セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
ラヒブは、赤い絨毯の上へ手足を縛りつけられたまま、自分の前に立つハサリアンを見上げていた。
つい先ほどまで、彼は必死に逃れようとしていた。魔法の鞭に絡め取られ、ミハイルの《オーガパワー・ガントレット》によって床へ押さえ込まれたときには、あまりにも圧倒的な力の差に、恐怖と屈辱の入り混じった表情を浮かべていたのである。しかし、ひとたび逃走が不可能だと悟ると、その顔には奇妙なほどの落ち着きが戻っていた。もっとも、それは自分の置かれた状況を冷静に判断する者の落ち着きではなく、たとえ身動きできない状態へ追い込まれても、相手を見下すことだけはやめられない人間の、傲慢さから生まれたもののように見えた。
ハサリアンには、その表情が何より腹立たしかった。
ラヒブがコタ・フタンへ現れてから、神殿は変わってしまった。かつては村人たちの祈りと修行の場であり、シスワたちもまた同じ里に暮らす仲間だったというのに、今ではその者たちがラヒブの命令に従って村を襲い、知っているはずの相手へ平然と武器を向けるようになったのである。シルヴァとメリサは連れ去られ、ラハシアも危うく捕らえられるところだった。そして、事態を確かめようとした彼女の父親は戻らず、そのあとを追ったハサリアン自身も、冷たい地下の牢へ投げ込まれたのだった。
そのすべての原因となった男が、今、自分の目の前へ転がされている。
なのに、ラヒブの顔には悔恨らしいものが少しも見えなかった。
ハサリアンは、唇を引き結んだ。
「……義父をどうした」
もう一度、問いかけた。
その声には、怒りがあった。しかし、それ以上に、答えを聞きたいという切実な願いが込められていた。相手を罵ることも、殴りつけることも、今は後回しでよかった。ただ、ラハシアの父がどうなったのか、それを知らなければならなかったのである。
ラヒブは、わずかに眉を寄せた。
「義父?」
まるで、何のことを尋ねられているのかわからないという顔だった。
ハサリアンの胸に、さらに激しい怒りが込み上げてきた。あれほどのことをしておきながら、誰を捕らえ、どこへ閉じ込めたのかさえ覚えていないというのだろうか。
しかし、ラヒブはほんの一瞬考えたあと、何かを思い出したらしく、薄い笑みを浮かべた。
「ああ、あの頑固者か」
その言い方には、親しい者を思い出すような温かさなど欠片もなかった。扱いにくい道具か、従順でない召使いについて語るような、冷たく無造作な響きがあったのである。
「なら、一番隅の牢に入れてある」
ハサリアンの顔色が変わった。
牢。
その言葉は、彼の胸へ一瞬にして希望を呼び戻した。
少なくとも、ラヒブは義父をどこかへ閉じ込めたのだという。処刑したとも、殺したとも、まだ言っていない。ならば、あの地下牢のどこかで、今も救いを待っている可能性があるのではないか。
その思いにすがるように、ハサリアンは一歩前へ出た。
「生きているのか!」
声が、思いのほか大きくなった。
地下の寝室に、その問いが鋭く響いた。
ダリヤが顔を上げ、ヴァレリアも床へ伏した黒豹のそばから視線を移した。ベイクは、先ほどまで警戒していた東側の隠し扉から目を離し、ハサリアンの背中を見つめた。ミハイルもまた、ラヒブが妙な動きをしないよう注意を払いながら、答えを待った。
しかし、ラヒブは何も言わなかった。
ただ、薄く笑った。
その笑みを見た瞬間、ハサリアンの胸に生まれかけた希望は、凍りつくような恐怖へ変わった。
答えない。
生きているかと尋ねられているのに、答えようとしない。
それが何を意味するのか、理解したくなかった。
「……おい」
ハサリアンは、掠れた声で言った。
「答えろ。生きているのかと聞いているんだ」
ラヒブは、なおも黙っていた。
その沈黙を見つめていたセラリスの中で、それまで別々に存在していた幾つもの記憶が、突然、一つにつながった。
瞑想室。
森と山を描いた美しいフレスコ画。
その前へ淡い光とともに現れた、長身のエルフの亡霊。
刺し通すように鋭く、それでいて不思議なほど優しかった眼差し。
そして、今も耳の奥へ残っている、あの低く穏やかな声。
――ラヒブの手により、私はここで朽ち果てた。
――ラハシアの悲しみが、我を深く苦しめる。
セラリスは、そのときの男の表情を思い出した。
ラハシアという名前を口にした瞬間、あの亡霊の顔に浮かんだ悲しみは、同じ村に暮らす娘を案じる者のそれではなかった。もっと深く、もっと切実な、我が身のことさえ忘れて誰かを思わずにはいられない者だけが持つ痛みだったのである。
あのとき、なぜ気づかなかったのだろう。
いや、思い当たることはあった。
しかし、確かな証拠がなかったからこそ、軽々しく口にすることができなかったのだ。
だが、ラヒブが見せた今の笑みは、その不吉な想像に、ひどく現実味を与えるものだった。
セラリスは、静かに息を吸った。
そして、ラヒブへ向かって尋ねた。
「……殺してから、何日経ってる?」
ハサリアンが振り返った。
「セラリス殿……?」
その顔には、理解できないという表情が浮かんでいた。
何を尋ねているのだろう。
なぜ、まだ生きているかどうかも確かめていないのに、殺されたことを前提に話を進めるのだろう。
彼には、その問いがあまりにも残酷なものに聞こえたのである。
しかし、セラリスはハサリアンを見なかった。
ただ、ラヒブの顔を見つめていた。
ラヒブの方も、少し怪訝そうな表情になった。もっとも、隠す意味などないと考えたのか、あるいは死者が生き返ることなどあり得ないとでも思っているのか、さほどためらうこともなく答えた。
「まだ三日も経っていない」
その言葉が終わった瞬間、セラリスの表情が変わった。
先ほどまで眉間へ寄っていた皺が消え、金色の瞳に、何かを確かめた者だけが見せる鋭い光が宿ったのである。
「……よかった」
彼女は、思わずそう言った。
ハサリアンの顔が、苦痛に歪んだ。
「何が良い!」
怒声が寝室へ響いた。
それは、当然の反応だった。
つい今しがた、義父が殺されていたことを知らされたのである。しかも、その事実を語った男は何の痛痒も感じていないような顔をしており、救援に来てくれたはずのエルフの娘まで、殺されてからの日数を聞いてよかったなどと言い出したのだ。
怒らずにいられるはずがなかった。
「義父が殺されたんだぞ! ラハシアの父が、あの方が……!」
言葉が途切れた。
ハサリアンは、拳を握りしめたまま立っていた。
怒りに震えているのか、悲しみに震えているのか、本人にもわからなかった。
義父と呼んできた男の顔が思い浮かぶ。
ラハシアの将来を案じ、村のことを気にかけ、時には厳しいことも言いながら、それでも家族を大切にしていた人だった。神殿の異変を確かめに行くと言い出したとき、自分も止めるべきだったのではないか。無理にでも一緒に行けばよかったのではないか。あるいは、ラハシアを心配させまいと自分が神殿へ向かったとき、もっと慎重に行動していれば、何かを変えられたのではないか。
そんな後悔が、一度に胸へ押し寄せてきた。
しかし、セラリスは、その怒りを受け止めるように静かに彼を見た。
「ハサリアン、聞いて」
その声には、普段の気安さがなかった。
だが、冷たい響きでもなかった。
「三日経ってないなら、まだ間に合う可能性があるんだよ」
ハサリアンは、荒い息をした。
何を言われているのか、すぐには理解できなかった。
「……何に?」
ようやく、それだけを尋ねた。
セラリスは、彼の目をまっすぐに見た。
「死んだままにしないことに」
寝室の中が、静まり返った。
赤い絨毯の上では、二頭の黒豹がまだ動かずに横たわっていた。ラヒブも縛られたまま、セラリスを怪訝そうに見つめている。ミハイルも、ダリヤも、ヴァレリアも、ベイクも、誰一人としてすぐには言葉を発しなかった。
ハサリアンは、目の前の娘を見つめた。
死んだままにしない。
その言葉が、あまりにも自然に口にされたことが、かえって信じがたかった。
死とは、終わりである。
少なくとも、彼にとってはそうだった。
誰かが重傷を負えば、治療を施すことができる。病に倒れれば、薬草や聖職者の祈りに頼ることもできるだろう。しかし、ひとたび命を失った者については、残された者がどれほど悲しみ、どれほど帰ってきてほしいと願っても、二度と同じ声を聞くことはできないのだと、彼は考えていたのである。
もちろん、死者を蘇らせる高位の神聖魔法について、話として聞いたことがないわけではなかった。
しかし、それは遠い土地の神殿や、高位の聖職者たちにまつわる、ほとんど伝説のような話だった。まして、そのような奇跡を自分たちのような村の者が受けられるなどとは、考えたこともなかったのである。
ところが今、セラリスは、まるで重傷者の治療が間に合うかどうかを確かめるように、死後の日数を尋ねた。
しかも、その答えを聞いて、よかったと言ったのだ。
ハサリアンは、何かを言おうとした。
しかし、声が出なかった。
希望というものは、失われたあとで突然目の前へ差し出されると、すぐには受け取れないものなのかもしれなかった。
もし、その言葉を信じてしまったら。
もし、義父が戻ってくるのだと期待してしまったら。
そして、その期待が裏切られたなら。
今度こそ、自分は何を支えに立っていればよいのだろう。
その恐ろしさが、ハサリアンの胸を締めつけていた。
セラリスには、彼が何を感じているのか、ある程度わかるような気がした。
だからこそ、安易に大丈夫だとは言わなかった。
彼女は、まだ遺体を見ていない。
死因も、損傷の程度も、保存状態もわからない。
死後の日数だけで、すべてが決まるわけではないのである。
しかし、時間という条件についてだけは、まだ可能性が残されているらしかった。
ならば、確かめる価値がある。
それは、確かだった。
「ヴァレリア」
「はい」
「あとで一緒に遺体を確認しよう。どんな状態なのか、ちゃんと見ておきたいんだ」
ヴァレリアは、すぐに頷いた。
「わかりました。必要なことがあれば、お手伝いします」
彼女もまた、セラリスが何を考えているのか、おおよそ理解し始めていた。
死者を蘇らせるということは、普通の傷を治すように容易な仕事ではない。高位の神聖魔法を必要とする場合もあれば、遺体の状態や死者自身の事情によって、試みが成功しないこともあるだろう。
だから、まずは確認する。
そして、可能であれば必要な手段を整える。
その順番を守ることが、今は何より大切だった。
ハサリアンだけが、まだ二人の顔を交互に見つめていた。
「……本当に、できるのか」
ようやく、絞り出すように尋ねた。
セラリスは、少しだけ首を傾げた。
「できる可能性はあるよ。でも、まだ必ずとは言えない。遺体を見てからじゃないと、わからないこともあるからね」
その答えは、ハサリアンにとって、必ずしも満足できるものではなかった。
彼が欲しかったのは、義父が帰ってくるという確かな約束だったからである。
しかし、セラリスは約束しなかった。
できることと、必ずできることは違う。
それを曖昧にしたまま希望だけを与えれば、あとで取り返しのつかないほど深く、相手を傷つけることになりかねない。
セラリスは、そのようなことをしたくなかった。
それでも、何もできないと告げるしかなかった先ほどまでとは、状況が違っている。
ハサリアンは、その事実にようやく気づいたようだった。
彼はゆっくりと息を吐き、震える手を胸元へ当てた。
悲しみは消えていない。
義父が殺されたという事実も、少しも変わらない。
しかし、それまで完全に閉ざされていると思っていた道の先に、ほんのわずかな隙間が見えたのである。
そこから本当に光が差し込むのかどうかは、まだわからなかった。
けれども彼は、今、その可能性を捨てることができなかった。
セラリスは、そんなハサリアンの様子を見てから、再びラヒブへ顔を向けた。
その表情から、先ほどまでの柔らかさが消えていた。
「……さて」
彼女は、静かに言った。
そして、赤い絨毯へ縛られている男を見下ろした。
「今度は、あなたの話だよ」
◇
ラヒブは、セラリスを見上げていた。
その瞳には、警戒と軽蔑が奇妙に入り混じっていた。つい先ほどまで彼女を美しい娘と呼び、自分と共に来るよう誘っていたことなど、既に忘れてしまったかのようだった。
セラリスは、そんな相手の態度を気にする様子もなく、静かにしゃがみ込んだ。
「まず、シスワたちにかけた魅了を解いて」
ラヒブの眉が動いた。
しかし、答えるより早く、セラリスは続けた。
「それから、ここでやってることを全部やめること。もう村の人を襲わせないし、誰も連れ去らない。神殿から手を引いて、どこか遠くへ行くなら、命だけは助けてあげる」
その言葉を聞いて、ダリヤは思わずセラリスへ目を向けた。
ずいぶん寛大な条件だと思ったのである。
ラヒブは、ただ村へ迷惑をかけたというだけの男ではない。シスワたちを操って村を襲わせ、無関係な者を捕らえ、ラハシアの父を殺したことまで、今しがた認めたばかりなのだ。
そんな男に、ここから立ち去るなら命だけは助けると言う。
ダリヤには、それが少し意外だった。
しかし、すぐに思い直した。
自分たちは、ラヒブを殺すために来たのではない。
ラハシアたちを助けるために来たのである。
そのためには、シスワへかけられた魔法を解かなければならないし、今もどこかへ囚われている者たちの安全を確保しなければならない。もしラヒブ自身が魅了を解き、これ以上誰も傷つけないと約束するのなら、無理に戦い続ける必要はないだろう。
もちろん、この男を信用してよいかどうかは別の問題だった。
それでも、まずは相手がどのような返事をするのか、確かめる価値はある。
セラリスは、そう考えているのだろう。
ダリヤは何も言わず、ラヒブの顔を見つめた。
男は、しばらく黙っていた。
やがて、奇妙なほど落ち着いた声で答えた。
「それはできない」
セラリスは、少しだけ首を傾げた。
「……どうして?」
「私には使命がある」
ラヒブは、まるで誰もが知っていて当然のことを説明するような口調で言った。
「魔女を復活させることだ」
寝室の空気が、かすかに変わった。
ミハイルが眉を寄せ、ヴァレリアも顔を上げた。ダリヤは、魔女という言葉を聞いた瞬間、瞑想室に現れた亡霊の警告を思い出した。
ラヒブの背後には、より深い邪悪がある。
あの亡霊は、確かにそう言っていたのである。
ラヒブは、周囲の反応に気づいているのかいないのか、なおも言葉を続けた。
「私は、そのためにこの神殿へ来た。そのためにシスワを従え、必要な準備を進めてきたのだ。すべては、あのお方を再びこの世へ迎えるためであり、それを妨げることなど、私にはできぬ」
その声には、迷いがなかった。
少なくとも、本人はそう信じているらしかった。
自分の行為がどれほど多くの者を苦しめているのかについても、それによって誰かが命を失ったことについても、彼はほとんど関心を示さなかった。
ただ、自分には果たすべき使命があると語る。
その使命のためならば、ほかのすべては些細なことにすぎないとでもいうように。
「ゆえに、その命令は聞けないな」
ラヒブは、最後にそう言い切った。
セラリスは、黙っていた。
その沈黙を、ラヒブはどう受け取ったのだろう。説得を諦めたと思ったのか、それとも、自分の崇高な使命を聞いて相手が畏れ入ったとでも考えたのか、わずかに顎を上げ、薄い笑みを浮かべた。
しかし、セラリスの考えていたことは、彼が想像していたものとはまるで違っていた。
魔女を復活させる。
そのために神殿を乗っ取り、シスワたちを操る。
それだけなら、確かに狂信的な魔法使いや邪教の司祭が考えそうなことだった。
そうした者は、自分の目的を達成するためなら、平然と他人を犠牲にするだろう。神の名を唱える者もいれば、偉大な魔法の完成を口実にする者もいる。魔女を復活させることこそが自分の使命なのだと信じ込み、そのために死ぬことさえ恐れないという人間が存在したとしても、別に不思議ではない。
しかし。
セラリスは、首を少しだけ右へ傾けた。
何かが引っかかっていた。
ラヒブは、今、命を助けるという条件を提示されたのである。
しかも、それは単に投降すればよいという話ではない。シスワたちの魅了を解き、現在の企みをすべて放棄して、遠くへ立ち去れと言われているのだ。
彼が自分の意思で魔女の復活を目指しているのなら、その条件を拒否する理由は確かにあるだろう。
だが、その拒否の仕方が、何とも奇妙だった。
自分の信念について熱く語るわけでもない。
あのお方の偉大さを説き、他人を従わせようとするわけでもない。
ただ、使命だからできないという。
まるで、そういう答えを出すことが、最初から決められているかのように。
セラリスは、今度は首を左へ傾けた。
「……んん?」
ミハイルが、少し嫌な予感を覚えたような顔をした。
彼は、セラリスがこうして妙なものを見つけたときの表情を、何度も見てきたのである。
先生は、何か気づいたらしい。
しかし、それが何なのかは、まだわからない。
「……どうしました?」
ミハイルが尋ねると、セラリスは答えず、ラヒブの顔へ目を向けた。
それから、さらに身をかがめ、相手の瞳を近くから覗き込んだ。
「……ねえ」
「何だ」
「あなたも、魅了されてるんじゃない?」
ラヒブの顔が歪んだ。
「何を馬鹿なことを!」
「だって、変でしょう?」
セラリスは、少しも怯まなかった。
「あなた、今ここで殺されるかもしれないんだよ。それなのに、命を助けてあげるって言われても、魔女を復活させる使命があるから嫌だって言うんでしょう?」
「それが、どうした!」
「自分の意思で信じてるなら、そういう人もいると思うけどさ」
セラリスは、顎へ指を当てた。
「……ちょっと、引っかかるんだよね」
その言葉を聞いて、ヴァレリアが、はっとしたように顔を上げた。
「先生……」
「なに?」
「先ほどの亡霊が、おっしゃっていましたね」
部屋にいる者たちの視線が、彼女へ向いた。
「ラヒブは手駒の一つでしかなく、その背後には、もっと深い邪悪な存在がいると」
セラリスの金色の瞳が、わずかに細くなった。
「……言ってたね」
つい先ほどまで、彼女たちはその言葉を、ラヒブの背後に別の黒幕がいるという意味で受け取っていた。
ラヒブは自分の意思で悪事を働いているが、その上にはさらに強大な者がいて、彼を利用しているのだろうと考えたのである。
しかし、今のラヒブの言葉を聞いてみると、別の可能性が浮かび上がってくる。
手駒。
その言葉は、必ずしも、自分の意思で誰かへ仕える部下を意味するとは限らない。
意志を奪われ、命令に従わされている者もまた、使う側にとっては手駒なのだから。
ミハイルも、ようやくその意味に気づいたらしかった。
「……つまり、ラヒブがシスワたちを操っているだけじゃなくて……」
「そのラヒブ自身も、誰かに操られているかもしれないってことですか?」
ダリヤが、続きを言った。
ヴァレリアは、静かに頷いた。
「可能性は、あると思います」
六人の視線が、一斉にラヒブへ集まった。
男は、それまでの落ち着きを失い、顔を赤くした。
「馬鹿な!」
怒鳴りながら、身体を大きく捩った。
しかし、手足は縄で縛られ、魔法の鞭も胴へ絡みついている。そのうえ、すぐ近くにはミハイルが控えていた。
ラヒブが肩を起こそうとした瞬間、ミハイルは片手を伸ばし、再びその腕を床へ押さえつけた。
それだけだった。
ラヒブは、たちまち動けなくなった。
「……動くなって言ってるだろ」
ミハイルは、少し呆れたように言った。
ラヒブは歯を食いしばった。
「私は……私は、自らの意思で仕えている!」
その声には、先ほどまでの余裕がなかった。
「誰にも操られてなどおらぬ! あのお方こそ、私が生涯を捧げるべき偉大な存在なのだ!」
セラリスは、静かに首を傾げた。
「……その『あのお方』って、誰?」
ラヒブは、口を開いた。
しかし、すぐには答えなかった。
セラリスは、その顔をじっと見つめていた。
「名前は?」
「それは……」
「どこで会ったの?」
「私は……」
「何を約束されたの?」
ラヒブの顔が、少しずつ変わっていった。
最初に浮かんだのは、怒りだった。
自分の信仰を侮辱されたとでもいうように、眉が吊り上がり、口元が歪んだ。しかし、セラリスがさらに問いを重ねるにつれ、その怒りの下から、別のものが覗き始めたのである。
困惑だった。
彼は、自分が誰に仕えているのかを知っているはずだった。
何のためにこの神殿へ来たのかも、何を達成しなければならないのかも、よく理解しているつもりだった。
しかし、その相手の名を尋ねられると、答えが出てこない。
どこで出会ったのかと聞かれても、すぐに言葉にできない。
何を約束されたのかと問い詰められれば、なおさらだった。
セラリスは、その変化を見逃さなかった。
確かに、今の反応だけで魅了されていると断定することはできない。秘密を守るために黙っている可能性もあれば、何らかの誓約によって名前を明かせないということも考えられる。
しかし、そうした場合に見せる警戒や計算とは、少し違っていた。
ラヒブは、答えたくないというより、答えようとしても答えられないことへ戸惑っているように見えたのである。
「……ねえ、本当に自分の意思なの?」
セラリスは、声を低くした。
「誰のために何をしてるのか、ちゃんと説明できる?」
ラヒブの表情が、さらに歪んだ。
そして、その奥から、ほんの一瞬だけ別の感情が現れた。
恐怖だった。
自分でも理解していなかった何かを、突然他人から指摘された者のような、ひどく不安定な眼差しだった。
「……黙れ!」
ラヒブが叫んだ。
その声は、先ほどまでの傲慢な命令口調とはまるで違っていた。
そこには、何かを守ろうとする必死さがあった。
しかし、何を守ろうとしているのか、本人にもわかっていないのではないかと思わせるほど、その叫びは切迫していたのである。
セラリスは、それ以上問い詰めなかった。
むしろ、急に静かになった。
彼女はラヒブの顔から目を離すと、ゆっくりとヴァレリアへ向き直った。
「……ヴァレリア」
「はい」
「これ、かなり怪しくない?」
ヴァレリアは、真剣な顔で頷いた。
「はい。少なくとも、ラヒブが完全に自分の意思だけで行動していると決めつけるのは、危険だと思います」
その声には、慎重さがあった。
ヴァレリアもまた、ラヒブが犯した行為を忘れたわけではない。
この男は、実際に多くの者を苦しめた。
シスワたちを操り、村を襲わせ、囚人を閉じ込め、ラハシアの父の命まで奪ったのである。
しかし、だからといって、その行動のすべてが本人の自由な意思によるものだと決めつけてよいわけではなかった。
もし何者かによって心を縛られているのなら、この男もまた、ある意味では操られたシスワたちと同じ立場に置かれている可能性がある。
そして、それが事実ならば、単にラヒブを罰するだけでは、事件の根本は解決しないだろう。
ヴァレリアは、静かに息を吐いた。
何とも厄介な話だった。
だが、だからこそ、確かめる必要があった。
◇
「……じゃあ、この人も殺しちゃ駄目な方ですか?」
ダリヤが、少し困ったように言った。
セラリスは、思わず彼女を見た。
「……最初から殺すつもりなかったでしょう?」
「それはそうですけど」
ダリヤは、腰へ手を当てた。
「ただでさえ、シスワを殺さずに済ませなきゃいけなくて、牢の中から助けた人たちも連れて歩いてるんですよ。やっと一番悪そうな人を捕まえたと思ったら、今度はその人まで操られてるかもしれないなんて……」
彼女は、そこで大きく息を吐いた。
「……さらに面倒になったなって」
「それはそうだね」
今度ばかりは、セラリスも素直に同意した。
ミハイルが、少し苦笑した。
確かに、ダリヤの言うことにも一理あった。
自分たちは、ラヒブを捕らえれば事件の中心を押さえられるのではないかと思っていたのである。シスワを操っていたのがこの男なら、彼に魔法を解かせ、囚われた者たちを解放させれば、それでひとまず目的を果たせるはずだった。
しかし、今は事情が違ってきている。
ラヒブの背後に別の存在がいる。
しかも、その存在は、ラヒブ自身の心へまで影響を及ぼしている可能性があるのだ。
そうなれば、ラヒブを捕らえたことは大きな成果であっても、それだけで事件が終わるわけではない。
むしろ、ここから先が本当の問題なのかもしれなかった。
ベイクは、しばらく黙って話を聞いていた。
彼にとっては、何とも奇妙な話だった。
自分を牢へ放り込んだのは、ラヒブの配下らしいシスワたちである。そのラヒブは魔女を復活させようとしており、しかも当人まで誰かに操られているかもしれないというのだから、いったい何がどうなっているのか、すぐには理解できなかった。
しかし、一つだけわかることがあった。
この神殿では、見た目どおりに物事が動いているとは限らないらしい。
自分を捕らえたエルフたちも、もしかすると自分の意思ではなかったのかもしれない。
そして、そのエルフたちへ命令していたラヒブもまた、別の何者かに命令されていた可能性がある。
そう考えると、何とも気味の悪い話だった。
敵だと思っていた相手の背後に、さらに別の敵がいる。
しかも、その敵がどこにいて、何を考えているのかさえ、まだわからないのである。
ベイクは、思わず東側の隠し扉へ目を向けた。
そこは、ラヒブが最後に逃げ込もうとした場所だった。
その先に何があるのかは、まだわからない。
しかし、少なくとも、この男が何かを隠していることだけは、間違いなさそうだった。
一方、ハサリアンは何も言わなかった。
彼は、床へ縛られたラヒブを見つめていた。
怒りは、少しも消えていない。
義父を殺した男であることに変わりはないし、ラハシアを苦しめたことも、村を襲わせたことも、なかったことにはならない。
しかし、もし。
もし、この男自身の心まで、何者かに縛られていたとしたら。
そのとき、自分は誰を憎めばよいのだろう。
もちろん、ラヒブを許せるわけではなかった。
誰かに操られていたからといって、義父が殺された事実が消えるわけではない。ラハシアが流した涙も、神殿へ向かったまま帰ってこなかった人々の苦しみも、元に戻るわけではなかった。
だが、もし本当に、ラヒブが誰かの命令に従わされていたのなら。
その命令を与えた者こそが、すべての始まりだったのではないか。
そう考えたとき、ハサリアンは、胸の奥へ奇妙な虚しさが広がっていくのを感じた。
ようやく捕らえた。
自分たちを苦しめた男が、今、目の前にいる。
それなのに、その男を捕らえただけでは、まだ何も終わらないのかもしれない。
憎むべき相手が、また一つ、手の届かない奥へ遠ざかってしまったようだった。
彼は、ゆっくりと拳を開いた。
握りしめていた掌には、爪の跡が残っていた。
セラリスは、その様子を横目で見ていた。
ハサリアンの気持ちを思えば、今すぐラヒブへ怒りをぶつけたいと考えるのも無理はないだろう。
しかし、だからこそ、彼にはもう少し待ってもらわなければならなかった。
この男が何をしたのか。
何を知っているのか。
そして、どこまでが自分の意思によるものだったのか。
それを確かめる前に、すべてを終わらせてしまうわけにはいかないのである。
セラリスは、静かに立ち上がった。
「……予定変更だね」
その言葉に、ミハイルが顔を上げた。
「どうします?」
「まず、ラハシアのお父さんを確認しよう」
セラリスは、ハサリアンを見た。
「ラヒブが一番隅の牢だって言ったんだから、そこへ行って、遺体の状態を確かめたい。三日経ってないなら、まだできることがあるかもしれないからね」
ハサリアンは、ゆっくりと頷いた。
その顔には、悲しみと不安が残っていた。
しかし、先ほどまでの絶望だけに支配された表情ではなかった。
希望と呼ぶには、あまりにも頼りないものだったかもしれない。
それでも彼は、今度こそ義父を連れ帰ることができるかもしれないという可能性に、懸命にすがろうとしていたのである。
「……わかった」
声が、わずかに震えた。
「私も行く」
「うん。でも、無理はしないでね」
セラリスは頷いた。
それから、再びラヒブへ目を向けた。
「そのあとで、この人に何がかかってるのか調べよう。魅了なのか、別の魔法なのか、それとも本当に自分の意思でやってるのか。今のままじゃ、何も決められないからね」
ラヒブは、顔を歪めた。
「無駄だ!」
その声は、先ほどよりも激しかった。
「私は何者にも操られてなどおらぬ! そのようなことを調べたところで、何も変わりはしない!」
セラリスは、あっさりと答えた。
「それは、調べてから決めるよ」
ラヒブは、なおも何か言おうとした。
しかし、セラリスはもう相手にしなかった。
言い争っているだけでは、何もわからない。
本人が否定しているからといって、魅了されていない証拠にはならないし、使命について語る言葉が不自然だからといって、それだけで魅了されていると断定することもできないのである。
必要なのは、確かめることだった。
そして、それを行うための手段を、セラリスは持っている。
もちろん、どの方法が有効なのかは、実際に調べてみなければわからない。
魔法による精神支配なのか、何らかの呪いなのか、それとも、ラヒブ自身が長い時間をかけて信念を歪められてきたのか。
その違いによって、取るべき方法も変わってくるだろう。
だが、少なくとも、今の段階で結論を急ぐ必要はなかった。
ラヒブは捕らえられている。
そして、自分たちには、まだ時間がある。
セラリスは、そう考えていた。
◇
彼女は、開いたままの東側の隠し扉へ目を向けた。
そこは、ラヒブが最後に逃げ込もうとしていた場所だった。
寝室の壁へ巧妙に隠され、短い魔法の言葉によって初めて現れた扉である。その先に何があるのかは、まだわからない。
しかし、ラヒブが追いつめられたとき、迷わずそこへ向かったという事実は、覚えておく必要があるだろう。
あの扉の向こうには、彼にとって重要な何かがあるのかもしれない。
逃走路なのか。
秘密の部屋なのか。
あるいは、彼の使命とやらに関わる場所なのか。
今は、まだわからなかった。
セラリスは、もう一度、瞑想室に現れた亡霊の言葉を思い返した。
――ラヒブは、手駒の一つでしかない。
――その背後に、より深き邪悪がある。
そして。
――守護者たるドラゴンに会え。すべての事実を、彼より聞くがよい。
あのときは、単にラヒブの背後に、さらに強大な黒幕がいるという意味だと思っていた。
しかし、今では、それだけではない可能性が見え始めている。
手駒。
それは、自ら望んで誰かへ仕える者なのか。
それとも、自分の意思だと思い込まされながら、他人の望むままに動かされている者なのか。
もし後者であるなら、この神殿で起きていることは、セラリスたちが当初考えていたよりも、はるかに複雑なものになるだろう。
シスワたちはラヒブに操られている。
そのラヒブもまた、魔女と呼ばれる何者かのために行動している。
そして、その使命が本当に本人の意思によるものなのかどうかも、怪しくなってきた。
ならば、あの亡霊が語った守護者のドラゴンは、いったい何を知っているのだろう。
何を守っているのか。
なぜ、亡霊はその竜を友とせよと告げたのか。
セラリスには、まだ答えがなかった。
しかし、少なくとも一つだけ、はっきりしてきたことがある。
自分たちは、ラヒブという一人の男を倒せばすべてが終わる事件へ、足を踏み入れたわけではなかったらしい。
もっと奥に、何かがある。
神殿の闇の中で、幾人もの意思を絡め取り、別の目的へ向かって動かしているものが。
セラリスは、静かに息を吐いた。
そんな相手が本当にいるのなら、なおさら、急いで結論を出すべきではないだろう。
まず、ラハシアの父親を確かめる。
遺体の状態を調べ、可能な限り蘇生の手段を探す。
それから、ラヒブへかけられているかもしれない魔法を調べる。
そして、亡霊が会うように告げた守護者のドラゴンにも、話を聞かなければならない。
やるべきことは増えた。
しかも、どれも簡単に済む仕事ではなさそうだった。
セラリスは、少しだけ困ったような顔になった。
ミスタメアから出発したときには、ラヒブという男を捕らえ、操られているシスワたちを正気へ戻し、囚われた者を助け出せばよいと考えていたのである。
ところが、実際に神殿へ来てみれば、話は次々に複雑になっていく。
行方不明だったハサリアンは生きていた。
ラハシアの父親は殺されていたが、まだ蘇生の可能性が残されているかもしれない。
そして、ようやく捕らえたラヒブ自身も、何者かに操られている可能性があるというのだから、何とも厄介な話だった。
しかし、だからといって、今さら投げ出す気にはなれなかった。
むしろ、まだ救える可能性があるとわかった以上、確かめずに帰るわけにはいかないのである。
彼女は、ハサリアンへ目を向けた。
男は、ラヒブを見つめたまま、黙って立っていた。
その表情には、激しい怒りと深い悲しみがあった。
しかし、同時に、今にも消えてしまいそうな、かすかな希望も宿っていた。
義父を連れ帰れるかもしれない。
その可能性を、彼はまだ信じきれてはいなかった。
けれども、信じたいと願っている。
セラリスには、そのことがよくわかった。
そして、だからこそ、その願いを軽々しく扱いたくなかった。
「……ハサリアン」
彼女は、静かに声をかけた。
男が顔を上げた。
「まず、会いに行こう。ラハシアのお父さんに」
ハサリアンは、しばらく彼女を見つめていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……ああ」
短い返事だった。
しかし、その言葉を口にするまでに、彼がどれほどの感情を押し殺さなければならなかったのかは、誰の目にも明らかだった。
セラリスは、もう一度、東の隠し扉を見た。
亡霊は、ラヒブを手駒と呼んだ。
そして、その背後にいる邪悪について、守護者のドラゴンから真実を聞くよう告げたのである。
あの言葉は、どうやら自分たちが最初に考えていたよりも、ずっと文字どおりの意味を持っていたらしい。
そして、もしそうであるなら。
この神殿で救わなければならない者は、まだ自分たちが思っている以上に多いのかもしれなかった。
セラリスは、床へ縛られたラヒブをもう一度だけ見下ろした。
彼が犯した罪は、決して軽いものではない。
しかし、その男の意思までもが、何者かによって奪われていたのだとしたら、話はさらに複雑になる。
それを確かめるためにも、今はまだ、この男を生かしておく必要があった。
そして何より、ラハシアの父については、一刻も早く確かめなければならなかった。
時間は、待ってくれない。
死後三日も経っていないという事実が、もし本当に蘇生の可能性を残しているのなら、そのわずかな猶予を、無駄にするわけにはいかないのである。
セラリスは、静かに顔を上げた。
その金色の瞳には、もう迷いはなかった。
まず、目の前で救えるかもしれない命を救う。
そして、わからないことは、確かめる。
そのために必要ならば、魔女の名を追うことも、守護者のドラゴンへ会うことも、ためらうつもりはなかった。
ただし、今は順番を間違えてはならない。
彼女は、そう考えながら、ミハイルたちへ次の行動を指示し始めたのである。