リゼルの過去編 作:キュウリ大好き人間
「うわあ……なんだ、ここは……っ!」
化け物を倒したあの崖の下へと降り立ち、暗闇の奥を歩いていったリゼルは、その光景に完全に言葉を失った。
リゼルは口を大きく開け、その黄金の目をこれでもかというほど限界まで見開いた。
そこにあったのは、息をのむほどに美しい「泉」だった。
極限の飢えと、肉体の進化を求める本能がリゼルの身体を突き動かす。
リゼルは泉に向かって猛烈に走り出した。
水際に飛び込み、骨が浮き出た小さな手で水をすくい上げると、一気に喉へと流し込む。
「――ッ!?」
ごくりと飲み込んだ瞬間、リゼルの目がカッと見開かれた。
美味い。
美味すぎる。
あまりの衝撃に、彼は狂ったように何度も、何度も手で水をすくい、貪り飲むように喉を鳴らした。
「なんだこれ……っ! 飲むと、身体の芯が熱くなって痛くなるのに……美味くて、何度も飲んじゃう……っ!」
その泉は、ただ綺麗なだけではなかった。
水面からは微細な泡がシュワシュワと心地よい音を立てて湧き上がり、水底まで完璧に見通せるほど、透き通った神秘的な「青」を湛えている。
飲むたびに、リゼルの胃の腑からパチパチとした激しいエネルギーが全身へ駆け巡り、細胞が歓喜の悲鳴を上げているのが分かった。
お腹が満たされ、力がみなぎってきたリゼルは、ふと周囲に目を向けた。
その瞬間、彼の心はまるで「宝探し」をしているかのよ
うな純粋な高揚感に包まれる。
「あ……っ、あっちも……!?」
周りの岩肌をよく見ると、あちこちに転がっている石だと思っていたものが、香ばしい匂いを放つサクサクの「ビスケット」だった。
さらに視線を巡らせると、地面から生えた奇妙な「木」が、まるで生き物のようにウネウネと自律して動いている。
元の世界では、大人も子供も泥まみれのクズ肉を奪い合っていた。
それなのに、この洞窟の中には、見たこともない極上の食材が無限に転がっている。
リゼルは、それこそ文字通り目が飛び出るほど驚き、そして震えるほどの喜びに打ち震えていた。
「え? なんで木が動いてるんだ……。それに、なんだこの壁……食べれるのか?」
リゼルは半信半疑のまま、壁のようにはびこるゴツゴツとしたビスケットに拳を叩きつけた。パキッと小気味よい音を立てて砕けた破片を、そのまま口に放り込む。
……味は、正直あまりしなかった。
だが、確かな歯ごたえと満腹感が、これが本物の食い物であることを証明していた。
リゼルは構わずそれを咀嚼し、飲み込む。
しかし、それ以上に気になるのは、さっきからドシンドシンと地響きを鳴らして動いている不思議な大木だった。
気になって歩み寄ったリゼルは、思わず足を止めて絶句する。
その木の幹には、驚いたような「目」と「口」がくっきりと浮かび上がっていたのだ。
だが、リゼルがさらに驚いたのはその直後だった。
「だれじゃ……」
「え……っ!? 木が、喋った……!?」
カサカサと葉を揺らし、木が億劫そうに言葉を発したのだ。
大木は、黄金の目を丸くしている小さなリゼルをじっと見つめ返す。
「おぬしは、一体……」
「俺は、リゼル。えっと……」
自分の名を名乗ったリゼルに、木は深く息を吐き出すような音を立てて、しみじみと呟いた。
「リゼル、というのか……。わしには、名前などない」
「え? ないの? ……じゃあ、『ウッド』で!」
リゼルは思いつくまま、真っ直ぐにその名を口にした。
木だから、ウッド。
子供らしい、とてもシンプルな名付けだった。
大木は一瞬沈黙したあと、目を細めて嬉しそうに髭のような根を震わせた。
「ウッド……。ふむ、なかなか良い響きじゃて」
「うん! 何となく思いついた名前を付けただけだけど、喜んでくれてよかったよ」
元の世界では、大人からも子供からも名前すらまともに呼ばれず、ただの道具や弱者として扱われてきたリゼル。
そんな彼が、初めてこの不思議な洞窟の住人に名前を贈り、心を通わせた瞬間だった。
リゼルは、ビスケットの壁や動く植物たちに囲まれた、信じられないほど広い空間をもう一度見回した。
「ウッド、ここはなんなの?」
「わしにも、わからん。生まれてから結構な年月が経つがのぅ……」
「え?」
何百年も生きていそうなウッドですら知らないという言葉に、リゼルは声を漏らした。
ウッドはのっそりと枝を揺らしながら言葉を続ける。
「ただ、ここへ入ってきた人間は、リゼル、おぬしが初めてじゃ」
「そうなのか……。それにしても不思議だな。ここには、食べるものがこんなにいっぱいある」
飢えが当たり前だった地上とはあまりにも違う楽園。
リゼルが感嘆の息を漏らしていると、ウッドが一本の太い枝を、ある方向へと向けた。
「あっちにもあるぞ? ほれ、あっちじゃ」
「え? うわあ――なにあれ!? 食べれるの? ……あの茶色い液体、あれ何?」
ウッドが指し示した先には、岩の隙間からドロドロと湧き出し、小さな池を作っている不気味な茶色い液体があった。
未知の食材にリゼルが身構えると、ウッドの幹からウネウネと
そして、それを茶色い液体にたっぷりと浸してみせる。
「これはな、こーやってとって、つけて食べるのじゃ」
「えっ? 木なのに手がある! ウッドって不思議だね……。……あ、もぐ。……っ!? なにこれ、美味し……!!」
ウッドの手際の良さに驚きながらも、リゼルはその「液体をつけたビスケット」を口に放り込んだ。
味の薄かったビスケットが、その温かい茶色い液体――濃厚で甘美な「チョコレートの源泉」を吸い込んだことで、脳がとろけるような極上のスイーツへと進化していた。
口いっぱいに広がる芳醇な甘みとコクに、リゼルはまたしても至福の声を漏らすのだった。
「あれなんて、どうじゃ」
ウッドが太い枝で指さした方角を見て、リゼルは思わず顔をしかめた。
「あれ……なに?」
そこに実っていたのは、世にも奇妙な果物だった。
あろうことか、果実の表面には人間のものにそっくりな「顔」が浮かび上がっており、しかもそれらが一様に涙を流して「ぎゃあぎゃあ」と不気味な声で泣き叫んでいたのだ。
ドシン、ドシン、と地響きを立ててウッドがその果物へと近づく。
そして、太い蔦を伸ばして果実を容赦なくもぎ取った。
<ぎゃああああああーーっ!!>
ひと際高い悲鳴が上がったが、ウッドが「黙れ」と言わんばかりに怖い顔で睨みつけると、果物は恐怖のあまりピタリと泣き止んだ。
「え……? 食べれるのか、あれ? すごい恐怖の顔をしてるけど……」
引き気味に尋ねるリゼルに、ウッドは事もなげに言った。
「食べれるぞ。これがまた、美味いんじゃ」
「え? 本当か? ……不気味だな。それにしても、この洞窟は不思議なことばっかりだ。そう言えば……」
リゼルは自分の手のひらを見つめ、さっき化け物と戦ったときの感覚を思い出していた。
ぐっと拳に力を込め、そっと目を閉じる。そして、自分の身体の奥底で暴れていた、あの熱い黄金のエネルギーを、今度は少しずつ、慎重にコントロールするように意識を整えていった。
すると、エネルギーの満ち引きの微妙な「違い」が、感覚としてハッキリと分かった。
(……覚えてる。この感覚だ)
リゼルはさらに集中を高め、体内のエネルギーの歪みを一つ一つ綺麗に整えていく。
その時だった。精神の奥深く、光の届かないさらに向こう側で、何かがカチリと引っかかるような奇妙な感覚を覚えた。
――自分の中に、確実に「何か」がいる。
それは、底知れない飢餓感と、圧倒的な破壊の衝動を秘めた恐ろしい影のようだった。
だが、リゼルはその存在を深く気にすることなく、今はただ眼前のエネルギーの制御に意識を集中させた。
しかし、その静寂を破るように、リゼルの鋭い本能が新たな「気配」を察知した。
何かが、この場所に近づいてくる。
ウッドが立ちはだかるこの楽園の入り口へ向かって、確かにこちらへと向かってくる何者かの足音が、暗闇の奥から響き始めていた。
「なんだ……? 何か来る……」
ただならぬ気配を察知したリゼルは、足音が響いてくる方向へとまっすぐに顔を向けた。
「どうしたんじゃ?」
リゼルのただならぬ様子が気になったのか、ウッドがドシン、ドシンと大きな地響きを立てて歩み寄り、リゼルのすぐ隣までやってくる。
「何か、こっちにくる! ウッド、何か知ってる?」
「んー……。わしは何も知らんのぅ」
ウッドが太い首をひねった、まさにその瞬間だった。
暗闇の向こうから姿を現したのは、信じられないことに「人間」のような形をした存在だった。
だが、その輪郭や胴体はすべて、メラメラと赤黒く燃え盛る「炎」そのもので構成されている。
地面を踏みしめるたびに微かな火花を散らしながら、そいつは静かに歩いてくる。
リゼルはこれ以上ないほどに口を大きく開け、その黄金の目を限界まで見開いてそいつを凝視した。
――なんで、身体が炎なんだ……?
唖然とするリゼルだったが、ふと、ある考えが脳裏をよぎる。
(……待てよ。俺にも、できるかな)
さっき身体の感覚を整えたばかりだ。リゼルは自分の右手に全神経を集中させた。
体内の黄金のエネルギーを、じわじわと拳へと流し込んでいく。
すると次の瞬間、リゼルの小さな手のひらからカッと火花が散り、メラメラと本物の火炎が燃え上がった。
「できた……っ」
リゼルがその炎をさらに細かく調整すると、炎はバチバチと激しい音を立てて勢いよく燃え盛るようになった。
だが、リゼル自身は不思議と全く熱さを感じない。
自分の身体が、その炎を完全にコントロールしている証拠だった。
歩み寄ってきた炎の化身は、リゼルのその手を見て、口元を「フッ」と不敵に歪めて笑った。
だが、それは決してリゼルを馬鹿にするような嘲笑ではない。
その目の奥にあったのは、「まさか一瞬で真似してみせるとは、よく出来たな」と、リゼルの凄まじい適応力とセンスを称賛するような色だった。
「行くぞ……っ!!」
リゼルは地を蹴り、炎の化身に向かって真っ直ぐに突き進んだ。
それと同時に、そいつの巨体もまた激しく炎を噴き上げながら、リゼルへと肉薄する。
お互いの黄金の目と、燃え盛る目が正面から交錯した。
刹那、リゼルが放った渾身の炎の拳と、そいつの強烈な炎の拳が、空間の真ん中で真っ向から激突する。
ドォォォォォンッ!!!
洞窟全体がひっくり返るかと思うほどの凄まじい衝撃波が炸裂し、周囲の空間が大きく揺れ動いた。
お互いの炎の拳が真っ向から激突し、洞窟全体を激しく揺るがす。
「うおおおっ!!」
リゼルは炎を纏った右腕を、思い切り振り抜いた。
拳から解き放たれた火炎が、猛烈な勢いでそいつの顔面へと襲いかかる。
だが、炎の化身は動じることなく、自身の腕を大きく一閃した。
それだけで、リゼルの放った炎は一瞬にして掻き消され、跡形もなく吹き飛ばされてしまう。
能力の格が違った。
しかし、戦いは止まらない。
今度は逆に、そいつが静かに腕を突き出してきた。
リゼルが真似したばかりの炎とは、文字通り次元が違う。
そいつの身体から溢れ出た火炎は、メラメラと音を立てて巨大化し、まるで全てを焼き尽くす「炎の台風」となって洞窟の空間を埋め尽くした。
「うわあああっ!?」
熱風と爆風の渦に完全に巻き込まれ、リゼルの小さな身体は木の葉のように宙へと吹き飛ばされた。
そのまま背後の岩壁へと、ドンッ、と派手な音を立てて叩きつけられる。
「いたたたた……っ」
岩肌に背中を擦りむき、リゼルは顔をしかめて地面に手をついた。
さっき覚醒させたばかりの自分の炎とは、出力も、コントロールも、何もかもが違いすぎた。
まともに喰らえば、一瞬で消し炭にされてもおかしくない一撃。
だが、リゼルは痛む身体を押さえながら、ゆっくりと顔を上げた。
その顔に、絶望や恐怖の色は一切ない。
泥に汚れた黒髪の隙間から覗く黄金の目は、まるで夜空の星のように、爛々とキラキラに輝いていた。
(……すげぇ。なんだよ、あの炎……!)
圧倒的な強者を前にして、リゼルの胸の奥にある「本能」が、激しく、熱く脈打っていた。