リゼルの過去編 作:キュウリ大好き人間
1
そこには、一人の子供がいた。
泥に汚れた黒髪の間から覗くのは、異様なほど鋭く光る黄金の目。
しかし、その少年の体は、衣服の上からでも肋骨の形がはっきりと浮き出るほどに痩せ細り、ほとんど死にかけていた。
ぐう、と情けない音が、少年の薄いお腹から何度も何度も鳴り響く。
周りを見渡せば、彼と同じように飢え、虚ろな目をした子供たちが泥まみれになって転がっていた。
ここは生き地獄だ。
大人も子供も関係なく、今日を生き延びるための「一万キロカロリー」を血眼になって奪い合う、あまりにも残酷で厳しい世界。
そんな中、比較的まだ肉付きのまともな、少し年上の少年が、横たわる黒髪の少年を見下ろした。
その目は冷酷で、一切の容赦がない。
「おい、何をしてる……。早くご飯を持ってこい」
この縄張りを仕切る、ガキ大将だった。
力こそが全てのこの場所で、彼に逆らえる子供など一人もいない。
それは、この黒髪の少年――リゼルにとっても同じことだった。
「ちょっと待ってくれ、今……探している……」
リゼルはかすれた声を絞り出し、ふらつく足取りで立ち上がる。
視界がチカチカと明滅するほどの空腹に耐えながら、必死に周囲の地面や物陰をあさった。
だが、見つからない。
運よく食材の欠片を見つけたとしても、すぐに血気盛んな大人たちに力づくで奪い取られてしまう。
弱者である子供たちに行き渡る飯など、どこにも残されていなかった。
「まだかよ……」
ガキ大将の腹の虫も、苛立たしげに鳴り響く。
向けられる鋭い視線に、リゼルはただ眉を下げ、奥歯が軋むほど強く歯を食いしばるしかなかった。
ここで言い訳を口にしたところで、待っているのは容赦のない暴力だけだ。
その事実を、リゼルは自分の体に刻まれた無数の傷を通じて、嫌というほど理解していた。
ふらふらで、今にも魂が抜け落ちそうな肉体。
それでも、リゼルの心の中には消えない炎があった。
――生きたい。
絶対に生き残る。
それだけが、絶望に染まったこの世界で、リゼルをかろうじて支え続ける唯一の
その時、リゼルの脳裏に、ふっと奇妙な感覚がよぎった。
何を思ったわけでもない。
ただ、目に見えない何かに、優しく、あるいは強烈に「呼ばれた」ような気がしたのだ。
吸い寄せられるように、リゼルはふらつく足取りのまま歩き出す。
ガキ大将の怒声も、周囲の喧騒も、いつの間にか遠ざかっていった。
たどり着いたのは、奇妙な岩肌が口を開けた、深い洞窟のような場所だった。
「なんだ、ここは……」
リゼルは眉をひそめ、その闇の奥をじっと見つめた。
穴の向こうは、光が一切届かない完全な真っ暗闇だ。
リゼルは小さく首を傾げる。
このあたりの土地は、生き延びるために何度も歩き回ったはずだった。
それなのに、こんな不気味な洞窟の存在など、今まで一度も聞いたことがない。
「……こんな洞窟、知らない。でも、あいつはうるさいし……ここに、何か食べ物があるかもしれない。行くか……」
迷っている時間も、餓死するのを待つだけの時間も、今のリゼルにはない。
生まれたての小鹿のように細く、激しく震える足。
リゼルは奥歯を噛み締めると、地面に落ちていた、今にもポキリと折れそうな細い木の枝を拾い上げた。
まともな武器すら持たない、剥き出しの命。
リゼルはその小さな手で折れそうな木をぎゅっと握りしめ、冷たい闇が渦巻く洞窟の奥へと、一歩を踏み出した。
「うわあ、なんだあ……っ!?」
足を踏み入れた瞬間、それまで静まり返っていた闇の奥で、パッと淡い光が灯った。
予想外の出来事にリゼルは思わず腰を抜かしたが、生きたいという執念が彼をすぐに立ち上がらせる。
壁に手をつき、一歩一歩、光の源へと歩みを進めた。
「何か、ある……?」
目を凝らすと、岩肌の隙間に何かがある。リゼルはそれが気になり、さらに近くへとにじり寄った。
「なんだ、ここから光ってる……」
リゼルは拾った木の枝で、恐る恐るその光る物体をツンツンとつついてみた。
だが、何も起きない。
不思議そうに首を傾げたリゼルは、意を決してそれに直接手を伸ばした。
触れてみると、見た目からは想像できないほど柔らかい。
指先に力を込めると、ぷちりと簡単にちぎれた。
手元に引き寄せて中を覗き込む。
それは透明で、どこかキノコのような不思議な形をしていた。
そして、その透明な肉質の内側で、温かい光が蛍のように明滅している。
――これ、美味しいのかな。
極限の飢えが、リゼルの恐怖心を完全に塗りつぶした。
彼はそれを口元へと運んだ。
「うめぇぇぇ……っ!! なんだこれ!?」
衝撃が走った。
口に入れた瞬間、キノコはまるで雪のようにすうっと溶けていく。
なのに、口の中では無数の心地よい刺激がプチプチとはじけるような、未体験の感覚が広がった。
あまりの旨さに脳が痺れる。
「……まだ、あるな」
リゼルはごくりと唾を飲み込み、岩肌に残った光るキノコを見つめた。
だが、そこでふと我に返る。
「でも、これ光ってるよな。全部食べると、ここ真っ暗になる……。やめとこ……」
暗闇に取り残される危険を本能で察し、リゼルはあえてそれ以上の買い食いを踏みとどまった。
再び腰を上げ、洞窟のさらに奥へと歩き出す。
だが、どれだけ進んでも、さっき見つけた透明な光るキノコ以外には何も見当たらない。
しかし、歩いているうちに、リゼルは自分の体の「異変」に気がついた。
「んー、さっきの食べたから……何か、いつもと違うな。なんだこれ?」
歩きながら、自分の手を何度もグー、パー、と握ったり開いたりしてみる。
見た目はまだ骨が浮き出たガリガリのままだ。
しかし、あれほど自分を苦しめていた
キノコのエネルギーが、彼の衰弱しきった肉体を劇的に癒やしたのだ。
「もっと、他にもないか……?」
確かな手応えを得たリゼルは、ギラギラとした黄金の目をさらに輝かせ、貪欲に周囲を探索する。
そのとき、道が途切れ、目の前の視界が不自然に開けた。
「あ? ……ここから、降りれるのか?」
暗闇の先は、下へと続くすり鉢状の巨大な崖のようになっていた。
意を決して、リゼルは崖の下へと降りていく。
しかし、底へたどり着いたリゼルがそこで目にしたものは、それまでの人生で一度も見聞きしたことのない、おぞましい「化け物」の姿だった。
「うわあ……なんだ、あ……っ」
リゼルはその場に腰を抜かした。
全身の血が凍りつくような恐怖が、小さな体を支配する。
声にならない悲鳴が喉の奥で張り付いた。
<ぐきゃあああああッ!!!>
洞窟の壁を震わせる、猛獣の咆哮。
化け物がこちらの存在に気づき、濁った眼光を向けた瞬間、リゼルは弾かれたように立ち上がって全力で走り出した。
「うわああああッ!!!」
必死に、ただ必死に足を動かして逃げる。
だが、背後からは地響きのような足音が恐ろしい速度で迫ってくる。
逃げ切れない。
<ぐきゃあああああッ!!!>
「なんだこの化け物は……っ! 来るなぁぁぁッ!!!」
<ぐきゃあああああッ!!!>
次の瞬間、化け物が容赦なくリゼルへと襲いかかった。
本能的な危機感でリゼルは必死に身を翻したが、完全に交わしきることはできず、鋭い爪がその体をかすめていく。
「いたぁぁぁいっ!!!」
鋭い痛みが走り、リゼルの黄金の目からボロボロと涙が溢れ出た。
血の匂いが漂う中、強烈な絶望が頭をよぎる。
――ここで、死ぬのか。
――なんで、俺なんだ。なんで俺ばかり、こんな目に遭わなきゃいけないんだ。
理不尽な世界への怒りと悔しさが、リゼルの心を黒く支配していく。死の
しかし、その時だった。
リゼルの肉体に、突然、異変が起きる。
「……っ!? ぐ、あああぁぁぁっ!!!」
それは化け物につけられた傷の痛みではなかった。
体の内側、さっき食べた「透明なキノコ」が収まっていたはずの胃の腑から、まるで煮え滾るマグマのような熱い何かが、猛烈な勢いで全身の血管へと突き抜けたのだ。
「う、あああああぁぁぁっ!!!」
心臓を直に掴まれたような激しい激痛に、リゼルは地面を掻きむしりながら苦しみ悶えた。
だが、その限界の瞬間だった。
リゼルの黄金の目が、まるで意思を持ったかのように怪しく、ギラリと輝きを増す。
それと同時に、彼の身体の表面に、見たこともない奇妙な「
リゼルの顔から、恐怖が消える。代わりに、その唇は不気味に吊り上がり、目はどこか焦点の合わない虚ろな狂気を宿していた。
その肉体から溢れ出したのは、闇を黄金に染め上げるほどの、圧倒的なエネルギーのオーラだった。
「――ぁ」
リゼルは、迫る化け物に向けて小さな拳を突き出した。
ただの、何の技術もない、がむしゃらなパンチ。
しかし、彼を包む黄金のオーラが、その一撃を破壊的なエネルギーへと変貌させる。
ズガァァァンッ!!!
凄まじい衝撃音が洞窟に響き渡り、さっきまでリゼルを追い詰めていた巨大な化け物が、一撃で派手に吹き飛んだ。
だが、リゼルはまだ幼い。
エネルギーの使い方も分からなければ、お腹も完全に空っぽのままだ。
だから、その一撃一撃の破壊力は、本来のポテンシャルからすればまだ「弱い」ものだった。
「あははははっ、あははははははっ!!!」
それでも、リゼルは狂ったように笑い声を上げながら、化け物へと肉薄する。
飢えと痛みの恐怖を笑いで塗りつぶすように、何度も、何度も、拳を叩き込み、蹴りを繰り出した。
黄金のオーラが火花を散らすたび、化け物の悲鳴が洞窟に木霊する。
そして――ついに、リゼルは剥き出しの黄金の力で、その巨大な化け物を完全に叩き伏せた。
ドサリ、と化け物の巨体が完全に物言わぬ肉塊となって倒れる。
それと同時に、リゼルの限界も訪れた。
その目に宿っていた怪しい光がふっと消え、肌に浮かび上がっていた痣も、霧が晴れるように消えていく。
「は、ぁ……」
黄金のオーラが霧散し、リゼルはその場に力なく倒れ込んだ。
強烈な眠気が彼を襲い、意識は深い闇へと落ちていった。
どのくらいの時間が経ったのだろうか。
洞窟の外に夜が訪れ、ひんやりとした空気が流れ込んで
きた頃。
「……っ」
リゼルは、重い塗膜を剥がすようにゆっくりと瞼を持ち上げ、起き上がった。
まだ少し痛む身体をさすりながら、ぼんやりと周囲の暗闇を見つめる。
そして、自分が眠る前に起きた、あの非現実的な光景を
――自分の拳が化け物をねじ伏せた、あの恐ろしい感覚を、静かに思い出していた。
「なんだ、あの変な感じは……? そもそも、この化け物は……」
リゼルは自分の小さな手のひらを見つめ、それから目の前で転がっている巨体へと視線を移した。
よく見れば、それは猿に似た特徴を持つ、不気味な姿の猛獣だった。
こんな生き物、見たこともない。
だが、そんな疑問や恐怖よりも先に、リゼルの胃袋が激しく自己主張を始めた。
ぐうぅ、と大きな音が洞窟に響く。
――お腹が、すいた。
リゼルは躊躇うことなく、倒れた猛獣の肉に手を伸ばし、その肉を口へと運んだ。
「ん……! うまい……っ!! なんだ、この肉は……!」
噛み締めた瞬間、野生の力強い旨味と脂が口いっぱいに広がった。
大人たちに奪われ、いつも泥のついた残りカスしか食べてこなかったリゼルにとって、これほど新鮮で満ち足りた食事は初めてだった。
貪るように肉を喉へと流し込んでいく。
「……まだ、こんなやつがこの先にいるのか?」
ごくり、と肉を飲み込んだリゼルの中に、今まで感じたことのない未知の感情が湧き上がってきた。
それは、恐怖ではない。底知れない「ワクワク感」だ。
リゼルの黄金の目が、今度は暴走ではなく、彼自身の強い意思でギラリと光を放つ。
その口元が、自然と獰猛に吊り上がった。
世界は厳しく残酷だが、ここにはこんなに美味いものが、そして自分を熱くさせる強敵が隠れている。
「……さっきの所、降りてみるか?」
リゼルは立ち上がり、化け物が最初に現れた、さらに深い地下へと続く崖の縁に立った。
この下に、何があるのか。
どんな美味いものが眠っているのか。
リゼルは折れそうな木の枝を捨て、今度は自分の拳を強く握り締めながら、暗闇のその先へと視線を進めた。