太古の地上。まだ「幻想郷」という概念すら存在せず、世界がただ荒々しい原始の暴力に満ちていた時代。
大気を揺らすのは、現代の図鑑には決して載らない巨大な原生生物たちの咆哮だ。
山をも砕く巨躯を持った異形の獣が、一人の男を噛み砕こうと、その血生臭い大口を開いて突進していた。
「――グルァァァァァッ!」
地響きを立てて迫る理不尽な暴力。
だが、その前に立つ男――『二虎(にこ)』は、怯むどころか、不敵な笑みをその口元に浮かべていた。
端正だが、どこか野性的で飄々とした面構え。
羽織ったボロ布のような衣服の隙間から覗く肉体は、神の領域でとある死闘を経て「人間を超越した」鋼の筋肉だった。
「おいおい、挨拶代わりにしちゃあ、随分と威勢がいいじゃねえか」
二虎は十鬼蛇二虎さながらの、低く、どこか余裕のある声を響かせる。
かつて彼が持っていた「漫画の知識」は、生き残るための狂気によって現実の技となっていた。
今や彼の肉体には、あの四大系統の型が血肉となって刻み込まれている。
「操流(そうりゅう)の型――『柳(やなぎ)』」
二虎は迫り来る巨獣の突進に対し、正面から受け止めるような愚は犯さない。
相手の狂暴な力のベクトルを、指先ひとつの触球で狂わせる。
凄ましき質量を持つ獣の身体が、二虎の円運動によって強引に軌道を逸らされ、自重で地面へと激しく転がった。
「ガ、ァ……ッ!?」
「力任せに突っ込んでくりゃあ、そうなるわな。次、行くぞ」
獣が起き上がるよりも早く、二虎の足が爆発的な踏み込みを見せる。
「火天(かてん)の型――『縮地(しゅくち)』」
一瞬にして間合いを詰め、獣の懐へ。
驚愕に目を見開く獣の顎下へ向けて、二虎は拳を握り込んだ。
全身の筋肉を弛緩から一気に緊張させ、破壊力を一点に凝縮する。
「金剛(こんごう)の型――『鉄砕(てっさい)』ッ!!」
ドゴォォンッ!!!
大気が爆ぜるような轟音が響き渡った。
山のような巨獣の身体が、二虎の放った一撃によって文字通り「浮き上がり」、そのまま背後の巨岩へと叩きつけられて粉砕する。
一撃必殺。
二虎は拳についた血をパッパと払い、ふぅ、と息を吐いた。
「……まぁ、こんなもんか。不完全とはいえ、なかなかの出来栄えじゃねえの」
自らの拳を見て、ニカッと笑う。
その頭上、遥か高天からは、かつて彼が捩じ伏せた「あの存在」が、その底知れぬ生涯を見守るような視線を注いでいるのを肌で感じていた。
「さて、今日の飯はどうするかなぁ――」
そう呟き、踵を返そうとした瞬間だった。
「……素晴らしいわね」
背後から、鈴を転がすような、だが圧倒的な「知」の圧力を孕んだ声が響いた。
振り返ると、そこには一人の美しい女性が立っていた。
夜空を溶かし込んだような深い髪。
その瞳には、万物の理を見通すかのような理知的で、同時に酷く冷徹な光が宿っている。
彼女の名は八意永琳(やごころ えいりん)。
永琳は、二虎が仕留めた巨獣の死体と、彼の肉体を交互に観察していた。
その目は、未知の生態系を発見した『学者』のそれだった。
「魔力も、神気も、妖力すらも感じられない。純粋な肉体の連動と、力の方向性の誘導だけで、あの巨獣を屠るなんて。……あなた、何者かしら?」
二虎は頭をボリボリと掻きながら、永琳に向かって不敵に笑いかけた。
「何者、ねぇ。見ての通り、ただのしぶとい人間さ。名前は二虎。……あんたこそ、こんな物騒な場所でお上品に突っ立って、何の用だ? お嬢ちゃん」
「お嬢ちゃん、か。フフ、面白いことを言うのね」
永琳の唇が、妖しく弧を描く。
彼女の目は完全に二虎の「肉体」に釘付けになっていた。
「あなたの身体、歪だわ。人間の構造をしているのに、細胞の寿命という概念が崩壊している。疑似的な不老不死……いいえ、それ以上の『進化』を遂げている。私の医学の歴史を見渡しても、あなたのようなサンプルは存在しない。提案よ、二虎。私の拠点がすぐ近くにあるの。そこでしばらく、私の『研究』に付き合わないかしら?」
「研究ねぇ……要するに、居候させてやるから身体を調べさせろってことか。ま、飯が食えて雨風がしのげるなら、悪かねえ話だ。ただし、痛い注射とか、怪しい薬を一気飲みさせるのは勘弁してくれよ?」
「フフ、善処するわ」
こうして、理不尽な暴力を超えるために「二虎」となった男と、地上のあらゆる理を解き明かさんとする「月の頭脳」の、奇妙な共同生活が幕を開けた。
「さて、二虎。おとなしくそこに座りなさい」
永琳の拠点は、太古の地上にあって、そこだけが異常なほど整然とした空間だった。
「おいおい、お嬢ちゃん。最初から物騒な針を構えるんじゃねえよ。俺の身体が、そのチクッとした痛みに驚いて暴れ出したらどうすんだ?」
「あら、あれだけの武を振るう男が、たかが注射針一本に怯えるのかしら?」
永琳はフッと冷ややかな、しかしどこか楽しげな笑みを浮かべ、二虎の極太の腕に迷いなく針を刺した。
チクリ、とした感覚のあと、透明な筒に赤黒い、尋常ではない密度を感じさせる血液が満たされていく。
「驚異的ね。成分自体は人間のそれと変わらない。なのに、細胞一つ一つの生存本能が異常なほど肥大化しているわ。まるで、身体そのものが『生きる』という意志を持って、常に自己再生と進化を繰り返しているような……。次は身体能力の測定よ。あそこにある特製の鉄塊を、全力で殴ってみて」
永琳が指差したのは、彼女の術式によって極限まで硬度を高められた、巨大な特製の金属柱だった。
二虎は立ち上がり、肩をぐるぐると回しながら金属柱の前に立つ。
ふっと息を吐き、完全な『脱力』状態になる。
「――金剛(こんごう)と火天(かてん)の合わせ技だ。ちょっとばかし、耳を塞いどいた方がいいぜ。……『瞬鉄(しゅんてつ)』ッ!!」
目にも留らぬ踏み込みと同時に、全身の筋肉が鉄のごとく硬化する。
超高速の質量兵器と化した二虎の拳が、金属柱のド真ん中に叩き込まれた。
ズバァァァァァンッッ!!!
鼓膜を破らんばかりの衝撃波が部屋を駆け抜け、永琳の美しい髪が激しく煽られる。
次の瞬間、永琳の術式で強化されていたはずの鉄塊は、中央からひび割れ、大破して消し飛んでいた。
「おっと、壊しちまった。弁償しろって言われても、金なんて持ってねえからな?」
「素晴らしい……! 魔力による身体強化ではなく、肉体の連動と速度の乗算だけでこの破壊力。あなたは本当に、人間の枠組みを壊して進化してしまったのね」
「褒め言葉として受け取っとくわ。……っと、あー。クソ、体動かしたら急に腹が減ってきたな」
ぐぅぅぅ、と二虎の高鳴る腹の音が、部屋中に響き渡る。
二虎は腹をさすりながら、永琳の肩にぽんと手を置いた。
「よし、お嬢ちゃん。身体検査はここまでだ。飯にするぞ, 飯に。美味い肉の獲れる場所まで案内してくれや」
「ちょっと、気安く触らないで。それに、私はまだあなたの反射神経のデータを――」
「細かいことは後回しだ! ほら、行くぞ!」
「ちょ、漸く待ちなさい……!」
永琳の制止を完全に無視し、二虎は彼女の手首を掴むと、そのまま拠点の外へと引っ張り出した。
地上で誰も逆らう者のいない「月の頭脳」が、純粋な腕力と理不尽なペースに巻き込まれ、文字通り引きずられていく。
「なぁお嬢ちゃん、この辺に美味いイノシシのデカい奴とかいねえのか?」
「そんな特定の原生生物の生息地なんて……待ちなさい二虎、そっちは危険な沼地よ。猛毒を持つ大蛇の縄張りが――」
「お、大蛇か! いいねぇ、蛇肉はスタミナがつく。よし、そっちだ!」
「話を聞きなさい!」
永琳の警告などどこ吹く風。
二虎は『縮地』を応用した軽快な足取りで、永琳の手を引いたまま爆走する。
普段は物静かで優雅な永琳の足元が、泥や木の葉でめちゃくちゃに汚れ、彼女の額には青筋が浮かんでいた。
やがて二人の前に、家一軒ほどもある巨大な、紫色の毒霧を吐き出す大蛇が現れた。
「グルルルル……!」
「おいおい、見ろよお嬢ちゃん! 最高のスタミナ食だ!」
「あれはただの毒蛇じゃないわ、数千年生きた妖蛇よ。まともに毒を浴びれば――」
「浴びなきゃいいんだろ?」
二虎は永琳の手をパッと離すと、正面から大蛇に向かって突っ込んでいった。
「水天(すいてん)の型――『水燕(すいえん)』」
二虎の動きが、まるで流れる水のように変幻自在に変化する。
大蛇の牙が二虎の残像を虚しく噛み破る。
その不規則かつ超高速の打撃の雨が、大蛇の巨体に全方位から叩き込まれた。
ドカドカドカドカドカッ!!!
「仕上げだ。操流(そうりゅう)・金剛(こんごう)の組み技――『地伏龍(ちふくりゅう)』ッ!」
大蛇の強靭な尾を掴んだ二虎は、その巨体を信じられない怪力で振り回し、地面へと豪快に叩きつけた。
ズゥゥゥンッ!!!
地響きとともに、大蛇は白目を剥いて完全に沈黙する。
二虎は満足げに腰に手を当て、「へへっ、大漁大漁」と笑った。
背後では、息を乱した永琳が、乱れた髪を直しながら、冷たい、しかしどこか呆れ果てた視線を二虎に送っていた。
「……あなた、本当に私のペースを乱すのが得意なのね。私が地上でこれほど振り回されたのは、これが初めてよ」
「ははっ、そいつは光栄だ。さぁお嬢ちゃん、こいつを美味く焼く方法を教えてくれ。居候の料理番はお前に任せるからな?」
「……タダで食べさせるとは言っていないわ。今日の分のデータ、夜通しきっちり取らせてもらうから覚悟しなさい」
ため息をつきながらも、永琳の唇はわずかに綻んでいた。