現実世界は夏だと言うのに、この世界は快適すぎるほど歩きやすい。
対した労苦もなく、俺は再び学校の扉のもとにたどり着けた。
「ありがとうな、案内してくれて」
精霊に謝意を示すと満足げに去っていった。
精霊は異世界の存在と言うには少しというかかなり接しやすい存在だった。
少なくともあの飛ぶ教科書よりははるかに道理が通る。
あの教科書は何かの法則に従っている、生物というよりも装置と言う方が近いだろう。そんな装置が人を一瞬で無力化できる手段を持っている。
恐ろしい存在だ、だが俺が今から会いに行くのはその恐ろしい存在だ。
「よし、行くか」
気合を入れて俺は教室の扉を開けた。
「……なんだこれ」
昨日も来た教室は今日になって何故か見るも無残に荒れ果てていた。
椅子や机はなぎ倒され、窓はひび割れて、山積みの教科書は教壇から散乱してしまっている。
「こりゃ他の教室が無事かもわからんな……と、なんかこれだけイヤに綺麗だな」
教室後方の隅、そこには花瓶が綺麗に整列させられていた。
昨日は机に一個ずつあったあの花瓶だ。それだけが傷一つなく整然と並んでいる。
辺りの壁や床が傷だらけ陥没まみれなだけにこれだけが異質だ。
「もしかしてそれほどまでに大切なもんなのか」
昨日花瓶に入れられた時、周囲の花瓶から残響のようなものが聞こえた。
花瓶を1つ手に取って、耳に当ててみる。
音が、聞こえる。音が、情景となって脳に入ってくる。
聴覚を通しているはずなのに目の前に景色として広がってくる。
ごうごうと熱される荒野、しゅるしゅるりと蛇が狙いを定める音、ひゅんるりどろろと人玉が宙を舞う様子、それらが耳で見える。
この景色、学校の証言にあったものと同じだな。
もしかしてと思ってほかの適当な花瓶にも耳を当ててみる。
「同じ景色が聞こえてくるな」
推測だが、この花瓶は通常あの地獄の世界を封じているのではないか?
それも一つで封じているのではなく、大量の教室の無数の花瓶で封じている。
当然か、人々の思いが凝集したものが地獄とするなら、たった一つの容器で収まるわけがない。
そしてこれらはこの荒れた惨状の中でも守られる程大切なものらしい。
なるほど、使えるな。
俺はありったけの嫌味を込めて振り向く。
「教科書先生、聞こえてるんだろー? 返事しないなら今からこの花瓶を1つずつ破壊していきまーす」
がさ、と紙の擦れる音がした。
「どうせ3回警告飛ばさないと捕獲できないんだろ? 警告し終わるまでに一体何個の花瓶をけり壊せるでしょうか!」
「やめなさい……そんなことをしてもあなたに利はありません」
ばさりばさと教科書が一体浮かび上がってきた。
やっとあの教科書先生を対話のテーブルに着かせられた。
「へえ、やっぱり意識あるんじゃねえか」
「通常このような対応を取ることはありません」
「じゃあなんで答えてくれたんだ?」
俺は近くの机と椅子を戻して、座る。
「それは先ほど日明之菊花が私を攻撃したことで臨機応変に対応するためのロックが外れたからです」
「キッカが攻撃した? じゃあつまりこの惨状はキッカが作ったっていうことか?」
「その通りです。金森優太が日本へ帰還した後、日明之菊花は激情のまま力を行使し教室内を破壊しました」
「金森が帰ったあと……ってあの馬鹿何言ったんだよ」
キッカはそこまで怒りやすい性格ではない。むしろ温厚な方だ。
そんなキッカにここまでの八つ当たりをさせるなんて何を言ったらそうなるんだ。
「注意点として、金森優太に悪気は決してありませんでした。日明之菊花を極度に刺激することは彼の意に反しています」
「あいつも想定外だったってことか? キッカに謎の儀式をさせたあいつを信じろと?」
「はい。金森優太は一貫して日明之菊花を案じて行動しています」
これを言ったのがどこのやつとも分からん人間なら切り捨てたが、この教科書先生は良くも悪くも自身に書かれていることを中心に喋る。
嘘をつくとは考えづらい。
「じゃあ聞かせてもらおうじゃねえか。金森優太が2年前しようとしていたことを」
「その前に、この世界が何でできているかご存じですか? 灰原夜須賀くん」
「人々の思いだったろ」
「数十年前の生徒の思いと日明之菊花の記憶です」
そんな昔から蓄積されていたのか。
「数十年前のこの高校がどのような高校だったかはご存じですか?」
それくらいは聞いたことがある。確か……
「泣く子も黙るスパルタ高校」
「そうです。その時の生徒にとってはきっと地獄のような高校だったのでしょう」
「それが地獄のイメージにつながっていると? ならなんで現代になって実態化したんだ」
「蓄積ですよ。大なり小なりいつの時代にも学校を辛い、地獄だと思う生徒は居ます。そのような生徒の思いの蓄積によって2年前、イメージは臨界点に達しようとしていました」
記録では金森が長時間の実態化の発生を恐れていたな。
それが実際に起きそうになったってことか。
「少し場所を移しましょう、灰原夜須賀くん。後ろの花瓶のどれか一つに足を入れてみてください」
「……騙そうとしてないか? ってかそもそも入れるのか」
「安心してください、入ろうとすれば入れますので。では私についてきてください」
教科書先生はばっさばっさと俺の横を通り抜けて、そのままさっき俺が耳を当てた花瓶に入っていった。
多少不安はあったが、付いていかなければ話は進まないんだろう。
俺は花瓶に足を掛ける、するとどうだろうか。見る見るうちに俺の身体が花瓶の中に収まってしまった。
「どこだここ!?」
気が付けば俺は上空、頼りない一本の糸を掴んだ状態で宙に浮かんでいた。
「地獄エリアの上空です。よく見えるでしょう」
隣では教科書先生が飛んでいる。
見渡すと確かに、話に聞いた絵本でみるような地獄が広がっていた。
「あなたが掴んでいる糸は昇降用です。もし地獄に落ちた場合はそれで復帰できます。覚えておきなさい」
「まず落ちたくねえんだけど……」
絵本と違うのは複数の大蛇が沢山人玉を追い回しているところだ。
あの執念深い蛇はこっちでも人を追い回しているらしい。
「安心を、あの蛇は人を追い回す性質があります」
「どこに安心できる要素があるんだよ」
「ただし、今追いかけている人玉は人ではありません」
「それは、どういうことだ?」
「日明之菊花がこの世界で体を持つように、この地獄を形成した人たちの思いというのも体を持っていたのですよ」
「それがあの人玉だったってことか?」
「最初はそうでした。しかしあまりにも惨いと感じた日明之菊花は人玉から自我を抜き取り、代わりの身体を与えました。あの人玉はその抜け殻ということになります」
「そんなことしてたのか。その抜き取った自我ってのはどこに入れたんだ?」
「森にいた精霊がそれです」
「あいつら元は人だったのか!」
道理で日本語が通じるし、常識があると思った。
元が日本人なら当然だ。
ってかあの蛇って人を追い回すのか……やっぱり普通に危険な存在じゃねえか。
「そろそろお気づきかもしれませんが、順当に地獄が実態化した場合あの蛇が追い回していたのは実際の人間だったのです」
「そりゃ、やばいな。人死にがでるぞ」
教科書はうなずくように身体を揺らす。
「地獄が実態化すれば被害が甚大になることは明白、それを阻止しようとしたのが金森優太でした」
「それは知ってる。肝心なのはどうやってだ?」
「別のイメージで中和するのです。地獄のイメージを他のイメージで薄めれば被害の減少を見込めます。そして実態化する時の方向性もコントロールできるかもしれません」
金森の記録でもコントロールって単語がでてきたな。間違ってはいなさそうだ。
「彼は思い入れのある私物を用意し、そこに地獄のイメージを押し込めることで中和を試みました」
「失敗したんだろ」
「はい。彼は儀式の途中で地獄の実態化現象に巻き込まれました。それも今までにない長期間の実態化です。それによって儀式を進めることが不可能になりました。なおその際に使用されなかった彼の私物は下に溜まってます」
直下を見るとそこだけがオアシスのように水が溜まっており、底にいくつかの服や本が沈んでいた。
「だが、地獄はそのまま異世界になっていない。なら誰がそれを引き継いだんだ……」
「もうお判りでしょう、日明之菊花です」
「知りなさい。彼女の最期を」
教科書の自我はかなり薄いです。数少ない教師のイメージを無数の教科書に薄めているので