セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
東端の扉は、近づいてみると、これまで通ってきた部屋の扉とは明らかに造りが違っていた。
厚い木材は長い年月を経て暗い色へ変わり、表面には幾筋もの細かな傷が残っていたが、それでも板の合わせ目にはほとんど隙間がなく、蝶番や補強金具にも、かつてこの神殿を造った者たちの丁寧な仕事ぶりが見て取れた。地下の湿気にさらされながら、なおこれほどしっかりした状態を保っているということは、使われた材木も金具も、相当に吟味されたものだったのだろう。
しかし、ダリヤの注意を引いたのは、扉の立派さだけではなかった。
扉枠の上部には小さな金属板が掲げられ、そこに何やら文字が刻まれていたのである。
文字そのものは深く彫り込まれており、年月によって表面がくすんでいるとはいえ、判読できないほど摩耗しているわけではなかった。ただ、その形はダリヤの知っている文字とは違っており、細く流れるような線と、ところどころに鋭い角を持つ独特の字体は、神殿が造られた遠い昔の言葉を今に伝えているようにも見えた。
「……先生、これ、何て書いてあるんです?」
ダリヤは首を伸ばし、金属板を見上げながら尋ねた。
ミハイルも興味を引かれたらしく、同じように目を向けたものの、やはり意味はわからなかった。ヴァレリアも文字の形を確かめていたが、彼女にも馴染みのあるものではないらしい。
セラリスは、金属板を一度見上げ、それから耳元へ指を触れた。
魔法の耳飾りが、かすかに温かくなる。
刻まれた文字の形そのものが変わったわけではなかった。しかし、それまで意味を持たない記号の集まりにしか見えなかったものが、奇妙なほど自然に理解できるようになったのである。まるで、知らないはずの言葉を昔から知っていたかのように、その文字に込められた意味が意識の中へ流れ込んできた。
「《瞑想室》だって」
「……瞑想室?」
ミハイルが、改めて扉を見た。
「随分と立派ですね。何か特別な人が使っていた部屋なんでしょうか」
「かもしれないね。神殿の中でも、大切にされてた場所なのかも」
セラリスはそう答えたが、もちろん、扉の名前だけで内部の様子がわかるわけではない。瞑想室と名づけられていたからといって、現在もその用途で使われているとは限らないし、何百年もの間に、別の目的のために改造されている可能性もある。
そもそも、この神殿そのものが、今ではラヒブという得体の知れない人物の影響下にあるのだ。
扉に何と書かれていようとも、警戒を怠ってよい理由にはならなかった。
ダリヤも、それはよく理解していた。
彼女は扉の前へしゃがみ込むと、いつもの手順で周囲を調べ始めた。まず床石の継ぎ目を確かめ、次いで扉枠と蝶番へ目を走らせる。補強金具の取りつけられた位置や、取っ手の周囲に不自然な細工が施されていないかを調べ、それから鍵穴へ視線を移した。
その間、ミハイルは後方の通路を警戒し、ヴァレリアも周囲の気配を確かめていた。
セラリスは特に何も言わず、ダリヤの作業を見守っている。
以前なら、彼女は途中で何度も助言を与えただろう。しかし今では、ダリヤ自身が何を確かめるべきかを理解し始めている。ここで余計な口を挟むより、まず本人に任せた方がよいと考えたのである。
しばらくして、ダリヤは扉へ耳を寄せた。
厚い木の向こうからは、何の音も聞こえてこなかった。
人の話し声も、歩き回る足音も、物を動かすような気配もない。もちろん、静かだからといって誰もいないという保証にはならなかったが、少なくとも、扉のすぐ向こうで何者かが動き回っている様子は感じられなかった。
「……罠は、今のところ見つかりません。鍵もかかってないみたいです」
ダリヤは振り返り、小声で報告した。
「じゃあ、開けてみようか」
セラリスが言うと、ダリヤは頷いた。
そして、取っ手へ慎重に手をかけた。
扉は厚く、重かった。
しかし、蝶番は意外なほど滑らかに動き、ゆっくりと力をかければ、ほとんど音を立てずに開くことができた。
少しずつ広がる隙間から、薄暗い部屋の内部が見え始める。
そして、その向こうに広がっていたものを目にしたとき、四人は思わず足を止めた。
◇
そこは、およそ三十フィートの幅を持つ、広い八角形の石室だった。
地下にあるにもかかわらず、その部屋には、森と山があった。
もちろん、本物の森が生えているわけでもなければ、山がそびえているわけでもない。壁一面に描かれた、古いフレスコ画だった。
しかし、その絵は、単に壁を飾るためのものとは思えなかった。
八角形の壁面を利用して、深い森が幾重にも重なり、その向こうには陽光を浴びる山並みが続いている。木々の間には澄んだ清流が描かれ、苔むした岩を洗う水の流れは、今にもさらさらと音を立て始めそうなほど細やかだった。遠くには白く霞む峰があり、その頂に降り積もった雪が、淡い青空の下で静かに輝いている。
それらの景色は、八角形の壁という人工的な境界を感じさせないよう、巧みに配置されていた。
ある壁に描かれた森は隣の壁へ続き、その向こうに見える山並みも、角度を変えながら途切れることなく連なっている。部屋の中央に立って周囲を見渡せば、まるで深い森の中へひらかれた小さな草地に立ち、そこから四方の自然を眺めているような錯覚さえ覚えそうだった。
長い年月のために色彩は褪せ、ところどころでは漆喰が剥がれ落ちていたが、それでもなお、かつてこの部屋を飾った画工たちの技術と、それを望んだ者の思いは、失われていなかった。
ここを造った者たちは、おそらく、地下という閉ざされた場所にあっても、森の息吹や山の静けさを感じられるようにしたかったのだろう。
瞑想室。
その名に、これほどふさわしい場所もなかった。
「……綺麗ですね」
ヴァレリアが、小さく呟いた。
彼女の声には、心からの感嘆が込められていた。
人の手で造られたものではあるけれど、ここには自然への敬意が感じられた。森を描くために、ただ木々を並べただけではない。光と影、遠い山々の色合い、水の流れと岩肌の形に至るまで、自然の中で暮らした者だけが知っているような細やかな美しさが、丁寧に描き込まれているのである。
ヴァレリアは、しばらくその絵から目を離せなかった。
セラリスもまた、壁画を眺めながら、少し不思議な気持ちになっていた。
この神殿では、既に侵入者を捕らえるための警報装置やガスの罠を見つけている。警備のシスワたちはラヒブに操られている可能性があり、別の部屋では、正体のわからない大型の爬虫類まで目撃した。
そんな場所の奥に、これほど静かで美しい部屋が残されている。
それは、どこか不釣り合いにも感じられた。
しかし、考えてみれば、この神殿が最初からラヒブのために造られたわけではないのだ。
かつてここには、ここを大切に思い、祈り、修行し、静かな時間を過ごした者たちがいたはずである。
その者たちにとって、この場所は恐ろしい罠や怪物の住む迷宮などではなく、心を静め、自分自身と向き合うための場所だったのだろう。
そう思うと、壁画の褪せた色彩さえ、何とも言えない悲しみを帯びて見えるのだった。
「……随分、手間をかけた部屋だね」
セラリスは、ぽつりと言った。
それは、ただ絵が美しいというだけの感想ではなかった。
この広い石室を整え、壁を磨き、長い時間をかけてフレスコ画を描いた者たちがいる。彼らは、おそらく、この場所が何百年も後に敵の手へ落ち、誰もが恐れるような場所になるとは考えていなかったはずだった。
人が心を込めて造ったものが、年月の果てにどのような運命をたどるのか。
それは、造った本人にさえ、わからないことなのかもしれなかった。
ダリヤは、そんな二人の感慨とは少し違うところへ注意を向けていた。
彼女も壁画の美しさには驚いていたが、それ以上に気になったのは、部屋の構造だった。
北の壁には、上階へ続く階段が設けられている。
東と南には、それぞれ扉があった。
階段も扉も、この部屋が単なる行き止まりではなく、神殿の別の場所へ通じる交通の要所でもあることを示しているように思われた。
ダリヤは慎重に一歩を踏み出し、まず足元を確かめた。
「……こんな綺麗な部屋に、罠がなければいいんですけど」
その言葉に、ミハイルが小さく笑った。
「瞑想するための部屋に、毎回罠があったら落ち着かないだろう」
「それはそうですけど、ここ、普通の神殿じゃないですからね」
ダリヤは、真面目な顔で答えた。
「もう警報の鐘もガスの罠も見てるんですよ。今さら、瞑想室だから安全ですなんて言われても、私は信じません」
「……それは、確かにそうだな」
ミハイルは、素直に頷いた。
彼自身も、ここまでの経験から、部屋の名前や外見だけを頼りに安全を判断することが、いかに危険であるかを理解し始めていたのである。
美しい部屋だからといって、危険がないとは限らない。
むしろ、そうした美しさによって訪れた者の注意を逸らし、その隙を突くような仕掛けが存在していても、何の不思議もないのだった。
ダリヤは慎重に室内を見回し、床石の継ぎ目や壁際へ視線を走らせた。
しかし、そのときだった。
セラリスが、ふと表情を変えた。
◇
最初に感じたのは、冷たさだった。
石造りの地下室には、もともとひんやりとした空気が満ちていた。しかし、それとは違う、何か身体の奥へ染み込んでくるような冷気が、突然、部屋の中を流れ始めたのである。
セラリスは、ゆっくりと顔を上げた。
風は吹いていない。
扉も窓も動いておらず、壁画に描かれた森は、先ほどと同じように静まり返っている。
それなのに、何かが変わった。
何か、目には見えないものが、この場所へ近づいてきている。
「……待って」
セラリスが、低い声で言った。
その一言に、三人が動きを止めた。
ミハイルは反射的に剣へ手を伸ばし、ヴァレリアも聖印へ指を触れた。ダリヤは床石を調べていた手を止め、セラリスの視線の先へ目を向けた。
北側の壁だった。
そこには、陽光を浴びる森が描かれている。
古い木々の間を柔らかな光が差し、遠くには青く霞む山並みが続いていた。
しかし、その森の一部が、今、ほんのわずかに揺らいでいるように見えたのである。
初めは、光の加減ではないかと思われた。
地下の部屋を照らす淡い明かりが、壁画の褪せた色彩に奇妙な影を作っているのだろうと、そう考えることもできた。
だが、次の瞬間、その揺らぎは明らかな形を持ち始めた。
薄い霧のようなものが、壁画の前へ集まってくる。
それは床から立ち上る煙とも、空気の中に漂う埃とも違っていた。輪郭の定まらない淡い光が、何かに引き寄せられるように少しずつ集まり、やがて、人の背丈ほどの大きさへ広がっていったのである。
ミハイルの指が、剣の柄へ強くかかった。
「先生……」
「まだ抜かないで」
セラリスは、静かに言った。
「敵とは限らないから」
その声には、緊張があった。
しかし、恐怖に押し潰された者のような響きはなかった。
彼女は、目の前に現れつつあるものが何なのか、慎重に確かめようとしていたのである。
淡い光は、やがて人の形を取り始めた。
長い手足。
広い肩。
高く保たれた頭部。
そして、ゆっくりと輪郭が定まるにつれて、そこに一人のエルフの男が立っていることが明らかになった。
長身で、威厳のある男だった。
顔立ちには年齢を重ねたエルフらしい落ち着きがあり、鋭く整った眉の下には、見る者の心の奥まで見通してしまいそうな、深い眼差しが宿っていた。その立ち姿には、長い年月をかけて培われた自信と、他者から敬意を受けることに慣れた者だけが持つ、自然な威厳が感じられた。
しかし、服装は決して古代のものではなかった。
身につけている衣服は、コタ・フタンのエルフたちが今も用いているものと大きく変わらず、上質な外套も、遠い昔の儀礼服というよりは、現代のカラーリーの年長者が旅や正式な会合の際にまとっていても不思議ではないものだった。
つい最近まで、この神殿を生きて歩いていたと言われても、少しも違和感のない姿だったのである。
ただ一つ、決定的に違っていることがあった。
その身体は、透き通っていた。
男の胸や肩を通して、背後のフレスコ画が淡く見える。彼の輪郭は確かにそこにあるのだが、その存在そのものが、現実の石室とは別のところに属しているかのように、かすかな光をまとって揺らいでいた。
亡霊だった。
ミハイルは、無意識に息を呑んだ。
これまでにも怪物と戦ったことはある。
だが、死んだ者の魂が人の姿となって現れるという光景には、どれほど経験を積んだ冒険者であっても、容易に慣れることなどできないだろう。
まして、目の前の亡霊には、普通のアンデッドに見られるような禍々しさが、ほとんど感じられなかったのである。
憎悪に歪んだ顔も、生命ある者を呪うような邪気もない。
むしろ、その瞳には、鋭さと同じくらい深い優しさがあった。
長い間、誰かを案じ、何かを待ち続けてきた者だけが持つような、静かな悲しみが、その眼差しの奥に宿っていたのである。
ヴァレリアも、そのことに気づいていた。
彼女は聖印へ手を触れたまま、亡霊の姿を見つめていた。
死者の霊が現れたからといって、必ずしも敵であるとは限らない。
何かを伝えようとして現れる者もいれば、果たせなかった願いに縛られ、そこを離れられずにいる者もいる。
目の前の男がどのような存在なのかは、まだわからなかった。
しかし、少なくとも、こちらへ襲いかかろうとしているようには見えなかったのである。
そして亡霊は、四人の中から、まっすぐセラリスを見た。
その視線には、不思議な確かさがあった。
まるで、彼女がここへ現れることを、ずっと以前から知っていたかのようだった。
◇
「ラヒブの手により、私はここで朽ち果てた」
男の声が、静かな石室へ響いた。
低く、穏やかな声だった。
しかし、その響きには、聞く者の注意を自然と引きつけてしまうような、不思議な力があった。声を荒らげる必要もなく、威圧するような口調でもないのに、その場にいる者たちは、誰一人として言葉を挟もうとはしなかった。
亡霊の声には、長い年月を重ねた者の落ち着きと、深い悲しみを知った者の静かな重みがあったのである。
ミハイルは、わずかに眉を寄せた。
ラヒブの手によって死んだ。
その言葉が意味することは、決して小さくなかった。
彼らは今、ラヒブを止めるために神殿へ来ている。その相手に殺された者の霊が、こうして自分たちの前へ現れたのだとしたら、何か重要なことを知っている可能性は十分にあった。
しかも、男の服装は古代のものではない。
もしかすると、彼が命を落としたのは、それほど遠い昔のことではないのかもしれなかった。
「そして、あなたが来るのを待っていた」
亡霊は続けた。
その瞳は、セラリスから離れなかった。
セラリスは、少しだけ首を傾げた。
「……私を?」
彼女の声には、驚きがあった。
この神殿へ来たのは、ラハシアの手紙を受け取ったからである。
もちろん、前世の記憶の中には、この事件に似た冒険の記録が残されていた。しかし、自分が実際にここへ来ることまで、誰かがあらかじめ知っていたとは思えなかった。
まして、目の前の亡霊が、何を根拠に自分を待っていたというのか。
セラリスには、まったく見当がつかなかったのである。
しかし、亡霊はその問いへ直接答えようとはしなかった。
代わりに、その顔へ、深い悲しみが浮かんだ。
「ラハシアの悲しみが、我を深く苦しめる」
その名が告げられた瞬間、四人の表情が変わった。
ラハシア。
つい先ほどまで、彼らが話していた娘の名前だった。
美しいベールをまとい、眠れぬ夜を重ねた疲れを頬へ残しながら、それでも懸命に父と婚約者の行方を案じ、連れ去られたシルヴァとメリサを助けてほしいと頼んだ、あの若いエルフの娘である。
亡霊は、その名前を知っていた。
しかも、ただ知っているというだけではなさそうだった。
ラハシアの悲しみを語ったとき、男の眼差しに浮かんだ痛みは、同じ村に暮らす娘を気遣う者のそれとは、どこか違っていたのである。
それは、もっと深いところから湧き上がってくる感情のように思われた。
ラハシアが傷つくことを、自分自身の苦しみとして受け止めずにはいられない者。
そのような深い愛情が、亡霊の声の奥に感じられたのだった。
ヴァレリアは、思わず胸の内で祈った。
この男が何者であれ、少なくともラハシアを大切に思っていることだけは、疑いようがないように感じられたからである。
「しかし、彼女を解き放つために定められし者が、ついにやってきた」
亡霊は、ゆっくりと言った。
その声には、先ほどまでの悲しみとは違う、かすかな安堵が混じっていた。
セラリスは、思わず目を細めた。
定められし者。
何とも厄介な響きを持つ言葉だった。
運命や予言というものは、話として聞いている分には面白い。しかし、いざ自分がその当事者として指名されるとなると、途端に話が違ってくる。
誰かが決めた運命だからという理由で、面倒な役目を押しつけられるのは、あまり歓迎したいことではなかった。
そもそも、セラリスは自分の意思でここへ来たのである。
ラハシアが助けを求めていたからであり、ミハイルたちにも経験を積ませたかったからであり、何より、助けられる者がいるなら助けたいと思ったからだった。
別に、誰かに運命を告げられたから来たわけではない。
それなのに、定められし者などと呼ばれてしまえば、まるで最初から自分がこの事件を解決することになっていたかのようではないか。
セラリスは、少々落ち着かない気持ちになった。
もっとも、目の前の亡霊が何か重要な情報を持っていることは間違いなさそうだったので、今は余計なことを考えず、話を聞くことにした。
亡霊は、ゆっくりと南側へ顔を向けた。
「ハサンに会わば、南の洞窟へ」
今度は、四人ともその名を知っていた。
ハサン。
ラハシアの婚約者である。
父親が神殿へ向かったまま戻らなかったため、彼女に代わって様子を確かめに行き、やはり帰ってこなかったという男だった。
ミハイルは、思わず声を漏らした。
「……ハサンが、生きているんですか?」
亡霊は、答えなかった。
生きているとも、死んでいるとも言わなかった。
ただ、ハサンに会ったなら南の洞窟へ向かえと、それだけを告げたのである。
セラリスは、その言葉を慎重に受け止めた。
会わば。
それは、必ず会えるという意味ではない。
また、生きているという保証でもなかった。
亡霊が何を知っており、何を伝えようとしているのかは、まだわからない。しかし、少なくともハサンという人物が、この神殿の中で何か重要な役割を持っている可能性はありそうだった。
もし彼を見つけることができたなら、南の洞窟へ向かう。
それだけは、覚えておく必要があるだろう。
セラリスは小さく頷いた。
「……わかった。ハサンに会えたら、南の洞窟だね」
亡霊は、それを聞いたのかどうか、特に反応を示さなかった。
代わりに、今度は北側の階段へ目を向けた。
「我が財宝は、北にあり」
その言葉に、ダリヤの視線が反射的に動いた。
北の階段だった。
彼女は、ほとんど無意識にそちらを見ていたのである。
そして、その自分の反応に気づいた瞬間、少しばかり気まずそうな顔になった。
セラリスも、ちらりとダリヤを見た。
ダリヤは慌てて咳払いした。
「……いや、別に、今は宝探しじゃないですけど」
誰も何も言っていなかった。
ミハイルが、わずかに口元を緩めた。
セラリスも笑いかけたが、そのとき亡霊が次の言葉を口にしたため、すぐに表情を改めた。
「財宝の前に待つドラゴンを、友とせよ」
今度こそ、四人ははっきりと反応した。
「……ドラゴン?」
ダリヤが、ほとんど呆然と呟いた。
ミハイルも北の階段を見上げ、ヴァレリアは少し驚いたように亡霊の顔へ目を向けた。
セラリスだけが、しばらく黙っていた。
財宝を守るドラゴン。
それは、冒険者にとって、決して珍しい取り合わせではない。
古い遺跡や地下迷宮に財宝が眠っており、その前には恐ろしい竜が立ちはだかっている。そうした話は、吟遊詩人たちの歌にも、冒険者の語る武勇伝にも、数えきれないほど登場するものである。
だが、目の前の亡霊は、その竜を倒せとは言わなかった。
避けろとも、欺けとも言わなかった。
友とせよ、と言ったのである。
セラリスは、その言葉の意味を考えていた。
普通なら、財宝を守る竜は、侵入者を排除するために置かれた恐ろしい番人として扱われるだろう。
しかし、亡霊がその竜を友とせよというのなら、少なくとも、その竜がただの敵ではないことは確からしかった。
しかも、これから救わなければならない者たちのことを考えれば、無駄な戦闘はできるだけ避けたい。
ならば、話し合える相手である可能性があるのなら、まずは話をしてみるべきだろう。
もっとも、相手がドラゴンであるということだけは、少々気になるところだったが。
「その守護者は、真実を知る」
亡霊は続けた。
その声には、先ほどまでとは違う、重い響きがあった。
セラリスは、思わず顔を上げた。
守護者。
その言葉が、胸の奥へ引っかかったのである。
ただ財宝を守る竜ではない。
この神殿の何かを守り、真実を知っている存在。
亡霊がそう呼ぶのであれば、そのドラゴンは、ラヒブやシスワたちの異変についても、何か重要な事情を知っている可能性があった。
もしそうなら、是非とも会ってみたい。
セラリスは、そう思い始めていた。
しかし、亡霊の言葉は、まだ終わらなかった。
「ラヒブは、手駒の一つでしかない」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
先ほどまで壁画の美しさに包まれていた瞑想室へ、何か冷たいものが落ちてきたような感覚が広がったのである。
ミハイルが、眉を寄せた。
「……手駒?」
思わず問い返すと、亡霊の眼差しが、わずかに鋭くなった。
「その背後に、より深き邪悪がある」
静かな声だった。
だが、その言葉は、聞く者の胸へ重く沈んだ。
ラヒブ。
彼らはこれまで、その男こそが事件の中心にいると考えていた。
神殿へ入り込み、シスワたちを操り、村を襲わせ、シルヴァとメリサを連れ去り、ラハシアの父と婚約者まで行方不明にした原因となっている人物である。
少なくとも、使者やラハシアから聞いた話によれば、そう考えるのが自然だった。
だから、ラヒブを止めれば、この事件も解決するのではないかと思っていたのである。
しかし、亡霊は違うと言っている。
ラヒブは手駒にすぎない。
その背後には、さらに深い邪悪が存在しているというのだ。
ミハイルは、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
もし、それが本当なら。
ラヒブを倒したところで、事件は終わらないかもしれない。
むしろ、彼が何者かに命じられて動いているのだとしたら、その背後にいる相手を何とかしない限り、同じことが繰り返される可能性さえあるのではないか。
そう考えると、今まで自分たちが理解していた事件の形が、急に頼りないものに思われ始めた。
ヴァレリアも、静かに息を呑んでいた。
彼女には、ラハシアの悲しげな顔が思い出された。
父が戻らない。
婚約者も帰ってこない。
シルヴァとメリサが連れ去られ、シスワたちは変わってしまった。
それだけでも十分に恐ろしい出来事だったのに、その背後には、まだ知られていない邪悪が存在しているというのである。
もしそうなら、彼らが救わなければならない者たちは、思っていた以上に深刻な危険へさらされているのかもしれなかった。
ダリヤもまた、珍しく何も言わなかった。
彼女は北の階段を見つめていた。
その先には財宝があり、ドラゴンがいるという。
しかも、そのドラゴンは真実を知っている。
まるで、別々の冒険の話が突然一つにつながり始めたような、不思議な感覚だった。
しかし、その中心にいるのは、財宝を求める冒険者ではない。
ラハシアであり、囚われた者たちであり、操られたシスワたちなのだ。
そのことを思い出すと、ダリヤは、胸の奥に少しだけ重いものを感じた。
セラリスは、亡霊の顔をじっと見つめていた。
男の瞳には、深い悲しみがあった。
しかし、それ以上に、何かを伝えようとする強い意志が感じられた。
「守護者たるドラゴンに会え」
亡霊は、もう一度言った。
「すべての事実を、彼より聞くがよい」
セラリスは、静かに頷いた。
そして、口を開きかけた。
しかし、そのときには既に、亡霊の輪郭が薄くなり始めていたのである。
◇
「……待って」
セラリスは、一歩前へ出た。
亡霊の身体を形作っていた淡い光が、少しずつほどけ始めている。
輪郭は霧のように揺らぎ、先ほどまで確かに存在していた顔立ちも、薄い光の中へ溶け込もうとしていた。
「あなたは、誰?」
セラリスは、はっきりと尋ねた。
亡霊は答えなかった。
ただ、その瞳が、ほんの一瞬だけ、セラリスから離れた。
それは、部屋のどこかを見たというより、もっと遠くにある何かを思い浮かべたような眼差しだった。
瞑想室の壁画に描かれた森でもなく、神殿の奥でもない。
何か、今はもう自分の手の届かない場所にあるものへ、静かに思いを向けているようだった。
その眼差しに、セラリスは、またしてもラハシアという名を思い出した。
あの美しい娘が、父と婚約者の行方を語ったときの表情。
涙を堪えながら、それでも懸命に自分たちへ状況を説明しようとしていた姿。
そして、できるだけ多くの者を助けてほしいと願った、あの切実な声。
亡霊がラハシアの名を口にしたときに浮かべた悲しみは、それらの記憶と、どこか深いところで結びついているように思われた。
だが、その意味を考えるより早く、男の表情が変わった。
ほんのわずかに、微笑んだのである。
それは、喜びに満ちた笑みではなかった。
長く苦しみ、待ち続け、何か大切なことを成し遂げられずにいた者が、ようやくその願いを託せる相手へ出会ったときに浮かべるような、静かで、どこか寂しい微笑みだった。
その顔には、深い愛情があった。
そして、もう自分には何もできないという悲しみと、それでも誰かが代わりに行ってくれるかもしれないという、かすかな安堵が混じっていた。
セラリスは、思わず言葉を失った。
彼女は、もう一度、男の名を尋ねようとした。
しかし、その機会は与えられなかった。
亡霊の身体が、光の粒となってほどけ始めたのである。
肩の輪郭が消え、長い外套の裾が霧のように薄れていく。最後まで残っていた顔立ちも、ゆっくりと光の中へ溶け込み、やがて、そこには何も見えなくなった。
冷たかった空気も、少しずつ元へ戻っていった。
あとには、古いフレスコ画だけが残された。
北の壁には、陽光を浴びる森が描かれている。
遠い山々は変わらず青く霞み、清流は石の間を静かに流れ、木々の梢には、何百年も前の画工が描いた淡い光が宿っていた。
つい先ほどまで、そこに一人の亡霊が立っていたことなど、最初からなかったかのようだった。
四人は、しばらく動かなかった。
誰も、すぐには口を開けなかったのである。
セラリスは、亡霊が消えた場所を見つめていた。
あの男は、何者だったのだろう。
ラヒブに殺され、ラハシアの悲しみを深く案じ、神殿の秘密を知っているらしい人物。
しかも、北にある財宝を自分のものだと言い、その前にいるドラゴンを守護者と呼んでいた。
そうしたことを考え合わせれば、この神殿と深い関わりを持つ人物だったことは間違いなさそうだった。
しかし、それ以上のことは、まだわからなかった。
セラリスは、何とも落ち着かない気持ちになった。
亡霊が自分を待っていたという言葉も、彼女を解き放つために定められし者という言葉も、今になって思い返すと、ますます不可解なものに感じられた。
いったい、何を知っていたのだろう。
そして、何を伝えたかったのだろうか。
その答えは、もう少し先へ進まなければ得られないようだった。
◇
「……ちょっと待ってください」
最初に沈黙を破ったのは、ダリヤだった。
彼女は、何とも困惑した表情でセラリスを見た。
「……なに?」
「いや、今の話、ちょっと整理した方がよくないですか?」
セラリスは、少し笑った。
「そうだね。かなりいろいろ言われたから」
「かなりどころじゃないですよ」
ダリヤは、指を折り始めた。
「まず、ハサンに会ったら南の洞窟へ行け、ですよね」
「うん」
「それから、北には財宝がある」
「そう言ってたね」
「その財宝の前にはドラゴンがいる」
「うん」
「しかも、そのドラゴンと友達になれ」
「友とせよ、だね」
「同じじゃないですか」
ダリヤは、少し不満そうに言った。
「それで、そのドラゴンは真実を知ってるから話を聞けって言われて、ラヒブはただの手駒で、その後ろにはもっと悪い奴がいるって……」
そこまで数えたところで、彼女はとうとう頭を抱えた。
「……情報が一気に増えすぎですよ!」
ミハイルが、小さく苦笑した。
「確かにな。最初はラヒブを捕まえれば終わると思ってたんだが」
「そうですよ。ラヒブがシスワを操って、ラハシアさんたちを困らせてるんでしょう? だったら、ラヒブを何とかすればいいと思ってたのに、もっと悪い奴がいるなんて言われても……」
ダリヤは、困ったようにセラリスを見た。
「先生、どうするんです?」
セラリスは、すぐには答えなかった。
彼女もまた、亡霊の言葉を整理していたのである。
ただ、ダリヤほど混乱してはいなかった。
むしろ、今までわからなかったことについて、少しずつ手掛かりが増えてきたという感覚の方が強かった。
ラヒブが事件の中心にいることは、これまで聞いた話から十分に推測できた。
しかし、その背後に別の存在がいるというのであれば、確かに考えを改める必要がある。
何より、北にいるドラゴンが真実を知っているという言葉は、重要だった。
そのドラゴンがどのような存在なのかはわからない。
しかし、亡霊がわざわざ友とせよと告げたのだから、少なくとも、話を聞く価値は十分にあるだろう。
「……今すぐ全部わかる必要はないと思うよ」
セラリスは、穏やかに言った。
「わかったことと、まだわからないことを分けておけばいいんだよ」
ダリヤは、顔を上げた。
「分ける?」
「うん。まず、ハサンに会えたら南の洞窟へ行く。これは覚えておけばいいでしょう?」
「はい」
「それから、北にはドラゴンがいて、そのドラゴンが何か知ってるらしい。だったら、会って話を聞いてみる価値はあると思うんだ」
「……まあ、それはそうですけど」
「ラヒブの背後にもっと悪い奴がいるって話は、今のところ、亡霊の言葉しか手掛かりがないからね。まずは、その真実を知ってるっていうドラゴンに確かめてみたいな」
ダリヤは、少し考えた。
確かに、そう整理すれば、それほど複雑な話ではないようにも思える。
今すぐすべてを理解する必要はない。
何がわかっていて、何がわかっていないのかを確かめ、そのうえで、次に何を調べるべきかを決めればよいのである。
それは、セラリスがこれまで繰り返し教えてきたことでもあった。
罠を見つけたら、まず仕組みを調べる。
知らない怪物に出会ったら、相手が何をできるのかを考える。
そして、わからないことがあれば、わからないまま無理に進もうとせず、確かめられるところから調べていく。
今の状況も、それと同じなのだろう。
「……なるほど」
ダリヤは、ようやく少し落ち着いたようだった。
ミハイルも、北の階段へ目を向けた。
「……となると、先にそのドラゴンに会うのがよさそうですね」
「うん。私もそう思う」
セラリスは頷いた。
しかし、ヴァレリアだけは、まだ亡霊が消えた場所を見つめていた。
彼女の顔には、ほかの三人とは少し違う思いが浮かんでいた。
「……でも」
ヴァレリアは、静かに口を開いた。
三人が彼女を見る。
「先ほどの方は、ラハシアさんを随分と大切に思っていらっしゃるように見えました」
セラリスは、ゆっくりと頷いた。
「うん。私もそう思ったよ」
「ラヒブに殺されたとおっしゃっていましたから、あの方も、この神殿で起きていることの犠牲になったのでしょうね」
「そうだろうね」
ヴァレリアは、少し悲しそうに目を伏せた。
「それでも、ラハシアさんのことを案じて、こうして私たちへ話してくださったのだと思うと……」
そこで、彼女は言葉を切った。
何を言えばよいのか、わからなくなったのである。
死んでしまった者が、なお誰かを思い、助けを求めて現れる。
それは、聖職者としてのヴァレリアにとって、決して軽々しく受け止められる出来事ではなかった。
彼女は、死者の魂がどのような運命をたどるのかについて、祈りと教えを通じて学んできた。
しかし、今目の前に現れた男が、なぜこの場所に留まり、何を待ち続けていたのかまでは、わからなかったのである。
ただ一つ、確かに感じられたことがあった。
ラハシアを思う気持ちである。
その名を口にしたときの男の表情は、今も鮮やかに記憶に残っていた。
深い悲しみ。
苦しみ。
そして、それらを包み込むような愛情。
あれは、ただ同じ村に住む娘を案じる者の表情ではなかったように思われた。
しかし、それが何を意味するのかまでは、まだ判断できなかった。
セラリスも、同じことを感じていた。
ラハシア。
あの美しい娘が、父と婚約者の行方を語ったときの顔が、ふと脳裏に浮かんできた。
父は神殿へ向かったまま戻らない。
婚約者もまた、そのあとを追って行方がわからなくなっている。
彼女は、二人が無事であることを願いながら、それでも、もう二度と会えないかもしれないという恐怖を抱えていた。
そして今、この神殿で、ラヒブに殺されたという一人のエルフの亡霊が現れ、ラハシアの悲しみを深く案じていたのである。
そこに何らかのつながりがあるのかもしれない。
しかし、今のセラリスには、それ以上のことを確かめる手段がなかった。
亡霊は消えてしまった。
名前を尋ねても、答えてはくれなかったのである。
ならば、今はその言葉を心に留めておくしかないだろう。
「……ラハシアのお父さんも、まだ見つかってないからね」
セラリスは、静かに言った。
「ハサンも」
ヴァレリアが頷いた。
「はい」
その声には、改めて救出の必要を確かめるような響きがあった。
ダリヤも、少し考え込んだ。
「……さっきの人、この神殿の関係者だったんでしょうか」
「そうだろうね」
セラリスが答えた。
「少なくとも、財宝を自分のものだって言ってたくらいだから、ここでそれなりの立場にいた人なんじゃないかな」
「『我が財宝』って言ってましたものね」
ダリヤは、亡霊の言葉を思い返した。
財宝を持っているということだけでも、普通の修行者とは違う立場にあった可能性がある。
しかも、その財宝の前にはドラゴンがいて、それを守護者と呼んでいるのである。
「……かなり偉い人だったのかもしれませんね」
ミハイルも、北の階段を見ながら呟いた。
「うん。その可能性はあると思う」
セラリスは頷いた。
そして、もう一度、亡霊の言葉を思い返した。
守護者たるドラゴンに会え。
すべての事実を、彼より聞くがよい。
それは、実に奇妙な助言だった。
普通なら、財宝を守るドラゴンについて聞かされれば、まず戦わずに通る方法を考えるだろう。あるいは、相手が強力な存在であるならば、別の道を探すことも検討するはずである。
しかし、今回に限っては、その竜に会わなければならないらしい。
しかも、ただ会うだけではない。
友とせよ、と言われたのである。
セラリスは、少しだけ首を傾げた。
ドラゴンと友達になる。
言葉にしてみると、なかなか奇妙な話だった。
もっとも、既に一頭のグリーンドラゴンと友誼を結び、その背に乗ってここまでやって来た自分が、それを奇妙だと言うのも、少しばかりおかしな話かもしれなかったが。
◇
「……じゃあ、先にそのドラゴンに会ってみようか」
セラリスがそう言うと、ダリヤはゆっくりと顔を向けた。
その表情には、何とも言えない困惑が浮かんでいた。
「……先生」
「なに?」
「なんで、そんなに普通に言えるんです?」
「え?」
「ドラゴンですよ?」
「うん」
「しかも、財宝を守ってるドラゴンですよ?」
「そうだね」
「それに会って、友達になろうって……」
ダリヤは、途中で言葉を失った。
セラリスは、不思議そうに首を傾げた。
「だって、友とせよって言われたでしょう?」
「言われましたけど!」
「じゃあ、まず話してみないとわからないじゃない」
「……いや、そうですけど、普通はドラゴンがいるって聞いたら、もっと警戒すると思うんですよ」
「もちろん警戒はするよ。いきなり近づいて噛まれたら困るからね」
「そういうことじゃないんです!」
ダリヤは、とうとう両手を広げた。
ミハイルが、横で小さく笑った。
「でも、先生なら前例がありますからね」
「ヴァルのこと?」
「はい。ヴァルザリオンと友達になってますし」
「ヴァルは、たまたまだってば」
「二回目になったら、たまたまじゃなくなるかもしれませんよ」
「ならないよ」
セラリスは、少し呆れたように答えた。
しかし、その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
ヴァルザリオンと出会った頃のことを思い出したのかもしれない。
あのグリーンドラゴンも、最初から今のように気安く付き合える相手だったわけではない。互いに力を持ち、互いの考え方を知り、何度も話をするうちに、少しずつ信頼が生まれていったのである。
だからといって、すべてのドラゴンが同じように話の通じる相手だとは思っていなかった。
気性の荒い竜もいるだろう。
人間やエルフなど、話す価値もないと考える者もいるかもしれない。
あるいは、財宝を守るという役目に強く縛られており、侵入者を見れば問答無用で襲いかかるような相手である可能性もあった。
しかし、それならそれで、まず相手の様子を確かめればよい。
亡霊が友とせよと言ったからといって、何も考えずに近づく必要はないのである。
「……とにかく、まず話ができる相手かどうか確かめようよ」
セラリスは、穏やかに言った。
「亡霊が友とせよって言ったんだから、少なくとも、最初から殺し合うつもりで行く必要はないと思うんだ。向こうが話を聞いてくれるなら、それが一番いいでしょう?」
ダリヤは、少し考えた。
確かに、そのとおりだった。
自分たちは、今までにも何度か、戦わずに済む方法を選んできた。
八角形の石室では、四人のシスワを殺さずに眠らせた。
通路の北側では、正体のわからない大型の爬虫類を見つけたが、必要がないと判断して戦わずに引き返した。
そして今度は、財宝を守るドラゴンがいるという。
相手が強大な存在であるならば、なおさら、無駄に戦うべきではないのだろう。
ただし、その相手が友達になってくれるかどうかは、また別の問題なのだが。
「……まあ、先生がそう言うなら」
ダリヤは、少し渋々という調子で頷いた。
「でも、私は最初から近づいたりしませんからね」
「うん。それでいいよ」
「あと、綺麗だから触ってみようとかも言いません」
「それは本当に大事だね」
セラリスが真面目に答えたため、ミハイルは再び小さく笑った。
ヴァレリアも、少しだけ口元を緩めた。
緊張が消えたわけではない。
むしろ、これから本当にドラゴンと会うことになるのだとすれば、警戒すべきことは、今まで以上に多いだろう。
しかし、それでも、仲間たちとこうして話しているうちに、少しだけ心が軽くなるように感じられた。
危険な場所へ踏み込むからといって、最初から恐怖に押し潰されていては、何もできなくなってしまう。
だからこそ、必要なときには笑い、考えるべきことは真面目に考える。
そうした心の余裕もまた、冒険者として生き延びるためには必要なのかもしれなかった。
セラリスは、北へ続く階段を見上げた。
その先には、財宝があるという。
そして、その財宝の前には、守護者たるドラゴンが待っているらしい。
その竜は、ラヒブの背後にいるという邪悪について、何かを知っているのだろう。
もしそうなら、会って話を聞く価値は十分にあった。
もちろん、その情報がどこまで正しいのかは、まだわからない。
亡霊が嘘をついていた可能性も、まったくないとは言えないだろうし、本人が信じていることが、必ずしも真実であるとは限らない。
しかし、少なくとも、あの男がラハシアを深く案じていたことだけは、確かなように思われた。
その悲しみは、あまりにも切実だった。
自分が死んでなお、誰かを救おうとして現れたのだとすれば、そこには嘘や欺きだけでは説明できないものがあるだろう。
セラリスは、そう考えていた。
そして、もう一度、北の階段を見つめた。
◇
階段は、緩やかな傾斜を描きながら、上方の暗がりへ続いていた。
幅はそれほど広くなく、石段の角は長い年月の間に少しずつ摩耗している。かつて大勢の修行者たちが、この階段を上り下りしていたのかもしれない。
今では、その先に何が待っているのかもわからなかった。
財宝。
守護者たるドラゴン。
そして、ラヒブの背後にいるという、より深い邪悪についての真実。
そうしたものが、この階段の先にあるのだとすれば、ここから先の探索は、今までとは少し違ったものになるだろう。
セラリスは、胸の奥にかすかな緊張を覚えた。
しかし、それは決して不快なものではなかった。
未知の場所へ向かうということには、いつでも多少の不安がある。
何が待っているのかわからないということは、危険があるということでもあるからだ。
けれども、だからこそ準備を整え、仲間と相談し、慎重に進めばよいのである。
今の自分には、そのための力がある。
そして、一緒に歩いてくれる仲間たちもいる。
セラリスは、三人の顔を順に見た。
ミハイルは、北の階段を見上げながら、どのような相手が現れても仲間を守れるようにと考えているらしかった。ヴァレリアは、先ほどの亡霊の言葉を胸に留めながら、これから出会うかもしれない者たちのために、どの祈りを用意しておくべきかを確かめているようだった。
ダリヤは、階段の一段目へ目を向けていた。
彼女にとって、そこにあるものは、ただの階段ではない。
罠があるかもしれない。
途中に隠し扉があるかもしれない。
あるいは、その先に待ち受けているドラゴンが、何か特別な仕掛けによって守られている可能性もあるだろう。
そうしたことを考えるのが、自分の仕事なのだと、彼女は理解していた。
そして、今度こそ、何も知らずに進んでしまうようなことはするまいと考えていたのである。
セラリスは、そんな三人の様子を見て、少しだけ嬉しくなった。
ミスタメアで彼らを育て始めた頃には、こんなふうに自分たちで考えながら探索を進める日が来ることを、どこまで期待していただろう。
もちろん、三人ともまだ未熟だった。
危険を見落とすこともあるだろうし、判断を誤ることもあるだろう。
だが、今では、少なくとも自分たちが何のために冒険しているのかを、忘れずに行動できるようになり始めている。
ラハシアを助けるために来た。
シルヴァとメリサを探し、彼女の父と婚約者を救い出すために、神殿へ入った。
そして、操られているかもしれないシスワたちも、できる限り殺さずに済ませたいと思っている。
その目的があるからこそ、彼らは目の前の怪物と無理に戦うことを避け、必要な情報を求めて進む道を選んだのである。
そのことを、セラリスは誇らしく思った。
ただし、彼女はその気持ちを、今ここで口にするつもりはなかった。
喜ぶのは、全員が無事に帰ってからでよい。
今は、まだ神殿の途中なのだ。
「じゃあ、北へ行こうか」
セラリスは、静かに言った。
ミハイルが頷いた。
「はい」
「ダリヤは階段を調べてね。ミハイルは、その後ろで警戒をお願い。ヴァレリアは、いつもどおり全体を見ててくれる?」
「わかりました」
三人が答えた。
ダリヤは、すぐに階段の方へ向かったが、その途中で一度だけ振り返った。
「……先生」
「なに?」
「本当に、ドラゴンと友達になるつもりなんですか?」
セラリスは、少し考えた。
そして、いつものように気軽な調子で答えた。
「話してみてから考えるよ。向こうが嫌だって言うなら、仕方ないでしょう?」
その返事を聞いて、ダリヤは、何とも言えない顔になった。
ドラゴンが友達になるのを嫌がるかもしれない。
確かに、その可能性はあるだろう。
しかし普通は、ドラゴンと友達になれるかどうかということ自体を、そんなふうに気軽に考えたりしないのではないか。
彼女は、そう思ったのである。
けれども、今さらそれを口にしたところで、セラリスが考えを変えるとは思えなかった。
何しろ、彼女には前例がある。
若き緑竜王ヴァルザリオン。
あの恐ろしいグリーンドラゴンを、今ではヴァルと呼び、その背に乗って空を飛び、牛の購入について言い争うほどの仲になっているのだ。
ならば、二頭目のドラゴンと出会ったとしても、最初から話し合いを諦める理由はないのかもしれなかった。
少なくとも、セラリスにとっては。
「……わかりました。じゃあ、先に階段を調べますね」
「うん。お願い」
ダリヤは、少しだけ笑った。
そして、石段の前へしゃがみ込み、慎重に足元を確かめ始めた。
ミハイルは、その後ろで剣と盾の位置を整え、ヴァレリアは聖印へ手を添えながら周囲を警戒している。
セラリスもまた、エルブンクロークへ身体を馴染ませ、三人の動きを見守っていた。
瞑想室には、再び静けさが戻っていた。
壁一面に描かれた森は、長い年月を経てもなお、柔らかな陽光を浴びている。
遠い山々は青く霞み、清流は木々の間を静かに流れ、そこには、かつてこの場所を造った者たちが願ったであろう、美しく穏やかな世界が残されていた。
しかし、その穏やかな風景の前には、今、一人の亡霊が残していった言葉が、重く漂っているように感じられた。
ラヒブは手駒にすぎない。
その背後には、より深き邪悪が存在している。
そして、その真実を知る守護者が、北にいるというのだ。
四人は、まだその意味を十分には理解していなかった。
けれども、少なくとも今の彼らには、次に何をすべきかがわかっていた。
北へ進み、守護者たるドラゴンに会う。
そして、ラヒブの背後にいるという邪悪について、できるだけ詳しく話を聞くのである。
それができれば、ラハシアや囚われた者たちを助けるために、これから何をするべきなのかも、少しは明らかになるかもしれなかった。
セラリスは、そんなことを考えながら、北の階段を見上げていた。
そして、もう一度だけ、亡霊が消えた場所へ目を向けた。
そこには、何もなかった。
ただ、古いフレスコ画に描かれた森が、静かに広がっているだけだった。
しかし、あの男が最後に見せた微笑みだけは、まだ記憶の中に鮮やかに残っていた。
深い悲しみの中にあった、静かな安堵。
そして、誰かを思う強い愛情。
それが何を意味していたのか、今のセラリスにはわからなかった。
ただ、いつかラハシアへ、あの亡霊のことを話してやりたいと思った。
もちろん、今はまだ何もわからない。
男の名前さえ知らないのだから、下手に話をして、かえって彼女を不安にさせるわけにもいかなかった。
だからこそ、まずは神殿の奥を調べ、何が起きているのかを確かめる必要があるのだろう。
セラリスは、静かに息を吐いた。
そして、ダリヤが階段の安全を確かめるのを待ちながら、これから先に待ち受けている出来事について、改めて考え始めたのである。
北には、財宝とドラゴンがいる。
南には、ハサンに会えたなら向かうべき洞窟がある。
そして、この神殿のどこかには、まだ助けを必要としている者たちがいるはずだった。
そのすべてが、どのようにつながっているのかは、まだ誰にもわからない。
しかし、少なくとも一つだけ、確かなことがあった。
つい先ほどまでこの部屋に立っていた亡霊は、ラハシアの悲しみを深く案じ、彼女を救うために四人へ言葉を託したのである。
その願いを、セラリスは無駄にしたくなかった。
そして四人は、まだ知らなかった。
ほんの少し前まで目の前に立ち、娘の悲しみに心を痛めながら彼らを導いた亡霊こそが、ラハシアの父親だったということを。
彼は、娘を案じるあまり危険な神殿へ足を踏み入れ、ラヒブの手によって命を奪われたあとも、なおその悲しみから離れることができずにいたのである。
そして今、ようやく現れた四人の冒険者へ、自分には果たすことのできなかった願いを託したのだった。
その事実を知る者は、今のところ、この瞑想室には一人もいなかった。
ただ、古い壁画に描かれた森だけが、長い年月の間に起きたすべての出来事を見守ってきたかのように、変わらぬ静けさを保っていた。
やがてダリヤが階段から顔を上げ、小さく頷いた。
「……先生。今のところ、罠は見つかりません」
「うん。じゃあ、行こうか」
セラリスは、静かに答えた。
そして四人の冒険者たちは、北へ続く階段を、慎重に上り始めたのである。