セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
ベイク・テラーは、コタ・フタンの広場の端に腰を下ろし、借り受けた水筒からひと口飲むと、ようやく人心地がついたというように長く息を吐いた。
秋の気配が少しずつ深まりつつある森には、まだ夏の名残を思わせる陽光が降り注いでいたが、木々の梢には黄や赤の色が混じり始め、風が吹くたびに、乾いた葉の擦れ合う音がどこからともなく聞こえてきた。広場の向こうにはカラーリー・エルフたちの住居が点在し、さらにその先には深い森が広がっている。その森を越えたところに、灰色の山が独立峰らしい堂々とした姿を見せており、午後の光を浴びた岩肌は、その名のとおり鈍い灰色へ輝いていた。
あの山の麓に、問題の神殿がある。
ほんの少し前まで、ベイク自身もその地下深くへ閉じ込められていたのである。
思い返してみれば、何とも馬鹿馬鹿しい話だった。
イラルアムから遠くカラメイコスまで旅をしてきたのは、何もエルフの神殿の牢獄へ入れられるためではなかった。彼には彼なりに異国を旅する理由があり、まだ見ぬ土地への興味があり、腕一本でどこまでやれるかを試してみたいという、若い戦士らしい気負いもあった。それが、森の中で道を見失い、たまたま見つけた祠へ踏み込んだばかりに、訳のわからぬ場所へ転送され、あれよあれよという間に侵入者として捕らえられてしまったのだから、運が悪かったとしか言いようがない。
しかも、牢へ入れられた理由が、立ち入り禁止の場所へ入ったからだというのである。
そんなことは知らなかったし、仮に注意書きが掲げられていたとしても、土地の言葉で書かれていれば読めたかどうかも怪しい。少なくともベイクとしては、警告も説明もないまま捕まえられたことについて、いまだに納得していなかった。
しかし、今となっては、そのことも旅の途中で起きた面倒な出来事の一つとして、笑い話にしてしまえそうだった。
何しろ、彼は生きている。
牢から出ることもできた。
そして、自分を助け出してくれた連中は、どうやら相当に腕の立つ冒険者たちらしかった。
しかも、その冒険者たちは、いまだ神殿へ囚われている者たちを助けるため、もう一度あの山へ戻るつもりだという。
普通なら、ここで礼を言って別れるべきなのだろう。
奪われた荷物と槍を取り返すことができたなら、あとは一刻も早くあの神殿から離れ、自分の旅へ戻る。それが、危険を避けるという意味では、最も賢明な選択であることくらい、ベイクにもわかっていた。
だが、彼はそういう男ではなかった。
そもそも、危険を避けて平穏に暮らしたいのであれば、わざわざ故郷を離れて異国の山野など歩き回ってはいない。未知の土地へ踏み込み、見知らぬ相手と出会い、ときには厄介事に巻き込まれながら、それでも先へ進んでみたいと思うからこそ、彼はここまで来たのである。
それに、あの神殿にはまだ、囚われている者がいるという。
ラヒブという男は捕らえられたものの、シスワと呼ばれるエルフの修行者たちは、依然として何者かに心を操られている可能性があり、そのラヒブ自身も、さらに別の存在によって利用されていたのかもしれない。
おまけに、神殿のどこかには財宝を守るドラゴンまでいるらしいというのだから、何とも恐ろしく、同時に冒険者の好奇心を刺激する話ではないか。
ベイクは水筒の栓を閉めると、隣へやって来たセラリスを見上げた。
「……ここまで来たんだ。最後まで付き合うぜ」
セラリスは、少し意外そうに彼を見た。
「いいの? もう牢から出られたんだし、無理して付き合わなくてもいいんだよ」
「俺が、無理をしてるように見えるか?」
「ううん。あんまり見えないね」
「だろう?」
ベイクは、満足そうに鼻を鳴らした。
「だいたい、俺をあんなところへ放り込んだ連中が、まだ神殿の中で好き勝手やってるんだろう? そいつらが何を企んでるのか、最後まで確かめてみたいじゃねえか」
「……冒険者気質だねえ」
セラリスは、少し笑った。
ベイクは肩をすくめた。
「祖国を離れて、こんな遠くまで来るような奴に言うことか、それ」
セラリスは、少し考えた。
確かに、言われてみればそのとおりだった。
イラルアムからカラメイコスまで、何の危険も冒さずに来られるわけではない。途中にはさまざまな国があり、山や川があり、ときには盗賊や怪物が出る街道もあるだろう。それでも一人で旅を続けてきたというのなら、もともと相当な好奇心と行動力を持っているに違いなかった。
「……それもそうか」
「そうだろう」
ベイクは、得意そうに笑った。
そのやり取りを聞いていたダリヤが、少し離れたところで小さく肩をすくめた。
「……なんだか、セラリスさんと気が合いそうですね」
「どこが?」
セラリスが振り返った。
ダリヤは、いかにも当然のことを指摘するような顔で答えた。
「知らない場所を見つけたら、とりあえず入ってみたくなるところです」
「私はちゃんと罠を確認してから入るよ」
「……違いはそこだけなんですか?」
「そこ、大事でしょう?」
「大事ですけど!」
ダリヤは、何とも言えない顔になった。
セラリスは少し不思議そうだったが、ベイクはそんな二人を交互に眺め、やがてミハイルへ顔を向けた。
「……お前ら、普段からこんな調子なのか?」
ミハイルは、少し考えてから答えた。
「だいたい、こんな感じだな」
「……そうか」
ベイクは、妙に納得したように頷いた。
ミハイルは、それを見て小さく笑った。
確かに、ベイクとセラリスには少し似たところがあるのかもしれない。
ただし、セラリスの場合は、好奇心の赴くままに動いているように見えて、実際には危険を避けるための準備をかなり周到に行っている。初めて訪れる場所であっても、何が危険なのか、どこへ退けばよいのか、何かあったときにはどう対処するべきなのかを、できるだけ事前に考えているのである。
そのあたりをベイクが理解するまでには、もう少し時間がかかるかもしれなかった。
しかし、少なくとも彼がセラリスたちへ同行する意思を固めたことだけは、間違いなさそうだった。
◇
広場から少し離れたところにある空き家では、ラヒブが厳重に監禁されていた。
村人たちの監視のもと、男は手足の自由を制限され、魔法を使うための動作もできるだけ封じられている。神殿で捕らえたときのように、床へ押さえつけたままにしておく必要はなかったが、だからといって油断してよい相手ではなかった。
ラヒブは魔法を使う。
しかも、単に人を傷つける魔法だけではなく、他人の意思へ干渉する術を用いている可能性が高かった。そうした相手を拘束する場合、剣や槍を取り上げるだけでは十分とは言えないのである。
セラリスは、村人たちへ警戒の必要を説明し、監視の者が一人きりにならないようにも頼んでいた。
そして、ラヒブが所持していた武具も、すべて取り上げてある。
メイス。
黒衣の下へ着込んでいた、魔法の力を宿すチェインメイル。
その他、戦闘や逃走へ利用できそうな装備品も、捕虜本人の手が届かない場所へ移されていた。
もっとも、ラヒブが本当に何者かに魅了されているのか、それとも自分の意思で魔女の復活を目指しているのかは、まだ判明していない。
その疑問については、セラリスも気になっていた。
しかし、今は何より優先しなければならないことがあった。
ラハシアの父親を、スレスホールドへ運ぶことである。
村の一角では、神殿から運び出された村長の亡骸が、丁寧に布で包まれて安置されていた。
そのそばには、ラハシアとハサリアンが座っている。
ラハシアは、父の手があるあたりへ何度も触れていた。
布越しに伝わってくる感触は、冷たかった。
何度触れても、温かくなることはない。
彼女は、父の手がどのようなものだったかを、よく覚えていた。
幼い頃には、その手に引かれて森の道を歩いたこともあった。何かを教えられたときには、厳しい顔で見つめられたこともあれば、失敗して落ち込んでいるとき、黙って肩へ手を置いてくれたこともあった。
あの手には、いつも温かさがあった。
それが今は、布の向こうで少しも動かず、冷たいまま横たわっているのである。
ラハシアは、父が死んだと聞かされたとき、すぐには信じられなかった。
ハサリアンが戻ってきた。
それだけでも、胸がいっぱいになるほど嬉しかったのだ。
神殿へ向かったまま行方の知れなかった婚約者が、こうして生きて帰ってきたのである。彼の顔を見たとき、ラハシアはどれほど安堵したことだろう。
しかし、その喜びの直後に、父の亡骸を見せられたのだった。
セラリスたちは父を見つけた。
けれど、もう生きてはいなかった。
その事実は、どれほど時間が経っても、ラハシアの胸へ現実として収まりきらないようだった。
しかし、彼女を完全な絶望へ落とさずにいるものが、一つだけあった。
セラリスの言葉だった。
まだ三日も経っていない。
それなら、間に合う可能性がある。
あの黒髪のエルフは、確かにそう言ったのである。
ラハシアは、布に包まれた父の手へ触れながら、その言葉を心の中で繰り返していた。
信じたい。
けれど、信じてしまうことが怖かった。
もし、どれほど急いでも間に合わなかったら。
もし、死者を蘇らせるという奇跡が起きなかったら。
そのとき自分は、もう一度、父を失わなければならないのである。
それでも彼女は、そのかすかな可能性へすがらずにはいられなかった。
ハサリアンは、そんなラハシアの隣へ座り、彼女の手をそっと包んでいた。
自分もまた、まだ疲労から完全に回復したわけではない。地下牢で過ごした時間は短いものではなく、満足な食事も与えられなかったため、身体には重い倦怠感が残っている。
しかし、今は自分の疲労など、どうでもよかった。
ラハシアが、こうして隣にいる。
自分も生きて戻ることができた。
そして、義父もまた、もう一度帰ってこられるかもしれないのである。
その希望だけが、今の二人を支えていた。
少し離れたところから二人の姿を見ていたセラリスは、静かに息を吐いた。
だからこそ、急がなければならなかった。
できる可能性があることを、いつまでも可能性のままにしておくわけにはいかない。
◇
「……それで、先生。どうするんです?」
ミハイルが、セラリスへ近づいて尋ねた。
セラリスは、待っていたように頷いた。
「私とラハシア、それからハサリアンで、スレスホールドへ行くよ」
彼女は指を折りながら続けた。
「もちろん、村長の身体も一緒にね。生きている人が三人と、村長を合わせて四人。まずはアリーナのところへ運ぶつもり」
ハサリアンが顔を上げた。
「……義父の身体も、空を運ぶのか?」
「うん。そのために行くんだよ」
セラリスは、あっさりと答えた。
「アリーナなら、死後十二日までなら《死者蘇生》を試せるんだ。ラヒブの話が正しいなら、まだ三日も経ってないでしょう? だから、時間の条件にはかなり余裕があると思う」
ラハシアの指先に、わずかに力が入った。
「……十二日」
彼女は、ほとんど自分自身へ言い聞かせるように呟いた。
父が死んでから、まだ三日も経っていない。
そして、その奇跡を行えるという聖職者は、死後十二日までなら蘇生を試みることができる。
それが事実ならば、確かに時間は残されているのだろう。
しかし、彼女にはその数字の意味を、まだ十分に理解することができなかった。
ただ、一度失われた命を取り戻せるかもしれないという、信じがたい話だけが、胸の中で大きくなっていくのだった。
「……父は、本当に……」
ラハシアが、震える声で尋ねた。
最後まで言えなかった。
だが、何を尋ねたいのかは、セラリスにもわかっていた。
彼女は、ラハシアの前へしゃがみ込み、目の高さを合わせた。
「蘇生できる可能性は高いと思うよ」
その声には、慎重さがあった。
「でも、絶対とは言わない。実際にやってみないとわからないこともあるからね」
ラハシアは、黙って頷いた。
セラリスが確かな約束をしようとしないことは、彼女にも理解できた。
むしろ、根拠もなく必ず生き返ると言われるより、その方が信じられるような気がしたのである。
しかし、セラリスの説明は、それだけでは終わらなかった。
「それとね。もし《死者蘇生》が成功しても、すぐに元気になるわけじゃないんだ」
ラハシアが顔を上げた。
「……どういうことですか?」
「死から戻った直後は、身体がものすごく弱ってるんだよ。ほとんど動けないくらい衰弱してるし、生命力もぎりぎりまで落ちてる。だから、蘇生できたとしても、丸二週間は寝台で休ませないといけないんだ」
セラリスは、二人の顔を順に見た。
「歩けるようになったからって、すぐに動かしたりしないでね。食事も少しずつにして、身体の状態を確かめながら戻していかなきゃいけない。アリーナの言うことをちゃんと聞いて、無理をさせないこと」
ハサリアンは、すぐに頷いた。
「……なら、私が付き添う」
「私もです」
ラハシアも、ほとんど同時に答えた。
二人の顔には、迷いがなかった。
父がもう一度生き返るというのなら、二週間でも一月でも、必要なだけそばにいるつもりだったのである。
セラリスは、その返事を聞いて、少し笑った。
「うん。そのつもりだったよ」
しかし、すぐに表情を引き締めた。
「だからね。もし蘇生が成功したら、二人ともお父さんと一緒にスレスホールドへ残って」
ラハシアは、少し驚いたように目を瞬かせた。
「……でも、村は?」
「今は、むしろここに戻ってくる方が危ないよ」
セラリスは、灰色の山へ顔を向けた。
秋の陽光を受けた岩肌は、遠くから見れば何とも穏やかなものだったが、その麓には、まだラヒブの企みの痕跡が残されているのである。
シスワたちは完全に正気へ戻ったわけではない。
シルヴァとメリサも、依然として行方がわからない。
そして何より、ラヒブの背後にいるという邪悪な存在の正体が、まだ判明していなかった。
「ラヒブを捕まえたからって、全部終わったわけじゃないでしょう? あの人自身が何かに操られてる可能性もあるし、まだ何が起きるかわからないんだよ」
セラリスは、静かに続けた。
「そんなところへ、蘇生したばかりでほとんど動けないお父さんを連れて戻るわけにはいかないでしょう。スレスホールドならアリーナもいるし、身体が回復するまで安心して休ませられると思うんだ」
ラハシアは、何も言わなかった。
自分の村を離れることには、もちろん不安があった。
ここには家があり、知っている人々が暮らしている。
神殿へ連れ去られた者たちも、まだ戻ってきてはいないのである。
そのような状況で自分たちだけ村を離れ、父の看護へ専念してよいものだろうか。
そんな思いが、胸の奥をよぎった。
しかし、セラリスの言うことが正しいのも、よくわかっていた。
もし父が蘇生できたとして、その身体はひどく弱っているという。再び危険が迫ったとき、自分たちだけでは守りきれないかもしれない。
それなら、安全な場所で十分に休ませるべきなのだろう。
ハサリアンも、同じことを考えたらしかった。
「……わかった」
彼は、静かに頷いた。
「義父上が戻られたなら、私が必ずお世話をする。ラハシアにも、これ以上危険な思いはさせたくない」
「うん。それでいいと思う」
セラリスは、少しだけ表情を和らげた。
ラハシアも、ようやく頷いた。
「……お願いします。父を、どうか」
「うん。急ごう」
セラリスは、そう答えた。
それは奇跡を約束する言葉ではなかった。
しかし、今できることをすべて行うという意思だけは、はっきりと込められていた。
◇
セラリスは、村長の亡骸を運ぶための準備が進められていることを確かめると、腰の荷物から小さな笛を取り出した。
見た目には、特別に華美なものではなかった。普通の旅人が携える小さな呼び笛と大きく変わらず、知らない者が見れば、鳥を呼ぶための道具か、あるいは仲間へ合図を送るためのものだと思うだろう。しかし、そこには魔法が込められており、吹いたときに生じる音は、人間やエルフの耳にはほとんど届かず、竜にだけ聞こえる特別な響きとなって、遠くまで伝わるようになっていた。
セラリスは笛を唇へ当てた。
短く、息を吹き込む。
周囲の者たちには、かすかな空気の震えが感じられた程度だったが、笛は確かに働いていた。目には見えぬ呼び声が、秋の空気の中へ広がり、森を越え、山並みの向こうへと伝わっていく。
セラリスは笛をしまうと、空を見上げた。
ヴァルザリオンは、呼び声が届けば来てくれるはずだった。
もっとも、いかに竜であるとはいえ、呼ばれた瞬間にその場へ現れられるわけではない。今どこを飛んでいるのかによって、到着までの時間は変わるだろう。
それでも、地上を歩いて迎えを呼びに行くことを考えれば、比較にならないほど早い。
セラリスは、空に薄く流れる雲を見つめながら、何より時間が惜しいのだと、改めて思っていた。
そんな彼女の隣で、ベイクが何かを思い出したように口を開いた。
「……で」
「なに?」
セラリスが振り返った。
「その、ヴァルって奴は誰なんだ?」
セラリスは、少し首を傾げた。
それから、もう一度空を見上げた。
「あ」
「……何だ?」
「来たよ」
ベイクも、つられるように空へ目を向けた。
「……来た?」
最初に見えたのは、青空の一角に浮かんだ、小さな黒い点だった。
それだけなら、遠くを飛ぶ鳥と見間違えても不思議ではないほど小さな影である。しかし、その点は見る間に大きくなり、やがて横へ大きく広がった形が、何か巨大な翼を持つ生き物であることを示し始めた。
ベイクは、目を細めた。
何かが飛んでくる。
それはわかった。
しかし、近づくにつれて明らかになってくる輪郭が、どうにも普通ではなかった。
翼がある。
しかも、鳥のような羽毛に覆われた翼ではない。
大きく広がった膜状の翼だった。
その間には長い首が伸び、胴体の後方には、鞭のようにしなやかな尾が続いている。四肢は逞しく、頭部には鋭い角と突起が見えた。
そして、その全身を覆っているものが、陽光を受けて深い緑色へ輝いた。
ベイクの表情が、ゆっくりと変わった。
「……おい」
誰も答えなかった。
空の影は、さらに大きくなってくる。
その巨大さがわかるにつれ、ベイクは次第に言葉を失っていった。遥か上空にあるはずなのに、翼を広げた姿は既に並の建物よりも大きく見え、しかもその翼が一度動くたびに、巨大な身体が信じがたいほど滑らかに空を進んでいくのである。
彼は、これまでにも旅の途中でさまざまな怪物の話を聞いてきた。
砂漠には砂漠の危険な生き物がいるし、山岳には山岳の怪物がいる。イラルアムで暮らしていた頃にも、竜についての伝承を耳にしたことはあった。
しかし、話として聞くことと、それが現実に自分の頭上へ現れることとは、まるで違っていた。
何しろ、あの巨大な生き物が、こちらへ向かって飛んできているのである。
ベイクは、口を半ば開いたまま立ち尽くした。
「ど……ど、ど……」
ヴァルザリオンが翼を傾けた。
その動きに従って巨大な身体が旋回し、深緑の鱗が秋の日差しを反射して、美しい光を放つ。
大きな影が、村の上空を横切った。
ベイクは、ようやく声を取り戻した。
「ドラゴンじゃねえか!」
「うん」
セラリスは、平然と頷いた。
ベイクは、信じられないという顔で彼女を見た。
「……うん、じゃねえだろ!」
「だって、人間だとは言ってないもの」
「そういう問題じゃねえ!」
ベイクは、ほとんど叫んでいた。
セラリスは、少し不思議そうに瞬きをした。
確かに、自分はヴァルザリオンが竜であることを、まだ説明していなかったかもしれない。しかし、それは別に隠していたわけではなかった。単に、説明する前に本人が到着してしまっただけなのである。
しかも、彼女にとってヴァルザリオンは、今さら特別に恐ろしい存在ではなかった。
一緒に話をし、ときには冗談を言い合い、空を飛ぶときには背へ乗せてもらう、気心の知れた友人だったのである。
そのため、相手がドラゴンであること自体を、わざわざ重大な事実として告げなければならないという発想が、少しばかり欠けていたのだった。
しかしベイクにしてみれば、たまったものではない。
ミスタメアから助けに来た冒険者たちが、ヴァルという友人を呼べば早く移動できると言うので、どんな人物なのかと思っていたら、現れたのは巨大なグリーンドラゴンだったのだ。
そんな話を、誰が当然のこととして受け入れられよう。
彼は、ダリヤの方を見た。
彼女は、既に顔を背けていた。
しかし、肩が小刻みに震えている。
どうやら笑いを堪えているらしかった。
ミハイルも、口元を引き締めていたが、こちらも明らかに笑うのを我慢していた。
「……お前ら、知ってたな!」
「もちろんです」
ヴァレリアが、穏やかに答えた。
「じゃあ、何で教えねえんだよ!」
「聞かれませんでしたから」
ミハイルが答えた。
ベイクは、呆然と彼を見た。
それから、両手を大きく広げた。
「普通、『ヴァルって奴は人間なのか、それともドラゴンなのか』なんて確認しねえだろ!」
「……それはそうですね」
ヴァレリアが、真面目に頷いた。
ベイクは、ますます顔をしかめた。
「同意するなら先に言え!」
とうとうダリヤが、堪えきれずに小さく吹き出した。
何とも気の毒な話ではあったが、ベイクがこれほど素直に驚くとは思っていなかったのである。
しかも、本人は本気で怒っている。
それが、かえっておかしかった。
しかし、ベイクがさらに文句を言おうとしたところで、ヴァルザリオンが村外れの草地へ向かって高度を下げ始めた。
巨大な翼が空気を掴み、地上へ向かって強い風を送り始める。
草が一斉に伏せ、乾いた葉が巻き上がり、土埃が広場の端まで流れてきた。
「うおっ!」
ベイクは、慌ててターバンを押さえた。
風が外套を激しくはためかせ、足元の砂埃が舞い上がる。村人たちは、既に一度ヴァルザリオンの来訪を経験していたため、慌てて逃げ出すことこそなかったが、それでも子供たちを建物の陰へ下がらせ、着地する草地の周囲へ人が近づかないよう注意していた。
やがて、若き緑竜王が地上へ降り立った。
大きな四肢が草地を踏みしめ、翼がもう一度だけ広がったあと、ゆっくりと畳まれる。
深緑の鱗に覆われた巨体が、秋の陽光を受けて堂々と立っていた。
ベイクは、思わず息を呑んだ。
空を飛んでいるときにも巨大だと思ったが、こうして地上へ降りた姿を目の当たりにすると、その威圧感はさらに大きかった。
長い首。
逞しい四肢。
鋭い爪。
そして、自分など一呑みにできてしまいそうな、大きな口。
これほどの生き物が、今、目の前にいるのである。
しかし、ヴァルザリオンはベイクのことなど、最初はまるで気にしていなかった。
長い首を伸ばし、まずセラリスを見た。
「呼んだな」
「うん。急ぎなんだ」
セラリスは、いつものように答えた。
そのあまりにも自然なやり取りに、ベイクは改めて驚かされた。
グリーンドラゴンが喋った。
それだけでも驚くべきことのはずなのに、目の前のエルフの娘は、まるで知り合いの商人や旅人へ話しかけるような調子で返事をしているのだから。
ヴァルザリオンは、そんなベイクへようやく目を向けた。
「……知らない人間がいるな」
「ベイクだよ」
セラリスが紹介した。
「神殿の牢に入ってたの」
ヴァルザリオンは、興味を引かれたように首を傾げた。
「何をした?」
「道に迷って、祠へ入ったんだって」
セラリスは、簡潔に説明した。
ヴァルザリオンは、しばらく考えた。
そして、実にあっさりと言った。
「……間抜けだな」
「ドラゴンにまで言われた!」
ベイクは、思わず叫んだ。
ヴァルザリオンは、面白そうに金色の瞳を細めた。
「声が大きい人間だ」
「お前がでかいんだよ!」
言ってしまった。
そして、言ってから気づいた。
自分は今、グリーンドラゴンへ怒鳴ったのである。
ベイクの口が、ゆっくりと閉じた。
目の前には、巨大な竜がいる。
鋭い爪を持ち、長い牙を備え、もしその気になれば自分など簡単に殺せるであろう、恐ろしい生き物だった。
しかも、その竜に向かって、今、自分はお前などと呼びかけたうえ、声を荒らげてしまったのである。
数秒遅れて、その事実が頭へ染み込んできたらしかった。
ベイクは、固まった。
ヴァルザリオンは、そんな彼をしばらく眺めていた。
そして、喉の奥で愉快そうに音を立てた。
「面白いな」
ベイクは、ようやく息を吐いた。
「……殺されるかと思った」
その声には、さすがに少しだけ本気の恐怖が混じっていた。
セラリスは、あっさりと言った。
「ヴァルは、そんなことで人を食べたりしないよ」
「先に言えよ!」
今度こそ、ダリヤは声を出して笑った。
ミハイルも、とうとう堪えきれなかったらしい。
ヴァルザリオンは、その様子を満足そうに眺めていた。
どうやら、自分が人間たちをこれほど驚かせることができたのを、少なからず楽しんでいるようだった。
◇
「……それで、先生。どう運びます?」
ミハイルが、ようやく話を元へ戻した。
セラリスは、すぐに頷いた。
「私とラハシア、それからハサリアン。それに村長の身体を乗せてもらって、スレスホールドまで運んでほしいんだ」
ヴァルザリオンは、そこで布に包まれた亡骸へ目を向けた。
しばらく、その姿を眺めていた。
「……死んでいるのか」
「うん」
セラリスは、静かに答えた。
「でも、まだ戻せるかもしれないんだよ」
ヴァルザリオンは、少しだけ首を傾げた。
「死者を戻す祈りか」
「そう。高位の聖職者にお願いするつもり」
その言葉を聞いても、ヴァルザリオンは特に驚いた様子を見せなかった。
長命な竜という種族にとって、神々の力を借りる高位の聖職者が、死者を再び生の世界へ呼び戻す奇跡を行うという話は、まったく未知のものではないのだろう。
むろん、それが容易なことだと考えているわけではあるまい。
しかし、少なくとも彼は、セラリスの言葉を荒唐無稽なものとして退けたりはしなかった。
「急ぐ必要があるのだな」
「うん。できれば、すぐに」
「わかった」
ヴァルザリオンは、短く答えた。
その返事を聞いて、セラリスは少しだけ安堵した。
「ありがとう、ヴァル」
「構わん」
竜は、実に当然のことのように答えた。
その様子を見ていたベイクは、何とも奇妙な気持ちになった。
グリーンドラゴンが、エルフの娘に頼まれて人を運ぶ。
しかも、見返りについて何一つ相談することなく、あっさり引き受けてしまったのである。
これが、普通の竜と人間の関係なのだろうか。
いや、そんなはずはない。
少なくとも、ベイクがこれまで聞いてきた竜の話には、そのようなものは一つもなかった。
竜というものは、恐ろしく、誇り高く、財宝を好み、人間など容易に近づけない存在のはずだった。
それなのに、目の前の竜は、人間を乗せて運ぶことを頼まれ、それを当たり前のように引き受けている。
しかも、セラリスはその竜を、ヴァルなどと気安く呼んでいるのである。
ベイクは、自分がまだ何か重大なことを理解していないのではないかという気がしてきた。
しかし、今さら周囲の者たちへそれを尋ねても、また笑われるだけのような気がしたので、黙っておくことにした。
その間にも、セラリスはラハシアとハサリアンへ向き直っていた。
「もう一度確認するね。もしアリーナが蘇生できたら、お父さんはかなり弱った状態で戻るから、すぐに動かしちゃ駄目だよ」
「はい」
ラハシアが、真剣な顔で頷いた。
「丸二週間は寝台で休ませること。食事も最初は少しずつにして、身体が受けつけるか確かめながら戻していくんだ。アリーナが指示してくれると思うから、ちゃんと守ってね」
「わかりました」
ラハシアは、今度こそはっきりと答えた。
ハサリアンも、その隣で頷いた。
「私も残る。義父上のことは任せてほしい」
「うん。お願いね」
セラリスは、二人の表情を確かめた。
ラハシアには、まだ不安がある。
それは当然だった。
父が生き返るかもしれないと言われても、実際にその奇跡が起きるまでは、安心することなどできないだろう。
しかし、今の彼女にはハサリアンがいる。
そして、ハサリアンにもラハシアがいる。
二人で支え合いながら、父の回復を待つことができるはずだった。
「私は蘇生を確認したら、すぐに戻ってくるから」
セラリスが言うと、ミハイルが顔を上げた。
「……ここへ、ですか?」
「うん」
「そのまま神殿の続きを?」
「そのつもりだよ」
セラリスは、少し笑った。
「まだ助けなきゃいけない人がいるでしょう?」
ミハイルは、静かに頷いた。
シルヴァとメリサ。
その二人は、まだ見つかっていない。
しかも、亡霊が語った守護者のドラゴンにも会っていないし、ラヒブの背後にいるという邪悪の正体も不明なままだった。
ここで冒険を終わらせるわけにはいかないのである。
ダリヤが、腰の鍵束を少し持ち上げた。
「じゃあ、私たちはその間、休憩ですね」
「うん。そうして」
セラリスは、三人を見た。
「ただし、絶対に先へ行かないでね。私が戻ってくるまでは、村で待機してて」
「わかってます」
ミハイルは、すぐに答えた。
その返事には、迷いがなかった。
少し前までなら、自分たちだけでも探索を続けられるのではないかと、多少の気負いを見せていたかもしれない。しかし今では、ここで無理をすることが何を意味するのか、十分に理解していたのである。
神殿には、まだ正体のわからない敵がいる。
シスワたちは操られている可能性が高く、しかもラヒブの背後には、さらに強大な存在がいるかもしれない。
そのような状況で、セラリスを待たずに先へ進む必要はなかった。
「その間に装備を確認しておきます。水と食料も補充して、使った道具も揃え直しておきますよ」
「うん。それがいいね」
「ロープも補充しないといけませんね」
ダリヤが、すぐに言った。
その声には、切実な響きがあった。
「本当に欲しいです。最初の四人を縛っただけでも、かなり使いましたから」
「でしょう?」
セラリスは、少し笑った。
今回の冒険では、できるだけ敵を殺さずに済ませる方針を取っている。
しかし、眠らせたり気絶させたりした相手を、そのまま放置するわけにはいかない場合も多い。特に、操られているかもしれないシスワたちは、本来は助けるべき相手なのである。
そうした者を安全に拘束するためには、縄が必要だった。
しかも、相手の人数が増えれば増えるほど、その必要量も増していく。
普段ならば地味な冒険用品の一つにすぎないロープが、今回は武器と同じくらい重要な道具になっているのだった。
ベイクが、そこで片手を上げた。
「……俺は?」
セラリスは、すぐに答えた。
「残って」
「即答かよ」
ベイクは、思わず苦笑した。
セラリスも笑い返した。
「最後まで付き合ってくれるんでしょう?」
「……ああ。そう言ったな」
「じゃあ、私が戻るまで、ミハイルたちと一緒に待ってて」
ベイクは、少し考えた。
それから、納得したように頷いた。
「……わかった。どうせ俺も、まだ準備ができてねえからな」
ミハイルが、彼の方を見た。
「武器も取り戻さないといけませんしね」
ベイクの顔が、少し険しくなった。
「……そういや、俺の槍、あいつらに取られたままだ」
「神殿のどこかにあるんでしょうね」
ダリヤが答えた。
「取り返しましょう。見つけたら、ちゃんと渡しますから」
「頼むぜ。あれ、気に入ってるんだ」
ベイクは、少し懐かしそうな顔をした。
自分の槍は、単なる道具ではない。
旅の途中で何度も手にし、危険な相手と向き合ってきた、頼りになる武器だった。握り慣れた柄の感触も、長さも、重さも、すべて身体が覚えている。
それを奪われたままでは、どうにも落ち着かなかったのである。
セラリスは、そんな彼を見て、何かを思い出したように言った。
「そうだ。ラヒブから取り上げたチェインメイルは、ベイクが使えばいいよ」
ベイクが、目を丸くした。
「……いいのか?」
「うん。あれ、魔法の鎧だよ。今着てるのよりいいと思う」
「……本当に、いいのか?」
ベイクは、もう一度尋ねた。
魔法の鎧というものが、どれほど高価で貴重なものであるかくらい、彼も知っていた。
普通の鎧でさえ、決して安い買い物ではない。
まして、魔法の力によって防御能力を高められた鎧となれば、一般の戦士には容易に手が届かないほどの価値を持つことも珍しくなかった。
そんなものを、今出会ったばかりの自分へ使わせようというのだから、驚くのも当然だった。
しかし、セラリスは少しも気にしていなかった。
「ラヒブに返す理由、ないでしょう?」
「……まあ、それはそうだが」
「それに、これから一緒に戦うなら、装備はいい方がいいもの。今の鎧を外して、ちゃんと身体に合うか確かめてから使ってね」
ベイクは、しばらくセラリスを見つめていた。
それから、にやりと笑った。
「……なら、ありがたく借りるぜ」
「うん。そうして」
セラリスは頷いた。
そして、今度はヴァレリアへ目を向けた。
「ラヒブのメイスは、ヴァレリアが使ってね」
「……私が、ですか?」
ヴァレリアは、少し驚いたようだった。
「うん。今のメイスよりいいでしょう?」
「それは、そうですが……」
彼女は、少し戸惑った。
高価な魔法の武具を、こうして簡単に自分へ渡してもらってよいものなのだろうか。
しかし、セラリスには、それほど複雑なことを考えている様子はなかった。
ラヒブは捕らえられた。
武装を解除した以上、その装備を本人へ持たせておくわけにはいかない。
そして、自分たちはまだ危険な神殿へ戻る必要がある。
ならば、その装備を必要とする仲間へ回す方が、ずっと合理的ではないか。
ただ、それだけのことだった。
「じゃあ、決まりだね」
セラリスは、あっさりと言った。
ヴァレリアは、少しだけ微笑んだ。
「……ありがとうございます。大切に使います」
「うん。怪我しないためのものなんだから、遠慮しないで使って」
セラリスは、そう答えた。
それは、単なる戦利品の分配ではなかった。
危険な捕虜から没収した装備を、これから危険へ向かう者たちへ回しただけのことだったのである。
しかし、ベイクにとっては、何とも新鮮な光景だった。
旅の途中で出会ったばかりの自分へ、魔法の鎧を使わせると言う。
しかも、その理由は、これから一緒に戦うのだから、装備がよい方がいいという、実に単純なものだった。
彼は、改めてセラリスの顔を眺めた。
この娘は、何とも不思議なエルフだった。
強く、奇妙なほど気安く、そして何より、助けると決めた相手へ力を惜しむ様子がない。
なるほど、とベイクは思った。
だからこそ、あのミハイルたちも、この娘へついて行くのだろう。
そう考えると、自分が最後まで付き合うと決めたことも、少しも間違いではないように思えてきた。
◇
やがて、村長の亡骸を運ぶための準備が整った。
身体は清潔な布で幾重にも包まれ、飛行中に動かぬよう慎重に固定できる形へ整えられていた。ハサリアンと村人たちは、その作業をひどく丁寧に行い、まるで今にも目を覚ますかもしれない者を寝台へ移すように、できる限り身体へ負担をかけまいとしていた。
ヴァルザリオンの背には、人を乗せるための鞍と革帯が用意されている。
それに加えて、亡骸を安全に運ぶための固定具を取りつけ、飛行中の揺れや急な姿勢の変化によって身体が動かないよう、何度も確認を重ねた。
ヴァルザリオンは、その間、草地へ身体を伏せていた。
巨大な竜にとっては、数人のエルフと一人の亡骸を背に乗せる程度のことなど、重さという点では大した負担ではないのだろう。
しかし、だからといって、乗せられる者たちが安全であるとは限らない。
竜が空を飛ぶときには、翼の動きだけでなく、身体そのものも大きく傾くことがある。しかも、その速さは地上の馬車などとは比較にならない。
だからこそ、セラリスは固定具を何度も確かめた。
ラハシアとハサリアンにも、革帯の締め方を説明し、どこを掴めばよいのか、何をしてはいけないのかを一つずつ教えていく。
ハサリアンは、ヴァルザリオンの背へ上がると、そこから地面を見下ろして、少しだけ顔を強張らせた。
「……これに乗って、スレスホールドまで行くのか?」
「うん。すぐ着くよ」
セラリスは、いつものように答えた。
ハサリアンは、しばらく黙っていた。
自分が今、どれほど巨大な生き物の背へ乗っているのか、改めて理解し始めたらしかった。
周囲には、深緑の鱗が広がっている。
首を伸ばせば、遠くに森が見える。
そして、背後には巨大な翼が畳まれている。
これが空へ舞い上がったとき、自分は一体どのような目に遭うのだろう。
「……それを聞いて、安心していいのかどうかわからない」
ハサリアンは、正直に言った。
その声を聞いて、少し離れたところに立っていた若いエルフの使者が、深く頷いた。
ラハシアの手紙をミスタメアまで運び、帰りにヴァルザリオンの背へ乗せられた、あの使者だった。
彼は、実に真剣な顔で言った。
「……下は見ない方がいい」
ハサリアンが、振り返った。
「……そんなに?」
「風が冷たい」
「……風?」
「そういうことにしておけ」
使者は、妙に重々しい口調で答えた。
ハサリアンは、その顔をしばらく見つめていた。
しかし、どうやらこれ以上尋ねても、安心できる答えは返ってこないらしい。
彼は、黙って革帯を握り直した。
ラハシアも、その隣で少し緊張した様子だった。
何しろ、生まれて初めてドラゴンの背に乗るのである。
しかも、父の亡骸を運ぶための旅だった。
恐ろしいと思わないはずはなかった。
しかし、彼女は必死に気持ちを落ち着かせようとしていた。
この竜は、セラリスの友人なのだ。
自分たちを助けるために、わざわざ迎えに来てくれたのである。
そして、この竜に乗っていけば、父を蘇らせることのできるかもしれない聖職者のもとへ、早くたどり着ける。
そのことを考えれば、多少の恐怖など、何とか我慢できそうだった。
ラハシアは、布に包まれた父の身体へ目を向けた。
どうか、間に合ってほしい。
その願いだけが、胸の奥で繰り返されていた。
一方、ベイクは地上からヴァルザリオンを見上げていた。
巨大な竜の背へ人を乗せ、革帯を締め、亡骸を固定していく光景は、何度見ても奇妙なものだった。
「……本当に、これが交通手段なのか」
彼が呟くと、セラリスが振り返った。
「速いよ」
「……だから、ドラゴンを馬みたいに言うな!」
ベイクは、思わず言い返した。
すると、ヴァルザリオンが長い首をこちらへ向けた。
「馬より速いぞ」
ベイクは、額を押さえた。
「……お前まで話に乗るな!」
ヴァルザリオンは、愉快そうに喉を鳴らした。
どうやら、この人間の反応が、すっかり気に入ってしまったらしかった。
セラリスは、そんな二人のやり取りを聞きながら、少し笑った。
ベイクは、何とも騒がしい男だった。
しかし、悪い奴ではなさそうだ。
少なくとも、これから先の冒険が退屈になることはなさそうだった。
◇
出発の準備がすべて整うと、セラリスはヴァルザリオンの背へ上がる前に、もう一度ミハイルたちを振り返った。
その表情には、先ほどまでの軽い笑みが残っていたが、声は少し真面目なものになっていた。
「……ラヒブは、絶対に一人にしないでね」
「はい」
ミハイルが、すぐに答えた。
「拘束も緩めないこと。手を自由にしちゃ駄目だし、もちろん武器も渡さない。呪文を使わせないように、ちゃんと注意して」
「わかりました」
今度はヴァレリアが答えた。
セラリスは、静かに頷いた。
ラヒブが魅了されている可能性はある。
しかし、それは彼が無害であるという意味ではない。誰かに操られている者であっても、命じられれば人を傷つけることはできるし、今の彼が何を考え、どのような魔法を使おうとするのかについては、まだ何もわかっていないのである。
だからこそ、慎重に扱わなければならなかった。
「それから、シスワが村へ来たら、できるだけ話をしてみて。ラヒブから新しい命令が出なければ、今までの指示を続けるだけかもしれないけど、そこはまだわからないからね」
ミハイルは、少し考えた。
「……もし、攻撃してきたら?」
セラリスは、すぐに答えた。
「できるだけ殺さない」
その言葉を聞いて、三人は同時に頷いた。
もう、細かな説明を重ねる必要はなかった。
敵だからといって、最初から斬りかかる必要はない。
話が通じるなら話す。
駄目なら武器を落とさせ、眠らせ、動けないようにして拘束する。
場合によっては、戦わずに逃げることも考える。
そして、それでも仲間の命を守れないというときに、初めて本格的な戦闘を選ぶのである。
その順番を、三人はもう何度も教えられていた。
そして、神殿の中でも実際にそれを行い、何人ものシスワを殺さずに済ませてきたのだった。
ミハイルは、静かに頷いた。
「大丈夫です。先生が戻ってくるまでは、無理をしません」
「うん。お願いね」
セラリスは、少しだけ安心したように笑った。
ヴァレリアも、穏やかに頷いた。
「村の方々にも、十分注意していただきます。ラヒブの監視も、こちらで確認しておきますね」
「ありがとう」
ダリヤは、腰の鍵束へ手を触れながら言った。
「私は、その間に道具を揃え直しておきます。今度こそ、縄が足りないなんてことにならないようにしますから」
「うん。それがいいね」
セラリスは、満足そうに頷いた。
それから、ベイクを見た。
「あなたも、ちゃんと待っててね」
「わかってるよ」
ベイクは、少し苦笑した。
「まったく、何度も言わなくていいって。俺だって、武器もないまま神殿へ突っ込むほど馬鹿じゃねえよ」
ダリヤが、ちらりと彼を見た。
「……道に迷って祠へ突っ込んだ人が言うんですか?」
「まだそれを言うか!」
ベイクは、思わず声を上げた。
しかし、ダリヤは楽しそうに笑っている。
ミハイルも口元を緩めていた。
セラリスは、そんな四人を見渡した。
ミハイル。
ヴァレリア。
ダリヤ。
そして、新たに加わったベイク。
こうして並んでいると、少し不思議な感じがした。
ミスタメアで三人を指導し始めた頃には、このような形で見知らぬ土地へ来ることになるとは思っていなかった。そして、そこで道に迷って牢へ入れられた異国の戦士を助け、その男が仲間として加わることになるなど、なおさら想像していなかったのである。
しかし、冒険とは、そういうものなのかもしれない。
最初に考えていた予定どおりに、何もかもが進むわけではない。
思いがけない敵と出会うこともあれば、思いがけない友を得ることもある。
そして、救いを求める者を見つけたなら、できる限り助けたいと思う。
そうしているうちに、最初は四人だった一行が、いつの間にか六人になってしまったのだった。
セラリスは、少しだけ笑った。
「……じゃあ、行ってくるね」
彼女はヴァルザリオンの背へ上がると、ミハイルたちへ手を振った。
「すぐ戻ってくるから。そしたら、また続きをしよう」
その言い方は、あまりにも気軽なものだった。
まるで、少し遠くへ用事を済ませに行き、帰ってきたら中断していた仕事を再開するだけのような口調だったのである。
しかし、彼女が戻ってきたあとに待っているのは、決して簡単な仕事ではない。
灰色山の神殿には、まだ救われていない者たちがいる。
ラヒブによって心を操られたシスワたちがおり、その背後には、まだ正体のわからない邪悪な存在が潜んでいるかもしれない。
しかも、神殿の奥には財宝を守るドラゴンまでいて、その竜から真実を聞かなければならないというのだから、いったいどこまで厄介な冒険になるのか、今のところ見当もつかなかった。
しかし、セラリスは少しも怯んでいなかった。
それどころか、やるべきことを一つずつ片づけていけばよいと、ごく自然に考えているようだった。
まず、ラハシアの父を蘇らせるための手配をする。
それが終わったら、村へ戻る。
そして、仲間たちと一緒に神殿へ入り、残された者たちを助け出す。
ただ、それだけのことだった。
ベイクは、ヴァルザリオンの背に乗ったセラリスを見上げながら、何とも言えない気持ちになった。
自分は、どうやら相当に変わった連中と出会ってしまったらしい。
しかし、不思議と後悔はなかった。
むしろ、これから先に何が起きるのか、少し楽しみにさえなってきている。
そのことが、彼自身にもおかしかった。
◇
ヴァルザリオンは、背へ乗せた者たちの準備が整ったことを確かめると、ゆっくりと身体を起こした。
深緑の鱗に覆われた巨体が動くにつれて、足元の草が大きく揺れ、地面には深い影が落ちる。
ラハシアは、革帯を握りしめた。
ハサリアンも、隣へ固定された義父の身体を一度確かめ、それから自分の身体を支える革帯へ手をかけた。
セラリスは二人の様子を見て、小さく頷いた。
「大丈夫。ちゃんと固定してあるから、途中で立ったりしなければ落ちないよ」
その言葉に、ハサリアンが少しだけ顔をしかめた。
「……途中で立つ者など、いるのか?」
「いるんだよねえ」
セラリスは、少し困ったように答えた。
ハサリアンは、それ以上何も言わなかった。
どうやら、この娘がこれまで付き合ってきた冒険者たちには、自分の想像を超える行動を取る者もいるらしい。
そんなことを考えるうちに、ヴァルザリオンが翼を広げ始めた。
大きな膜状の翼が左右へ伸び、陽光を受けて深い緑色へ輝く。
その影が草地へ落ちると、地上にいる者たちは、改めて竜という生き物の巨大さを思い知らされた。
ベイクは、慌ててターバンを押さえた。
これから、あの翼が動くのである。
しかも、たった数回の羽ばたきで、巨大な身体を空へ持ち上げてしまうのだという。
信じがたい話だった。
しかし、その信じがたいことが、今まさに目の前で起ころうとしているのである。
「……飛ぶぞ」
ヴァルザリオンが言った。
次の瞬間、巨大な翼が空気を打った。
地面へ向かって激しい風が吹きつけ、草が一斉に伏せ、土埃が舞い上がる。外套の裾が大きくはためき、近くに立っていた者たちは、思わず足を踏ん張った。
ベイクは、片手でターバンを押さえ、もう一方の腕で顔を庇った。
「……うおっ!」
ヴァルザリオンの巨体が、ゆっくりと地面を離れた。
もう一度、翼が大きく打たれる。
そのたびに地上からの距離が広がり、巨大な竜は次第に空の住人としての姿を取り戻していった。
ラハシアは、思わず息を呑んだ。
村の家々が、みるみる小さくなっていく。
森の梢が自分たちより下へ沈み、灰色の山が、先ほどまでとは違う角度から見え始めた。
彼女は、恐ろしいと思った。
同時に、これほど広い世界が目の前へ広がっていることに、言葉にできないほど驚いていた。
地上を歩いているときには、森はどこまでも続く木々の壁であり、山は行く手を遮る巨大な岩の塊だった。
しかし、こうして空へ上がってみると、それらは一つの大きな風景となって広がっている。
その美しさは、恐怖を忘れさせるほどのものだった。
だが、ラハシアが最も強く考えていたのは、やはり父のことだった。
隣には、布に包まれた亡骸が固定されている。
まだ冷たい。
まだ、何も語らない。
しかし、この空の旅が終わった先には、死者を蘇らせることのできるかもしれない聖職者が待っているという。
ラハシアは、革帯を握る手へ力を込めた。
どうか間に合ってほしい。
その願いだけが、胸の奥で繰り返されていた。
ハサリアンもまた、同じ思いでいた。
彼は、隣に座るラハシアの顔を一度見た。
彼女は、青い顔をしながらも、必死に気丈であろうとしている。
ハサリアンは、片手を伸ばし、その手をそっと握った。
ラハシアが、彼を見た。
二人は、何も言わなかった。
言葉などなくても、今、何を願っているのかは、互いによくわかっていたのである。
セラリスは、そんな二人の姿を見ながら、静かに息を吐いた。
ヴァルザリオンは、既に高度を上げ、スレスホールドの方角へ向かい始めていた。
その速さは、地上を歩く者にとっては想像もできないほどのものだったが、今のセラリスには、それが何よりありがたかった。
間に合う可能性は高い。
しかし、だからといって、時間を無駄にしたくはなかった。
彼女は、もう一度、布に包まれた村長の身体を見た。
瞑想室で出会った、あの亡霊の姿が思い浮かぶ。
厳しいほど鋭い眼差し。
その奥に宿っていた、深い優しさ。
そして、娘の悲しみを語ったときの、どうしようもないほど切実な声。
あの男は、亡霊となってまで娘を案じ、誰かが来るのを待ち続けていたのである。
ならば、せめてもう一度。
生きた父親として、ラハシアの前へ戻してやりたかった。
その願いが叶うかどうかは、まだわからない。
しかし、今は、そのためにできることがある。
セラリスは、空の彼方へ目を向けた。
スレスホールドは、もうそれほど遠くないはずだった。
◇
一方、地上に残されたベイクは、ヴァルザリオンが空へ舞い上がる姿を、いつまでも見送っていた。
巨大な翼が幾度か羽ばたくたびに、竜はみるみる小さくなっていく。最初は深緑の鱗の輝きまで見えていたが、やがて細かな輪郭はわからなくなり、青い空を進む大きな影となって、遠くの森の上へ向かっていった。
その背には、セラリスがいる。
ラハシアとハサリアンもいる。
そして、まだ冷たい村長の身体が運ばれている。
あの竜は、彼らをスレスホールドまで運び、死者を蘇らせることのできるかもしれない聖職者のもとへ届けるのだという。
何とも奇妙な話だった。
いや、奇妙という言葉では、とても足りないかもしれない。
ベイクがこれまで旅の途中で耳にしてきた話には、恐ろしい竜に村が襲われたというものもあれば、勇敢な戦士が竜を退けたというものもあった。
しかし、竜が人間やエルフのために迎えに来て、死者の蘇生を手伝うという話など、一度も聞いたことがなかったのである。
まして、その竜と気安く言い争い、友達だと言い切るエルフの娘がいるなど、誰が想像できただろう。
ベイクは、空から目を離した。
その隣では、ダリヤが腰の鍵束を確かめ、ミハイルはこれから村の者たちとラヒブの監視について相談するつもりらしかった。ヴァレリアも、必要な物資を揃え直そうと考えているようである。
皆、実に落ち着いていた。
今しがた、巨大なグリーンドラゴンが村へ降り立ち、人を乗せて飛び去っていったというのに、誰一人として特別に驚いていないのである。
ベイクは、深く息を吐いた。
「……とんでもない奴らに拾われたな」
ダリヤが、すぐに顔を向けた。
「牢から拾ったのは、こっちですけど」
「……そういう意味じゃねえよ」
ベイクは、少し苦笑した。
しかし、その笑みには、どこか楽しげなものが混じっていた。
確かに、とんでもない連中だった。
人間の若い戦士は、魔法の籠手でラヒブを軽々と押さえ込み、聖職者の娘は敵の飼っていた黒豹まで気遣い、盗賊の娘は牢の鍵を次々に開けながら、妙に辛辣な軽口を叩く。
そして、その三人を率いる黒髪のエルフは、グリーンドラゴンを友達だと言い、死者を蘇らせるために空を飛び、これが終わったらまた神殿へ戻って冒険の続きをしようなどと、ごく普通のことのように言うのである。
これまでの旅では、見たことも聞いたこともないような連中だった。
しかし、だからこそ面白いのかもしれなかった。
ベイクは、そんなことを考えながら、もう一度空を見上げた。
ヴァルザリオンの姿は、既に遠くなっていた。
秋の青空を横切る小さな影が、やがて森の向こうへ消えていく。
ベイクは、それをしばらく見つめていた。
そして、何かを改めて確かめるように、ぽつりと呟いた。
「……ヴァルって、ドラゴンだったのか」
ミハイルが、小さく笑った。
「そうですよ」
ベイクは、ゆっくりと彼を見た。
「……普通、先に言うだろ」
ミハイルは、笑いを堪えるように口元を押さえた。
ダリヤは、もう隠そうともせずに笑っていた。
ヴァレリアまで、少し困ったように微笑んでいる。
ベイクは、三人を順番に見た。
そして、誰もまともに返事をするつもりがないらしいと悟ると、大きく肩をすくめた。
「……まったく、どういう連中なんだよ」
その声には、呆れとともに、隠しようのない愉快さが滲んでいた。
つい先ほどまで、彼は異国の神殿へ閉じ込められた、ただの迷い人だった。
しかし今では、まったく知らなかった世界の扉が、目の前で次々と開き始めているような気がしたのである。
その扉の向こうには、まだ正体のわからぬ魔女がおり、心を操られたエルフたちがおり、財宝を守る別のドラゴンまで待っているという。
考えてみれば、何とも危険な話だった。
だが、危険だからといって、今さら引き返す気にはなれなかった。
ベイクは、広場の向こうにそびえる灰色の山へ目を向けた。
あの山の奥で、自分の槍が待っている。
そして、おそらく、それだけではない何かが。
彼は、ゆっくりと笑った。
どうやら、イラルアムを離れてから始まったこの長い旅は、ようやく本当に面白くなってきたらしかった。
そんなことを考えるベイクの隣で、ダリヤが何気なく言った。
「……とりあえず、戻るまでにロープを買い足しましょうか。ベイクさんも、荷物を確認しておいてくださいね」
「わかってるよ」
「あと、今度は変な祠へ勝手に入らないでくださいね」
「……まだ言うか!」
ベイクの抗議する声に、ミハイルが笑った。
ヴァレリアも微笑みながら、買い足すべき物資について話し始めた。
コタ・フタンの広場には、秋の穏やかな風が吹いていた。
その風の中で、四人の冒険者たちは、次の探索のための準備を始めようとしていたのである。
空の彼方では、セラリスが一つの命を取り戻すために急いでいた。
そして地上では、残された者たちが、まだ救われていない命を迎えに行くための支度を進めていた。
灰色山の神殿に潜む邪悪が何者であるのか、彼らはまだ知らない。
しかし、その謎を解くために、そして囚われた者たちを助け出すために、彼らは再びあの山へ向かうつもりだった。
そのときには、イラルアムから来た一人の戦士も、彼らの仲間として歩いていることだろう。
ほんの数日前までは、互いの名さえ知らなかった者たちである。
それが今、同じ危険へ向かい、同じ目的のために力を合わせようとしている。
冒険というものが、人と人との間へ思いがけない絆を結ぶことがあるのだとすれば、これもまた、その一つなのかもしれなかった。