それから、どれほどの歳月が流れただろうか。
疑似的な不老不死となり、人間を超越した二虎にとって、時間はその意味を失いつつあった。
永琳の拠点で過ごす日々は、二虎の長い生涯の中でも、格段に騒がしく、そして退屈とは無縁の奇妙な時間だった。
しかし、どんな日常にも終わりは訪れる。
太古の地上はあまりにも荒れ果て、穢(けが)れに満ちすぎていた。
永琳の同胞たる高潔な民――『月の民』は、この地を捨て、穢れなき清浄な世界である「月」へと移住する計画を本格的に始動させたのだ。
旅立ちの日の前夜。
拠点の外、満天の星々と、不気味なほど大きく輝く月が見下ろす丘の上。
二虎は岩に腰掛け、いつものように美味そうな肉を焚き火で炙っていた。
その背後に、静かな足音が近づく。
「……明日、発つわ」
永琳の声だった。
いつも通りの冷徹で理知的な響き。
だが、その奥には、数え切れない日々を共にした『同居人』への、隠しきれない名残惜しさが滲んでいた。
二虎は振り返らず、肉をひっくり返しながら、低く、飄々とした声で応じる。
「そうかい。いよいよお引越しってわけだ。お嬢ちゃんがいなくなると、明日からの飯の味付けに困るなぁ」
「冗談を言っている場合じゃないわ、二虎」
永琳は二虎の隣まで歩みを進め、その端正な横顔を見つめた。
「あなたに、提案……いいえ、お願いがあるの。私と一緒に、月へ来なさい」
その言葉は、真剣そのものだった。
永琳の瞳が、月光を反射して切に揺れる。
「あなたの身体は、私がこれまで見てきたどの生命体よりも歪で、美しい進化を遂げている。穢れに満ちたこの地上に長く居続ければ、その不老不死の肉体も、いつか世界の淀みに蝕まれるかもしれない。月へ来れば、永遠の清浄が約束されるわ。私のそばで、これからも私の研究に付き合いなさい。……悪い条件ではないはずよ?」
永琳にしては珍しい、感情の乗った勧誘だった。
優秀なサンプルを失いたくないという学者としての執着であり、同時に、自分を唯一「お嬢ちゃん」と呼び、対等に振り回してくれた男への、彼女なりの情愛の形でもあった。
二虎は、じっと手元で爆ぜる焚き火の炎を見つめていた。
そして、ふっといつもの不敵な笑みを唇に浮かべると、炙っていた肉をパッと永琳に差し出した。
「ほら、お嬢ちゃん。地上の不味い、泥臭い肉だ。食うなら今のうちだぜ?」
「二虎、私は真面目な話を――」
「俺も真面目な話をしてるさ」
二虎は立ち上がり、大きく伸びをしてから、輝く月を見上げた。
その瞳には、かつて己に誓った「生きる」という一念の光が宿っていた。
「月ってのは、綺麗で、静かで、何もかもが揃ってて、変わらない場所んだろ? ……けどな、俺には上等すぎる。俺は元々、ただの人間でな。必死に泥水をすすって、理不尽な暴力をぶっ飛ばして、ようやくここに立ってる泥臭い男んだわ」
二虎は自分の拳を握り締め、十鬼蛇二虎のような、どこか達観した、それでいて最高に熱い笑みを永琳に向けた。
「俺は、この穢れて、狂ってて、毎日が戦いの地上が気に入ってんだ。どんなに世界が変わろうが、何億年経とうが、俺は自分の足でこの大地を踏みしめて、生き抜いてみせる。それが『二虎』って名前を名乗った、俺の生き方だからな。……だから、月には行かねえよ」
永琳は、二虎の言葉を静かに聞いていた。
目の前の男が、どれほどの『狂気』をもって己の運命を切り開いてきたか、その魂の輝きは誰よりも知っている。
清浄な月という籠の中に、この野性味あふれる虎を閉じ込めることなど、到底できないのだと、永琳は悟った。
「……そう。相変わらず、私の計算を狂わせる男ね」
永琳は小さくため息をつき、差し出された肉を遠慮がちに受け取ると、上品に一口齧った。
野生の血生臭さと、二虎の雑な味付け。
「本当に、美味しくないわ」
「ははっ、そいつは悪かったな。だが、忘れられない味だろ?」
永琳は肉をすべて食べ終えると、二虎に背を向け、月へと続く道を歩み始めた。
一度だけ、立ち止まって振り返る。
「二虎。私はこれから、月で気の遠くなるような時間を過ごすわ。……もし、あなたがこの地上の穢れに飽きて、本当に行き場を失ったら、その時は月を見上げなさい」
「おう、そん時は『飯を食わせろ』って、月に届くようなアッパーでも叩き込んでやるよ」
「ふふ、期待せずに待っているわ。……さようなら、私の愛すべき、歪な人間」
月光が永琳の身体を包み込み、彼女の姿は静かに、天へと昇っていく光の中に消えていった。
二虎は一人、誰もいなくなった夜空を見上げ、ボリボリと頭を掻いた。
「あーあ、行っちまったか。明日から本当に静かになっちまうな。……さて、次はどの化け物をぶっ飛ばしに行くかねぇ」
男は不敵に笑い、再びその拳を握りしめ、果てしない時間の先へと歩み出すのだった。