そして現代。博麗神社には、錚々たる顔ぶれが集まっていた。
事の始まりは、八雲紫がふと口にした、素朴な、しかし核心を突く疑問だった。
桜の花びらが舞い散る境内、縁側に腰掛けた紫は、対面に座る八意永琳へと視線を向ける。
「ねえ、永琳。私、ずっと不思議に思っていたの。あなたはどうして、他の月の民と違って地上の『穢れ』をそれほど嫌わないのかしら? それどころか、時に愛おしむようにすら見えるわ」
その問いに、周囲で宴会を楽しんでいた者たちの視線が、自然と二人に集まった。
博麗霊夢、霧雨魔理沙、東風谷早苗、八坂神奈子、洩矢諏訪子、紅魔館のレミリア、フランドール、パチュリー、十六夜咲夜、紅美鈴、伊吹萃香、星熊勇儀、豊聡耳神子、聖白蓮。
幻想郷の歴史を形作る者たちが、静かに次の言葉を待った。
永琳は手元のお猪口を見つめ、どこか遠い目をしながら、ふっと優しく微笑んだ。
「ふふ、そうね……。私の計算を、その圧倒的な理不尽さで何度も狂わせた『歪な人間』がいたの。魔力も妖力もない、純粋な人間の肉体。なのに、細胞の寿命という概念を壊して進化し、疑似的な不老不死となった男よ。名前は『二虎(にこ)』。私の拠点にしばらく居候させていたのだけど……本当に、私のペースを乱すのが得意な男だったわ」
永琳は、かつてその男の強固な腕に注射針を刺したこと、そして自分の術式で強化した鉄塊を、純粋な肉体の連動だけで粉砕された思い出を語った。
「私が身体能力のデータを取ろうとすると、いつも『飯にするぞ』と言って、私の手を引いて未開の森へ爆走するのよ。数千年生きた妖蛇を、ただの格闘技で捩じ伏せてね。『居候の料理番はお前に任せる』なんて、私に大蛇の肉を焼かせたの。あの月の民の頭脳と呼ばれた私を、泥まみれにして振り回した男よ」
永琳のどこか懐かしそうな口調に、周囲から驚きの声が上がる。
「あの八意永琳を顎で使って泥まみれにした人間だと……!? おいおい、嘘だろ、そんな奴がいたのかよ!」
魔理沙が身を乗り出して興奮する。
「へえ、面白そうな人間ね。私の吸血鬼の力と、どっちが純粋な力として上かしら?」
レミリアが不敵に笑うと、パチュリーが本から目を離さずに呟いた。
「魔力を持たずに神獣や大妖の領域に達するなんて、魔導の歴史にもそんな記述はないわ。完全に規格外のイレギュラーね」
その時、永琳の背後に控えていた八雲藍が、静かに一歩前に出た。
彼女の九つの尾が、微かに愛おしそうに揺れている。
「……永琳様。その二虎という男、もしやボロ布のような羽織をまとい、どこか飄々とした佇まいをしていませんでしたか?」
「あら、藍。あなた、二虎を知っているの?」
永琳が驚いて振り返ると、藍は生真面目な口調のまま、しかしその瞳に深い郷愁を宿して頷いた。
「はい。私がまだ『八雲』の姓を賜る前、畜生界から満身創痍で逃れてきたばかりの頃です。死に瀕していた私を救い、約一年の間、私のプライドをことごとくへし折りながら振り回し続けた男がいました。二虎……間違いありません、彼です。私は何度も『もう少し配慮をしてください!』と抗議したのですが、彼は笑いながら、襲いかかる巨大な猪を一撃で消し飛ばしてしまいました。彼の理不尽なまでのマイペースさに振り回されるうちに、私は生まれて初めて、心安らぐ居場所を得たのです。私の『武』の根底には、今も彼の教えがあります」
藍の告白に、今度は紫が目を丸くした。
「あら……。あなたが私の式神になった時、その瞳の奥に泥臭くも洗練された『武』の概念を見たけれど、それは彼の仕業だったのね」
すると、それまで黙って酒を飲んでいた洩矢諏訪子が、ニヤリと笑って口を開いた。
「あはは! なんだ、二虎の話かい? だったらウチの国にもいたよ」
「えっ!? 諏訪子様、本当ですか!?」
早苗が驚愕の声を上げる。
神奈子も腕を組んで頷いた。
「ああ。我が守矢が、まだ東風谷の地に降臨するより遥か昔、洩矢の王国だった時代の話だ」
諏訪子は酒を煽りながら、かつて起きた出来事を語り出す。
「ある日、国で泥棒を働いて大人たちに殺されそうになっていた、泥泥の飢えたガキがいてね。そのガキに『生きる狂気』を見た二虎が、一瞬で大人たちを傷つけずに気絶させて救い出したんだ。そして、そのガキを弟子にして『王馬(おうま)』って名前を与えた。その王馬がさ、二虎から奥義を伝授されてめちゃくちゃに強くなってね。私が気に入って『十鬼蛇(ときた)』の姓を与えて、後に我が国で『武術の神』として祀り上げたんだよ」
「十鬼蛇王馬……!?」
豊聡耳神子がハッと目を見開いた。
「その名、私の耳にも届いています。古代の文献に、神の如き武を振るった伝説の武人として記録が残っていました。まさか、その師が二虎だったとは」
「ふむ、私の寺の古い記録にも、確かに『十鬼蛇二虎伝説』として、理不尽な暴力を打ち破る拳雄の逸話が残されていますね」
聖白蓮が優しく微笑みながら手を合わせ、しかしどこか苦笑いを交えて言葉を続けた。
「……ただ、恥ずかしながら私は、その記録をずっと眉唾ものだと思っていましたのよ。魔力も妖力も持たない純粋な人間が、細胞の寿命すら超越して不老不死になり、拳一つで神仏の領域に達するなど、後世の人間が尾ひれを付けて書いた『ただの誇張されたお伽話』だろう、と。まさか、目の前にいる永琳様や藍さんを本当に振り回していた、実在の人物だったなんて……。歴史の真実というものは、時に想像を超えていくのですね」
白蓮の率直な告白に、周囲の面々も「そりゃそうよねえ」と深く頷いた。
「そもそも、その二虎って名前の由来だって、数億年前の天界で怒り狂った神獣・白虎と対峙した際、彼が放った言葉が始まりなんだろ? 『理不尽な暴力の虎を越える為に、二虎になる』――そう言って自分を『二虎』と名乗ったっていう、壮大な設定があるくらいさ」
諏訪子がさらにそう付け加えると、周囲の熱気は最高潮に達した。
「へえ、十鬼蛇二虎伝説、ねぇ。そんな熱い奴がいたなら、一度ガチンコで殴り合ってみたかったな!」
星熊勇儀が楽しそうに笑うと、伊吹萃香も瓢箪を揺らしながら賛同した。
「だねえ! 神獣を捩じ伏せ、妖蛇を屠り、神の国で武の神を育てた男か。酒を酌み交わしたら、さぞかし美味い酒が飲めただろうに!」
霊夢は、集まった者たちが一人の人間の話でここまで盛り上がっているのを見て、ふっと息を吐いた。
「神獣に月の頭脳、大妖怪の式神に、古代の神々まで……。幻想郷の歴史の裏には、随分と人騒がせな人間がいたのね。で、その二虎って男、今はどこで何をしてるのよ?」
永琳は月を見上げ、紫は境界の隙間から夜空を覗く。
藍は静かに微笑み、諏訪子は空になったお猪口を見つめた。
「さあね。あの男のことだわ、何億年経とうが、世界のどこかで飄々と、泥臭く笑いながら生きているに違いないわ」
永琳がそう言うと、藍が優しく言葉を添えた。
「ええ。もし行き詰まったら、いつでも月に届くようなアッパーを叩き込んでやると言っていましたから。今もこの大地のどこかで、己の『武』を貫いているはずです」
博麗神社の境内に、かつて地上を駆け抜け、多くの超常の存在たちの心に消えない火を灯した男――「ただの二虎」の伝説が、熱く、そして穏やかに響き渡っていた。