永琳が月へと去り、さらに気の遠くなるような歳月が流れた。
時代はさらに下り、地上は妖怪や怪異が跋扈する混沌の時代へと移り変わる。
深い山林を歩いていた二虎は、濃厚な「血の臭い」と、異質な世界の気配を察知した。
気配を追って草むらを掻き分けた二虎の目に飛び込んできたのは、地面に倒れ伏し、激しく息を荒くしている一匹の「狐」だった。
背後には、まだ小さく未発達ながらも、確かに九つの尾が揺れている。
後に八雲紫の式神となる、まだただの『藍(らん)』だった頃の彼女だ。
彼女は弱肉強食の地獄――『畜生界』の凄惨な縄張り争いから命からがら抜け出し、この地上へと逃れてきたばかりだった。
「……っ!」
意識が朦朧とする中で、藍は近づく二虎の足音に気づき、必死に気高さを保ちながら身構えた。
「近寄らないでください……! 私は人間などに屈するつもりはありません……!」
「おいおい、そんなに睨むなって。安心しろよ、俺はお前を食おうってわけじゃねえさ。……だけど、その目はいいな。まだ死にたくねえって、魂が叫んでやがる」
二虎はニカッと笑うと、拒絶する藍を『水天の型』の脱力と柔らかな動きで難なく抱き上げた。
暴れようとする藍の力は、二虎の『操流の型』によってすべて受け流される。
「離しなさい……! 人間風情が、私に触るんじゃないわ……!」
「まぁ寝てろ。お前が死ぬには、まだ早すぎるわ」
二虎は藍を自分の住処へと連れ帰り、手際よく傷の手当てを始めた。
永琳の拠点で散々身体を調べられた経験から、彼は不器用に見えて他人の身体を労る術をよく知っていた。
こうして、ただの二虎と、ただの藍の、約一年に及ぶ奇妙な共同生活が始まった。
原作寄りの、生真面目で理知的、かつ気品のある口調を崩さない藍だったが、二虎の十鬼蛇二虎さながらの図太いペースの前には、そのプライドも形をなさなかった。
「ほら、飯だぞ。今日はそこらの川で捕れたイワナの塩焼きだ。しっかり食わねえと、その立派な尻尾が細くなっちまうぜ?」
「私は妖怪です、人間の施しなど……って、ちょっと! 尻尾に触るんじゃないわ!」
「ははっ、モフモフしてて最高じゃねえか。居候の家賃代わりに、少しは触らせろよ」
二虎は図太さで、藍のペースをことことく狂わせていく。
腹が減れば、まだ傷の癒えきっていない藍を強引に背負い、「ほら、今日は美味い猪の狩り方を教えてやる!」と言って『縮地』で爆走した。
「またそんな無茶苦茶な場所へ……! 待ちなさい、二虎。私は怪我人、いえ、怪我妖なのですから、もう少し配慮というものをしてください……! 目が回るわ……!」
「ガタガタ言うな! ほら、右から突っ込んってきたぞ! 『金剛の型・鉄砕』ッ!」
ドゴォォン!と二虎の拳が巨大な猪を消し飛ばす。
その圧倒的な「武」の輝きを間近で見せつけられるうちに、藍の心境に変化が生まれ始めていた。
畜生界の醜い暴力とは違う、理不尽に抗うための強固な「芯」。
二虎のマイペースさに丁寧ながらも全力で振り回されることが、いつしか彼女にとって、生まれて初めて得られた「心安らぐ居場所」になっていた。
一年が経ち、傷が完全に癒えた朝、藍の妖力は以前よりも遥かに強靭で澄んだものへと進化していた。
ある晴れた朝、藍は自分の九つの尾を見つめ、静かに立ち上がった。
「……この一年、あなたに振り回され通しでしたが、悪くない日々でした。二虎、あなたのその『武』、決して忘れません」
二虎は顔を上げ、ニカッと笑った。
「おう、達者でな。行き詰まったら、いつでも飯を食いに戻ってきな」
藍は深く一礼し、力強く大地を蹴って走り出した。
その後、彼女は大妖怪・八雲紫(やくも ゆかり)と出会うこととなる。
紫は、目の前に現れた九尾の狐――藍の瞳を見て、ひどく興味深そうに目を細めた。
「あら……面白い狐ね。純粋な妖怪の気配の中に、どこか泥臭くも、圧倒的に洗練された『武』の概念が混ざり合っている。あなた、誰に育てられたのかしら?」
藍は、紫の圧倒的な妖力を前にしながらも、背筋をまっすぐに伸ばして答えた。
「……ただの、お節介な人間に、少しばかり振り回されていただけですわ」
「そう。気に入ったわ。私の式神になりなさい。あなたには『八雲藍』の名を授けるわ」
こうして、ただの藍は「八雲藍」となり、大妖怪の右腕としての道を歩み始める。
その魂の根底には、あの熱く飄々とした記憶が、今もなお大切に刻まれていた。