セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
転送というものが、これほど奇妙な感覚を伴うものだとは、ミハイルは思っていなかった。
祭壇の裏側へ足を踏み入れた瞬間、身体の周囲を取り巻いていた空気が不意に失われ、自分という存在そのものが、何か見えない力によって別の場所へ引き抜かれるような感覚に襲われたのである。それはほんの一瞬のことであり、眩暈を覚える暇さえなかったのだが、次の瞬間には、それまで目の前にあった石像も、古い祠の壁も、扉の向こうに見えていた秋の森も、すべて消え失せていた。
代わりに彼を取り囲んでいたのは、薄暗い石造りの部屋だった。
ミハイルは反射的に剣の柄へ手を伸ばしたが、そのまま抜くことはしなかった。ここへ入る前にセラリスから言われたことが、咄嗟に頭をよぎったのである。相手が襲いかかってくるまでは、無闇に剣を抜く必要はない。まず周囲を確かめ、何が起きているのかを理解してから行動するべきだという、あの教えだった。
彼は息を殺し、ゆっくりと室内を見回した。
そこは、八角形の石室だった。
壁は灰色の石材を積み上げて造られており、長い年月を経ているらしい表面には、ところどころ黒ずんだ染みが浮かんでいる。天井はさほど高くなかったが、人間やエルフが歩くには十分な高さがあり、室内にはどこからともなく弱い光が差していた。ただし、その光源が何であるのかは、すぐにはわからなかった。
北、南、西の三方には、それぞれ小さな部屋へ続くらしい開口部が設けられ、東側の壁には木と鉄で補強された頑丈そうな扉が一つある。そして西側の壁の前には、何とも場違いなほど大ぶりな鐘が据えられていた。
ミハイルは、その鐘を見て眉をひそめた。
神殿の地下に鐘があること自体は、別におかしなことではない。祈りの時間を知らせたり、儀式の始まりを告げたりするために鐘を用いることは、決して珍しくないからである。
しかし、この部屋に置かれた鐘には、そうした宗教的な用途とは別の、何か実用的な意味があるように思われた。
なぜなら、その鐘の周囲には、普通なら見られないような仕掛けの跡があったからである。
そして何より、鐘の下に広がる石床には、四人のエルフが縛られて転がっていた。
ミハイルは、思わず息を呑んだ。
四人ともシスワらしい装備を身につけており、手足には縄が巻かれていた。武器は少し離れた場所へまとめて置かれ、すぐに手を伸ばして取れるようにはなっていない。
最初に目に入ったときには、既に倒されているのかと思った。
しかし、よく見れば胸が規則正しく上下しており、苦しんでいる様子もなかった。床に血が流れているわけでもなく、衣服に剣で斬られたような跡も見当たらない。
どうやら、全員が眠っているらしかった。
「……何ですか、これ」
ミハイルは、思わず呟いた。
自分が転送されてくるまでの間に、いったい何が起きたというのだろう。
その疑問に答える者は、すぐには現れなかった。
代わりに、背後の北側の小部屋で、空気がかすかに揺らぐような気配がした。
振り返ると、そこにはヴァレリアが立っていた。
彼女もまた、何もない空間から突然姿を現したところだったらしく、ほんの一瞬、周囲の様子を確かめるように目を瞬かせていた。しかし、すぐにミハイルを認めると、安堵したような表情になり、小部屋から八角形の主室へ足を進めてきた。
「ミハイル。ご無事でしたか」
「ああ。だが、こいつは……」
彼が床を指さすと、ヴァレリアもようやく四人のエルフに気づいた。
その顔に、驚きが浮かんだ。
そして、詳しい事情を尋ねるより先に、今度は北の小部屋へダリヤが現れた。
「……うわっ!」
転送の感覚そのものに驚いたのか、それとも、目の前に広がる光景に驚いたのか、最初の声だけでは判断がつかなかった。
しかし、ダリヤは小部屋から二歩ほど進んだところで床の四人を見つけると、たちまち目を丸くした。
「もう誰か捕まってる!」
「捕まえたの」
何もない場所から、声がした。
三人は同時に振り返った。
部屋の隅で、灰色の石壁とほとんど見分けがつかなかった空間が、わずかに揺らいだように見えた。やがて、周囲の色に溶け込んでいたエルブンクロークの輪郭が少しずつ浮かび上がり、その中から黒髪のエルフの娘が姿を現した。
セラリスだった。
彼女は、まるで何事もなかったかのような顔をしていた。
その表情を見たミハイルは、床の四人と自分の師匠とを、何度か見比べてしまった。
「……先生。最初からシスワがいたんですか?」
「ううん。私が来たときには、まだ誰もいなかったよ」
「では、この四人は?」
「あとから来たんだよ。鐘が鳴ったから」
ミハイルは、ゆっくりと西側の鐘へ顔を向けた。
「……鐘?」
「うん。私が転送されてきたら、いきなり鉄格子が閉まって、その鐘がすごい勢いで鳴り始めたんだよね。それから壁の穴からガスまで出てきたから、ちょっと困ったよ」
そこまで聞いたところで、三人は揃って黙り込んだ。
セラリスは、自分が何かおかしなことを言ったとは思っていないらしく、相変わらず落ち着いた様子で鐘を眺めている。
最初に我慢できなくなったのは、ダリヤだった。
「……見つかってるじゃないですか!」
声が思った以上に大きく響いた。
セラリスは、すぐに人差し指を唇へ当てた。
「しーっ。静かに」
「誰のせいですか!」
「だから、静かにってば」
ダリヤは慌てて声を落としたが、その顔に浮かんだ不満までは、どうにも隠しきれなかった。
彼女は、つい先ほどまでの相談を思い出していた。
正面入口から入れば相手に気づかれるかもしれないから、非常口を使おうと決めたのである。敵がこちらの存在を知らないうちに神殿の地下へ入り込み、できるだけ戦闘を避けて囚われた者たちを探すという、なかなかよい作戦だと思っていた。
ところが実際には、最初の一人が転送されてきた途端、鉄格子が閉まり、鐘が鳴り響き、ガスまで噴き出してきたというのだから、もはや何をどう考えればよいのかわからない。
「先生、非常口から入って奇襲するって話は、どこへ行っちゃったんですか?」
「だから、今は鐘も止まってるでしょう?」
「鳴ったあとで止まっても、もう遅いじゃないですか!」
「でも、誰が来たかまではわかってないと思うよ」
セラリスは、あまり気にしていない様子だった。
いや、正確には、気にしていないというより、既に起きてしまったことについて、いつまでも嘆いていても仕方がないと考えているらしかった。
ミハイルは、何とも言えない顔で西側の鐘を見た。
これほど大きな鐘が鳴り響いたというのなら、神殿の内部にいる者たちが気づかなかったとは考えにくい。
まして、警報のために設けられた仕掛けであるなら、鐘が鳴ったことそのものに、何か特別な意味があるのだろう。
自分たちが密かに侵入しようとしていたことなど、もはや最初から相手に知られてしまっているのではないか。
そう考えると、何とも情けない気分になってしまった。
だが、ヴァレリアは、そんな二人よりも先に、別の問題へ注意を向けていた。
「先生。それで、ガスはどうされたのですか?」
「ああ、それなら風の精霊を呼んで散らしたよ」
セラリスは、簡単に答えた。
ヴァレリアは、少しだけ目を瞬かせた。
「……それで済むのですね」
「うん。何のガスかわからなかったから、吸わない方がいいと思ったんだ」
「それは、そうですね」
「毒なのか、眠らせるためのものなのかもわからなかったしね。とりあえず散らしちゃえば、どっちでも困らないでしょう?」
セラリスの口調は、いかにも当然の判断を説明しているというものだった。
しかし、ミハイルたちにしてみれば、毒かもしれないガスが噴き出してきたという時点で、十分に恐ろしい話なのである。
狭い石室へ閉じ込められ、鐘が鳴り響き、逃げ道を鉄格子で塞がれたうえに、正体のわからないガスまで注入される。
普通の冒険者であれば、それだけで命を落としていても不思議ではなかった。
ところがセラリスは、風の精霊を呼んで散らしたから大丈夫だったと、まるで窓を開けて部屋の空気を入れ替えた程度のことのように話している。
ダリヤは少し呆れながら壁際へ近づき、石の表面を調べ始めた。
やがて、床に近い位置へ小さな孔が幾つも穿たれていることに気づいた。
「あ、これですね。ここから出てきたんだ」
「たぶんね」
セラリスが頷いた。
ダリヤは孔の周囲へ顔を近づけかけたが、すぐに思い直し、少し距離を取って観察した。
孔の周囲には、古い汚れのようなものが付着している。そこから何らかの気体が送り込まれる仕組みになっているのだろうが、どこにガスを蓄えているのか、どのように噴出を制御しているのかまでは、外から見ただけではわからなかった。
「……これ、毒か眠りガスですよね」
「たぶん、そうだと思うよ」
「先生、種類を確かめようとか思わなかったんですか?」
「吸って確かめる気はないよ」
「それならいいです」
ダリヤは、即座に答えた。
「知らなくていいですからね。あとで調べようとして吸い込むとか、絶対やめてくださいよ」
「そんなことしないってば」
セラリスは、少し不満そうだった。
しかし、ダリヤとしては念を押しておきたかったのである。
先生が何か珍しいものを見つけたとき、非常に強い好奇心を示すことを、彼女はこれまでに何度も見てきた。魔法の仕掛けや、古い遺跡の装置については、とりわけその傾向が強いように思われた。
もちろん、だからといって無謀なことをする人物ではない。
しかし、危険なものへ興味を持つことと、危険を避ける判断をすることは、必ずしも矛盾しないのだろう。
そのことを理解してはいても、ダリヤとしては、やはり少々心配なのである。
◇
ミハイルは、改めて床に眠っている四人のシスワを見下ろした。
若い者もいれば、ある程度の年齢に達しているらしい者もいた。衣服や装備には多少の違いがあったが、いずれも神殿の警備にあたっていた者たちなのだろう。
四人とも、穏やかに眠っている。
少なくとも、苦しんでいるようには見えなかった。
「……それで、この四人は、どうしてここへ?」
「鐘が鳴ったから、誰か確認に来るだろうと思って待ってたんだよ」
「待ってたんですか?」
「うん。だって、警報が鳴ったら、侵入者が捕まったかどうか調べに来るでしょう?」
ミハイルは、思わず黙ってしまった。
確かに、そのとおりだった。
罠を作動させるだけなら、そこにいる者を眠らせるか殺すかすれば済むのかもしれない。しかし、侵入者が本当に捕まったのか、どのような者が入り込んできたのかを確認しなければ、警備の者たちには、そのあとの対応を決められないだろう。
だから、鐘が鳴れば誰かがやって来る。
それは、考えてみれば当然のことだった。
しかし、だからといって、罠にかかった直後にその場へ留まり、確認に来た警備兵を待ち構えるなどという発想は、ミハイルにはなかなか浮かばなかったのである。
「……先生は、見つからなかったんですか?」
「うん。ガスを散らしてから、また姿を隠して待ってたよ」
セラリスは、東側の扉を指さした。
「少ししたら、あの扉が開いて、シスワが四人入ってきたんだ」
三人の視線が、東の壁へ向いた。
木と鉄で補強された扉は、今は閉じられていた。
その表面には長く使われてきたらしい傷が幾つも残っており、蝶番もかなり頑丈そうだった。少なくとも、地下の通路へ続く扉としては十分な強度を備えているように見えたし、警備の者たちが通ってきたというのなら、その向こうには人が歩ける通路が存在しているはずだった。
「それで、《睡眠》を使ったんですか?」
ダリヤが尋ねた。
「うん。四人まとめて眠ってもらったよ」
「……全員、一度に?」
「そうだよ」
「誰も起きなかったんです?」
「起きたら困るでしょう?」
「いや、そういうことじゃなくて……」
ダリヤは、何とも言えない顔になった。
もちろん、《睡眠》が有効な相手であれば、一度に何人も眠らせることができるということは知っている。しかし、実際にこうして、四人の警備兵が一人残らず眠らされ、しかも丁寧に縄で縛られている光景を目にすると、魔法というものの便利さを、改めて思い知らされるようだった。
しかも、セラリスは四人が眠っている間に武器を取り上げ、その手足まで縛ってしまったのである。
実に手際のよい仕事だった。
ただし、それが戦闘だったとすれば、あまりにも一方的な結果でもあった。
四人のシスワは、おそらく、警報が鳴ったから確認に来たにすぎない。
侵入者がまだ部屋の中に潜んでいるとは思っていなかったのかもしれないし、仮に警戒していたとしても、姿の見えない相手から突然魔法をかけられては、対処する暇などなかったのだろう。
ヴァレリアは、一人のそばへ膝をついた。
「少し、診てもよろしいですか?」
「うん。お願い」
セラリスが答えると、ヴァレリアはまず呼吸を確かめ、続いて首筋へ指を当てて脈を取った。
その表情は真剣だった。
今回、自分たちが助けようとしている者たちの中には、こうしたシスワも含まれているはずなのである。仮にラヒブの魔法によって操られているのであれば、彼ら自身も被害者なのかもしれない。
そう考えれば、たとえ今は武器を持って襲いかかってくる相手であったとしても、無闇に傷つけるわけにはいかなかった。
ヴァレリアは一人ずつ確かめ、最後の一人の呼吸を調べ終えると、ようやく顔を上げた。
「……大丈夫です。四人とも、魔法で眠っているだけのようですね。今のところ、身体に異常は見られません」
「よかった」
セラリスは、素直にそう答えた。
その声を聞いて、ミハイルは少しだけ安心した。
先生にとって、この四人を眠らせること自体は、それほど難しい仕事ではなかったのだろう。だが、彼女が最初から傷つけずに済ませようと考えていたことは、実際の結果を見れば明らかだった。
武器を奪い、縄で縛る。
殺さずに無力化するというのは、こういうことなのだ。
もちろん、相手の数がもっと多かったり、魔法が効かなかったりすれば、同じ方法が通用するとは限らない。
しかし、少なくとも今回の四人については、一人も傷つけることなく捕らえることができたのである。
それは、ラハシアへ説明する際にも、胸を張って報告できることだった。
◇
「それから、鐘の魔法も解除したよ」
セラリスが、思い出したように言った。
ダリヤは、もう一度西側の鐘を見た。
先ほどから気になっていたのだが、鐘の周囲には、普通の金属製の警報装置とは少し違う雰囲気があった。どこかに紐や滑車の仕掛けが隠れているのかもしれないと考えていたものの、見える範囲には、それらしいものがないのである。
「……魔法で鳴ってたんですか?」
「そうだよ」
セラリスが頷くと、腰に帯びたソーンウォッチが、低い声で口を開いた。
「警報魔法だ」
ダリヤは、反射的に剣へ目を向けた。
「ソーンウォッチは、最初からわかってたんですか?」
「私はな」
知性剣は、いかにも当然のことのように答えた。
「私も聞いたよ」
セラリスが横から口を挟んだ。
すると、ソーンウォッチは即座に言い返した。
「鐘が鳴り響いている最中に、私の言葉を三度も聞き返した女が、何を言う」
「だって、うるさかったんだから仕方ないでしょう?」
「鐘とは、そもそもそういうものだ」
「わかってるよ。でも、あんなに大きな音を出さなくてもいいと思わない?」
「侵入者の到来を知らせるための警報だぞ。静かに鳴ってどうする」
「それはそうだけどさあ」
セラリスは、少し不満そうに口を尖らせた。
ダリヤは、二人のやり取りを聞きながら、どうにも妙な気分になっていた。
魔法の剣と、その持ち主であるエルフが、鐘の音がうるさかったかどうかについて言い争っているのである。
そもそも、警報が鳴るということは、侵入者の存在を知らせるためなのだから、大きな音が出るのは当然だろう。しかし、その音が大きすぎて魔法の剣の言葉が聞こえなかったというのも、言われてみれば確かに不便な話ではあった。
だが、それについて考え始めると、何となく話が余計な方向へ進んでしまいそうだった。
ダリヤは、もうその話には加わらないことにした。
代わりに、室内をもう一度見回した。
「……それで、先生。この部屋って、どういう造りになってるんですか?」
セラリスは、ようやく鐘から目を離した。
「うん。じゃあ、整理しようか」
彼女はまず、北側の開口部を指さした。
「北の小部屋は、私たちが転送されてきた場所だよ。道端の祠から入ると、そこへ出るみたい」
ミハイルも、ヴァレリアも、ダリヤも、その場所には見覚えがあった。
三人とも、何もない空間から突然現れ、その小部屋を通って八角形の主室へ出てきたのである。
「じゃあ、北が入口なんですね」
ミハイルが言った。
「うん。少なくとも、外から入るときはね」
セラリスは頷いた。
それから、今度は西側を指さした。
「西の小部屋は、道端の祠へ戻るためのテレポータだよ」
ダリヤは、その場所へ目を向けた。
大きな鐘の近くにある開口部の奥には、北側と同じような小さな石室が続いている。外から見ただけでは、特に変わった仕掛けがあるようには見えなかったが、どうやらその奥にも、目に見えない魔法の境界が存在しているらしかった。
「……先生が、最初に偵察して戻ってきたのは、そこからなんですね?」
「そうだよ。西の小部屋へ入ったら、祠の方へ戻れたんだ」
「なるほど……」
ダリヤは、ようやく納得した。
先ほど、祠でセラリスの帰りを待っていたとき、彼女は祭壇の裏から戻ってくるものだと思っていた。ところが実際には、いつの間にか祠の入口近くへ姿を現し、三人を驚かせたのである。
それも、この転送装置の構造を考えれば理解できる話だった。
北から入り、西から戻る。
二つの一方通行の転送路を組み合わせることによって、外部と神殿の地下とを行き来できるようにしているのだろう。
ただし、同じ場所へ戻るわけではないという点は、かなり重要だった。
何も知らない者が北側の小部屋から戻ろうとしても、うまくいかない可能性があるのである。
ダリヤは、そのことを忘れないように、頭の中で何度か繰り返した。
北から入り、西から出る。
単純なことのようだが、いざ危険な状況になって慌てているときには、こうした違いを間違えやすいものなのだ。
そして、ダリヤは残る一つの開口部へ目を向けた。
「……じゃあ、南は?」
セラリスも、南側の小部屋を見た。
「そこは、まだよくわからないんだよね」
「調べてないんですか?」
「うん。向こうからシスワが来たわけじゃないし、最初に偵察したときも、そこまでは調べなかったから」
セラリスは、少し考えてから続けた。
「神殿の内部につながってるのかもしれないし、神殿のどこかから、ここへ転送されてくる場所なのかもしれない。見たところ、北や西の小部屋と似てるからね」
ミハイルは、東側の扉へ目を向けた。
「……それなら、確実に神殿の中へつながっているのは、東の扉ということですね」
「少なくとも、人が歩いて来られる場所には通じてるね。さっきの四人は、あそこから入ってきたんだから」
「南は、転送路かもしれない?」
ダリヤが尋ねた。
「うん。その可能性もあるよ。でも、まだ確かめてないから、決めつけない方がいいね」
ヴァレリアは、しばらく考え込んだ。
北には外から入る転送路があり、西には外へ戻るための転送路がある。南にも、それに似た小部屋が設けられており、東には神殿内部へ続くらしい扉がある。
しかも、この部屋へ侵入者が現れると、鉄格子が閉まり、鐘が鳴り、ガスが噴き出すという仕組みになっているらしい。
それらを一つずつ考えていくうちに、彼女の中で、ある考えが浮かんだ。
「……この部屋そのものが、一種の出入り口の管理所なのではないでしょうか?」
セラリスが、彼女を見た。
「うん。私もそんな感じがする」
「外から来た者は北の転送路へ現れ、神殿から外へ出たい者は西の転送路を使う。そして、内部からこちらへ来るには東の扉を通ることができる……」
ヴァレリアは、八角形の部屋を見回した。
「もしそうなら、南の小部屋にも、何らかの交通路としての役割があるのかもしれません」
「そうだね。神殿の別の場所とつながってる可能性はあると思うよ」
セラリスは頷いた。
最初は、神殿から逃げ出すための非常口ではないかと考えていた。
しかし、こうして部屋全体の構造を改めて見てみると、どうやらそれだけでは説明できない仕掛けが設けられているらしかった。
北から侵入者が現れれば、鉄格子が閉じる。
警報の鐘が鳴り、ガスが注入される。
そして、東側の扉から警備のシスワたちが現れ、罠にかかった者を確認する。
その一方で、西側には外へ戻るための転送路が設けられ、南側には、まだ用途のわからない小部屋がある。
単なる非常口というより、神殿の内外を結ぶ交通の要所であり、同時に侵入者を捕らえるための関所でもあるのかもしれなかった。
その構造は、決して不合理なものではない。
秘密の転送路が存在しているからといって、それを誰も知らないまま放置しておく必要はない。むしろ、神殿の管理者たちにとっては、そうした出入り口を利用できる者を制限し、不審な者が入り込んできた場合には、すぐに対処できるようにしておく方が自然だろう。
考えてみれば、最初から何の警戒もせずに使える非常口など、それはそれで危険なものなのかもしれなかった。
「……なるほどね」
ダリヤは、少し感心したように部屋を見回した。
そして、次の瞬間には、何とも不満そうな表情になった。
「でも、私たちが入ってきたことは、もう完全に知られてるんですよね?」
「うん。そこは、もう仕方ないね」
セラリスは、あっさりと認めた。
「……仕方ない、で済ませるんですか?」
「だって、鐘はもう鳴っちゃったんだもの。今さら鳴らなかったことにはできないでしょう?」
確かに、そのとおりだった。
しかし、ダリヤとしては、もう少し残念そうにしてほしかったのである。
せっかく三人で相談し、正面入口から入るよりも非常口を使った方がよいと判断したのだ。その結果として、最初の一歩で警報装置を作動させてしまったというのは、どうにも情けない話に思われた。
しかし、セラリスは、それほど落胆していなかった。
「それにね、まだ全部が知られたわけじゃないと思うよ」
彼女は、三人の顔を順に見た。
「鐘を聞いた人たちは、ここで警報が鳴ったことは知ってる。でも、誰が来たのかまでは、わかってないんじゃないかな」
ミハイルが、少し考えた。
「……確かに。見張りの四人は、全員ここで眠っていますからね」
「うん。しかも、あの四人は私の姿を見てないんだよ。だから、ほかの人へ侵入者のことを説明することもできないでしょう?」
ダリヤは、そこでようやく顔を上げた。
「……ああ、そうか」
「それに、鐘が止まったあと、四人がどうなったのかも、向こうにはまだわからないと思うんだ」
ヴァレリアが頷いた。
「つまり、警報が鳴ったことは知られていても、何人の侵入者が来たのか、捕らえられたのか逃げたのか、その後どうなったのかまでは、まだ判断できないということですね」
「そういうこと」
セラリスの口元が、少しだけ上がった。
「だったら、その時間を使おうよ」
その言葉を聞いて、ミハイルは、ようやく状況を少し違った角度から見ることができた。
確かに、奇襲は完全に成功したとは言えない。
最初の警報によって、誰かが転送路へ入り込んだことは知られてしまった。
しかし、そのあとで何が起きたのかについては、向こうも正確には把握していない可能性が高いのである。
もし自分が神殿の警備を任されていたなら、どう考えるだろう。
警報が鳴った。
確認のために四人を送り込んだ。
ところが、彼らは戻ってこない。
ならば、侵入者が罠を突破したのかもしれないし、何か別の問題が起きたのかもしれない。
しかし、それだけでは、侵入者の数も、能力も、目的もわからない。
次にどうすればよいのかを判断するためには、さらに情報が必要になるだろう。
そして、その情報を得るためには、もう一度誰かを送り込まなければならない可能性がある。
そのことに思い至った瞬間、ミハイルは顔を上げた。
「……先生。あの四人が戻ってこなければ、次の誰かが確認に来るかもしれませんね」
「うん。そう思う」
セラリスは、あっさりと頷いた。
ミハイルは、東側の扉へ目を向けた。
先ほどまでなら、ただ神殿の奥へ続く扉だと考えていたものが、今では少し違って見え始めていた。
あの扉の向こうには、敵がいる。
そして、その敵もまた、今ここで何が起きているのかを知ろうとしているかもしれないのである。
◇
ダリヤは、すぐに東側の扉へ近づいた。
ただし、取っ手へ手を伸ばすようなことはしなかった。
彼女はまず、扉の前でしゃがみ込み、床石の継ぎ目を確かめた。それから扉の両脇へ視線を移し、蝶番の取りつけられた位置や、扉枠と壁の間に不自然な隙間がないかを調べ始めた。
その動きは、以前よりもずっと落ち着いていた。
少し前までのダリヤなら、扉を見つけると、まず鍵がかかっているかどうかを確かめ、そのあとで罠を探すという順番になっていたこともあった。しかし今では、取っ手に触れる前に周囲を調べることが、ほとんど習慣になっている。
罠というものは、必ずしも扉そのものに仕掛けられているとは限らない。
扉の前の床石を踏んだ途端、壁から矢が飛んでくることもあれば、蝶番に触れた瞬間に何かが作動することもある。鍵穴へ工具を差し込むことが、罠の引き金になっている場合さえあるのだから、目の前の扉だけを見ていては危険だった。
ダリヤは、それを幾度もの訓練を通じて覚えていた。
「……こっちが本命でしょうか」
彼女は、扉を調べながら尋ねた。
「そう思う?」
セラリスが答える。
「はい。さっきのシスワはここから来たんでしょう? だったら、少なくとも人が普通に通れる道です。南の小部屋が何なのかわからない以上、こちらの方が先を想像しやすいと思います」
ミハイルも頷いた。
「俺もそう思う。南が転送路だったとしても、どこへ出るのかわからないんだから、今は確実に人が通ってきた道を調べる方がいいだろう」
ヴァレリアも、それに同意した。
「それに、もし警備の者たちが戻ってこないことを不審に思っているのなら、次の者が来る可能性もあります。ここで長く考え込んでいるのは、かえって危険かもしれません」
「……ですよね」
ダリヤは、少し嫌そうな顔になった。
彼女はもともと、罠や仕掛けを調べることが嫌いではない。むしろ、興味を引かれるものがあれば、できるだけ詳しく調べてみたいと思う性質だった。
しかし、今回ばかりは事情が違う。
ここで時間をかけすぎれば、敵の増援が来るかもしれない。
しかも、相手はできるだけ殺さずに済ませたいシスワたちなのである。
もし新たな警備兵が現れれば、また無力化しなければならないし、そうなれば、さらに縄が必要になるだろう。
ダリヤは、腰の荷物を思い出して小さくため息をついた。
「……そういえば、もう四人分のロープを使ってるんですよね」
「うん。私の手持ちから出したけど、こういうのが続くと困るね」
セラリスが答えた。
その声に、ダリヤは少しだけ呆れた。
四人を眠らせて縄で縛るというのは、相手を殺さずに済ませる方法としては、確かに申し分ない。しかし、それを繰り返すことになれば、たとえ十分な縄を持っていたとしても、いずれ限界が来るだろう。
何十人ものシスワを次々に縛って歩くなどというのは、どう考えても現実的ではなかった。
「……やっぱり、できるだけ見つからないようにした方がいいですね」
「そうだね」
「じゃあ、早めに進みましょう。次の見張りが来る前に」
ダリヤは、改めて扉の調査へ意識を戻した。
一方、ミハイルは床に眠る四人へ目を向けた。
「……この人たちは、置いていくしかないんでしょうか」
その声には、少し迷いがあった。
確かに、今の四人は無力化されている。
しかし、ここに置いたまま自分たちだけ先へ進めば、そのあとで何が起きるかわからない。別の警備兵が来て縄を解くかもしれないし、目を覚ました四人が自力で逃げ出そうとする可能性もある。
だからといって、四人を連れて歩くわけにもいかなかった。
自分たちの目的は、神殿の奥に囚われている者たちを助け出すことであり、眠っている警備兵を何人も連れて歩くことではないのだから。
セラリスは、ミハイルの隣へ来た。
「連れて歩く方が危ないと思うよ」
彼女はそう言うと、床にいる一人の縄を確かめた。
手足は丁寧に縛られており、すぐに自由になることは難しそうだった。呼吸にも問題はなく、今のところ、無理に動かそうとしなければ危険な状態ではなかった。
「この部屋は、今は罠が動かないようにしてあるし、鐘も止めてある。四人ともまだ眠ってるから、しばらくは大丈夫だと思うんだ」
ヴァレリアも頷いた。
「目を覚ましたとしても、すぐには縄を解けないでしょう。少なくとも、私たちが奥へ進むための時間は稼げると思います」
「うん。それに、戻ってきたときには、もう一度様子を確かめよう」
セラリスは、少し考えて続けた。
「もちろん、誰かが助けに来る可能性はあるよ。でも、それならそれで、向こうは四人が殺されたわけじゃないってわかるでしょう?」
ミハイルは、少し驚いたように彼女を見た。
「……ああ、そうか」
「うん。血も流れてないし、武器も奪ってある。誰かが見つけたら、少なくとも、ここへ来た侵入者が四人を殺さずに済ませたことはわかると思うんだ」
それが相手にどのような意味を持つのかは、もちろんわからなかった。
ラヒブに操られている者たちが、仲間を殺されなかったことへ何かを感じるのかどうかも不明である。ひょっとすると、単に侵入者が強力な魔法を使うという事実だけが伝わり、かえって警戒を強められることになるかもしれなかった。
しかし、それでも、四人を殺さずに済ませたことに変わりはない。
その事実だけは、決して無意味なものではなかった。
「……なるほど」
ミハイルは頷いた。
そして、眠っている四人をもう一度見下ろした。
できることなら、彼らにも無事に元の暮らしへ戻ってほしかった。
ラヒブの魔法によって操られているのであれば、その支配が解けたあと、彼らは今の自分たちの行動をどのように思い返すのだろう。
村を襲ったことを悔やむのか。
仲間を捕らえたことを悲しむのか。
それとも、操られていた間の記憶そのものが残らないのか。
何もわからなかった。
だが、少なくとも今、四人は生きている。
自分たちがこの神殿へ来た目的を考えれば、それは十分に意味のあることだった。
◇
ダリヤは、しばらく扉を調べ続けていた。
床石の継ぎ目を確かめ、蝶番を観察し、扉枠の隙間へ細い道具を差し込んでみる。それから鍵穴の周囲を調べ、扉そのものへ何か仕掛けが施されていないかを、慎重に確かめていった。
途中、何度か手を止めて耳を澄ませたが、東側の扉の向こうからは、特に変わった音は聞こえてこなかった。
もちろん、だからといって安全だということにはならない。
厚い扉の向こうで誰かが待ち伏せしている可能性もあれば、遠くの通路を警備兵が歩いている可能性もある。
しかし、少なくとも今のところ、扉の向こうで大勢の者たちが騒いでいるような気配は感じられなかった。
やがてダリヤは顔を上げた。
「……先生。今のところ、扉そのものには罠はなさそうです」
「鍵は?」
「かかってません」
「向こうの音は?」
「まだ、ちゃんとは確かめてません」
ダリヤはそう答えると、改めて扉へ耳を寄せた。
石室の中が静かになった。
セラリスも、ミハイルも、ヴァレリアも、誰一人として声を出さなかった。
ただ、眠っている四人の規則正しい呼吸だけが、かすかに聞こえている。
ダリヤは、じっと耳を澄ませた。
厚い木の向こうには、別の空間があるはずだった。
そこに誰かがいるのか。
足音はしないか。
武器や鎧の触れ合う音は聞こえないか。
何かを引きずる音や、遠くから響いてくる声はないか。
彼女は、そうしたものを一つずつ聞き分けようとしていた。
しかし、今のところ、何も聞こえなかった。
しばらくして、ダリヤはゆっくりと顔を離した。
「……何も聞こえません」
セラリスは、静かに頷いた。
「そっか」
「でも、誰もいないとは限りませんからね」
「うん。わかってるよ」
その返事を聞いて、ダリヤは少し安心した。
彼女は、扉の前から身体を退け、ミハイルが近づけるように場所を空けた。
ミハイルは、盾の位置を確かめながら前へ出た。
剣は、まだ抜いていなかった。
そのことに、彼自身も少し不思議な感慨を覚えていた。
以前なら、こうした場面では、まず剣を抜いていたはずだった。
何が待っているかわからない扉の向こうへ踏み込むのである。武器を構え、敵が現れたらすぐに斬りかかれるようにしておくことが、当然の準備だと思っていた。
しかし、今回の相手は違う。
向こうから現れる者がシスワであれば、それは自分たちが助けたいと思っている相手かもしれないのである。
もちろん、だからといって剣を抜かずに済むとは限らない。
相手が本気で襲いかかってきたなら、自分も仲間を守らなければならない。そのときには、迷っている余裕などないだろう。
しかし、まだ何も起きていないうちから剣を抜く必要はない。
その判断を、ようやく自分のものとして受け止められるようになってきたことが、ミハイルには少しだけ嬉しかった。
ヴァレリアは、その後ろで聖印へ手を添えた。
彼女もまた、できるだけ戦わずに済ませたいと思っていた。
ラハシアの涙を見た。
シルヴァとメリサの似顔絵も見た。
父と婚約者が帰らないことを語ったときの、あの美しい娘の苦しげな表情が、まだ目に焼きついている。
今回の冒険は、単に神殿を探索して財宝を持ち帰る仕事ではない。
誰かの大切な人を、できることなら生きたまま連れ戻すための冒険なのである。
そう考えれば、今ここで自分たちが慎重になることにも、十分な意味があった。
そしてダリヤは、扉の少し横へ立ち、いつでも罠や仕掛けを調べられるように準備していた。
彼女の腰の荷物には、ラハシアから預かった二枚の似顔絵が収められている。
その重さなど、ほとんど感じられないほどの小さな荷物だったが、今のダリヤには、そこに確かな意味があるように思われた。
自分たちは、あの二人を探しに来たのだ。
そのために、ここまで来たのである。
◇
セラリスは、三人の様子を静かに眺めていた。
ミハイルは、剣を抜かずに扉の前へ立っている。
ヴァレリアは、いつでも祈りを使えるように備えながら、周囲の様子を確かめている。
ダリヤは、扉の横で警戒を怠らず、何か不審なものが見つかれば、すぐに調べられるようにしていた。
少し前までの三人なら、こんなふうには動けなかっただろう。
誰が先へ進むべきなのか、何を確かめなければならないのか、危険があったときにどうするべきなのか。その一つ一つを、セラリスが教えなければならなかったはずだった。
しかし、今では違う。
彼らは自分たちで考え、役割を分担し、何が危険なのかを確かめながら進もうとしている。
もちろん、まだ未熟なところはある。
警報が鳴ったというだけで動揺することもあれば、敵が待ち伏せしているかもしれないという不安に、必要以上に気を取られてしまうこともあるだろう。
だが、それでよいのだ。
冒険者として成長するということは、恐怖を感じなくなることではない。
危険があると知ったうえで、それでもどうすれば生き延びられるのかを考えられるようになることなのだろう。
セラリスは、そう信じていた。
そして今の三人は、確かにその方向へ進み始めている。
彼女は、少し嬉しくなった。
もちろん、そんな感情を表に出して、今ここで三人を褒めるつもりはなかった。
まだ神殿の入口を抜けたばかりなのである。
ここから先に何が待っているのかもわからないうちに、気を緩ませるわけにはいかなかった。
セラリスは、もう一度室内を見回した。
八角形の石室。
北には、自分たちが入ってきた転送路がある。
西には、外の祠へ戻るための転送路があり、その近くには、つい先ほどまで盛大に鳴り響いていた鐘が置かれている。
南には、まだ正体のわからないもう一つの小部屋がある。
そして東には、侵入者を確認するために四人のシスワがやって来た、頑丈な扉があった。
少なくとも、今のところ、確実に神殿の内部へ通じているとわかっているのは、この東側の扉だけだった。
奇襲を考えて選んだ転送路は、最初の警報によって、少々予定を狂わされてしまった。
しかし、それで何もかもが失敗したわけではない。
神殿の者たちは、警報が鳴ったことを知っているだろう。
だが、侵入者が何人いるのか、どのような力を持っているのか、何を目的としているのかまでは、まだわかっていない可能性が高かった。
そして何より、最初に様子を見に来た四人のシスワは、今ここで、傷一つ負わずに眠っている。
その事実は、今回の冒険において、決して小さな意味を持つものではなかった。
セラリスは、エルブンクロークを身体へ引き寄せた。
灰色の石壁へ溶け込むように、その輪郭が少しずつ見分けにくくなっていく。
完全に姿を消すわけではないが、暗い地下の石室で、物陰を利用しながら行動するには、十分な効果があるだろう。
彼女は、扉の前に立つミハイルへ顔を向けた。
「じゃあ、東から行ってみようか」
ミハイルが頷いた。
「はい」
「ダリヤ、扉を開けるときはゆっくりね。何か見えたら、まず止まろう」
「わかってます」
「ミハイルは、向こうに誰かいても、すぐ斬りかからないでね」
「はい。まず様子を見ます」
「ヴァレリアは、後ろをお願い。もし何かあったら、すぐ教えてね」
「承知しました」
三人の返事を聞いて、セラリスは満足そうに頷いた。
それから、もう一度だけ、床に眠る四人のシスワへ目を向けた。
この四人が目覚めたとき、何が起きるのかはわからない。
誰かが縄を解きに来るかもしれないし、自分たちが戻ってきたときにも、まだ眠っているかもしれない。
だが、少なくとも今は、彼らを殺さずに済ませることができた。
それでよかった。
セラリスは、そう思った。
もちろん、この先も同じようにうまくいくとは限らないだろう。敵の数が増えれば、魔法の使い方も考えなければならないし、ラヒブがどのような手段を持っているのかによっては、今までとは違った危険に遭遇する可能性もある。
それでも、最初から殺すことしか考えないよりは、はるかによい。
助けられる可能性があるのなら、まずはその方法を探せばよいのである。
セラリスは、静かに息を吐いた。
自分たちは、ラハシアの願いを受けてここへ来た。
シルヴァとメリサを探し、彼女の父と婚約者を救い出し、操られているかもしれないシスワたちを、できるだけ正気へ戻すために、危険な神殿へ足を踏み入れたのである。
そして、その目的を果たすためには、何よりもまず、自分たちが生き延びなければならなかった。
そのことを、彼女は決して忘れるつもりはなかった。
ミハイルが、扉の前で静かに構えた。
ダリヤは、取っ手へ手を伸ばす前に、もう一度だけ扉の周囲を確かめた。
ヴァレリアは、二人の後ろで聖印へそっと指を触れた。
そしてセラリスは、エルブンクロークに包まれたまま、東の扉へ目を向けた。
そこから先には、まだ知らない通路が続いている。
その通路のどこかには、ラヒブに従うシスワたちがいるだろうし、あるいは、囚われている者たちを守るための罠や、警備の仕掛けが設けられているかもしれない。
何が待っているのかは、まだわからなかった。
しかし、だからといって立ち止まっているわけにはいかない。
今、自分たちが持っている情報だけでは、これ以上のことは判断できないのである。
ならば、少しずつ進み、確かめていくしかなかった。
セラリスは、三人の顔をもう一度見た。
そこには緊張があった。
しかし、怯えて動けなくなっている者はいなかった。
それぞれが自分の役割を理解し、次に何をするべきかを考えている。
セラリスは、そのことを嬉しく思った。
そして同時に、今回の冒険について、改めて一つのことを考えていた。
相手が何を知っていて、何を知らないのか。
自分たちが何を知っていて、何を知らないのか。
その違いを理解し、利用することも、冒険者にとって大切な技術なのだろう。
強い敵を倒すためには、必ずしも強い剣や魔法だけが必要なわけではない。
ときには、相手が自分たちの存在をどこまで把握しているのかを考え、そのわずかな隙を利用することが、何よりも有効な手段になる場合もあるのである。
今回も、そうだった。
最初の鐘によって、侵入者が現れたという事実は知られてしまった。
しかし、それ以上のことまで、相手がすべて理解しているとは限らない。
ならば、その曖昧さを利用すればよい。
敵が次の行動を決めかねている間に、自分たちは少しでも先へ進み、囚われている者たちへ近づけばよいのである。
「……じゃあ、開けようか」
セラリスが、小さな声で言った。
ダリヤは頷き、慎重に取っ手へ手をかけた。
厚い木の扉は、わずかな抵抗を示したものの、鍵がかかっている様子はなかった。彼女は急がず、扉をほんの少しだけ動かし、まず隙間の向こうを確かめようとした。
ミハイルは、その横で盾を構え、もし何かが飛び出してきた場合には、すぐに仲間を庇えるように備えていた。
ヴァレリアは後方に立ち、いつでも祈りを使えるようにしている。
セラリスもまた、物陰へ身を寄せ、必要ならすぐに動けるようにしていた。
八角形の部屋の中には、再び静けさが戻っていた。
先ほどまで盛大に鳴っていた鐘は、もう音を立てない。
鉄格子も、ガスを噴き出していた仕掛けも、今は動いていなかった。
床には四人のシスワが眠り、彼らの呼吸だけが、かすかに聞こえている。
その静かな石室から、四人の冒険者たちは、いよいよ神殿の奥へ進もうとしていた。
ラヒブが何を企んでいるのかは、まだわからない。
囚われた者たちが、今どのような状態にあるのかもわからない。
しかし、セラリスたちは既に、最初の一歩を踏み出していた。
それも、相手を一人も殺さずに済ませながら、である。
そのことは、これから先に待ち受けている危険を思えば、決して小さな成果ではなかった。
セラリスは、三人の背中を見ながら、静かに微笑んだ。
そして、東の扉がゆっくりと開き始めるのを、注意深く見守っていたのだった。