石川県、小松空軍基地。戦技競技会当日の朝は、妙に晴れていた。
日本海側の空はもっと重く垂れ込めているものだと勝手に思っていたキリエにとって、その青さは拍子抜けするほどだった。滑走路の向こうには、各地から集まった戦闘機が整然と並んでいる。空軍。防空軍。各戦闘飛行隊。それぞれの整備班。競技会関係者。広報。そして遠くのフェンス際には、望遠レンズの列が朝日を反射していた。
どの機体にも、どこか浮き立った空気があった。特別塗装。ノーズアート。尾翼の意匠。隊の誇りをこれでもかと押し出した戦装束。
305のF-15Jも例外ではない。尾翼に梅。ただし、綺麗に咲いた梅ではなかった。花弁は爆風に裂かれるように散り、その散り際が刃のような筆致で引き延ばされている。機首側には、小さく、しかし力強く四文字。
――徹敵必勝。
爆闘は飛びで見せる。一機殲滅は内側に刻む。外へ掲げる旗は、徹敵必勝。そう決めてから半年、305は飛び続けた。そして今日、ようやくその答え合わせが始まる。
……はずだった。
「なんで戦技競技会の前に、銃剣術と剣道なんですか」
キリエは、体育館の前でそう言った。
隣にいた東雲薫子大尉が、腕を組んだまま振り返る。
「士気高揚じゃ」
「高揚しすぎる人がいるから聞いてるんです」
「誰のことじゃ」
「大尉です」
「よか。正直で」
「褒めてません」
小松基地の体育館では、戦技競技会に先立って、空軍・防空軍合同の銃剣術および剣道大会が行われることになっていた。名目は親善。建前は士気高揚。実態は、飛ぶ前から各飛行隊が意地をぶつけ合う前哨戦である。
どの隊も、表向きは笑っている。だが目が笑っていない。戦闘機隊というものは、空で競う前から負けたくない生き物なのだ。
その中でも305は、特にひどかった。
*
空気がおかしくなったのは、銃剣術の団体戦からだった。
305の面々は、なぜか異様に強かった。いや、強いだけならまだいい。問題は、うるさいことだった。
「エエエエエエエイッ!」
「チェストォォォォォッ!」
「オオオオオオオオッ!」
普段のブリーフィングでは絶対に聞かない種類の奇声が、体育館の高い天井にぶつかって跳ね返る。相手の飛行隊員が一瞬ひるむ。その一瞬に、305の隊員が踏み込む。判定旗が上がる。そしてまた奇声が響く。その繰り返しだった。
控え席で、空軍第303飛行隊の若い隊員が呟いた。
「……あれ、本当に戦闘機隊ですか」
隣の先任が答える。
「たぶん、何か別の生き物だ」
キリエはそれを聞いていないふりをした。聞こえていた。とてもよく聞こえていた。だが、否定できる材料が一つもなかった。
305は、銃剣術の団体戦を順当に勝ち上がった。準決勝では防空軍の別飛行隊を圧で押し切り、決勝では空軍の戦闘飛行隊を相手に、なぜか空戦のような連携を見せた。前が圧をかけ、後ろが間合いを殺す。相手が引いた瞬間に、そこを突く。やっていることは銃剣術なのに、思想は完全に編隊空戦だった。
団体優勝、戦闘第305飛行隊。体育館の端でまばらな拍手が起きる。
キリエは腕を組んだまま、それを眺めていた。
「……いや、強いのはいいんだけど」
横にいた同期が聞く。
「何が不満なんだ」
「戦技競技会、まだ始まってないんだけど」
「始まってるだろ」
「始まってないよ」
「梅組の中では始まってる」
「最悪」
*
そして、剣道個人の部。
東雲薫子大尉の名が呼ばれた時点で、キリエは嫌な予感がしていた。
薫子は防具をつけると、普段よりさらに圧が増す。竹刀を持てば、もはや飛行隊の大尉というより、どこか別の時代から歩いてきた武者にしか見えない。面金の奥の目が、とにかく怖い。
キリエは控え席の端で呟いた。
「なんでこの人、戦闘機乗ってるんだろう」
隣の隊員が真顔で言った。
「空に行ける陸軍」
「言い方」
「間違ってるか?」
「……微妙」
薫子の一回戦は、あっけないほど早かった。
開始線。礼。構え。次の瞬間、薫子の声が体育館を縦に割った。
「キエエエエエエエエエエエエッ!」
キリエは目を見開いた。
「えっ」
普段の薩摩訛りとは、まったく別種の音だった。人間の喉から出ていい周波数なのか、一瞬判断に迷う。少なくとも、作戦室で出したら会議が止まる。
相手も止まった。その止まった一瞬に、薫子が踏み込む。
「メェェェェェンッ!」
乾いた音。旗が上がる。一本。
控え席がざわついた。
「今の何?」
「面だろ」
「いや、技じゃなくて声」
「知らん」
「薩摩?」
「薩摩って何なんだよ」
キリエは額に手を当てた。
「ほんとに何なんだろう……」
二回戦も、構図は同じだった。相手は明らかに警戒していた。間合いも悪くない。開始直後の圧にも備えていた。ところが薫子は、構えたまま妙に静かだった。静かすぎるほどに。
そして、相手が痺れを切らして一歩出ようとした瞬間。
「チェストォォォォォォォッ!」
奇声。踏み込み。面。旗。一本。
キリエは小さく言った。
「剣道って、あれでいいんだっけ」
同期が答える。
「一本入ってるから、いいんじゃないか」
「納得したくない」
準決勝の相手は、さすがに違った。空軍側の剣道経験者で、動きが綺麗で、間合いの取り方が落ち着いている。薫子の圧に飲まれず、じりじりと中心を取りにきていた。
キリエは少しだけ身を乗り出した。
「あ、これはちゃんと剣道になるかも」
そう言った直後、薫子が低く唸った。
「……オオオオオオオ」
キリエは嫌な予感がした。相手も何かを感じ取ったのか、わずかに重心を後ろへ移す。だが、遅かった。
「オオオオオオオオオオオオッ!」
体育館の空気が揺れた。
薫子が前へ出る。相手が受ける。竹刀が打ち合い、一瞬、鍔迫り合いになる。普通なら、そこから崩す。間合いを作り、仕切り直す。だが薫子は、鍔迫り合いの圧そのもので相手を押し下げた。相手の足が半歩乱れる。
「メンッ!」
旗が上がり、勝負が決まる。
キリエは黙った。周囲も黙った。しばらくして、誰かが言った。
「……空軍、防空軍合同大会だよな」
「うん」
「武道大会じゃなくて?」
「武道大会ではある」
「そうじゃなくて、戦闘機パイロットの親善だよな」
「親善の概念が壊れてる」
*
決勝の相手は、戦闘第303飛行隊の副隊長だった。
一目でわかるほど強かった。姿勢が違う。竹刀の構えも、足運びも、間の取り方も、明らかに積んできた年数が違う。そして何より、薫子の圧に微塵も飲まれていない。
体育館の空気が引き締まった。303の隊員たちは控え席で身を乗り出し、305も同じ顔をしていた。さっきまでの見世物めいた騒がしさが、きれいに消えている。
キリエは壁際で腕を組んだまま見ていた。薫子大尉は強い。それはもう疑っていない。だが、相手も強い。奇声と圧で押し潰せる相手ではない。
礼。開始線。構え。
静寂。
薫子は動かない。303副隊長も動かない。竹刀の先が、触れそうで触れない距離で止まっている。間合いの取り合いだ。
これなら剣道だ、とキリエは思った。ようやくまともな試合になった、と。
その瞬間、薫子の目が変わった。
面金の奥で、獲物を見た目になる。キリエは、その目を嫌というほど知っていた。空で前へ出る時の目。一機を見つけた時の目。逃がさないと決めた時の目。
「……あ」
次の瞬間だった。
「キエエエエエエエエエエエエエエエッ!」
この日、一番大きな声が出た。窓ガラスが震えた気がした。
だが303副隊長は下がらなかった。迎え撃つように竹刀を上げる。薫子が踏み込む。足音が床板を叩いた。
「メェェェェェェェェェェンッ!」
竹刀と竹刀がぶつかった。いや、ぶつかったというより、砕けた。
乾いた破裂音が体育館に響く。薫子の竹刀の先が裂けて破片が飛び、303副隊長の竹刀も中程から大きく割れて、竹片が床を跳ねた。
それでも、打突は止まっていなかった。裂けた竹刀の先は、相手の面の中心をきれいに捉えていた。
審判の旗が上がる。赤。一本。
体育館が、一瞬完全に静まり返った。それから、ざわめきが弾けた。
「竹刀、割れたぞ」
「両方じゃないか?」
「何だ今の」
「面だよ」
「面で竹刀が砕けるのか?」
「知らん」
303副隊長は、少し遅れて構えを解いた。面の奥で、呆れたように笑っているのが見えた。薫子も構えを解く。
礼。勝負あり。
剣道個人の部、優勝。戦闘第305飛行隊、東雲薫子大尉。
*
305の控え席は沸いた。銃剣術団体優勝、剣道個人優勝。戦技競技会の本番が始まる前に、梅組はすでに小松基地へ妙な傷跡を残していた。
薫子が防具を外しながら戻ってくる。汗で前髪が額に張りつき、息は少し上がっている。だが、顔は楽しそうだった。
「よか相手じゃった」
303副隊長のことだろう。
キリエは薫子を見た。そして、どうしても我慢できずに思った。
――なんでこの人、陸軍行かなかったんだろう……。
声には出していない。出していないはずだった。
だが、薫子がこちらを見た。
「桐絵」
「はい」
「今、失礼なこと考えちょったな」
「考えてません」
「顔に出ちょる」
「出てません」
「陸軍とか思うたじゃろ」
キリエは黙った。周囲の305隊員が一斉に吹き出す。
「図星かよ」
「桐絵、顔に出すぎ」
「大尉はまあ、陸軍感あるしな」
薫子がぎろりと睨むと、全員が同時に目を逸らした。キリエだけが、小さく言った。
「でも、竹刀砕いてましたし」
「相手も強かったけん、竹刀が耐えられんかっただけじゃ」
「竹刀のせいにするんですか」
「道具も鍛えが足りん」
「竹刀に鍛えを求めないでください」
薫子は笑った。空で無茶な機動を決めた時と、まったく同じ笑い方だった。
*
表彰が終わると、基地の空気は少しずつ戦技競技会へ戻っていった。
体育館の外へ出ると、小松の空は相変わらず青い。遠くでエンジン音が響き、格納庫の方では各隊の機体が最終確認に入っている。305のF-15Jも、そこで出番を待っていた。
特別塗装の梅。徹敵必勝の四文字。それを仕上げた整備員たちの手。半年分の飛行時間。怒号のデブリーフィング。死点確認の一行。今朝の奇声と、砕けた竹刀。その全部が、今日の空へつながっている。
キリエは格納庫の前で、自分たちの機体を見上げた。隣に薫子が並ぶ。
「桐絵」
「はい」
「剣道は終わった。次は空じゃ」
「わかってます」
「さっきの試合、何を見た」
キリエは少し考えた。
「間合い」
「他は」
「圧」
「他は」
「相手が強いほど、中心を外したら死ぬ」
薫子が満足そうに頷く。
「よか」
「剣道の話ですか」
「空の話じゃ」
キリエは一瞬黙り、それから少しだけ笑った。
「大尉って、やっぱり陸軍より空軍向きですね」
「今さら何じゃ」
「竹刀でやってることが、空戦と同じだから」
薫子はにやりと笑った。
「そうじゃ。敵を見て、間を殺して、中心を割る。空でも剣でも同じじゃ」
「奇声も?」
「気合いじゃ」
「無線ではやめてください」
「場合による」
「絶対やめてください」
薫子は答えず、格納庫へ向かって歩き出した。キリエはその背中を追う。
本番はこれからだ。飛行教導群。全国の戦闘機飛行隊。ガンカメラ判定。第一編隊、第二編隊。撃墜判定だけでは決して勝てない空。
その全部を前にして、305はすでに一つ勝っていた。剣で勝ち、銃剣で勝ち、声で場を壊し、竹刀を砕いて、他部隊の記憶に梅組の名を刻みつけた。
だが、本当に欲しい勝ちはそこではない。
キリエはヘルメットを手に取った。頭の中で、三つの標語が順番に並ぶ。爆闘。一機殲滅。徹敵必勝。そして、その裏にある一つの作法。死点確認。
今日、それを全国の空で試す。
薫子が振り返った。
「梅二」
「はい」
「次は、空で面を取るぞ」
キリエは、少し呆れながらも笑った。
「了解。竹刀は砕かない方向で」
「敵の心は砕け」
「それなら得意です」
小松の空に、エンジン音が響きはじめる。梅組の本番が、いま始まろうとしていた。