セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
東の扉の向こうには、細長い石造りの通路が延びていた。
八角形の石室から続くその通路は、神殿の古さを思えば意外なほどしっかりと造られており、床には平らに削られた石材が隙間なく敷き詰められ、両側の壁も、人が長い年月にわたって行き来することを考えて造られたものらしかった。もっとも、地下にあるためか空気には冷たい湿り気があり、石の継ぎ目には黒ずんだ染みが浮かんでいる。どこからともなく届く淡い光が床を照らしてはいたが、通路の奥へ目を向けると、石壁の陰が幾重にも重なって見え、その先に何が待ち受けているのかまではわからなかった。
通路そのものは、それほど広くなかった。
ミハイルが盾を構えて前へ立てば、後ろにいる者たちをある程度守ることはできそうだったが、二人の戦士が横に並んで自在に剣を振るうには、いささか窮屈な幅だった。途中には北と南へ一つずつ扉が設けられており、さらにその奥、東端には、ほかの二つとは明らかに造りの異なる扉が据えられている。
ダリヤは、その東端の扉を見た途端、少しだけ目を細めた。
「……東だけ、ずいぶん立派ですね」
彼女は声を落として言った。
それは、豪華な装飾が施された扉というわけではなかった。金銀で飾られているわけでもなければ、華やかな彫刻が刻まれているわけでもない。しかし、使われている板材の厚みや、鉄製の金具の造り、扉枠へ取りつけられた蝶番の形状などが、途中に設けられた二つの扉とは違っていたのである。
人が長く使うことを考えて造られた、丈夫で丁寧な扉だった。
しかも、その造りのよさには、単に頑丈であるというだけではない、何か特別な意味が込められているように感じられた。
ミハイルも、しばらくその扉を眺めていた。
「……あそこが、重要な場所へ続いているのかもしれないな」
「そうかもしれませんね。でも、見た目だけじゃわかりませんから」
ダリヤは、慎重な声で答えた。
冒険を始めたばかりの頃なら、立派な扉を見つければ、その向こうには何か価値のあるものが隠されているのではないかと期待して、すぐに近づいていたかもしれない。今でもそうした好奇心が失われたわけではなかったが、それと同じくらい、立派な扉の向こうには、立派な罠が仕掛けられていることもあるのだと考えるようになっていた。
何より、今は宝物を探しに来たのではない。
彼らが探しているのは、囚われたエルフたちなのである。
「先にあれを調べるか?」
ミハイルが尋ねると、ダリヤは首を振った。
「いえ。まずは手前の南の扉から調べましょう」
「南から?」
「はい。奥へ進んでから、背後に何があるかわからないままだと困るでしょう? もし後ろの部屋から誰か出てきたら、挟まれることになるかもしれません」
ダリヤは南側の扉を指さした。
「全部の部屋を隅々まで調べる必要はないと思いますけど、少なくとも、何があるのかくらいは確かめておきたいです」
ミハイルは、その言葉を聞いて頷いた。
なるほど、と思ったのである。
自分はつい、奥にある立派な扉へ注意を奪われていたが、確かに途中の部屋を確かめずに進めば、あとから何が出てくるかわからない。正面の危険だけを警戒していても、背後から襲われては意味がないのだった。
セラリスは、少し離れたところで二人のやり取りを聞いていた。
彼女は特に意見を挟まず、ただ小さく頷いた。
その表情には、わずかな満足が浮かんでいた。
以前のダリヤなら、目の前に扉があれば、とにかく開けてみたいと思ったことだろう。そこに罠があるかもしれないという警戒はしていても、扉の向こうを確かめること自体が、彼女にとって一つの楽しみでもあったからである。
しかし今では、なぜその扉を調べる必要があるのかを、自分で考えるようになっている。
背後の安全を確かめるために、まず手前から調べる。
それは単純な判断だったが、冒険者として生き残るためには、そうした単純な判断を積み重ねることが大切なのだろう。
セラリスは、弟子の成長を嬉しく思った。
だが、そんな感情をわざわざ口にして、ダリヤの集中を妨げるつもりはなかった。
今は、目の前の通路を慎重に調べることが先だったのである。
◇
ダリヤは南側の扉へ近づくと、まず床へしゃがみ込んだ。
取っ手には、まだ触れない。
彼女は扉の前に敷かれた石材を確かめ、それから扉枠の継ぎ目へ視線を移した。蝶番の取りつけられた位置や、金具の周囲に不自然な傷がないかを調べ、最後に取っ手と鍵穴の付近を注意深く観察していく。
それは、ミスタメアで何度も繰り返してきた手順だった。
初めの頃は、何をどの順番で調べればよいのかを覚えるだけでも精いっぱいだったが、今では手を動かすより先に、どのような仕掛けが存在する可能性があるのかを考えられるようになっている。
床に仕掛けがあるのか。
扉を開けること自体が罠の引き金になるのか。
それとも、扉の向こう側に何かが待っているのか。
可能性を一つずつ確かめながら、彼女は慎重に調査を進めた。
やがて、扉へ耳を寄せた。
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
ミハイルは少し離れた場所で周囲を警戒し、ヴァレリアは通路の奥へ目を向けている。セラリスもまた、エルブンクロークへ身体を馴染ませながら、ダリヤの動きを見守っていた。
地下の通路には、奇妙な静けさがあった。
どこか遠くで水滴が落ちているのか、時折、ごく小さな音が聞こえる。しかし、それ以外には人の話し声も、足音も、武具が触れ合う音もなかった。
ダリヤは、ようやく顔を上げた。
「……中からは、何も聞こえません」
「罠は?」
ミハイルが小声で尋ねた。
「見える範囲では、ありません。鍵もかかっていないみたいです」
「じゃあ、開けてみようか」
セラリスが言うと、ダリヤは頷いた。
彼女は取っ手へ手をかけ、扉を少しずつ開いた。
蝶番が軋むのではないかと警戒していたが、幸い、扉はほとんど音も立てずに動いた。開いた隙間から、薄暗い部屋の内部が見え始める。
中は、二十フィート四方ほどの石室だった。
八角形の部屋や通路に比べれば、ずいぶん雑然としている。
壁際には大小の箱が積まれ、その間に壺が幾つも並んでいた。部屋の一角には粗末なかまどが設けられ、別の壁際には、横倒しにされたワインの樽がいくつか置かれている。
扉を開いた途端、乾いた穀物と古い酒の匂いが、冷たい空気に混じって漂ってきた。
それは、廃墟の中にありがちな黴臭さとは少し違っていた。
少なくとも、この部屋は今も誰かに使われているらしかった。
ダリヤは一歩だけ足を踏み入れ、左右を確かめた。
「……貯蔵室ですね」
「そうだね」
セラリスも入口から中を覗き込んだ。
箱の一つには、乾燥した穀物らしいものが収められているようだったし、壺の中には豆のようなものが見えた。別の壺の外側には油らしい染みがついており、壁際の樽からは、かすかな酒の匂いが漂っている。
粗末なかまどには、以前使われたらしい煤の跡があった。
ここは、食料や日用品を保管するための場所なのだろう。
ミハイルも室内を覗き込んだ。
「何か、使えそうなものはあるかな?」
彼はそう言いかけたが、すぐにダリヤが振り返った。
「今は、そこまで調べなくていいと思います」
「そうか?」
「はい。宝探しに来たわけじゃないですからね。ここが貯蔵室だってわかったなら、それで十分でしょう?」
ミハイルは、少し驚いたように彼女を見た。
セラリスも、思わずダリヤへ目を向けた。
その視線に気づいたダリヤは、不思議そうに眉を寄せた。
「……何ですか?」
「いや、成長したなあと思って」
セラリスは、少し笑った。
ダリヤは、露骨に不満そうな顔になった。
「……失礼ですね」
「だって、前なら樽の中まで調べてたでしょう?」
「今でも帰りなら調べますよ」
「……やっぱり調べるんだ」
「当たり前でしょう? 宝探しに来たんじゃないだけで、宝が要らないとは言ってません」
ダリヤは、いかにも当然だという顔をした。
「それに、食料や道具だって、必要になれば役に立つじゃないですか。ただ、今ここで全部調べてたら、時間がかかると思うんです」
その言葉を聞いて、ミハイルが小さく笑った。
「ダリヤらしいな」
「大事なことでしょう?」
「うん。それはそうだね」
セラリスも頷いた。
彼女には、ダリヤの言っていることがよくわかった。
冒険者が財宝を求めることは、何も恥ずべきことではない。装備を整え、旅を続け、危険な場所へ向かうためには金が必要なのだから、持ち帰れる価値のあるものを探すのは、ごく自然な行動だった。
しかし、今は違う。
ここではラハシアの父や婚約者が、今も囚われているかもしれないのである。シルヴァとメリサも、どのような目に遭っているかわからない。
そうした者たちを助けるために来た以上、食料の箱や酒樽を一つずつ開けて中身を確かめている場合ではなかった。
帰りに余裕があれば、改めて調べてもよい。
その区別を自分で考えられるようになったことが、セラリスには嬉しかった。
ダリヤは室内をもう一度見回し、人が潜んでいる様子もなければ、奥へ続く別の扉も見当たらないことを確かめると、静かに入口へ戻った。
「じゃあ、ここは後回しにしましょう」
「うん。そうしようか」
セラリスが答えると、ダリヤは慎重に扉を閉めた。
貯蔵室の中から漂っていた穀物と酒の匂いが、扉の向こうへ閉じ込められ、通路には再び冷たい石の匂いだけが残った。
◇
「次は、北の扉ですね」
ダリヤは、通路を挟んだ反対側へ目を向けた。
南の貯蔵室と向かい合う位置に設けられた扉は、外見だけなら、それほど変わったものには見えなかった。板材の厚みも、鉄製の金具も、東端の立派な扉とは比べるまでもなく、長い年月の間に何度も開閉されてきたらしい傷が残っている。
しかし、だからといって安全だということにはならない。
むしろ、何の変哲もない扉の向こうに、思いがけない危険が潜んでいることもあるのだと、ダリヤはこれまでの経験から学び始めていた。
彼女は、先ほどと同じ手順で調査を始めた。
まず床を確かめ、扉枠と蝶番の周囲へ目を走らせる。取っ手と鍵穴を調べ、最後に扉の向こうから何か聞こえてこないか、じっと耳を澄ませた。
初めのうちは、何も聞こえなかった。
しかし、しばらくして、ダリヤの表情がわずかに変わった。
何か、聞こえる。
人の話し声ではない。
足音とも違っていた。
硬いものが石の表面を擦るような、低く鈍い音だった。
しかも、その音は一定の間隔で繰り返されるわけではなく、ときには長く引きずるように響き、ときには不意に途切れる。
ダリヤは、耳を離さずに眉を寄せた。
何かが動いている。
それだけは、ほぼ間違いなさそうだった。
「……中に、何かいます」
彼女は、ごく小さな声で言った。
ミハイルの表情が引き締まった。
「人か?」
「わかりません。でも、何かが擦れるような音がするんです。足音とは違うと思います」
ミハイルは、反射的に剣の柄へ手を伸ばした。
しかし、まだ抜くことはしなかった。
ヴァレリアも聖印へ指を触れ、いつでも祈りを使えるように備えた。セラリスは既にエルブンクロークへ身体を馴染ませ始めており、その輪郭は、薄暗い石壁の中へ少しずつ溶け込んでいた。
ダリヤは、もう一度扉を見た。
「……開けますか?」
「少しだけね」
セラリスが答えた。
「中へ入る前に、まず何がいるのか見よう。無理に近づかなくていいから」
ダリヤは頷いた。
そして、取っ手へ慎重に手をかけた。
扉は、思いのほか滑らかに開いた。
ほんのわずかな隙間から、まず石の壁が見えた。
その壁は、先ほどの貯蔵室とはまるで違っていた。
石材の表面がよく磨かれ、継ぎ目も精密に合わせられている。長い年月を経ていることは明らかだったが、それでも、そこに込められた石工たちの技術の高さが感じられるような、見事な造りだった。
室内は、やはり二十フィート四方ほどの広さを持っていた。
しかし、南の部屋とは違い、箱や壺が置かれているわけではない。部屋の中央には広い空間があり、四方の壁も、まるで何か特別な目的のために造られたかのように、整った形を保っている。
ただし、その均整の取れた石室には、一か所だけ、ひどく不自然な部分があった。
北壁の西端である。
そこには、人工的に整えられた壁面とはまったく釣り合わない、ごつごつした穴が開いていた。
岩を無理やり掘り抜いたような、粗いトンネルだった。
周囲の石材は崩され、割れた岩肌がむき出しになっている。洞穴の内部は暗く、その先がどこへ続いているのかはわからなかったが、少なくとも、最初からこの石室の一部として造られたものではなさそうだった。
ダリヤは、思わず目を細めた。
「……何で、こんなところに穴があるんでしょう?」
彼女の声には、隠し扉を見つけたときのような好奇心が混じっていた。
整った石室の壁を、何者かが後から掘り抜いたのか。
それとも、もともと存在していた自然の洞窟へ、この部屋を無理やりつなげたのか。
どちらにしても、不思議な造りだった。
しかも、その穴が開けられた理由は、単なる通気や排水のためとは思えない。人が屈んで通ることもできそうな大きさがあり、奥へ向かって確かな空間が続いているように見えたからである。
ダリヤは、もう少し詳しく観察しようとして身を乗り出しかけた。
そのときだった。
部屋の中央で、何かが動いた。
床石の上を硬いものが擦るような、あの奇妙な音がしたのである。
ダリヤは、咄嗟に動きを止めた。
そして、扉の隙間から、部屋の中央へ目を向けた。
◇
最初、それは巨大な蛇のように見えた。
長く伸びた身体が石床の上へ低く伏せられ、太い尾がゆっくりと左右へ動いている。頭部から背中へ続く輪郭はなめらかで、身体全体が緩やかにくねる様子には、蛇に似たものが感じられた。
しかし、よく見れば、それは蛇ではなかった。
脚がある。
短く見えるが、明らかに四肢を備えており、それぞれの脚には石床を掴むための爪があった。身体は大きく、通常の蜥蜴とは比較にならないほど逞しい。胴体の太さも、尾の長さも、狭い石室の中にいるためか、実際以上に大きく感じられた。
そして何より、その身体を覆っているものが、普通の鱗ではなかった。
わずかな光を受けて、全身がきらきらと輝いているのである。
まるで磨き上げた鉱石か、濡れた宝石の細片を無数に貼りつけたように、細かな光が鱗の一枚一枚から放たれていた。身体が動くたびに、その輝きは微妙に色を変え、ある部分では白く、別の部分では淡い青や緑を帯びて見える。
それは、美しかった。
少なくとも、最初に目にしたとき、そう感じずにはいられないほど奇妙な美しさだった。
しかし、同時に、何とも言えない不気味さもあった。
生き物の身体が、これほどまでに無機質な輝きを放っているということ自体が、ダリヤの知っている常識とは大きくかけ離れていたのである。
「……何、あれ」
彼女の声は、ほとんど囁きにもならないほど小さかった。
爬虫類は、まだこちらへ気づいていないようだった。
大きな身体をゆっくりとくねらせ、ときおり太い尾を引きずりながら、石床の上で位置を変えている。その動きは、一見すると鈍重にも見えたが、身体のどこかには、いつでも素早く動き出せるような力が秘められているようにも感じられた。
ミハイルは、その姿を見た途端、剣の柄を握る手へ力を込めた。
これまでにも、彼はさまざまな怪物を見てきた。
洞窟や廃墟に住む獣じみた怪物もいれば、人間の常識では理解できないような姿を持つ魔物もいた。しかし、目の前の爬虫類については、名前さえ思い浮かばなかった。
何なのだろう。
あの奇妙な鱗は、単なる身体の特徴なのか。
それとも、何か危険な力を持っている証拠なのか。
まったくわからなかった。
だからこそ、ミハイルは不用意に動こうとはしなかった。
知らない相手に対して、まず警戒する。
それもまた、セラリスから教わってきたことだったのである。
ヴァレリアも、息を潜めていた。
彼女には、あの生き物がどのような性質を持っているのか見当もつかなかったが、少なくとも、普通の家畜や森の獣ではないことくらいは理解できた。
神殿の地下に、あれほど大きな爬虫類がいる。
しかも、その近くには、後から掘り抜かれたような洞穴まで存在している。
それだけでも、この部屋へ不用意に踏み込むべきではないと考えるには十分だった。
そしてセラリスは、目の前の光景を見た瞬間、胸の奥にかすかな警戒を覚えていた。
見知らぬ大型の爬虫類。
宝石のように輝く鱗。
地下の石室。
そして、近くに開けられた粗いトンネル。
それらの特徴が、彼女の遠い記憶の中にある、何かと結びつきかけていたのである。
確か、どこかで見たことがある。
いや、実際に見たわけではない。
前世で読んだ、怪物についての記述だったかもしれないし、冒険の記録に描かれていた挿絵だったのかもしれない。
しかし、思い出せない。
大きな蜥蜴に似た怪物は、決して珍しいものではなかった。鱗を持つ生き物も多く、その中には魔法的な能力を備えたものもいる。
外見が似ているというだけで、同じ種類の怪物だと決めつけるわけにはいかなかった。
何より、そうした思い込みこそが、冒険者を危険へ導くことを、彼女はよく知っていたのである。
美しいから安全だとは限らない。
珍しいから触れてよいというものでもない。
動きが鈍そうに見えるからといって、実際に鈍いとは限らなかった。
未知の怪物について、第一印象だけで判断してしまった者が、どれほど簡単に命を失うことがあるのかを、セラリスは知識として理解していた。
「……動かないで」
彼女は、ごく低い声で言った。
その一言に、三人の身体が固まった。
セラリスは、既にエルブンクロークへ身体を馴染ませており、薄暗い通路の石壁の中へ、その輪郭をほとんど溶け込ませていた。
しかし、姿を見分けにくくしたからといって、音や匂いまで完全に消せるわけではない。
目の前の怪物が何を手掛かりに獲物を探すのか、まだわからない以上、慎重すぎるほど慎重であるべきだった。
ダリヤは、扉の取っ手を握ったまま動きを止めた。
「……先生、あれ、知ってるんですか?」
「ちょっと待って。まだ、はっきりしないんだ」
セラリスは、記憶をたどっていた。
光る鱗を持つ大型の蜥蜴。
地下に住む怪物。
何か、普通ではない能力を備えていたような気がする。
だが、それが何だったのか、どうしても思い出せなかった。
曖昧な知識を頼りに行動するのは危険だった。
だからこそ、確信の持てないことを、三人へ知っているかのように説明するつもりもなかった。
セラリスは、無意識に腰のソーンウォッチへ手を置いた。
「……ねえ、あなたは何かわかる?」
知性剣は、少し間を置いてから答えた。
「生きている」
「……それは見ればわかるよ」
「魔法で作られた幻ではない」
「うん。それは助かるけど、もうちょっと何かわからない?」
ソーンウォッチは、しばらく黙っていた。
どうやら、それ以上の確かな情報は得られないらしかった。
セラリスは、小さく息を吐いた。
知性剣がいるからといって、あらゆる怪物の正体を教えてもらえるわけではない。ソーンウォッチにはソーンウォッチの得意なことがあり、知らないこともあるのだろう。
そして、目の前の相手について何もわからないのであれば、無理に近づかないという選択が最も合理的だった。
「……先生」
ダリヤが囁いた。
「戦います?」
「まだ」
セラリスは、即座に答えた。
「向こうが襲ってこないなら、こっちから手を出す必要はないでしょう? まず何なのか確かめたいけど、無理して調べることもないと思うんだ」
「でも、あの部屋へ入らないと、北の穴は調べられませんよ」
「うん。でも、そもそも北の穴を調べる必要があるかどうかも、まだわからないでしょう?」
ダリヤは、そこで口を閉じた。
確かに、そのとおりだった。
目の前に未知の洞穴があり、その手前には奇妙な怪物がいる。
冒険者としての好奇心を刺激されるには、それだけで十分だった。
しかし、自分たちは洞穴を探検するために来たのではない。
ラハシアから助けを求められ、囚われた者たちを救い出すために、灰色山の神殿へ入ったのである。
その目的を考えれば、目の前の洞穴がどこへ続いているのかを確かめることは、今すぐ必要な仕事ではなかった。
まして、そのために正体のわからない大型の爬虫類と戦う必要があるというのなら、なおさらだった。
ミハイルも、少し考えた。
「……なら、ここは一度後回しにしますか?」
「私はそうしたいな」
セラリスは答えた。
「あとで必要になったら戻ればいいし、今のところ、あの怪物と戦う理由はないと思うんだ」
ヴァレリアも、静かに頷いた。
「私も賛成です。東の立派な扉の方が、神殿内部の重要な場所へ続いている可能性は高そうですし、まずはそちらを調べた方がよいのではないでしょうか」
「うん。そうしようか」
セラリスは、あっさりと方針を決めた。
ダリヤは、もう一度だけ部屋の中央へ目を向けた。
巨大な爬虫類は、相変わらず、ゆっくりと身体の位置を変えていた。
その鱗が、また淡い光を受けて輝いた。
ほんの一瞬だったが、そのきらめきは、まるで無数の小さな目がこちらを見つめたかのようにも感じられた。
ダリヤは、思わず背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
もちろん、実際に目があるわけではない。
ただ、光が鱗の表面で反射しただけなのだろう。
それでも、あの奇妙な輝きには、何とも落ち着かないものがあった。
「……あれ、絶対ろくなものじゃないですよね」
ダリヤが囁くと、セラリスは小さく笑った。
「冒険者としては、正しい感想だね」
「そうですか?」
「うん。知らない大型の爬虫類を見て、綺麗だから触ってみようなんて考えないだけでも、かなり長生きできると思うよ」
ダリヤは、呆れたような顔になった。
「……そんな人、いるんですか?」
「いるんだよねえ」
「何でです?」
「私にもわからない」
セラリスは、少し困ったように笑った。
ミハイルも、思わず口元を緩めた。
しかし、その笑いには、目の前の怪物を侮る気持ちは少しもなかった。
むしろ、ああして冗談を言えること自体が、少しだけ心の余裕を取り戻させてくれるのだった。
未知の怪物を見つけたからといって、必ず戦わなければならないわけではない。
戦わずに済ませることができるなら、その方がよい場合もある。
しかも今回は、戦闘で消耗することそのものが、救出の成功を遠ざける可能性を持っているのである。
そのことを、三人は改めて理解し始めていた。
◇
ダリヤは、扉を少しずつ閉め始めた。
急いで閉めれば、蝶番が音を立てるかもしれない。扉枠へ強くぶつかれば、その衝撃が室内へ響いて、怪物に気づかれる可能性もあるだろう。
だから、彼女は慎重に手を動かした。
隙間が狭くなるにつれて、部屋の中央にいる爬虫類の姿が、少しずつ見えなくなっていく。
最後に残った細い隙間から、太い尾がゆっくりと動くのが見えた。
そこにも、宝石のような鱗が並んでいる。
弱い光を受けた鱗が、ほんの一瞬だけきらめいた。
そして、扉が閉じた。
ダリヤは、取っ手から手を離す前に、もう一度耳を澄ませた。
向こうでは、まだ何かがゆっくりと動いているらしかった。
しかし、こちらへ近づいてくるような気配はない。
少なくとも、今のところ、怪物は扉の外にいる自分たちへ気づいていないようだった。
ダリヤは、ようやく息を吐いた。
「……何だったんでしょう、あれ」
「さあ。今の情報だけじゃ、私にもわからないな」
セラリスは答えた。
彼女は、閉じた扉を見つめながら、まだ記憶のどこかに引っかかっているものを感じていた。
あの鱗の輝きには、確かに何か覚えがある。
地下に住む怪物であり、普通の蜥蜴とは異なる性質を持っていたはずだった。
しかし、それが何なのかを、どうしてもはっきりと思い出せないのである。
曖昧な記憶を頼りに、わざわざ危険を冒す必要はなかった。
むしろ、こういうときにこそ、自分が知っていることと、知らないことを区別しなければならないのだろう。
セラリスは、そのように考えていた。
自分が高位の魔法使いであり、優れた武技を持っているからといって、すべての怪物について知っているわけではない。
また、知らない相手に対して、必ず勝てるという保証があるわけでもなかった。
強さというものは、危険を無視してよい理由にはならないのである。
むしろ、自分の力に余裕があるときほど、無駄な戦いを避け、必要なことに力を使うべきなのかもしれなかった。
セラリスは、そう考えながら、もう一度北の扉を眺めた。
精密に組まれた石壁。
その北壁西端に開けられた、粗いトンネル。
そして、その手前にいた奇妙な爬虫類。
あれが、偶然そこへ入り込んだ生き物なのか。
あるいは、何者かが意図的に置いたものなのか。
今は、まだわからなかった。
しかし、神殿の内部にあれほど大きな怪物がいるという事実だけは、覚えておく必要があるだろう。
もしかすると、あのトンネルは神殿の別の場所へ通じているのかもしれないし、もっと奥深い自然洞窟へ続いているのかもしれない。
あるいは、何か別の目的で掘られた通路なのかもしれなかった。
いずれにせよ、今の自分たちには、そこを調べなければならない理由がない。
ならば、後回しにするべきだろう。
「……帰りに余裕があったら、また調べてみようか」
セラリスが言うと、ダリヤはすぐに顔を上げた。
「……宝探しに来たんじゃないんですよね?」
セラリスは、思わず笑ってしまった。
「あなたに言われるとは思わなかったよ」
「私だって成長してるんです」
「でも、さっき貯蔵室は帰りなら調べるって言ってたでしょう?」
「それは別です」
「どう別なの?」
「宝があるかもしれない部屋と、変な怪物がいる部屋は違うじゃないですか」
ダリヤは、いかにも当然だという顔をした。
「貯蔵室なら、あとで少し調べればいいですけど、あの部屋は命がけになるかもしれないんですよ。宝があるかどうかもわからないのに、そんなところへ入るのは嫌です」
ミハイルが、思わず笑った。
「……お前、ずいぶん慎重になったな」
「当たり前でしょう。先生に何度も言われてるんですから」
ダリヤは少し得意そうだった。
セラリスも笑った。
「うん。それはよかった」
その言葉に、ダリヤは少しだけ照れくさそうな顔になったが、すぐに通路の奥へ目を向けた。
そこには、ほかの二つとは明らかに造りの違う、東端の扉がある。
貯蔵室も調べた。
北の部屋には未知の怪物がいたが、今のところ、そこへ入る必要はないと判断した。
ならば、次に調べるべき場所は、もう決まっているようなものだった。
「……じゃあ、次はあっちですね」
ダリヤは、東の扉を指さした。
ミハイルが頷いた。
「そうだな。あそこが神殿の奥へ続いているかもしれない」
ヴァレリアも、静かに同意した。
「ただ、造りがよいということは、それだけ重要な場所へ続いている可能性もあります。見張りや罠には、今まで以上に注意した方がよさそうですね」
「はい。ちゃんと調べます」
ダリヤは、真面目な顔で答えた。
セラリスは、その三人を見ながら、少しだけ満足そうに頷いた。
最初に神殿へ入るとき、彼らは非常口を選んだ。
それは、できるだけ戦闘を避け、囚われた者たちを助け出すためだった。
ところが、転送先では警報が鳴り、ガスが噴き出し、四人のシスワが確認に現れたのである。
その時点で、計画は少なからず狂ってしまった。
しかし、それでも自分たちは、一人も殺さずに済ませることができた。
そして今も、正体のわからない大型の爬虫類を見つけたからといって、無理に戦おうとはしなかったのである。
セラリスにとって、それは何より嬉しいことだった。
冒険者というものは、敵を倒すことだけが仕事ではない。
危険を見抜き、戦う必要があるかどうかを考え、必要がなければ避ける。
そして、誰かを助けるために来たのなら、その目的を忘れずに行動する。
それは、言葉にすれば簡単なことだった。
しかし、実際に危険な場所へ入り込んでみると、決して簡単に守れるものではない。恐ろしい怪物を見れば、先に攻撃してしまいたくなることもあるだろうし、珍しいものを見つければ、危険を忘れて近づいてみたくなることもある。
そうした衝動を抑え、自分たちが何をしに来たのかを思い出せるようになること。
それこそが、冒険者として生き残るために必要な成長の一つなのだろう。
セラリスは、そう考えていた。
そして今の三人は、まだ完全ではないにしても、確かにその方向へ進み始めているのである。
◇
ダリヤは、東端の扉へ向かって歩き始めた。
途中、もう一度だけ北の扉へ目を向けたが、すぐに前へ視線を戻した。
奇妙な爬虫類のことは、まだ気になっている。
あの輝く鱗が何なのか、北の壁に開いていた穴がどこへ続いているのか、できることなら詳しく調べてみたいと思っていた。
しかし、今はそのときではなかった。
腰の荷物には、ラハシアから預かった二枚の似顔絵が収められている。
シルヴァとメリサ。
二人の娘の顔は、もう覚えていた。
そして、ラハシアの父と婚約者も、まだどこかに囚われているかもしれないのである。
彼らを探すことが、今の自分たちの仕事だった。
ダリヤは、そのことを改めて思い出しながら、東端の扉の前へしゃがみ込んだ。
ミハイルは、少し離れた場所へ立ち、通路の両側を警戒している。
ヴァレリアは、その後ろで聖印へ手を添え、いつでも祈りを使えるように備えていた。
セラリスもまた、エルブンクロークへ身体を馴染ませながら、三人の様子を静かに見守っていた。
東端の扉は、近づいてみると、やはり立派な造りをしていた。
厚い板材には長い年月の間に生じた傷が残っていたが、木そのものはまだ十分な強度を保っているように見える。鉄製の金具も丁寧に取りつけられており、扉枠との隙間は小さく、かなり精密な仕事が施されていることがわかった。
それは、神殿の内部にある扉として、明らかに何か特別な役割を持っているように感じられた。
ダリヤは、取っ手へ触れる前に、まず床石の継ぎ目を確かめた。
それから扉枠へ視線を移し、蝶番の周囲を調べていく。
彼女の動きには、先ほどまでの軽口を交わしていたときとは違う、真剣な集中があった。
未知の怪物を見つけたことへの興奮も、宝物があるかもしれないという好奇心も、今は胸の奥へ押し込められている。
目の前にあるのは、まだ調べていない扉である。
それが危険なものなのか、安全に開けられるものなのかを確かめることが、何より先だった。
セラリスは、そんなダリヤの横顔を眺めていた。
彼女が最初にミスタメアへ来た頃のことが、ふと脳裏に浮かんだ。
あの頃のダリヤは、何をするにも好奇心が先に立ち、罠を調べろと言われれば床ばかり見ていた。扉や壁の仕掛けを見つけることに夢中になり、その先に何があるのかを考える余裕など、ほとんどなかったのである。
しかし今では、少しずつ違ってきている。
部屋へ入る前に、その部屋へ入る必要があるのかを考える。
怪物を見つけても、戦うべき相手なのかどうかを判断しようとする。
そして、扉の向こうへ何が待っているのかわからないときには、まず危険を確かめようとする。
それは、まだ小さな変化だった。
しかし、そうした小さな変化が積み重なることでしか、冒険者は本当の意味で成長できないのかもしれなかった。
もちろん、セラリスは、これから先も三人が失敗しないなどとは思っていなかった。
どれほど慎重に調べても、見落とす罠はあるだろうし、知らない怪物に出会うこともあるだろう。予想外の出来事に遭遇し、慌ててしまうことだって、きっとあるに違いない。
それでも、危険を前にして考える習慣さえ身についていれば、失敗から学ぶこともできるはずだった。
そして、何より大切なのは、その失敗を生き延びることなのである。
セラリスは、今の三人なら、きっと少しずつその力を身につけていけるだろうと思っていた。
だからこそ、今は自分が先頭に立って、すべてを決めてしまうつもりはなかった。
ダリヤが扉を調べ、ミハイルが周囲を警戒し、ヴァレリアが必要なときに祈りを使えるように備えている。
それぞれが自分の役割を考え、仲間と協力しながら行動しているのだ。
そのことを、セラリスは頼もしく思っていた。
そして、しばらくの間、誰も口を開かなかった。
地下の通路には、相変わらず静けさが満ちている。
南の貯蔵室では、乾いた穀物と古い酒が、誰にも触れられることなく置かれたままだった。
北の部屋では、宝石のような鱗を持つ奇妙な爬虫類が、今も石床の上でゆっくりと身体を動かしているのだろう。
そして通路の奥には、ほかの二つとは明らかに異なる、立派な東の扉がある。
その向こうに何が待ち受けているのかは、まだ誰にもわからなかった。
しかし、少なくとも今の四人には、何をするべきかがわかっていた。
自分たちは、ラハシアの願いを受けてここへ来たのである。
囚われた者たちを探し、できることなら生きたまま連れ戻す。
そして、操られているかもしれないシスワたちも、可能な限り殺さずに済ませる。
そのために、危険な神殿へ入ったのだった。
セラリスは、東の扉を見つめながら、改めてそのことを考えていた。
未知の怪物を見つけたからといって、無理に戦う必要はない。
珍しい洞穴を見つけたからといって、必ず探索しなければならないわけでもない。
冒険者として大切なのは、自分たちの目的を見失わず、そのために必要な行動を選ぶことなのだろう。
そして、今の三人は、少なくともその意味を理解し始めていた。
ダリヤは、扉の調査を続けている。
ミハイルは、周囲の気配を確かめながら、彼女が作業を終えるのを待っている。
ヴァレリアは、二人の動きを見守りながら、もし何かが起きたときには、すぐに仲間を助けられるように備えている。
その姿は、まだ完成された冒険者の一党とは言えないかもしれなかった。
しかし、少し前までの三人とは、確かに違っていた。
セラリスは、ほんの少しだけ微笑んだ。
そして、その微笑みを誰にも気づかれないまま、再び真剣な表情へ戻した。
今は、まだ神殿の途中なのだ。
喜ぶのは、全員が無事に帰ってからでよい。
彼女は、そう考えながら、ダリヤが東の扉を調べ終えるのを静かに待っていた。
その向こうには、まだ見知らぬ神殿の奥が広がっている。
そして、そこにはおそらく、自分たちが助けなければならない者たちがいるはずだった。
四人の冒険者たちは、これから先に待ち受けている危険を知らぬまま、それでも慎重に、一歩ずつ神殿の奥へ進もうとしていたのである。