蜘蛛の糸に掴まると学校エリアの花瓶から抜け出すことになる。
それを経験では知っていたが実際に人の脱出を見るのは初めてだった。
まるでランプの精のように花瓶の口から金森が咲き現れた。
「……なんですか」
「別に、ただ面白かったから」
「ならいいですけど……ここも崩壊してますね」
地獄の崩壊は物理的な崩壊だった。
教室の崩壊はどうやらまた違った崩壊のようだ。
照明がついていないせいか教室全体が暗い。それでも目を凝らすと崩壊が見えてくる。
壁紙が皮をむくように剥がれていく。黒板に亀裂が広がっていく。
机は錆び付き始めていていくつかは脚がダメになって倒れている。
唯一、隅に綺麗に整えられた花瓶だけが崩れてない……と思っていたら少しずつ砂になっていた。
ガラスが無くなった窓からは夕日が差している。夕日が当たった床は腐って、溶けて、なくなっていく。
さしづめ、時間的な崩壊とでもいうべきだろうか。
今はまだか辛うじて『学校の教室』の体裁を保っているが、いつ全て崩れるかは分からない。
「巻き込まれる前に出るか」
「そうですね」
『待ちなさい!』
床に乱雑にばらまかれた教科書の山。その中の一冊がよたよたと浮かび上がった。
「教科書先生か……何の用だよ」
「僕たち急いでいるのですが……」
『日明之菊花は救えません』
「……今更それを言うのですか?」
「悪いがそんなこと俺たちも分かっているんだ。用がないなら先に」
『いいえ分かっていません』
教科書先生が突然目の前に移動してきた。
俺たちの進路を阻むように羽ばたいている。
『断言します。日明之菊花は死んでいます。そしてそれは再生しない。魂があっても入れる身体がないのです』
思い出す。
早朝首を括られた菊花の死体を、灰となって戻らない命を見た。
この異世界はファンタジーだ。精霊がいて、地獄があって、地面に落ちたら空から落ちる。
多分ある程度の無茶は通る。
だけど現代日本は違う。身体が必要で、戸籍があって、一度死んだら蘇らない。
「まだ分からないだろ」
『でも、そうなる可能性が最も高い』
教科書には腕も足も顔もないけれど、仕草で分かる。俺たちは優しくたしなめられていると。
『希望が絶望に変わる時こそ最も苦痛が大きくなります』
0から-100に落ちた時と100から-100に落ちた時、どっちの落差が激しいかなんて誰でもわかる。痛みとは落ちた場所ではなく、落ちた距離で決まるのだ。
『希望論しかないあなたたちはそれでも日明之 菊花を助けるというのですか』
下手に喜ばせるだけ喜ばせて結局助けられないなら元も子もないどころか、より悲しませることになってしまう。
それならば日明之菊花の覚悟が固まっている今、彼女自身の手で死なせた方が幸せなのかもしれない。
そんなわけないだろ。
「助けるに決まってんだろ。今更聞くんじゃねえよ」
「ヨスガくん……」
「死ぬのがいいに決まってるわけがねえ。何もしないならこのまま終わるだけだ。なら足掻くだけ足掻いた方が良いに決まってる」
確かに失敗するかもしれないさ。だけど何かする前に諦めたら、絶対に成功しない。
失敗を恐れて何もしないやつを賢いと俺は思わない。
俺の返答を聞いた教科書は、ため息をつくような動きをした。
『私にあなたを止める力はもうありません。そこに扉から先に進めますのでどうぞ好きにしなさい』
教科書は急にやる気を失ったようにへろへろと教壇の上に伏せた。
学校エリアが崩壊している今、この教科書の力も残っていないのかもしれない。
ここにいてもやることはない。
俺たちは学校エリアから抜けるために扉に手を掛けた。
『そこの』
「ん?」
『そこの花瓶、一つだけ残ってるでしょ。それは予備。何も入れてないから残ってるの』
窓際の一番最後の席に花瓶が一瓶ぽつんと置いてある。
二日目に、俺が閉じ込められた花瓶もあの位置に置いてあるものだったか。
他の花瓶は中に入った地獄が壊れたから連鎖的に崩壊したけど、この花瓶だけは何も入っていないから無事だったってことか?
『使い方は捕まえたいものに向けて捕獲というだけ。取り出すときは割るだけでいい。便利でしょう?』
「持っていっていいのか?」
しかし教科書先生は何も答えなかった。
見て見ぬふりをしているのか、本当に気力が尽きたのか。
どちらにしてもあって損するものではないだろう。
シャベルを持ってない方の手で花瓶を掴んだ。
「ありがとう」
そう言って俺は金森が明けてくれた教室の扉をくぐった。
はら、と紙が擦れる音がした気がする。
学校エリアはきっと崩壊した。