セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
隠し扉の向こうには、通路などなかった。
セラリスが石壁の裂け目のように開いた狭い入口を抜けたとき、その先に広がっていたのは、これまで歩いてきた陰鬱な神殿の内部とは、まるで別の世界に属するかと思われるほど贅沢な寝室だった。
足元には、深い葡萄酒の色を思わせる赤い絨毯が敷き詰められ、その柔らかな毛足は、幾人もの職人が長い時間を費やして織り上げたものらしく、地下の冷たい石床を覆い隠している。壁には木製の装飾が施され、部屋のあちらこちらには、住む者の趣味と財力を示す品々が置かれていた。南東の壁際には、とりわけ立派な寝台が据えられており、重厚な木製の枠と深紅の寝具は、この場所が祈りや修行のための神殿の一室であることを、一瞬忘れさせるほど華やかなものだった。
しかし、その豪奢な寝台の上に横たわっていたのは、人間でもエルフでもなかった。
二頭の黒豹である。
艶やかな黒い毛皮に覆われた大きな身体が、赤い寝具の上へ悠然と伸ばされていた。よほど大切に飼われているのか、二頭とも毛並みは見事で、筋肉の浮き上がるしなやかな胴体には、飢えや衰弱の影など少しも見られない。猫科の獣に特有の、優雅で怠惰な姿勢で寝そべっていたらしいが、ラヒブが部屋へ飛び込んできた途端、その様子は一変した。
二頭は同時に頭を上げた。
金色の瞳が、薄暗い寝室の中で鋭く光り、次いで長い尾がゆっくりと動き始める。丸みを帯びた耳が伏せられ、黒い唇の下から白く長い牙が覗いたかと思うと、低い唸り声が、部屋の空気そのものを震わせるように響いた。
セラリスは、その様子を一瞥した。
見事な獣だった。
しかし、今はその美しさに見惚れている場合ではない。
彼女の目は、すぐにラヒブへ戻っていた。
男は、追跡を振り切ろうとしてこの部屋へ逃げ込んだのだろう。乱れた呼吸と、わずかに引きつった肩の動きが、つい先ほどまでの余裕を失っていることを物語っていた。それでもラヒブは、追ってきた者がいったい誰なのかを確かめようとしたのか、寝台の手前で振り返った。
そして、初めてセラリスの姿をまともに見た。
その瞬間、男の表情が変わった。
焦りと警戒によって強張っていた顔から、まるで何かに魅入られたかのように緊張が薄れ、代わりに、見る者の肌を粟立たせるような甘ったるい微笑が浮かんだのである。
「……おお、美しい人」
ラヒブは、感嘆の吐息さえ混じる声で呟いた。
セラリスは、片方の眉をわずかに上げた。
黒豹の唸り声が響き、自分を追ってきた者が目前まで迫っているというのに、男はどうやら、目の前の娘の容姿へ注意を奪われてしまったらしかった。
その変わり身の早さも奇妙だったが、それ以上にセラリスを不快にさせたのは、彼の視線だった。
そこには、敵の力量を測ろうとする慎重さも、初対面の相手への敬意もなかった。まるで市場で値の張る品を見つけた商人が、その品を手に入れたあとのことを勝手に考え始めたかのような、ひどく無遠慮な熱っぽさがあったのである。
「あなたでも良い。私と来ては貰えないだろうか」
セラリスは、しばらく答えなかった。
そして、ゆっくりと問い返した。
「……私でも良い?」
その声は、決して大きくなかった。
しかし、どこか冷たい響きが混じっていた。
美しいと言われたことが不愉快だったわけではない。セラリスも、相手が純粋な賞賛を口にしたのなら、わざわざ腹を立てたりはしなかっただろう。
だが、今の言い方は違う。
私でも良い。
それは、最初から求めていた誰かが別にいて、その者が手に入らないのであれば、代わりに自分を選んでも構わないと言われたようなものだった。
そして、この男がもともと誰を求めていたのかについて、セラリスには心当たりがあった。
ラハシア。
あの美しいエルフの娘を、ラヒブは自分のもとへ連れてこさせようとしていたのである。
そのためにシスワたちを村へ向かわせ、拒まれると、ほかの娘たちを連れ去った。少なくともラハシアの話によれば、そうしたことが起きていた。
そして今、ラヒブは追いつめられるや否や、そのラハシアの代わりに、目の前のセラリスでもよいと言い出したのだった。
セラリスは、胸の奥へ湧き上がってきた嫌悪を、顔には出さずに押し留めた。
こんな男の言葉に、いちいち腹を立ててやる必要はない。
しかし、何とも不愉快な話ではあった。
「そうだ。あなたほど美しい方が、こんな場所に留まっている必要などあるまい。私と共に来れば、もっとふさわしい暮らしを――」
ラヒブは、まるで自分が追いつめられていることなど忘れたかのように、甘い声音で話し続けようとした。
その言葉が終わるより早く、西側の扉が勢いよく開いた。
「ラヒブ!」
鋭い声が、寝室へ響き渡った。
ハサリアンだった。
その後ろから、ミハイル、ヴァレリア、ダリヤ、そしてベイクが、次々に部屋へ入ってくる。
五人の姿を認めた瞬間、ラヒブの顔から、つい先ほどまでの甘ったるい微笑が消え失せた。
とりわけ、ハサリアンを見たときの驚きは、隠しようもないものだった。
牢へ閉じ込めておいたはずの男が、なぜここにいる。
その疑問が、一瞬にして顔へ浮かんだのである。
「もう逃げられないぞ!」
ハサリアンが叫んだ。
長い拘禁のために声にはまだ多少の掠れがあったが、その言葉に込められた怒りだけは、少しも衰えていなかった。
ラヒブは、それへ答えなかった。
いや、答える余裕がなかったという方が正しいだろう。
彼の視線は、ハサリアンからミハイルへ、さらにセラリスへと素早く動いた。その顔には、追いつめられた獣のような険しさが浮かんでいたが、次の瞬間には、既に部屋の東側へ身体を向けていたのである。
「逃げる!」
ダリヤが叫んだ。
ラヒブは寝台の脇を駆け抜け、東側の壁へ向かった。
そこには壁面が浅く奥まった部分があり、初めてこの部屋へ入った者なら、単なる建築上のくぼみだと思って見過ごしてしまいそうだった。しかしラヒブは迷わずその中へ飛び込むと、壁へ向かって短い魔法の言葉を唱えた。
石材の表面に、淡い光が走った。
それまで何の変哲もなかった壁面へ、細い線が次々と浮かび上がる。縦に走った光が横へつながり、やがて一枚の扉を形作ると、その輪郭に沿って石壁がわずかに揺らいだ。
「隠し扉だ!」
ミハイルが声を上げた。
だが、そのときには既に、セラリスも動いていた。
「逃がさないよ」
彼女は右手からソーンウォッチを離した。
銀の剣が柔らかな絨毯へ落ちるよりも早く、セラリスの両手は頭の後ろへ回っていた。束ねていた黒髪を留める細い組紐へ指をかけ、一息に解き放つ。
長い黒髪が、肩から背中へ流れ落ちた。
そして彼女の手には、一本の細い紐が残された。
《String of Lashing》。
外見だけなら、髪を束ねるためのごく普通の組紐にすぎない。
しかし、セラリスが短い命令語を口にすると、紐はたちまち魔力を帯び、彼女の指先からするすると伸び始めた。細くしなやかな組紐は、瞬く間に長い鞭へ変わり、その先端がまるで意思を持つ生き物のように空中へ持ち上がった。
ラヒブは、ようやく現れた隠し扉へ足を踏み込もうとしていた。
あと一歩。
ほんの一歩進めば、その身体は扉の向こうへ消えてしまうはずだった。
しかし、その一歩を踏み出すよりも、セラリスの鞭の方が速かった。
空気を鋭く裂く音が、赤い絨毯の敷かれた寝室へ響いた。
次の瞬間、長い鞭はラヒブの胴体へ巻きつき、さらに両腕の動きを封じるように絡みついていたのである。
「なっ……!」
ラヒブは、何が起きたのか理解できなかったらしい。
自分の身体を締めつける細い鞭を見下ろし、それから背後へ振り返ろうとしたが、セラリスは既に両足へ力を込めていた。
「離せ!」
「嫌」
その返事には、ためらいも同情もなかった。
セラリスが鞭を引く。
ラヒブは前へ出そうとしていた勢いを失い、上体を大きく仰け反らせた。
足がもつれ、肩が後ろへ引かれる。
そして、隠し扉へ伸ばしていた手が届かなくなった、その瞬間だった。
ミハイルが飛び込んできた。
彼は剣を抜かなかった。
抜く必要がなかったのである。
大きな盾を身体の前へ構え、踏み込んだ勢いをそのままラヒブへぶつけた。
重い衝撃音が響いた。
ラヒブの身体はたまらず後方へ弾かれ、足を取られるようにして赤い絨毯へ倒れ込んだ。
ミハイルは、そのまま相手の身体へ覆いかぶさった。
「動くな!」
ラヒブは、必死に暴れた。
しかし、動かなかった。
いや、正確には、動こうとするたびに身体のどこかへ力は入っているのだが、それが実際の動きへつながらなかったのである。
ミハイルの両手には、《オーガパワー・ガントレット》が嵌められていた。
見た目こそ人間の青年の腕であるが、そこに宿る力は、普通の人間がどれほど鍛錬を重ねようとも容易には到達できないものだった。オーガにも匹敵する膂力が、ラヒブの肩と腕を床へ押しつけているのである。
ラヒブは片腕を抜こうとした。
肩を起こそうとした。
腰を捻り、足の力で身体を横へ転がそうとさえした。
しかし、そのたびにミハイルの腕がわずかに沈み、身体へ加えられる圧力が変わるだけで、ラヒブの上体は絨毯から一寸も浮き上がらなかった。
「ぐっ……離せ、この……!」
「離すわけないだろ!」
ミハイルは、呆れたように言い返した。
普段であれば、相手を押さえ込むには、体重のかけ方や腕の取り方、重心の移動といった技術が必要になる。相手が必死に抵抗してくるなら、なおさらだった。
しかし、今は違う。
そもそも、双方の筋力にあまりにも大きな差があった。
ラヒブにしてみれば、どれほど力を振り絞っても、自分の身体を押さえている腕がまるで動かないのだから、たまったものではないだろう。
一方のミハイルにとっては、抵抗する相手を押さえているというより、暴れている大きな子供を動かないように留めているようなものだった。
少なくとも、力比べに関する限り、もはや勝負にはなっていなかったのである。
セラリスは、それを一目見て判断した。
大丈夫だ。
ミハイルなら、ラヒブを逃がすことはない。
その判断が終わるよりも早く、寝台の上で、二つの黒い影が動いた。
◇
最初に飛びかかったのは、寝台の手前にいた黒豹だった。
それまで獣は低く唸りながらこちらを見据えていたが、主人らしい男が床へ押し倒された瞬間、それが何を意味するのかを理解したかのように、しなやかな身体を寝台の上へ沈めた。
次いで、後脚の筋肉が大きく盛り上がった。
黒い身体が、弾けるように宙へ躍り上がる。
狙われたのは、ヴァレリアだった。
「来ます!」
ヴァレリアは、叫ぶより早く盾を持ち上げていた。
黒豹の前脚が盾へ叩きつけられ、金属の表面を鋭い爪が引っかく、耳障りな音が響いた。かなりの重さが一度に腕へ加わり、ヴァレリアは思わず半歩後退したが、腰を落として踏みとどまり、盾の陰へ身体を収めた。
獣の口が大きく開かれ、白い牙が目の前へ迫った。
その息遣いが聞こえるほどの距離だった。
ヴァレリアは奥歯を噛みしめた。
恐ろしい。
そう思わないはずはなかった。彼女は聖職者として武装し、冒険者としての訓練も積んできたが、それでも目の前にいるのは、大きな獲物を一撃で仕留めるだけの力を備えた肉食獣なのである。
しかも、相手の動きは驚くほど速かった。
しかし、だからこそ、慌ててはいけなかった。
盾で受け止める。
身体を起こしすぎない。
獣の重さに引きずられず、足を使って踏みとどまる。
これまでセラリスから繰り返し教えられてきたことが、考えるより先に身体を動かしていた。
一方、もう一頭の黒豹は、ダリヤへ向かっていた。
寝台から床へ滑り降りるように着地した獣は、一度身体を低く沈めると、次の瞬間には黒い矢のように跳んだ。
「うわっ!」
ダリヤは、咄嗟に横へ飛んだ。
爪が外套の裾を掠め、布が引かれるような感触が走る。ほんのわずかに動くのが遅れていれば、あの爪は衣服ではなく、自分の身体へ食い込んでいたに違いなかった。
彼女は床へ片足をつくと、すぐに身を起こした。
黒豹は既に向きを変えようとしている。
その動きには、ためらいというものがなかった。獣はただ、目の前で逃げようとする者を追い、爪と牙で押さえ込もうとしているのである。
ダリヤは、腰の短剣へ手を伸ばした。
しかし、抜いた刃をそのまま相手へ向けることはしなかった。
黒豹は恐ろしい。
だが、ラヒブの寝室に飼われていた獣が、主人を守ろうとして襲いかかってきたのだとすれば、それだけで殺してよいと決めつけることもできなかった。
もっとも、そんなことをゆっくり考えている余裕は、ほとんどなかったが。
ベイクも、反射的に前へ出ようとした。
彼は人間として立派な体格を持ち、身につけたチェインメイルも、少なくとも獣の爪に対して、まったく無防備でいるよりは頼りになるものだった。
しかし、そこで自分が素手であることを思い出した。
腰へ手を伸ばしても、剣はない。
牢へ放り込まれたとき、武器は取り上げられてしまっているのである。
「……くそっ!」
ベイクは短く悪態をついた。
それでも、逃げようとはしなかった。
彼は、すぐ近くにいたハサリアンの肩を掴むと、強引に自分の背後へ押しやった。
「ハサリアン、下がれ!」
「しかし、君も――」
「お前には鎧もないだろう!」
ベイクは、少し怒ったように言った。
「俺にはまだこれがある。だから、お前は後ろにいろ!」
彼はチェインメイルの胸元を叩いてみせた。
実際、武器を持たないベイクが黒豹を相手にできることなど、たかが知れていただろう。しかし、簡素な衣服しか身につけておらず、長い拘禁で弱っているハサリアンを、そのまま獣の前へ立たせるわけにはいかなかった。
ベイクにとって、それは難しい理屈を必要とする判断ではなかった。
自分の方が丈夫な鎧を着ている。
ならば、自分が前に立つ。
ただ、それだけのことだったのである。
ハサリアンは何か言いかけたが、結局、口を閉じた。
彼自身、自分が今どれほど弱っているかを理解していた。いくらラヒブへの怒りが強くても、その怒りだけで黒豹の爪や牙を防げるわけではない。
ベイクの背後へ退きながら、彼は悔しそうに唇を噛んだ。
セラリスは、その様子を横目で確かめた。
「ミハイル!」
「はい!」
「ラヒブはそのまま押さえてて!」
「任せてください!」
ミハイルは、即座に答えた。
返事をしながらも、彼の手は緩まなかった。
ラヒブはまだ必死に身体を捻り、何とか拘束を振りほどこうとしていたが、ミハイルは相手の肩を床へ押さえつけ、もう一方の腕を動けない位置へ固定していた。
「ぐっ……貴様、離せ……!」
「だから、離さないって言ってるだろ!」
ミハイルは、ひどく迷惑そうに答えた。
ラヒブは何か魔法の言葉を唱えようとしたらしかったが、ミハイルが身体を押さえ直すと、呻き声が漏れただけだった。
「動くな。余計なことをしなければ、これ以上痛い目に遭わなくて済む」
ミハイルの声には、必要以上に相手を痛めつけようとする気配はなかった。
だが、逃がすつもりもなかった。
セラリスは、それを確認すると、ラヒブの身体へ絡みついている魔法の鞭から手を離した。
鞭は命じられた拘束を保ったまま、男の胴と腕を締めつけている。
そこへミハイルの圧倒的な筋力が加わっているのだから、少なくとも当分の間、ラヒブが隠し扉へ逃げ込む心配はないだろう。
セラリスは、赤い絨毯へ落としておいたソーンウォッチを拾い上げた。
「遅い」
剣が、低い声で言った。
「……今それ言う?」
「私を床へ落とした」
「あとで謝るから!」
「覚えておこう」
セラリスは、思わず眉を寄せた。
こういうときでも、ソーンウォッチはソーンウォッチだった。
もちろん、知性剣にしてみれば、自分を何の断りもなく手放し、絨毯の上へ落としたことが気に入らなかったのだろう。だが、セラリスにも事情があったのである。ラヒブを逃がさないためには、あの瞬間、鞭を使うのが最も確実だと判断したのだから、多少のことは我慢してほしかった。
もっとも、それを今ここで言い争っている余裕などなかった。
セラリスは、ソーンウォッチを握り直し、黒豹の方へ向き直った。
◇
ヴァレリアは、一頭の黒豹を盾で押し返していた。
獣は何度も前脚を振り上げ、盾の縁へ爪をかけようとしている。ヴァレリアはそのたびに身体の向きを変え、噛みつかれないよう注意しながら、何とか距離を保っていた。
一方、ダリヤを追っていた黒豹は、次の跳躍へ移ろうとしていた。
ダリヤは腰を低くし、相手の動きを見ていた。
相手は速い。
しかも、どこへ跳んでくるのかが読みにくい。
人間やエルフを相手にした訓練なら、足の向きや肩の動きから次の攻撃を予測することもできた。しかし、四足で動く獣には、人間とはまるで違う身体の使い方があるのである。
ダリヤは、その違いに戸惑いながらも、どうにか冷静さを保とうとしていた。
黒豹が低く唸った。
次いで、身体を沈める。
ダリヤは、その瞬間に横へ動いた。
黒い身体がすぐ脇を通り過ぎる。
彼女は短剣を握っていたが、刃先を相手へ向けるのではなく、鞘に収めたままの柄を使って獣の鼻面へ一撃を加えた。
手応えはあった。
しかし、それで黒豹が倒れるはずもなかった。
獣は一瞬だけ顔を背けると、すぐに牙を剥き、さらに激しい唸り声を上げた。
「……怒った!」
ダリヤが、思わず叫んだ。
「そりゃ怒るでしょう!」
ヴァレリアが、盾の向こうから言い返した。
ダリヤは、何とも言えない顔になった。
こちらとしては、できるだけ傷つけずに済ませようとしたのである。
しかし、そんな事情が獣にわかるはずもなかった。
黒豹は、鼻面を叩かれたことへ腹を立てたらしく、今度はさらに低く身体を沈め、ダリヤへ向かって牙を剥いた。
その動きを見たヴァレリアが、咄嗟に位置を変えた。
盾を前へ出し、獣とダリヤの間へ割り込もうとする。
ダリヤもそれを見て、同時に横へ退いた。
二人の動きには、何の打ち合わせもなかった。
しかし、それでも互いが何をしようとしているのか、何となく理解できていたのである。
少し前までなら、どちらかが相手の動きを妨げていたかもしれない。
あるいは、互いに助けようとした結果、かえって身体がぶつかってしまったこともあっただろう。
だが、今は違う。
ミスタメアで繰り返してきた訓練が、こういうときにこそ役に立つのだった。
仲間がどこへ動くのか。
誰が盾を出し、誰がそこから退くのか。
それを一瞬で判断し、互いの動きを邪魔しないようにすることが、今の二人には少しずつできるようになっていたのである。
セラリスは、そんな二人の動きを見ていた。
まだ危なっかしいところはある。
だが、以前に比べれば、ずいぶんよくなった。
少なくとも、互いが互いを助けようとして、二人揃って敵の前へ転がり出るようなことはなくなっている。
そのことを嬉しく思う余裕が、セラリスにはあった。
もっとも、今は感心して眺めている場合ではなかった。
彼女は、黒豹の動きを見定めると、すぐに間合いへ踏み込んだ。
獣が飛びかかった。
速い。
鍛えられた冒険者であっても、不意を突かれれば避けることが難しいほどの、鋭い跳躍だった。
しかし、セラリスには見えていた。
黒豹の後脚が床を蹴る瞬間も、肩から背中へかけて筋肉が動く様子も、そして、次にその爪がどこへ向かうのかも、十分に判断できたのである。
彼女は、身体を半歩だけ横へずらした。
黒い前脚が目の前を通り過ぎる。
同時に、握っていたソーンウォッチを返した。
刃は使わない。
柄頭を相手へ向け、跳躍の勢いで近づいてきた黒豹の側頭部へ、鋭く打ち込んだのである。
鈍い音がした。
黒豹の身体が大きく傾き、赤い絨毯の上へ転がった。
「一頭!」
ダリヤが叫んだ。
しかし、セラリスはすぐに首を振った。
「まだだよ!」
黒豹は、すぐに立ち上がろうとしていた。
ただし、その動きには先ほどまでの鋭さがなかった。
前脚を床へつき、頭を持ち上げようとするものの、足元が定まらないらしい。身体が左右へ揺れ、再び襲いかかろうとする気配はあるものの、思うようには動けない様子だった。
セラリスは、必要ならもう一撃加えられる位置を保ちながら、獣の様子を確かめた。
そのとき、もう一頭がヴァレリアへ飛びかかった。
盾が上がる。
獣の前脚が、その上へ叩きつけられようとした。
だが、その瞬間には、セラリスが横から踏み込んでいた。
「……ごめんね」
彼女は、小さく言った。
そして、ソーンウォッチを振るった。
やはり、刃は使わなかった。
銀の剣の平が、黒豹の頭部へ鋭く当たったのである。
獣の身体がぐらりと傾いた。
着地しようとした前脚が力を失い、そのまま絨毯の上へ崩れ落ちる。
黒豹は一度だけ身体を動かしたが、それ以上起き上がることはなかった。
ヴァレリアは、すぐに距離を取った。
「……大丈夫ですか?」
彼女が尋ねると、セラリスは頷いた。
「私は平気だよ」
「いえ、豹の方です」
「……あ、そっち?」
セラリスは、一瞬だけ目を瞬かせた。
そして、倒れた黒豹を見下ろした。
「うん。斬ってないからね。でも、ちゃんと息をしてるか確かめてくれる?」
「はい」
ヴァレリアはすぐに膝をつき、黒豹の胸の動きを確かめた。
大きな獣の身体は、まだ温かかった。
呼吸もある。
頭部へ強い打撃を受けたため意識を失っているらしいが、少なくとも命を落としたわけではなさそうだった。
ダリヤも、もう一頭の様子を確かめていた。
そちらはまだ意識があるらしく、低い唸り声を漏らしていたが、立ち上がる力は十分に戻っていないようだった。
「……先生、こっちも生きてます」
「よかった」
セラリスは、素直にそう言った。
ダリヤは、その返事を聞いて、少しだけ複雑そうな顔になった。
「……襲われた本人としては、ちょっと複雑ですけどね」
「それはそうだろうけど、あの子たちは飼われてただけかもしれないでしょう?」
セラリスは、床へ伏した黒豹を見た。
「ラヒブが命令して襲わせたのかもしれないし、単に主人を守ろうとしただけかもしれない。少なくとも、今すぐ殺さなきゃいけない理由はないと思うんだ」
ダリヤは、しばらく考えた。
そして、小さく頷いた。
「……まあ、それはそうですね」
彼女は短剣を鞘へ戻した。
ヴァレリアも、もう一頭の呼吸を確かめ終えると、顔を上げた。
「こちらも生きています。しばらくは様子を見た方がよいでしょうが、今のところ呼吸は安定しています」
「うん。ありがとう」
セラリスは頷いた。
今のところ、誰も死んでいない。
ラヒブは捕らえ、二頭の黒豹も殺さずに無力化できた。
それだけでも、十分に意味のある成果だった。
もちろん、これですべてが終わったわけではない。
むしろ、本当に重要なのは、これからだったのである。
◇
「ダリヤ!」
ミハイルの声が飛んだ。
振り返ると、ラヒブはまだ赤い絨毯へ押しつけられたままだった。
魔法の鞭に胴体と腕を絡め取られ、その上からミハイルの両手によって肩を固定されている。もはや最初の頃のように激しく暴れる力も残っていないらしく、ときおり身体を捻って抵抗しようとするものの、その動きはほとんど意味をなしていなかった。
「縄を頼む!」
「はいはい、今行きます!」
ダリヤは、すぐに腰の荷物を探った。
ベイクも、ハサリアンを背後へ庇っていた位置から、少し身体を起こした。
黒豹が二頭とも無力化されたことで、ようやく周囲を見渡す余裕が生まれたらしい。
「……おいおい」
彼は、ラヒブの様子を見て目を丸くした。
「ずいぶん派手に押さえ込んだな」
「逃げようとしたからな」
ミハイルは、あっさり答えた。
ベイクは、その両手へ目を向けた。
魔法の籠手が嵌められていることはわかったが、それがどれほどの力を与えるものなのかまでは知らない。
しかし、相手の身体を押さえている様子を見れば、ただの籠手ではないということくらいは理解できた。
ラヒブは、自分より遥かに若い人間の戦士に床へ押しつけられ、まるで動けなくなっているのである。
その光景は、いささか不思議でもあった。
「……重い……!」
ラヒブが、苦しげに呻いた。
ミハイルは、少し眉を寄せた。
「別に、全体重をかけてるわけじゃないぞ」
「……それで、これか……!」
ラヒブの声には、苦痛だけでなく、信じられないというような驚きも混じっていた。
彼にしてみれば、まさしく悪夢のような状況だったろう。
魔法の鞭に絡め取られ、床へ倒されたかと思えば、今度は人間の青年によって押さえ込まれたのである。しかも、その青年は特別に苦労している様子もなく、ただ両腕を使って身体を固定しているだけに見える。
なのに、どれほど抵抗しても動かない。
自分の力が突然失われてしまったかのような、ひどく屈辱的な感覚だったに違いなかった。
ダリヤは、その様子を見て、思わず笑った。
「……ガントレット、効きすぎですね」
「便利だよね、こういうときは特に」
セラリスが答えた。
その声には、少しばかり満足そうな響きがあった。
強力な魔法の武具というものは、必ずしも敵を斬り倒すためだけに役立つわけではない。
相手を殺さずに取り押さえるという場合にも、圧倒的な筋力は大きな意味を持つ。
ラヒブのように魔法を使う相手なら、なおさらだった。
下手に自由を与えれば、どのような術を使って逃げ出すかわからない。
しかし、こうして腕も身体も動けなくしてしまえば、少なくとも魔法を使うための身振りを行うことは難しくなるだろう。
もちろん、それですべての魔法を封じられるという保証はなかった。
だからこそ、できるだけ早く、確実に拘束を終える必要があったのである。
ダリヤは縄を取り出すと、ミハイルのそばへしゃがみ込んだ。
「……ミハイル、少しだけ力を緩めてください。腕を動かしますから」
「これくらいか?」
「はい。それで十分です」
ミハイルは、言われたとおりに力を調整した。
しかし、ラヒブは依然として動けなかった。
どうやら、ミハイルにとっての少し緩めるという行為は、ラヒブにとってはほとんど意味をなさなかったらしい。
ダリヤは、相手の手首を一つずつ取り、慎重に縄を回した。
ラヒブは何とか抵抗しようとしたが、そのたびにミハイルの手がわずかに動き、身体を元の位置へ押し戻してしまう。
「……動かないでくださいね。変に暴れると、かえって痛いですよ」
ダリヤが言った。
「貴様ら……!」
「はいはい。怒るのは縛られてからにしてください」
彼女は、少しも怯まなかった。
手首を固定し、腕の動きを制限し、それから足へ縄を回す。
逃亡を防ぐための拘束である以上、ただ縄を巻きつけるだけでは意味がない。自分で解けないように結び目を作り、無理に暴れても簡単には抜けないことを確かめる必要がある。
ダリヤは、その一つ一つを慎重に行った。
以前なら、強い敵を目の前にしてこれほど落ち着いて作業できたかどうかわからない。
しかし、今ではミハイルが相手を完全に押さえ込んでいることを理解していたし、セラリスもすぐそばで見守っている。
自分が慌てる必要はない。
ただ、確実に仕事を終えればよいのである。
やがて、最後の結び目が締められた。
「……できました」
ダリヤが顔を上げた。
セラリスは、縄の具合を一度確かめてから頷いた。
「うん。これなら大丈夫そうだね」
ミハイルも、ようやく身体を起こした。
ラヒブは、大きく息を吸った。
それまで赤い絨毯へ押しつけられていた身体が、ようやく少し自由になったのである。
もっとも、手足はすっかり縛られており、立ち上がることも逃げ出すこともできなかったが。
彼は荒い息を繰り返しながら、ミハイルを睨みつけた。
しかし、その視線に込められた憎悪は、もはや何の役にも立たなかった。
ミハイルは、少しも気にしていない。
剣を抜く必要さえなく、この男を捕らえることができたのである。
そのことに、彼は少なからぬ満足を覚えていた。
もちろん、力任せに相手を押さえつければよいという話ではない。セラリスが魔法の鞭で動きを止め、そこへ自分が飛び込んだからこそ、これほど容易に捕らえることができたのだ。
仲間の助けがあってこその成功だった。
そのことを、ミハイルはよく理解していた。
そして、できるだけ殺さずに済ませようという今回の方針が、現実に実を結んだことも、彼には嬉しかったのである。
◇
ラヒブが捕らえられたことで、寝室にはようやく静けさが戻り始めていた。
つい先ほどまで、黒豹の唸り声と、盾を打つ爪の音、ラヒブの怒声が激しく響いていた部屋である。しかし今では、二頭の黒豹は絨毯の上へ伏し、ラヒブも手足を縛られ、もう自由に動くことができない。
ヴァレリアは、倒れた黒豹たちの呼吸をもう一度確かめていた。
ダリヤは縄の余りを片づけ、ベイクは部屋の入口と隠し扉の方へ注意を向けている。ミハイルもラヒブのそばに立ち、もし男が何かを企んだとしても、すぐに押さえられるように備えていた。
その中で、ハサリアンだけは、しばらく動かなかった。
彼は、床へ倒されたラヒブを見つめていた。
その顔には、激しい怒りが浮かんでいる。
しかし、それだけではなかった。
怒りの奥に、何かもっと深く、暗いものが沈んでいたのである。
ハサリアンは、この男を捜すために神殿へ来たわけではない。
彼が神殿へ足を踏み入れたのは、ラハシアの父が戻らなかったからだった。
ラハシアが自分で神殿へ行こうとしたとき、彼はそれを止めた。自分が代わりに様子を見てくるから、村で待っていてほしいと頼んだのである。
そのときは、まさか自分まで捕らえられることになるとは思っていなかっただろう。
少なくとも、ラハシアの父がどこかに囚われているのなら、その居場所だけでも突き止めたいと考えていたはずだった。
しかし、彼は何も確かめられないまま牢へ入れられた。
そして、長い時間が過ぎた。
暗い石室の中で、彼は何度も考えただろう。
ラハシアは無事だろうか。
自分が戻らないことで、彼女はさらに悲しんでいるのではないか。
そして、彼女の父は、いったいどうなったのだろう。
その疑問に答えを得られないまま、彼は閉じ込められていたのである。
だが、今は違う。
目の前にいる。
ラヒブが。
自分たちを苦しめ、神殿を変え、ラハシアの父を行方不明にした原因と考えられている男が、今、自分の足元へ縛られているのである。
ハサリアンは、ゆっくりと歩き始めた。
まだ身体には疲労が残っていた。
長く食事を満足に与えられず、冷たい牢へ閉じ込められていた影響は、そう簡単には消えない。足元は完全には定まらず、ときおり身体がわずかに揺れたが、それでも彼は、誰かの手を借りようとはしなかった。
セラリスは、その様子を見ていた。
最初は声をかけようとした。
無理をしない方がいい。
まだ十分に回復していないのだから、今は少し離れて休んでいた方がいい。
そう言うこともできた。
しかし、ハサリアンの表情を見た瞬間、その言葉を飲み込んだ。
彼は、ただ怒っているのではない。
何かを聞こうとしている。
そして、その答えを聞くことが、何より恐ろしいと思っている。
そうした感情が、顔に浮かんでいたからである。
ハサリアンは、ラヒブの前で足を止めた。
ラヒブが顔を上げる。
二人の視線が、正面からぶつかった。
その瞬間、ハサリアンの表情が、さらに硬くなった。
目の前の男を殴りたいと思わなかったはずはない。
ラハシアを苦しめ、村を襲わせ、仲間たちを連れ去り、自分まで牢へ閉じ込めた男なのだ。
その顔へ拳を叩きつけたところで、誰が咎められようか。
しかし、ハサリアンは何もしなかった。
彼には、それより先に確かめなければならないことがあったのである。
「……ラヒブ」
低い声だった。
ラヒブは、何も言わなかった。
ハサリアンは、しばらくその顔を見つめていた。
怒りは、まだ消えていない。
しかし、今の彼にとって、怒りをぶつけることは、何より大切な目的ではなかった。
知りたかった。
ただ、それだけだった。
自分が助けようとしていた男が、どうなったのか。
ラハシアが帰りを待ち続けている父親は、まだ生きているのか。
その答えを、何としても聞き出さなければならなかった。
しかし同時に、ハサリアンは恐れていた。
もし、この男の口から、既に命を落としたという言葉が出てきたら。
もし、ラハシアへ持ち帰らなければならない知らせが、彼女をさらに深く悲しませるものだったとしたら。
そのとき、自分は何と言えばよいのだろう。
どうやって、あの娘の前へ立てばよいのだろう。
そのことを考えるだけで、胸の奥が冷たくなるようだった。
それでも、聞かなければならなかった。
知らないままでは、帰れないのである。
ハサリアンは、ゆっくりと口を開いた。
「……義父をどうした」
その声は、決して大きくなかった。
しかし、寝室の中にいた者たちの耳へ、はっきりと届いた。
ダリヤが、縄を片づけていた手を止めた。
ミハイルも、ラヒブの傍らからハサリアンへ目を向けた。
ヴァレリアは、黒豹のそばへ膝をついたまま顔を上げ、ベイクもまた、部屋の入口から視線を戻した。
そしてセラリスは、その問いを聞いた瞬間、胸の奥へ冷たいものが落ちてくるような感覚を覚えた。
義父。
ラハシアの父親である。
つい先ほどまで、ハサリアンはラハシアの父君と呼んでいた。
しかし今、彼は義父と呼んだ。
まだ結婚していないとはいえ、既に自分の家族となるはずの人物として、彼を受け止めているのだろう。
その思いが、短い言葉の中へ込められていた。
ハサリアンは、ラヒブから目を離さなかった。
「ラハシアの父君は、この神殿へ来たはずだ。お前がここへ入り込んでから何が起きているのか、確かめるためにな。あの方は、神殿の者たちと話をすれば、何かわかるかもしれないと言っていた」
彼は、一度息を整えた。
「だが、戻らなかった。私も捜しに来たが、捕らえられてしまった。だから、まだ何もわかっていない」
ラヒブは、黙っていた。
ハサリアンの声が、わずかに震えた。
「……答えろ。あの方をどうした」
その言葉には、先ほどまでの激しい怒りとは違うものがあった。
懇願にも似た、切実な響きだった。
ラヒブは、なおも答えなかった。
ただ、ハサリアンを見上げている。
その表情からは、何を考えているのか、容易には読み取れなかった。
セラリスは、その沈黙を見つめていた。
彼女の脳裏には、瞑想室で出会った亡霊の姿が、鮮やかに蘇っていた。
古いフレスコ画の前へ現れた、長身のエルフの男。
厳しいほど鋭い眼差しを持ちながら、その奥には深い優しさが宿っていた。
ラヒブの手によって、自分はここで朽ち果てたと告げた男。
そして、ラハシアの悲しみが自分を深く苦しめると語った、あの静かな声。
あの亡霊は、何者だったのだろう。
なぜ、あれほどラハシアを案じていたのだろう。
なぜ、亡くなったあとまでこの神殿へ留まり、セラリスたちが現れるのを待っていたのだろう。
その疑問が、今になって、急に別の重みを持ち始めていた。
もちろん、まだ答えが出たわけではない。
亡霊は名を明かさなかった。
ハサリアンも、その姿を見てはいない。
だからこそ、安易に同一人物だと決めつけるわけにはいかなかった。
しかし、ラヒブの沈黙を前にしていると、セラリスには、どうしても嫌な予感を拭い去ることができなかった。
もし、あの亡霊が。
もし、ラハシアの悲しみを、まるで自分自身の痛みであるかのように語ったあの男が、彼女の父親だったとしたら。
そう考えた瞬間、セラリスの胸が痛んだ。
ラハシアの顔が、思い出された。
薄いベールの下で、懸命に涙を堪えていた美しい娘。
父が帰ってこないことを語ったとき、指先を震わせながら、それでも自分たちへ助けを求めていた娘。
あの娘は、今もコタ・フタンで待っているのである。
父が帰ってくることを。
婚約者が無事に戻ることを。
そして、シルヴァとメリサも、再び村へ帰ってこられることを。
その願いのうちの一つを、既に叶えることができた。
ハサリアンは生きていた。
こうして今、自分たちの目の前に立っている。
しかし、もう一つの願いについては。
セラリスは、ラヒブから目を離さなかった。
男は何も言わない。
その沈黙が何を意味するのか、まだ断定することはできなかった。
だが、もし真実が、あの亡霊の姿と結びつくものであるならば。
自分たちは、ラハシアへ何を伝えなければならないのだろう。
そして、今目の前にいるハサリアンは、その事実をどのように受け止めるのだろうか。
セラリスは、静かに息を吸った。
ラヒブを捕らえることはできた。
黒豹たちも殺さずに済ませ、こちらの六人にも、今のところ大きな負傷はない。
それは、確かに勝利だった。
しかし、誰もがその勝利を喜べる状況ではなくなっていた。
赤い絨毯の上へ縛られたラヒブと、その前へ立つハサリアン。
二人を見つめながら、セラリスは改めて思った。
敵を倒すことと、誰かを救うことは、必ずしも同じではない。
どれほど力を持ち、どれほど巧みに戦い、相手を完全に無力化することができたとしても、既に失われたものが戻ってくるとは限らないのである。
だからこそ、知らなければならなかった。
ここで何が起きたのか。
ラハシアの父は、いったいどうなったのか。
そして、目の前の男が、そのことについて何を知っているのか。
ハサリアンは、もう一度、ラヒブへ問いかけた。
「……答えてくれ。義父は、どこにいる」
先ほどよりも、少しだけ声が低くなっていた。
そこには、怒りも、恐怖も、そして、それでもまだ希望を捨てきれずにいる者の切実さも込められていた。
ラヒブは、なおも口を閉ざしていた。
その沈黙の中で、セラリスは、瞑想室の亡霊が最後に見せた微笑みを思い出していた。
深い悲しみの中にありながら、ようやく誰かへ大切な願いを託すことができた者のような、静かな微笑みだった。
あのとき、自分はその意味を理解できなかった。
しかし今、ハサリアンの問いを聞き、ラヒブの沈黙を目の当たりにしていると、胸の奥で、まだ形を持たない一つの予感が、どうしようもなく重くなっていくのを感じずにはいられなかった。
そしてセラリスは、その予感が真実でなければよいと願いながらも、既にそう願わずにはいられなくなっていること自体が、何より恐ろしかったのである。