「……ああ、うちのヴィルヘルムは、先日亡くなってしまったのです」
1808年の暮れ、連邦のとある玄関先で、立ち尽くす少女が一人あった。
言葉が通じなかったのではない。彼女は幼くして既に連邦語に堪能であった。
若輩17歳にして奨学金を与えられ、この半大陸を周遊し見聞を深めるつもりであったのだ。
それにしても、彼女の内心の落胆は推し量るに余りあった。
1801年から
なにしろ、目に見えない光が
化学物質であれば、目に見えるばかりか、手に取って扱うことすらできる。
少女はその偉大な化学者に一目会ってみたいと思っていた。何より面白い発想が得られるに違いないと思っていた。
「……それは、残念なことです」
崩れそうになる姿勢をなんとか取り繕って、あくまで少女は儀礼をもって応対する。
「わざわざ遠くから訪ねてくださったのでしょう?」
「ええ、師からも聞いておりましたし、この周遊の一つの目標でしたから」
「どうぞ家へお入りください。うちは裕福ではありませんで、ささやかですが、歓迎いたします」
「では、お言葉に甘えまして」
紹介のとおり決して裕福とは言えない家には、調度品に交じって様々な実験器具が並べられており、そのひとつひとつが少女の興味を引いた。それだけでもここに来た甲斐があったと、少女は安心する気持ちになった。
「好きなだけ見て行ってくださいな。私にはよく分からないものも多いですから、きっと貴女様のほうが夫の思い入れを感じてくださるはずです」
少女は自らの興味のままに人の家の内装に見入ってしまったことを恥じたが、反面、心の中でとても満足していた。この数々の品から彼の発想を感じ取れればもっと良い。
そのまま台所に入っていったドロテアさんが料理をするのを手伝おうとしたが、夫の部屋でもゆっくりと見て行ってほしいと言われ、少女はもてなしを大いに堪能した。
「……美味しい」
「ヴィルヘルムもそのスープが好きだったんです。お口に合ってよかった」
異国の地で、少女は心の底から温まるような心地がした。
しばらく味わっていると、「……しばしお待ちください」と少女をもてなしてくれた女性はどこかへ歩いて行った。
それから少しして、女性は鞄にいっぱいの紙を持って戻り、深々と頭を下げた。
「……不躾なお願いでございます」
「なんですか……これは」
「……うちのヴィルヘルムは、きっと私とは違う見方で世界が見えているのでしょう。ですが、なかなか理解されないのです」
「……」
実際、その通りではあった。彼の理論は、なんというか独特なのだ。
世界の真理を追い求めようとする余り、彼には考察に飛躍が多いという一種の癖があった。
閃きや新奇な発想がなくては偉大な発見などできないということには納得するが、あらゆる現象を二元論的に整理しようとするなど、いくらか擁護困難な言説もあった。
もちろん、
だが、彼のその性格が彼自身の偉大な発見から目を逸らさせ、功績が認められるのを妨げていることも少なくなかった。
すなわち。
「こちらは彼のメモの束でございます。機を見て相応しい方にお渡しするつもりでありました」
「しかし……」
「……このようなお話をご存知でしょうか」
女性は語りはじめた。
曰く、彼はある日
頭が痛くなるような話だった。態度がいくら優しかろうが、このようなことをしていては認められるものも認められない。
話を戻せば、つまりは、そのメモ束の中にも、未公表の事実、未検証の仮説がたくさん詰まっているに違いないということだ。
少女が伝え聞いた報は、そして半大陸じゅうの科学者が伝え聞いた報せは、実のところ、氷山の一角でしかなかったのである。
「…………そういうことであれば、謹んでお受けいたしましょう。化学者の使命として、責任を持ってお預かりし、然るべき形で公表することにいたします」
若い化学者の献身を目の当たりにしたドロテアは、身体が干上がりそうなほど泣いて喜んだ。
「ああ、ああ、ありがとうございます、ありがとうございます。なんとお礼を申し上げたらよいでしょう。私は貴女の名前を生涯忘れません。……いま一度、直接お教えいただけますでしょうか」
少女は微笑んでこう言った。
「わたしはヨハネ。ヨハネ・エルステッドです」
それは後に半大陸じゅうの誰もが知ることになる、偉大な化学者の名前であった。