序盤1/ヴィルヘルミネ・シゼル
「お初にお目にかかります。ヴィルヘルミネ・シゼルと言います」
肌寒い風とともに玄関を訪ねてきた少女に、エルステッド嬢は驚いていた。
……この子は誰だったろうか。親戚?
親戚だって?私はなぜ親戚だと思ったのだろう。こんな覚えのない少女を?
……いや、覚えはある。この子自身が言うように、会ったことはないが──そうだ。父の旧友の娘が私に憧れているとかで、私のもとへ助手に寄越したいと思っているとか、そんな手紙を受け取った気がする。
そんな思いをたっぷり巡らせて、エルステッド嬢は、
「…………………………今日か」
と呟いた。
「まあ、入り給えよ」
「お邪魔します」
シゼルと名乗った少女は、底冷えのする私の家に身を震わせた。既にこの王都にも1820年の秋があらゆる方向から迫り来て、気温は10度を割るような日も訪れはじめていた。
「わぁ……」
どうやら私の実験装置に興味津々のようだ。私もかつて同じ目をしていた。連邦のリッター家を訪れたことが昨日のように懐かしい。
「君は何歳になった?」
「17です!」
「そうか……あの時の私と同じか」
ドロテアさんは今でも元気にしているだろうか。
この子にもあったかいスープを作ってあげよう。
「美味し~い!」
「それは良かった」
「それで……」
リッター家には後ほど手紙でも出すとして、目の前の助手へ指導をするからには聞いておかねばならないことが一つある。
「さて、君はどこまで化学を知ってここに来た?」
「そうですね……」
シゼルはしばらく考え込んでから口を開く。
「薬学の理論と実践は父からみっちり教わりましたし、本も読みました」
「そうか、君の家も薬局なのか」
「はい、結構鍛えられてきました」
それなら化学実験の操作の基礎は押さえているといって良いだろう。
「あとは『化学綱要』も読みました」
「改訂版を?」
「はい、もちろん!あれは衝撃でした、燃素説から脱した体系化による薬局方も──」
シゼルは喋りかけて何かに気づいたような顔をして口を覆う。
「良いんだ、シゼル君。ここでは喋りすぎるということは無い。助手らしく、思ったことを自由に発言してくれ」
するとシゼルの顔は霧が晴れたように明るくなって、
「はい!ありがとうございますっ」
と元気な返事をするのだった。
「ああ、あと、それから……化学ではないんですけど、『自然科学基礎』も読みました」
「なおのこと良い」
光学に関しては家の中で講義でも開いてゆっくり育てようと思っていたのだが、どうやらその必要もなかったようだ。
「私がいま研究しているのは光化学だ」
「光化学……ですか。リッターさんの遺稿を引き継いで紫外線の研究をされていたのですよね」
「ああ、そうだ。他にも化学や物理の範囲で細々した研究もしている」
「お手伝いするのが楽しみです!」
「元気があって何よりだ……では明日から頼むよ」
「え、あの、今日からでも……」
「今日は新しい環境に慣れるのと疲れを取るのが先だ。使っていない部屋が奥にあるから、そこで休むと良い」
するとシゼルがあからさまにしょげた表情をするものだから、エルステッド嬢はつい笑ってしまった。
「よろしい。まあ、実験器具を見て回るくらいは許可しよう」
「やった!」
騒がしくなりそうだが、それも良いだろう。
知見と視点を集めることが自然科学の真髄だ。
ヴィルヘルミネ・シゼルのモデルとなった人物はウィリアム・クリストファー・ツァイゼです。
出発点を揃えたエルステッド嬢とは違い、登場以降は弟子であること以外の何もかもが違います。
if史が違いすぎてネタバレにならないので、Wikipediaや根気のある人はデンマーク語の人物記などを追ってみてください。