無職転生――シルフィエットside
『嫉妬』
ナナホシが嫌いだった。
最初から、というわけじゃない。
最初は、むしろ可哀想な人だと思っていた。
この世界に突然飛ばされてきて、帰る方法もわからない。
魔力もない。
この世界の常識も知らない。
頼れる人もいない。
だから、ルディが彼女を助けようとするのも、当然だと思っていた。
ナナホシは、ルディと同じ日本という場所から来た人だった。
ボクには知らない話を、二人だけが知っている。
ボクにはわからない言葉。
ボクにはわからない食べ物。
ボクにはわからない思い出。
ルディがナナホシと話している時だけ、ボクの知らないルディがそこにいる。
それが、少しだけ寂しかった。
でも、それだけだった。
……最初は。
⸻
昼食の時だった。
ルディがナナホシのために、日本の料理を作っていた。
楽しそうに話すルディ。
ナナホシも、最初は興味深そうに聞いていた。
そのうち、二人で昔の話を始めた。
ボクにはわからない話。
ボクには入れない話。
ただ、隣に座って聞いているしかなかった。
その時、初めて思った。
――ずるい。
ナナホシが悪いわけじゃない。
ルディが悪いわけでもない。
それなのに、そう思った。
ボクには絶対に入れない場所を、ナナホシだけが持っている。
それが、どうしようもなく嫌だった。
⸻
その日の夜。
ボクは一人でベッドに横になっていた。
ルディはまだ勉強をしている。
いつものことだ。
いつもなら、少し寂しくても我慢できる。
ルディにはやることがある。
家族もいる。
仲間もいる。
そして、ボクがいる。
それで十分だと思っていた。
なのに。
ナナホシのことを考えると、胸の奥がざわざわする。
ルディは、ナナホシを助けたいと言った。
故郷が同じだから。
困っているから。
それだけ。
それだけなのに。
ボクは、怖かった。
いつかルディが、ボクよりもナナホシを大切にするんじゃないか。
そんなことを考えてしまった。
「……馬鹿だな、ボク」
そんなこと、あるわけがない。
ルディはボクを愛してくれている。
ロキシーがいることも受け入れた。
ボクも、それを受け入れた。
だから、ナナホシくらいで騒ぐ必要なんてない。
そう思った。
でも。
心の奥では、別の声がしていた。
――ナナホシがいなければいいのに。
⸻
その声を、最初は無視した。
次の日も。
その次の日も。
でも、消えなかった。
むしろ少しずつ、大きくなっていった。
そしてある日。
ボクは気づいた。
自分でも、恐ろしいことを考えている。
ナナホシが死んだら。
ルディは悲しむだろう。
でも、時間が経てば忘れる。
少なくとも、ボクの前からナナホシがいなくなる。
そうすれば、ルディはまたボクだけを見てくれる。
「……何を考えてるんだろう、ボク」
自分で自分が嫌になった。
だから、決めた。
絶対に何もしない。
そんなことをするくらいなら、自分が苦しめばいい。
そう思った。
――そのはずだった。
⸻
ナナホシが咳をしていることに気づいたのは、その少し後だった。
「ゴホッ……ゴホッ……」
苦しそうだった。
クリフのところへ行こうとしていたらしい。
でも、タイミングが悪かった。
そして、ボクのところに来た。
「ボクが掛けるよ」
そう言った。
ナナホシの首筋に手を触れる。
魔力の流れを感じる。
弱い。
不自然なくらい弱い。
その瞬間。
頭の中に、あの声が響いた。
――今なら。
ほんの少し。
魔力の流れを乱すだけ。
誰にもわからない。
事故にできる。
ボクの指先が震えた。
「……」
ナナホシが、ボクを見た。
「お願い」
その言葉で、手が止まった。
この人は、ボクを信じている。
それなのに。
ボクは――。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ。
魔力の流れを変えた。
⸻
「ゴホッ……ゴホッ……!」
ナナホシが咳き込んだ。
ボクは慌てたように声を上げる。
「あれ?」
自分でも驚くほど自然な声だった。
魔力を通す。
でも、治さない。
治せないようにする。
ナナホシの中で、魔力が暴れた。
「え?」
次の瞬間。
血が飛び散った。
「……!」
ナナホシが膝から崩れ落ちる。
床に赤いものが広がっていく。
頭の中が真っ白になった。
違う。
こんなはずじゃなかった。
こんなに血が出るなんて。
こんなに苦しむなんて。
ボクは、ただ――。
「シルフィ」
ルディの声。
その瞬間、身体が凍った。
見られた。
全部、見られた。
「ち、違う!」
気づいたら叫んでいた。
「ボクじゃない。ボクはやってない!」
嘘だった。
ボクがやった。
ボク自身が知っている。
なのに、口から出たのは別の言葉だった。
「さっきは確かにあんなこと言ったけど……ちょっとイジワルしようと思っただけで……」
涙が出てきた。
「こんなこと……こんなこと、するつもりじゃ……」
ルディが近づいてくる。
逃げられない。
殺される。
嫌われる。
そう思った。
でも。
ルディは、ボクを責めなかった。
ポケットからハンカチを出して、ボクの顔についた血を拭った。
「大丈夫だ」
優しい声だった。
「シルフィ、俺はちゃんと見てたから。シルフィは悪くない」
「……」
胸が締め付けられた。
違う。
ルディ。
違うんだ。
ボクは――。
「大丈夫。シルフィはやってない」
「……うん」
また、嘘をついた。
⸻
その後。
ルディはナナホシを助けるために走り回った。
クリフを呼び。
ペルギウス様に助けを求め。
治療法を探した。
そして。
「ボクも手伝う」
ボクは言った。
ナナホシの治療を。
自分が傷つけた人の治療を。
贖罪のユルズの力を借りて、ボクはナナホシの隣に横たわった。
ナナホシは苦しそうに息をしていた。
時々、咳をする。
そのたびに、胸が痛くなる。
ごめんなさい。
心の中で何度も謝った。
でも、口には出さなかった。
もしここで本当のことを言ったら。
ルディはどうするだろう。
きっとボクを嫌いになる。
それでもいい。
そう思うべきだった。
なのに。
怖かった。
ルディを失うことのほうが、もっと怖かった。
⸻
四日目。
円卓の間に呼ばれた。
ナナホシの病名が判明したらしい。
「ドライン病です」
ボクは黙って聞いていた。
太古の昔に存在した病気。
魔力を持たない者が長い年月をかけて発症する病。
つまり。
ナナホシは、いつかこうなっていた。
ボクが何もしなくても。
いつか。
同じように。
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
――ボクのせいじゃない。
そう思った。
でも、同時に。
――本当に?
という声も聞こえた。
病気だった。
それは本当。
だけど。
あの日。
ボクが魔力を乱した。
それも本当。
病気だったから死ぬかもしれない。
だからといって、ボクが何もしなかったことにはならない。
⸻
その夜。
医務室に戻った。
ナナホシは眠っていた。
いや。
眠っているというより、時間を止められている。
もう、苦しんではいない。
ボクはベッドの横に座った。
「……ごめんなさい」
初めて、声に出した。
当然、返事はない。
「ナナホシ」
手を握る。
冷たい。
「ボクね……ルディが取られると思ったんだ」
自分でも馬鹿みたいだと思う。
「ナナホシは、そんなつもりなかったのにね」
涙が落ちた。
「ルディはボクのことが好きなのに」
それでも。
怖かった。
「日本の話をしている時のルディ、すごく楽しそうだった」
ボクには知らないルディ。
前世のルディ。
ナナホシだけが知っているルディ。
「だから……嫌だった」
手を強く握る。
「でも、殺したかったわけじゃない」
それは本当だった。
少なくとも、ボク自身はそう思っていた。
「ただ……いなくなってくれればって」
そこまで言って。
自分で気づいた。
それは。
殺したかったのと、何が違うんだろう。
⸻
扉の向こうから足音が聞こえた。
「シルフィ?」
ルディだった。
ボクは慌てて涙を拭った。
「どうしたの?」
「いや、様子を見に来ただけ」
ルディがナナホシを見る。
「まだ、眠ってるね」
「うん」
ルディは少しだけ悲しそうな顔をした。
そして。
ボクの頭を撫でた。
「ありがとうな、シルフィ」
「……え?」
「ずっと治療を手伝ってくれてるだろ」
「うん」
「ナナホシも、きっと感謝してると思う」
「……そうかな」
「ああ」
ルディは笑った。
「シルフィは優しいからな」
胸が痛かった。
優しくなんかない。
ボクはこの人を殺そうとした。
なのに。
ルディは、ボクを優しいと言う。
「……ルディ」
「ん?」
「もしさ」
言葉が出てこない。
もし、ボクが本当のことを言ったら。
ルディはどうする?
そう聞きたかった。
でも。
「……なんでもない」
「そう?」
「うん」
ルディは不思議そうに首を傾げた。
そして、そのまま部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静かになった。
ボクはナナホシを見る。
「……ごめんなさい」
もう一度だけ呟いた。
それから。
誰にも聞こえない声で続けた。
「でも……ルディは、ボクのものだから」
言った瞬間。
自分が怖くなった。
そんな自分を、今まで知らなかった。
でも。
もう知ってしまった。
だから、二度と忘れることはできない。
ボクはナナホシの手を握ったまま。
夜が明けるまで、そこに座っていた。