セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
ダリヤは、亡霊の姿が消えた北側の壁を、しばらくの間、黙って見つめていた。
そこには、先ほどと少しも変わらぬ森の風景が描かれていた。幾重にも重なる木々の向こうには淡い青の山並みが続き、その麓を流れる清流は、何百年も前に画工が描き残した姿のまま、石壁の上で静止している。長い年月によって褪せた色彩には、かえって時を経たものだけが持つ穏やかな美しさがあり、つい先ほどまで一人の亡霊がそこに立ち、悲しみに満ちた声で語りかけていたことさえ、今では夢のように思われるほどだった。
しかし、あの男の言葉は、ダリヤの耳にまだ鮮明に残っていた。
ラヒブは手駒にすぎないという警告も、北にいるドラゴンを友とせよという不可解な忠告も気になっていたが、それ以上に心に引っかかっていたのは、ラハシアの名を口にしたときの、あの悲しげな表情だった。
男が何者であったのかは、結局わからなかった。
ただ、あれほど深い悲しみを浮かべるからには、ラハシアと何か特別な関わりを持っていたのだろう。少なくとも、ただの通りすがりの亡霊が、見知らぬ娘の悲しみについて語っていたとは思えなかった。
ダリヤは、そのことをもう少し考えてみようとしたが、やがて小さく息を吐いた。
今、考え続けても答えが出るわけではない。
亡霊は消えてしまったし、自分たちが知っていることも限られている。それなら、ここで立ち止まって悩むより、少しでも先へ進み、新しい手掛かりを探した方がよいだろう。
彼女は壁画から目を離し、室内を見回した。
「……先生、先に南の扉を調べてみませんか?」
その言葉に、ミハイルが北の階段へ目を向けた。
「あれ、ドラゴンの方は後にするのか?」
「逃げませんよ、たぶん。財宝を守ってるくらいなんですから、今すぐどこかへ行っちゃうこともないでしょう」
ダリヤはそう答えてから、少し真面目な顔になった。
「それより、私たち、まだこの辺りの構造がほとんどわかってないじゃないですか。南にも東にも扉があるのに、いきなり階段を上ってしまうと、後ろに何があるのかわからないままになっちゃいます」
ミハイルは、もう一度室内を見回した。
確かに、そうだった。
先ほどの亡霊が北にいるドラゴンについて語ったため、彼の意識も自然と階段の方へ向いていた。しかし、だからといって、ほかの通路や部屋を確かめる必要がなくなったわけではない。
まして、ここはラヒブの手によって支配されているらしい神殿なのである。
いつ、どこから警備のシスワたちが現れるかわからない以上、背後の安全をできるだけ確かめておくことには、十分な意味があった。
「……なるほど。手近なところから調べておくわけか」
「そうです。北のドラゴンに会うにしても、その前に近くの部屋を確かめておいた方が安心でしょう?」
「そうだな。俺も賛成だ」
セラリスは、二人のやり取りを聞きながら、少しだけ笑った。
「うん。じゃあ、近いところから見ていこうか」
彼女は、特に異論を挟まなかった。
つい先ほどまで、三人は自分たちで道を選び、危険を避けながら神殿を進んできたのである。亡霊から重要な情報を得たからといって、その判断を急に放棄する必要はなかった。
むしろ、思いがけない出来事が起きたあとでも、当初の目的を忘れず、落ち着いて行動できるようになることが大切だった。
そしてダリヤは、まさにそのことを実践しようとしていたのである。
◇
南側の扉は、先ほど通ってきた東の扉ほど立派なものではなかった。
厚みのある木材が用いられてはいたが、特別な装飾もなく、鉄製の金具にも実用性を重んじた簡素な造りが見られる。長い年月の間に何度も開閉されてきたらしく、取っ手の周辺には手垢によって磨かれた部分があり、床石にも人の出入りによる摩耗が残っていた。
ダリヤは扉の前へしゃがみ込むと、まず床を調べ、それから扉枠、蝶番、取っ手の順に確かめていった。
すでに何度も繰り返してきた作業だったが、その手つきには少しも投げやりなところがなかった。慣れたからといって確認を省略してよいわけではないし、むしろ、同じ手順を繰り返すことで見落としを減らすことができるのだと、彼女は教わっていたのである。
やがて鍵穴を確かめ、最後に扉へ耳を寄せた。
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
瞑想室の中には、どこか静謐な空気が残っていた。古い壁画に囲まれた部屋は、そこを訪れる者たちに自然と声を潜めさせるような雰囲気を持っており、ダリヤが扉の向こうへ耳を澄ませている間、ほかの三人もほとんど身動きしなかった。
やがてダリヤが顔を上げた。
「……音はしません。罠も、今のところ見つかりませんでした。鍵もかかってないみたいです」
「じゃあ、開けてみようか」
セラリスが言うと、ダリヤは頷き、慎重に取っ手へ手をかけた。
扉は、軽い抵抗を示しただけで開いた。
その向こうに現れたのは、瞑想室とはまるで趣の異なる、簡素な四角い部屋だった。
壁画もなければ、祈りや瞑想のための装飾もない。室内の中央には使い込まれた木製の卓が一つ置かれ、その周囲に四脚の椅子が並べられていた。壁には何着かの外套が掛かり、その隣には日常的に使うらしい道具類が収められている。
部屋の造りそのものは頑丈だったが、神殿の重要な施設というより、誰かが仕事の合間に休憩したり、待機したりするための場所に見えた。
ダリヤは室内を一通り見回した。
そして、すぐに壁の一角へ視線を止めた。
「……あれ」
彼女が指さしたところには、大きな鍵束が吊るされていた。
大小さまざまな鍵が金属の輪へ通されており、その数は一目で数えきれないほどだった。短く太い鍵もあれば、細長い軸を持つものもあり、形状からして、それぞれ違う錠前に使うものらしかった。
ダリヤは、少し考えるように首を傾げた。
「……番人の部屋でしょうか」
その言葉を聞いて、ヴァレリアが卓の周囲へ目を向けた。
「椅子が四つありますね」
「さっき、警報の鐘を聞いて来たシスワも四人だったな」
ミハイルが言った。
それだけで、部屋の用途について、一つの説明が成り立つように思われた。
西の八角形の石室では、侵入者が現れると鉄格子が閉じ、警報の鐘が鳴る仕組みになっていた。そして、その鐘が鳴ったあと、東側の扉から四人のシスワが確認に来たのである。
もし彼らがこの部屋で待機していたのだとすれば、警報が鳴ってからすぐに駆けつけることができたのも納得できる。
卓と椅子は、彼らが警備の合間に休息を取るためのものだったのだろう。壁に掛けられた外套や道具も、日常の勤務に使われていたものと考えれば、不自然ではなかった。
そして、大きな鍵束である。
警備の者たちが使う鍵を、ここへまとめて保管しているのかもしれない。
「……じゃあ、あの四人が普段ここにいた可能性が高いね」
セラリスが言った。
「そう思います」
ダリヤは頷いた。
それから、少しだけ気まずそうな顔になった。
「……でも、その四人、今は向こうで縛られてるんですよね」
「うん。よく寝てるよ」
セラリスの返事は、実にあっさりしていた。
ミハイルは、思わず苦笑した。
もしこの部屋が本当に警備兵たちの待機所なのだとしたら、彼らは普段どおりここで勤務していたところへ、突然侵入者を知らせる鐘が鳴り、それを確かめに行ったきり、全員が魔法で眠らされてしまったことになる。
しかも侵入者の方は、そのあとで悠々と神殿の内部へ進み、今こうして彼らの待機所を調べているのである。
何とも気の毒な話ではあった。
しかし、彼らを殺さずに済ませられたことを思えば、その程度で済んだのは、むしろ幸運だったのかもしれなかった。
「先生、この鍵束、持っていっていいですか?」
ダリヤが尋ねた。
セラリスは、すぐに頷いた。
「うん。持っていった方がいいと思うよ」
「ですよね。何の鍵かわからないですけど、これだけ数があるなら、どこかで使うかもしれませんし」
「それに、必要になってから取りに戻ると、だいたい面倒なことになるからね」
ダリヤは、少し笑った。
「経験則ですか?」
「冒険者のね」
「なるほど」
彼女は、鍵束へ手を伸ばした。
壁の金具から外した途端、予想していた以上の重さが手首へかかり、思わず腕が少し下がった。
「……重っ!」
慌てて両手で持ち直すと、鍵が触れ合い、小さな金属音を立てた。
ダリヤはすぐに動きを止め、音が収まるのを待った。
「……結構ありますね、これ」
彼女は鍵束を眺めながら呟いた。
大きさも形も違う鍵が、一つの輪へまとめられている。
これほど多くの鍵を必要とする場所とは、いったい何なのだろう。
ヴァレリアは、少し考えてから言った。
「……牢屋でもあるのでしょうか」
その言葉が出た瞬間、四人の視線は、自然と部屋の南側へ向かった。
そこには、今まで見てきたものより、ずっと頑丈そうな扉が設けられていたのである。
厚い木の板を重ね、何本もの鉄帯で補強した扉だった。装飾らしいものは一切なく、取っ手も実用一辺倒の造りをしている。
しかし、その厳めしさには、何とも言えない意味が感じられた。
人の出入りを便利にするための扉ではない。
むしろ、通ろうとする者を簡単には通さず、内側と外側を確実に隔てることを目的に造られたような扉だったのである。
ミハイルは、それを見て表情を引き締めた。
「……確かに、牢屋があってもおかしくないな」
ラハシアの話を思い出したのである。
村を襲ったシスワたちは、シルヴァとメリサを連れ去った。
彼女の父も、婚約者のハサンも、神殿へ向かったまま戻っていない。
もし彼らが殺されたのではなく、どこかに閉じ込められているのだとしたら、こうした場所にいる可能性は十分にあった。
そう考えた途端、先ほどまで単なる警備兵の待機所に見えていた部屋が、急に違った意味を持ち始めた。
ここは、囚われた者たちを監視するための場所なのかもしれない。
そして、自分たちは今、その牢屋の入口へ立っているのかもしれなかった。
◇
「……調べます」
ダリヤは短く言い、南側の扉へ向かった。
その声には、先ほどまで鍵束を見つけて喜んでいたときの軽さがなかった。
彼女もまた、何がこの先にあるのかを考え始めていたのである。
ダリヤは扉の前へしゃがみ込み、慎重に調査を始めた。
床石の継ぎ目を調べ、扉枠の周囲へ目を走らせ、蝶番と鍵穴を確認する。扉は厚く、鉄帯によって頑丈に補強されていたが、外側から見たところ、罠らしい仕掛けは見当たらなかった。
鍵もかかっていないようだった。
「……罠はなさそうです。それに、鍵も開いてますね」
「番人がすぐ近くにいるなら、いちいち施錠しないのかもしれないね」
セラリスが言った。
「うん。そうかもしれません」
ダリヤは頷いた。
もっとも、鍵がかかっていないからといって、安全に通れるという保証にはならない。
扉の向こうに別の警備兵がいる可能性もあれば、何かの仕掛けが設けられている可能性もある。だからこそ、彼女は扉を一気に押し開けるようなことはしなかった。
少しずつ力をかけ、まず細い隙間を作る。
そこから内部を覗き込み、何も動くものがないことを確かめてから、さらに扉を開いた。
その先には、南へ向かう短い石造りの通路が続いていた。
瞑想室にあったような美しい壁画は、もちろんない。
壁も床も実用的な造りであり、装飾に費やす手間を最初から惜しんだかのように、ただ頑丈な石材が積み上げられているだけだった。
通路には湿った石の匂いが漂い、空気も少し重く感じられた。
四人は、足音を抑えながら進んだ。
それほど長い通路ではなかった。
やがて南端が壁へ突き当たり、その手前から東西へ、新たな廊下が延びていることがわかった。
そして、その分岐へ差しかかったところで、先頭のダリヤが足を止めた。
「……ああ」
思わず漏れた声は、小さかった。
しかし、その響きだけで、後ろの三人にも、彼女が何かを見つけたことがわかった。
ミハイルが少し身を乗り出す。
そして、廊下の様子を目にした瞬間、彼もまた黙り込んだ。
東西へ延びる廊下の両側に、頑丈な木製の扉がずらりと並んでいたのである。
どれも同じような造りだった。
厚い板材が用いられ、その表面は鉄帯で補強されている。華やかな装飾などは一切なく、扉の上部には、鉄格子を嵌め込んだ小さな覗き窓が設けられていた。
それらの扉が、東へも西へも続いている。
さらに廊下の両端にも、やはり同じように頑丈な扉が一枚ずつ据えられていた。
それは、誰が見ても用途のわかる造りだった。
「……牢屋ですね」
ダリヤが、低い声で言った。
誰も否定しなかった。
ヴァレリアの表情が、少し硬くなった。
彼女は、廊下の両側へ並ぶ扉を見渡し、その数を確かめようとした。
「……かなりの人数を収容できそうですね」
「そうだな」
ミハイルも頷いた。
その声には、先ほどまでとは違う重さがあった。
これだけの牢が設けられているということは、この神殿では以前から、何らかの理由で人を閉じ込める必要があったのだろう。
それが罪を犯した者を拘束するためのものだったのか、修行の一環として使われていたものなのか、それとも、もっと別の目的があったのかはわからない。
しかし、今ここを支配しているらしいラヒブが、この牢を何のために利用しているのかについては、ある程度想像できた。
シルヴァとメリサ。
ラハシアの父。
婚約者のハサン。
彼らが生きているのなら、この扉のどれかの向こうに閉じ込められているかもしれない。
そう考えた瞬間、四人の胸には、期待と不安が同時に湧き上がった。
ようやく手掛かりを見つけたのかもしれない。
しかし、もし本当に誰かが閉じ込められていたとして、その者がどのような状態にあるのかは、まだわからなかった。
生きているのか。
傷ついているのか。
それとも、既に取り返しのつかないことが起きてしまっているのか。
そうした可能性が胸に浮かび、ミハイルは、無意識に拳を握った。
セラリスも、廊下の様子をしばらく眺めていた。
彼女には、ラハシアの顔が思い出されていた。
薄いベールをまとった美しい娘が、父と婚約者の行方を語ったとき、どれほど懸命に涙を堪えていたことか。
シルヴァとメリサの似顔絵を差し出したとき、その指先がどれほど震えていたことか。
その願いに応えるために、彼女たちはここまで来たのである。
ならば、この扉の向こうにいるかもしれない者たちを、確かめずに通り過ぎるわけにはいかなかった。
「……まず、中を確認しよう」
セラリスは、静かに言った。
三人が彼女を見る。
「いきなり全部開ける必要はないよ。覗き窓があるんだから、まず一部屋ずつ、中に誰がいるのか確かめていこう」
「わかりました」
ダリヤは頷いた。
彼女は、最も近い扉へ歩み寄ると、小さな格子窓へ顔を近づけた。
◇
牢の中は、薄暗かった。
覗き窓から差し込む光もわずかで、最初は石の床と、奥にある壁の輪郭がぼんやりと見えるだけだった。
ダリヤは、しばらく目を慣らした。
暗い場所を調べるときには、急いで判断しないことが大切だった。明るい通路から覗き込んだばかりでは、そこに誰かがいるのかどうかさえ、見誤る可能性があるからである。
やがて室内の様子が、少しずつ見えるようになった。
床には何もない。
壁際にも、人影らしいものは見当たらなかった。
「……ここは空です」
ダリヤは、小声で報告した。
ミハイルが頷いた。
「じゃあ、次だな」
ダリヤは向かい側へ移動した。
同じように格子窓へ目を近づけ、しばらく中を確かめる。
そこも空だった。
「こっちも、誰もいません」
彼女は、次の扉へ向かった。
一つずつ、確実に確かめていく。
それは、作業としては単純だった。
鍵を開ける必要もなければ、罠を解除する必要もない。ただ扉へ近づき、覗き窓から中を確かめるだけなのである。
しかし、実際にやってみると、妙に落ち着かないものがあった。
誰もいない牢を見つけるたびに、ダリヤは少しだけ安心した。
少なくとも、その部屋には、傷ついて倒れている者も、苦しみながら助けを待っている者もいなかったからである。
しかし、同時に、別の思いも湧き上がってくる。
探している者たちは、まだ見つからない。
誰もいないということは、その部屋には救い出すべき者がいないという意味でもあった。
そして、空の牢が続けば続くほど、この先の扉の向こうに何があるのかが、少しずつ恐ろしくなってくるのである。
三つ目の牢も空だった。
四つ目にも、人の姿はなかった。
ミハイルは、そのたびに小さく息を吐き、ヴァレリアは静かな表情を保ちながらも、どこか緊張した様子で次の扉を見つめていた。
セラリスは、彼らの少し後ろで周囲を警戒していた。
彼女は、ダリヤが調査に集中している間、東西の廊下へ注意を向けている。
牢の中ばかりを気にして、背後から接近する者に気づかないようでは困るからだった。
幸い、今のところ廊下には何の気配もなかった。
遠くから足音が聞こえてくることもなければ、誰かが扉を開けようとする音もない。
それでも、安心しきってよい理由にはならなかった。
西の八角形の石室では警報が鳴り、確認に来た四人のシスワが戻らないままになっている。いつ誰かがその異変に気づき、神殿の内部を調べ始めるかわからなかったのである。
ダリヤは、次の扉へ近づいた。
これまでと同じように背伸びをし、格子窓へ顔を寄せる。
しかし、今度はすぐに離れなかった。
彼女の目が、薄暗い牢の奥へ向けられたまま動かなくなったのである。
「……待って」
その声に、後ろの三人が足を止めた。
ミハイルが顔を上げる。
「何か見えたのか?」
ダリヤは答えなかった。
ただ、さらに目を凝らした。
暗い部屋の奥、壁際の床に、何かが横たわっている。
最初は、古い布の塊かと思った。
しかし、よく見ると、それは明らかに人の形をしていた。
手足がある。
胴体があり、頭部らしいものが、薄い影の中に見える。
ダリヤは、胸の奥がひやりとするのを感じた。
「……人です」
彼女は、ようやく声を出した。
その声は、それまでよりもずっと小さかった。
「一人、います」
ミハイルがすぐに近づいた。
「動いてるか?」
「……わかりません。暗くて、そこまでは見えないです」
ダリヤは、なおも格子窓から中を確かめようとした。
しかし、横たわっている者は動かなかった。
眠っているのか。
気絶しているのか。
あるいは、既に命を落としてしまっているのか。
それを見分けることはできなかった。
ヴァレリアが、すぐに口を開いた。
「開けましょう」
その声には、迷いがなかった。
彼女にとって、牢の中に倒れている者がいるというだけで、十分に急ぐ理由になるのだった。
ダリヤも頷いた。
「はい」
彼女は、先ほど番人の部屋で手に入れた鍵束を取り出した。
しかし、そこで少しだけ困った顔になった。
「……どれだろう」
鍵は大小さまざまで、一目見ただけでは、どれが目の前の牢へ合うのかわからなかった。
鍵穴の大きさを見比べれば、ある程度候補を絞ることはできそうだったが、それでも幾つかは試してみる必要があるだろう。
「合いそうなものから試してみよう」
セラリスが、小さな声で言った。
「慌てなくていいからね。鍵を壊したら、かえって面倒になるよ」
「わかってます」
ダリヤは頷いた。
その返事には、緊張が混じっていた。
彼女は最初の鍵を選び、慎重に鍵穴へ差し込んだ。
しかし、奥まで入らなかった。
形が合わないらしい。
ダリヤはすぐに抜き、別の鍵を選んだ。
二つ目は鍵穴へ入ったものの、回そうとしても錠は動かなかった。
無理に力をかければ、鍵を曲げるか、錠前の内部を壊してしまうかもしれない。
彼女は慎重に抜き取った。
三つ目も違った。
その間にも、ヴァレリアは格子窓から牢の中を覗き込み、床に横たわる者の様子を確かめようとしていた。
しかし、相手は依然として動かなかった。
ヴァレリアは、胸の奥に焦りが生まれるのを感じた。
もしあの者が重傷を負っているのなら、一刻も早く治療しなければならないだろう。
しかし、急ぐあまり鍵を壊してしまえば、もっと時間がかかってしまう。
そのことは、彼女にもよくわかっていた。
だからこそ、ダリヤを急かすことはしなかった。
ただ、できるだけ早く扉が開いてほしいと願いながら、じっと待っていたのである。
ダリヤは四つ目の鍵を選んだ。
それを鍵穴へ差し込んだ瞬間、先ほどまでとは違う手応えがあった。
金属が内部の仕掛けとかみ合い、小さな音を立てたのである。
ダリヤの表情が変わった。
「……これです」
彼女は、慎重に鍵を回した。
錠前の内部で何かが動き、続いて、重い閂が外れるような鈍い音がした。
鍵が回りきったところで、ダリヤは手を止めた。
「開きました」
ミハイルは、一度、東西の廊下へ目を向けた。
誰もいない。
足音も聞こえない。
彼は、もう一度ダリヤとヴァレリアを見た。
「……開けるぞ」
ダリヤが頷いた。
ミハイルは扉へ手を添え、慎重に押した。
しかし、その瞬間だった。
重い蝶番が、低い軋みを立てたのである。
◇
音は、思っていた以上に大きかった。
錆びついた金属を無理に動かしたような、耳障りな軋みが、静まり返った廊下へ長く響いた。
四人は、ほとんど同時に動きを止めた。
ミハイルは扉を押す手を止め、ダリヤは反射的に廊下の奥へ目を向けた。ヴァレリアも、何かが近づいてこないかと耳を澄ませ、セラリスは二人の後ろから、東西の通路を素早く確かめた。
誰もいなかった。
少なくとも、今すぐ姿を現す者はいない。
しかし、それだけで安全だと決めつけることはできなかった。
地下の石造りの廊下では、音が思いがけないほど遠くまで響く場合がある。自分たちには誰の気配も聞こえなくても、向こうでは扉の軋みを耳にした者がいるかもしれないのである。
セラリスは、少しだけ声を低くした。
「……急ごう」
三人が頷いた。
ミハイルが扉を押し開けると、ヴァレリアが真っ先に中へ入った。
狭い牢の中には、湿った石と、長い間十分に換気されていない空間に特有の重い匂いが漂っていた。
床は冷たく、壁にはところどころ黒ずんだ染みが浮かんでいる。
そして部屋の奥、壁際には、一人の人物が横たわっていた。
薄暗さのために顔立ちはよく見えなかったが、身体つきからしてエルフであることは間違いなさそうだった。
ヴァレリアは、すぐにそのそばへ膝をついた。
最初に確かめたのは、呼吸だった。
倒れている者の胸が上下しているかを見つめ、次いで首筋へ指を当てて脈を取る。
その間、ほかの三人は誰も口を開かなかった。
ミハイルは扉の近くで周囲を警戒し、ダリヤはヴァレリアの邪魔にならないよう少し離れたところから様子を見守っていた。
セラリスもまた、牢の入口へ身を寄せながら、廊下の向こうへ注意を向けている。
その短い時間が、妙に長く感じられた。
ヴァレリアは、じっと指先の感触を確かめていた。
やがて、かすかではあるが、確かな脈動が伝わってきた。
それは、決して力強いものではなかった。
しかし、生きている者の鼓動だった。
彼女は、ようやく顔を上げた。
「……息があります」
その言葉は、静かだった。
しかし、ほかの三人にとっては、何より待ち望んでいた知らせだった。
ダリヤは、思わず胸の奥で息を吐いた。
ミハイルも、張りつめていた肩から、わずかに力が抜けるのを感じた。
セラリスは、牢の入口からヴァレリアの顔を見た。
「生きてるんだね?」
「はい。呼吸も脈もあります。ただ、どうして倒れているのかは、もう少し調べなければわかりません」
「うん。お願い」
セラリスは頷いた。
少なくとも、今ここにいる一人は生きている。
その事実が、何より大きかった。
この神殿へ入ってからというもの、彼らはさまざまな奇妙なものを見てきた。
警報の鐘とガスの罠。
眠らせて捕らえた四人のシスワ。
宝石のように輝く鱗を持つ、正体不明の爬虫類。
美しいフレスコ画に囲まれた瞑想室。
そして、ラヒブに殺されたという亡霊。
いずれも、神殿で何かが起きていることを示してはいた。
しかし、今、彼らの目の前には、初めて、実際に助けを必要としているかもしれない者が横たわっていたのである。
それは、今までとは違う意味を持っていた。
セラリスは、牢の奥へ目を向けた。
ヴァレリアは、倒れている者の状態を慎重に確かめ続けている。
彼女の手つきには、普段の穏やかな物腰とはまた違った、確かな落ち着きがあった。
何を確かめるべきなのかを知り、必要なことを一つずつ行っている。
セラリスは、その姿を頼もしく思った。
初めて出会った頃から、ヴァレリアは他人を助けたいという気持ちの強い娘だった。しかし、助けたいと思うことと、実際に助けられることとは、同じではない。
傷ついた者を見つけても、ただ慌てて駆け寄るだけでは、かえって危険なこともある。まず相手の状態を確かめ、何が必要なのかを判断しなければならないのである。
今のヴァレリアは、そのことをよく理解していた。
そして、ここで自分がすぐに手を出すより、まず彼女へ任せた方がよいことも、セラリスにはわかっていた。
それぞれが自分の役割を果たす。
それができるようになったことは、三人の成長を考えれば、決して小さなことではなかった。
◇
ダリヤは、鍵束を握ったまま、牢の入口に立っていた。
手の中の金属は、思っていた以上に冷たかった。
つい先ほどまでは、あれほど多くの鍵を見つけたことに少しばかり得意になっていたのに、今では、その重さがまったく違う意味を持っているように感じられた。
鍵というものは、扉を開けるための道具である。
もちろん、閉めるためにも使う。
しかし、今目の前にある牢の鍵は、誰かを外へ出さないために使われていたものなのだろう。
それも、自分たちと同じように生き、考え、誰かを大切に思っている者を、閉ざされた石室の中へ押し込めておくために。
そのことを思うと、ダリヤは少し嫌な気持ちになった。
冒険を始めたばかりの頃なら、牢屋で大量の鍵を見つけたことについても、もっと単純に考えていたかもしれない。
これがあれば、どの扉でも開けられるかもしれない。
鍵を探し回る手間が省ける。
そして、牢の中に何か価値のあるものが隠されていれば、それを見つけることもできるだろう。
しかし、今では、そのような考えだけでは済まなくなっていた。
目の前には、現実に誰かが倒れているのである。
それがシルヴァなのか、メリサなのか、ラハシアの父なのか、それともまったく別の誰かなのかは、まだわからなかった。
けれども、その者が生きていることだけは、ヴァレリアが確かめてくれた。
ならば、助けられる可能性はある。
ダリヤは、そのことを考えながら、鍵束を握り直した。
そうして改めて廊下へ目を向けると、そこには、まだ幾つもの扉が並んでいた。
東へも、西へも、同じような頑丈な扉が続いている。
その向こうに何があるのかは、わからなかった。
空の牢もあるだろう。
しかし、今見つけた者のように、誰かが横たわっている可能性もある。
あるいは、もっと恐ろしいものを見つけることになるのかもしれなかった。
ダリヤは、唇を引き結んだ。
怖くないわけではない。
もし次の牢で、既に命を落とした者を見つけてしまったらどうしよう。
もし、ラハシアが探している者たちの中に、もう助けられない者がいたとしたら。
そんなことを考えると、胸の奥が冷たくなった。
しかし、だからといって、扉を開けずに帰るわけにはいかなかった。
自分たちは、ここまで来たのである。
ラハシアの願いを聞き、危険な神殿へ入り、ようやく牢屋までたどり着いたのだ。
ならば、ここで何を見つけることになったとしても、確かめる必要があるだろう。
ダリヤは、もう一度、牢の奥へ目を向けた。
ヴァレリアは、倒れている者のそばで慎重に様子を確かめている。
ミハイルは、すぐに敵が現れても仲間を守れるよう、扉の近くへ立っていた。
セラリスもまた、廊下へ目を向けながら、静かに周囲を警戒している。
その姿を見ているうちに、ダリヤの胸にあった不安は、少しずつ別のものへ変わっていった。
自分一人なら、怖くて何もできなかったかもしれない。
しかし、今は一人ではない。
仲間がいる。
そして、自分にもできることがある。
鍵を開けること。
扉の向こうを確かめること。
罠があれば見つけ、危険を避けながら先へ進むこと。
それが、自分の役割だった。
ダリヤは、鍵束をもう一度確かめた。
四つ目に試した鍵が、この牢の錠前へ合った。
ほかの鍵も、おそらく別の牢や施設の扉へ使えるのだろう。
ならば、この鍵束は、今の自分たちにとって何より重要な道具になるかもしれなかった。
彼女は、そう考えながら、鍵が触れ合って音を立てないよう慎重に持ち直したのである。
◇
セラリスは、牢の入口へ立ったまま、廊下の向こうを見つめていた。
先ほど、扉を開いたときに大きな軋みが響いたことが、少し気になっていた。
まだ誰かが近づいてくる気配はない。
しかし、ここは神殿の地下であり、しかも囚人を収容するための場所である。警備の者たちがいつ巡回してきても、不思議ではなかった。
そのことを考えれば、いつまでも同じ場所へ留まっているわけにはいかないだろう。
しかし、だからといって、今見つけた者を放置して先へ進むつもりもなかった。
セラリスは、静かに息を吐いた。
ようやく見つけた、生きている囚人だった。
この神殿に入ってから、彼らは何度も戦いを避けてきた。
四人のシスワを眠らせ、縛り、怪我を負わせずに済ませた。
正体不明の爬虫類を見つけても、わざわざ戦おうとはしなかった。
亡霊が現れたときも、まず話を聞こうとした。
それらの判断は、すべて無駄ではなかったのだろう。
もし途中で戦いを繰り返し、魔法も体力も使い果たしていたなら、今こうして囚われた者を見つけても、十分に助けられなかったかもしれないのである。
戦わずに済ませること。
それは単に、敵を殺さないという意味だけではない。
これから助けなければならない者たちのために、自分たちの力を残しておくことでもあるのだ。
セラリスは、改めてそのことを思った。
そして、もう一度、廊下に並ぶ扉を見た。
同じような造りの牢が、いくつも続いている。
その一つ一つに、誰かの人生が閉じ込められている可能性があった。
もちろん、すべての牢に囚人がいるとは限らない。
既に空になっている部屋もあれば、長い間使われていない場所もあるだろう。
しかし、今見つけた者のように、生きて助けを待っている者がいるのなら、見過ごすわけにはいかなかった。
セラリスは、ラハシアの顔を思い出した。
あの美しい娘が、父と婚約者の行方を語ったときの、悲しみに満ちた眼差し。
シルヴァとメリサの似顔絵を渡し、どうか助けてほしいと頼んだときの、懸命な表情。
そして、操られたシスワたちをできるだけ殺さずに済ませてほしいと願った、あの切実な声。
その願いに応えるために、自分たちはここまで来たのである。
ならば、まだできることがあるうちは、諦めるべきではないだろう。
セラリスは、ゆっくりと顔を上げた。
「……一部屋ずつ見よう」
その声は、穏やかだった。
しかし、先ほどまでのような軽い調子は、もう含まれていなかった。
ダリヤが振り返る。
ミハイルも、廊下の奥から視線を戻した。
セラリスは三人の顔を順に見てから、静かに続けた。
「まだ牢がいくつもあるでしょう。誰が入ってるかわからないんだから、ちゃんと確かめよう。今ここにいる人も、ヴァレリアが診てくれてるし、ほかに助けられる人がいるかもしれないからね」
ダリヤは、少しだけ頷いた。
「……はい」
「ここまで来たんだから、置いて帰る人はいないよ」
セラリスは、そう言った。
それは、必ず全員を救い出せるという保証ではなかった。
彼女自身、神殿の中で何が起きているのかを、まだ十分に理解しているわけではない。囚われている者たちの状態もわからなければ、ラヒブがどのような目的で彼らを捕らえたのかも不明だった。
それでも、助けられる可能性がある者を、確かめもせずに置き去りにするつもりはなかった。
その意思だけは、はっきりと決まっていたのである。
ミハイルは、黙って頷いた。
彼にも、同じ気持ちがあった。
強い敵を倒すことは、戦士としての腕前を示す機会になるかもしれない。
しかし、今こうして牢の中へ閉じ込められた者たちを見つけ、生きていることを確かめ、助け出そうとしていることには、それとは違った意味があるように思われた。
彼らは、誰かを殺すためにここへ来たのではない。
誰かを生かして帰すために来たのである。
そのことを、ミハイルは改めて胸に刻んだ。
ヴァレリアは、倒れているエルフの状態を確かめ続けていた。
彼女は、今すぐ自分ができることを一つずつ考えながら、相手の呼吸と脈を慎重に診ている。
その横顔には、静かな決意が浮かんでいた。
助けたいと思うだけでは、何も変わらない。
実際に助けるためには、何が必要なのかを考え、できることを行わなければならないのである。
そして今、自分はそのためにここへいるのだった。
ダリヤも、鍵束を握り直した。
金属の冷たさが、掌へ伝わってくる。
先ほどまでは、ただの道具にすぎなかった鍵が、今では誰かの自由を取り戻すための、何より大切なもののように感じられた。
彼女は、もう一度廊下へ目を向けた。
東へも、西へも、同じような扉が並んでいる。
その向こうに何が待っているのかは、まだわからない。
だが、確かめるための手段はある。
そして、確かめようとする意思もあった。
「……じゃあ、残りも見ていきましょう」
ダリヤは、小さな声で言った。
その表情には、不安が残っていた。
しかし、それ以上に、自分の仕事を果たそうとする真剣さがあった。
セラリスは、その顔を見て、少しだけ微笑んだ。
「うん。お願いね」
ダリヤは頷いた。
そして、鍵束を落とさないよう慎重に持ちながら、次の牢へ目を向けた。
地下の廊下には、相変わらず静けさが満ちている。
厚い扉の向こうからは、何の声も聞こえてこなかった。
しかし、今の四人には、その沈黙の意味が、先ほどまでとは少し違って感じられていた。
何も聞こえないからといって、誰もいないとは限らない。
誰も助けを求めていないからといって、助けを必要としている者がいないとは限らないのである。
彼らは、今そのことを、目の前の現実として知り始めていた。
この神殿の奥には、ラヒブの企みがある。
操られたシスワたちがいて、囚われた者たちがいる。
そして、その背後には、亡霊が語った、さらに深い邪悪が存在しているのかもしれなかった。
しかし、今の四人にとって、それらはまだ遠い問題だった。
目の前には、生きている一人の囚人がいる。
そして、まだ開かれていない牢の扉が、いくつも残されていた。
その一つ一つを確かめること。
今は、それが何より大切な仕事だった。
セラリスは、ヴァレリアが診ているエルフの方へ最後に一度目を向け、それから東西へ延びる廊下を見渡した。
まだ知らないことは多い。
助けられる者が何人いるのかも、すべての者を無事に連れ帰れるのかもわからない。
それでも、ここまで来た以上、できる限りのことをするつもりだった。
そして、三人の弟子たちもまた、彼女と同じ思いを抱き始めていたのである。
こうして四人は、ようやく神殿の内部で起きていることへ、単なる探索者としてではなく、囚われた者を救おうとする者として、直接触れ始めていた。
その先に何が待っているのかは、まだ誰にもわからなかったが、少なくとも今、この冷たい石造りの牢の中では、一人のエルフが確かに生きており、その命を救おうとする者たちが、ようやくたどり着いていたのだった。