラリスは、何かにつけて彼らに意見を求めてきた。何を準備するべきか、どの道を選ぶべきか、敵と遭遇したらどう行動するべきか。最初の頃は、何を聞かれても正解を探すことに精いっぱいで、結局は彼女の答えを待つばかりだった。
しかし、今は違う。
少なくとも、自分たちが何を知らないのかを考えることはできるようになっていた。
ミハイルは、祠の入口から外を見た。
遠くには灰色山の巨大な神殿がそびえている。正面から近づけば、おそらく敵もこちらを発見するだろう。だが、道はわかっているし、危険があれば引き返すことも考えられる。転送路を使えばその警戒を避けられるかもしれないが、もし先へ進んだところで退路を断たれたら、どうなるのだろう。
戦士である自分の役割は、仲間の前に立って敵を食い止めることだと思っていた。しかし、ただ敵と戦えばよいというものではない。仲間が逃げられるだけの時間を稼ぎ、全員が無事に帰れるようにすることも、前衛の仕事なのだ。
そう考えると、未知の地下通路へいきなり入り込むことには、どうしても慎重にならざるを得なかった。
一方、ダリヤは祭壇の向こうを見つめていた。
彼女には、正面から進む方が安全だとは必ずしも思えなかった。敵が侵入者を警戒しているなら、当然、正面入口には罠や見張りを配置するはずである。それに対して、神殿の地下へ直接入れる転送路は、警戒の薄い場所へ入り込める可能性がある。盗賊としての自分の技能を生かすなら、むしろそちらの方が有利かもしれない。
しかし、帰還できる保証があるからといって、安心することはできなかった。セラリスが通れた道を、自分たちも同じように通れるとは限らないのである。もし敵に発見され、追われることになったら、狭い通路のどこで戦うべきなのか。罠を調べる時間がなかったらどうするのか。そうした問題を考え始めると、転送路の魅力だけに目を奪われるわけにはいかなくなった。
ヴァレリアは、ラハシアから渡された地図を広げた。
彼女は地図の端を押さえ、記された通路を目で追いながら、二人の表情をそっと確かめた。
仲間を守り、傷ついた者を癒やすことが自分の役割だと、ヴァレリアは考えている。しかし、いかに治癒の魔法を使えるといっても、命を落とした者を簡単に救えるわけではないし、魔法の回数にも限りがある。できることなら、最初から避けられる危険は避けたい。それでも、危険を恐れるあまり何もできなくなってしまえば、ラハシアたちを助けに来た意味がなくなってしまう。
彼女は地図を見つめながら、セラリスがいつも繰り返している言葉を思い出していた。
冒険の目的は、敵を倒すことだけではない。
生きて帰ることが、何より大切なのだ。
「……まず、帰り道を確認した方がいいと思います」
最初に口を開いたのはヴァレリアだった。
ミハイルとダリヤが顔を上げた。
「正面からでも、転送路からでも、入ったあとでどうやって戻るのかを決めておかないと、危険なことは変わらないでしょう?」
その言葉を聞いて、ミハイルはゆっくりと頷いた。
「そうだな。さっきも先生が戻ってくるまでの時間を決めていなかったし、俺たちは退路のことを十分に考えていなかった」
「でも、転送路なら戻れるんですよね?」
ダリヤがセラリスに尋ねた。
「私が見た限りではね。ただ、今後も必ず使えるとは限らないから、あれだけを頼りにはしない方がいいと思うよ」
セラリスは、それ以上のことを言わなかった。
彼女が何を考えているのか、三人にはわからない。ただ、答えを教えるつもりがないことだけは、はっきりしていた。
ダリヤは少し考え、それから言った。
「私は、転送路を使うのも悪くないと思います。正面から入れば、きっと見張りがいるでしょうし、罠も仕掛けられているかもしれません。でも、地下の方なら警備が薄い可能性があります」
「確かに、それはあるな」
ミハイルは頷いた。
「ただ、向こうに何人いるかわからない。もし囲まれたら、逃げるのが難しくなるんじゃないか?」
「それなら、最初は奥まで進まないで、周囲を調べるだけにすればいいと思うんです。転送された部屋の近くに何があるのかを確かめて、危なそうなら戻るんです」
「なるほど。いきなり神殿の奥まで行こうとするわけではないんだな」
「そうです。それに、先生が眠らせたシスワだって、いつまでも眠っているわけじゃないでしょう? 向こうが目を覚ます前に、少しでも調べておいた方がいいんじゃないでしょうか」
その意見に、ヴァレリアはすぐには賛成しなかった。
「ですが、警備の者が眠っているのを発見されれば、かえって警戒が厳しくなるかもしれません」
「あ……そうか」
ダリヤは眉を寄せた。
自分ではうまい考えだと思っていたのだが、確かに、敵が異常に気づいた場合のことまでは考えていなかった。神殿の地下に侵入者がいると知られれば、秘密の通路も安全ではなくなるかもしれない。
それでも、彼女はすぐに自分の意見を引っ込めようとはしなかった。
「でも、正面から入っても、結局は見つかるかもしれませんよね。だったら、まだ相手が警戒していないかもしれないうちに、地下を調べる方がいい気もします」
「そうですね。そこは難しいところだと思います」
ヴァレリアは素直に頷いた。
三人の間に、再び沈黙が訪れた。
しかし、先ほどセラリスの帰還を待っていたときの沈黙とは、まるで違っていた。
今、彼らは考えていた。
互いの意見を聞き、自分の考えに足りなかったものを知り、それでもなお、どちらを選ぶべきかを真剣に考えているのである。
セラリスは、その様子を静かに見守っていた。
少し前の三人なら、彼女の顔を見上げて、先生はどう思いますか、と尋ねていたに違いない。あるいは、自分の意見に自信を持てず、誰かが正しい答えを教えてくれるまで待っていたかもしれない。
だが、今の三人は違った。
ミハイルは仲間を守るための退路を考え、ダリヤは敵の警戒を避ける方法を探し、ヴァレリアは全員が無事に帰るために必要な条件を確かめようとしている。それぞれの立場から見れば、優先したいものは少しずつ異なる。しかし、その違いがあるからこそ、一人では気づかなかった危険を見つけることができるのだった。
セラリスは胸の内で、小さな満足を覚えていた。
この三人を連れて歩くようになってから、どれほどの時間が経っただろう。ミスタメアを訪れた頃には、まだ冒険者としての経験も浅く、自分の命を守ることさえ覚束なかった若者たちである。危険を前にすれば緊張し、何かが起こればセラリスの判断を待ち、戦闘が終われば無事だったことに安堵するだけで精いっぱいだった。
それが今では、未知の神殿を前にして、自分たちの頭で考えようとしている。
もちろん、まだ十分ではない。
見落としていることもあるだろうし、判断を誤ることもあるだろう。彼らがどれほど真剣に考えたとしても、経験の浅さによって、危険な選択をしてしまう可能性は残っている。
それでも、最初から正解を与えてしまえば、彼らが自分で判断する力は育たない。
セラリスは、三人の代わりに冒険をしてやることはできる。敵を倒し、罠を解除し、魔法で安全な道を作ってやることも、場合によっては可能だろう。
だが、それでは彼ら自身が冒険者として生きていく力を身につけることにはならない。
彼女が本当に望んでいるのは、三人がいつまでも自分の後ろについて歩くことではなかった。
いつの日か、自分がいない場所でも、彼らが互いに助け合い、危険を見抜き、時には勇気を持って前へ進み、時には迷わず退くことのできる冒険者になることだった。
それは、剣を振るう技術や、魔法を唱える能力だけでは得られないものだった。
経験を積み、失敗を恐れながらも考え続け、自分たちで選んだ結果に責任を持つことでしか、身につかないものなのである。
ミハイルが、やがて口を開いた。
「……俺は、最初は正面から行く方がいいと思っていたんだ。地図があるし、退路もわかりやすいからな。でも、ダリヤの言うことももっともだと思う。敵が正面を警戒しているなら、かえって危険かもしれない」
「では、どうします?」
ヴァレリアが尋ねた。
ミハイルは少し考え、祭壇の向こうを見つめた。
「まずは転送路を使って、地下の様子を調べてみないか。ただし、いきなり奥へ進むんじゃない。転送先の部屋を確保して、戻る仕掛けが使えることを全員で確認する。それから周囲の通路を調べて、危険が大きいようなら、そこで引き返すんだ」
ダリヤの顔が明るくなった。
「それなら、私が先に罠を調べられますね」
「そうだ。ただし、一人で奥へ行くのは駄目だ。誰かの目が届く範囲で調べてくれ」
「わかってますよ。先生にも言われたばかりですし」
ダリヤは少し口を尖らせたが、その表情には嬉しさがあった。
自分の意見が仲間に受け入れられたことが、素直に嬉しかったのである。
ヴァレリアは、地図を丁寧に畳みながら頷いた。
「では、帰還できることを最優先にして進みましょう。もし誰かが負傷したり、敵が多すぎたりした場合には、無理に戦わずに戻るということでよいですね」
「ああ。それでいいと思う」
ミハイルは答え、それから初めてセラリスを見た。
「先生。俺たちは、まず地下を調べてみようと思います。ただし、無理に奥までは進まず、危険だと判断したら戻ります。それで、どうでしょうか」
セラリスは、すぐには答えなかった。
三人の顔を順に見渡した。
ミハイルは緊張した表情で彼女を見つめ、ダリヤは期待と不安の入り混じった顔をしている。ヴァレリアは落ち着いているように見えたが、その瞳には、自分たちの判断が本当に正しかったのかを確かめたいという思いが浮かんでいた。
セラリスは、そんな三人の様子を見て、静かに微笑んだ。
「うん。いいと思うよ」
その言葉を聞いた途端、ダリヤがほっとしたように息を吐いた。
だが、セラリスはそこで話を終わらせなかった。
「ただし、さっき私が戻ってこなかったときのこと、覚えてるでしょう?」
三人は顔を見合わせた。
「……帰ってくるまでの時間を決めていませんでした」
ミハイルが答えた。
「そう。だから、今度は先に決めよう。どのくらい探索するのか、誰かが離れた場合に何分待つのか、戻れなくなったらどうするのか。そこまで考えてから行くんだよ」
「はい」
「それと、転送先の部屋が安全だと決まったわけじゃないからね。私が見たときには大丈夫だったけど、今は敵が増えてるかもしれない。そこも忘れないで」
ダリヤは真面目な顔で頷いた。
「わかりました。向こうへ出たら、まず周囲を調べます」
「うん。ミハイルは敵が来たときにみんなを守れる位置を考えてね。ヴァレリアも、退路を確認しておいて」
「任せてください」
ミハイルの声には、先ほどまでの迷いがなかった。
セラリスはそれを聞いて、満足そうに頷いた。
「じゃあ、準備ができたら行こうか」
三人は、それぞれの装備を確かめ始めた。
ミハイルは剣と盾の位置を直し、ヴァレリアは聖印と携行品を確認する。ダリヤは盗賊用具を取り出しやすい場所へ移し、もう一度祭壇の向こうへ目を向けた。
そこには相変わらず、何もないように見える石床が広がっているだけだった。
だが、今では三人とも、その何もない空間の向こうに、未知の神殿が待っていることを知っていた。そして、その神殿へ踏み込むという決断を、セラリスに命じられたからではなく、自分たちで考えた末に下したのだということも、よくわかっていた。
もちろん、恐ろしくないわけではなかった。
敵がどれほどいるのかもわからず、どんな罠が仕掛けられているのかも知らない。転送先で待ち伏せされている可能性もあれば、神殿の奥へ続く通路そのものが危険な場所なのかもしれない。
それでも、恐ろしいからといって、何もせずに立ち尽くしているわけにはいかなかった。
自分たちがここへ来たのには理由がある。
ラハシアが待っている。コタ・フタンの人々が待っている。そして、自分たちには、その期待に応えるための力が、まだ十分ではないにせよ、少しずつ備わり始めているのだ。
ミハイルは剣の柄へ手を置き、ゆっくりと息を吐いた。
ダリヤは緊張をごまかすように唇を結び、ヴァレリアは小さく祈りの言葉を唱えた。
その様子を見守るセラリスの胸には、誇らしさと、ほんの少しの寂しさが入り混じった感情が生まれていた。
自分の庇護の下にいた若者たちが、少しずつ自分の手を離れていく。それは喜ばしいことであり、彼女が望んできたことでもあるのだが、同時に、彼らが自分の知らないところで危険に直面する日が、いつか必ず来るのだということを意味していた。
その日までに、少しでも多くのことを教えておきたい。
危険に近づく前に考えること。仲間の意見に耳を傾けること。退路を確保すること。そして、何よりも、生きて帰ることを諦めないこと。
そのどれもが、彼らにとってはまだ学び始めたばかりの技術だったが、セラリスは、今日の三人を見ているうちに、これまでの時間が決して無駄ではなかったのだと、改めて感じていた。
「先生、準備できました」
ダリヤが振り返った。
「うん。じゃあ、行こう」
セラリスは頷き、祭壇の向こうへ視線を向けた。
古い石像は、相変わらず不敵な表情で正面を見据えていた。その目には、人間の営みも、長い年月の移り変わりも、そして今ここに立つ四人の小さな冒険者たちの決意も、何一つ映っていないように見える。
それでも、この祠を造った者たちが何を考え、どのような目的で転移の仕掛けを設けたのか、その答えの一端は、これから向かう神殿の中にあるのかもしれなかった。
セラリスは三人へ、もう一度だけ確認した。
「いい? 無理はしないこと。何かあったら、すぐ戻るんだよ」
「はい!」
三人の返事が重なった。
その声は、まだ若々しく、経験の浅さを感じさせるものではあったが、そこには以前にはなかった確かな意思が宿っていた。
セラリスはそれを頼もしく思いながら、静かに微笑んだ。
そして四人は、長い年月の眠りを宿した灰色山の神殿、その地下へと続く未知の転送路へ、慎重に歩みを進めていった。