TNO キリエの物語   作:北郷ツルギ

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第5話 果たし状を持つ女

 

 

 翌朝の小松空軍基地は、前日より少しだけ空気が硬かった。

 

 競技日程が本格的に進み、各飛行隊の顔つきが変わっていたからだ。昨日までは、特別塗装の見栄えや、銃剣術・剣道大会の戦果や、隊ごとの雰囲気に目が向いていた。だが一夜明けると、そうした外側の熱は静かに沈み、代わりに実戦に近い冷たさが前へ出てくる。

 

 飛行教導群にどう入るか。第一編隊と第二編隊の間隔をどう取るか。誰が前へ出て、誰が抑え、どこで撃墜判定を取り、どこで欲を切るか。全員が、そういう顔になっていた。

 

 305の控えスペースでも、昨日までの騒がしさは薄れていた。菫大尉は相変わらず騒がしい気配をまとってはいたが、それでも剣道大会の優勝者というより、四機編隊長の顔に戻っている。機体配置図を覗き込みながら、参加隊員へ短く指示を飛ばしていた。

 

「第一編隊は昨日の反省を忘れるな。前に出るのはよか。じゃっどん、前しか見えんのは愚かじゃ」

 

「はい」

 

「第二編隊、救いに行く気持ちは捨てるな。じゃが、助けに行く顔で釣られるな」

 

「了解」

 

「桐絵」

 

「はい」

 

「今日は昨日より噛むな。じゃが勝手に走るな」

 

「注文が多いですね」

 

「二番機に自由を与えたら、だいたい死ぬ」

 

「私、そこまでですか」

 

「かなりそこまでじゃ」

 

 キリエは眉を寄せたが、否定はできなかった。昨日の模擬戦で一度だけ前へ出すぎたのを、菫は見逃していない。撃てると思ったし、実際に撃墜判定は取れた。だがその瞬間、編隊全体で見れば危うい穴が空いていた。

 

 撃てる一機を見つけて、噛みつく。それはキリエの強みであり、同時に死に場所でもある。死点確認、という言葉が頭の隅をかすめた。

 

 キリエが息を吐き出した、その時だった。

 

「305飛行隊、東雲菫大尉はいるか」

 

 控えスペースの外から、女の声がした。

 

 澄んだ声だった。大きく張っているわけではないのに、不思議と耳に入る。エプロンの喧騒を素通りして、まっすぐこちらへ届くような芯のある声だ。

 

 305の何人かが振り返る。そこに立っていたのは、戦闘第303飛行隊のフライトスーツを着た女だった。

 

 長身。無駄のない立ち姿。肩の線が静かに張っている。顔立ちは整っているが、柔らかくはない。何より、目が強かった。冷たいわけでも、怒っているわけでもない。ただ、相手を見たら逸らさずに刺し通すような目だった。

 

 キリエは一目見て思った。──強い。

 

 まだ空で見たわけでもないのに、そうわかった。この目の人間は、空で迷わない。少なくとも、迷っている顔を他人に見せない。

 

 303のパッチ。腕章。立ち姿。昨日の剣道決勝で菫とぶつかった、あの副隊長の部隊だ。キリエの背中に、わずかに緊張が走った。

 

 菫は、機体配置図から目を上げた。

 

「私じゃ」

 

 女は一歩前へ出た。

 

「戦闘第303飛行隊、レオナ中尉です」

 

 名乗りが短い。余計な装飾が一切ない。その言い方だけで、キリエは少しだけ好きではないと思った。自分と似た種類の硬さがあったからだ。

 

 レオナは、そのまま封筒を一通差し出した。白い、簡素な封筒だった。宛名も何も書かれていない。だが差し出し方だけが、まるで辞令書のようにまっすぐだった。

 

「うちの副隊長は脳震盪で、本戦技競技に参加できなくなりました」

 

 305の空気が、ぴんと張った。昨日の剣道決勝。竹刀が砕けた、あの一撃。あれがさすがに尾を引いたらしい。

 

 キリエは内心で思った。やっぱり尾を引くんだ……。

 

 菫は眉一つ動かさなかった。

 

「そうか」

 

「なので私が代わりに出ます。……が、あの戦い型は納得しかねます」

 

 それを聞いた瞬間、305の隊員たちの目が一斉に細くなった。

 

 喧嘩だ。しかも、ただの苦情ではない。真正面から来た。名乗り、理由を告げ、そのうえで異議を口にした。

 

 キリエはレオナを見た。目が逸れていない。怖れていない。怒鳴ってもいない。だが、一歩も引いていない。

 

 ああ、とキリエは思う。この人も同じだ。前へ出る人間の目だ。

 

 レオナは続けた。

 

「戦技競技会終了後、空で会いましょう」

 

 静かな声だった。

 

「必ず……叩き潰す」

 

 控えスペースが、しんと静まった。

 

 言葉自体は物騒だった。だがその物騒さよりも、声の静かさの方が怖かった。感情に任せて吐いた言葉ではない。挑発でもない。宣言だ。自分がそうすると決めたことを、ただ相手に告げているだけの声だった。

 

 キリエはレオナの顔を見る。目の強さが、少しも揺れていない。この人は本当に来る、と思った。戦技競技会が終わったら、本当に空で会いに来る。

 

 菫はしばらく何も言わなかった。封筒を受け取り、中を検める。簡潔な文面の果し状だった。私的な挑戦状でありながら、妙に几帳面な字で書かれている。菫はそれを一度だけ読み、封筒へ戻した。

 

 それから、レオナを見た。しばらく。本当に、しばらく。

 

 視線と視線がぶつかっている間、305の誰も口を挟まなかった。303から同行してきたらしい若い隊員も、息を呑んだまま立っていた。

 

 やがて菫の口元が、わずかに上がる。

 

「……良い目をしちょる」

 

 低い声だった。褒め言葉なのか、獲物を見つけた者の言葉なのか、判別がつかない。だが少なくとも、菫はこの果し状を不快には思っていなかった。むしろ、喜んでいる。

 

 レオナは一つ頷いた。

 

「受けてもらえると?」

 

「逃げん」

 

 菫は即答した。

 

「戦技が終わったら、空で会う。望むなら叩き合えばよか」

 

「ありがとうございます」

 

 礼の言葉だけは、きちんとしていた。それが妙にレオナらしく見えた。筋を通す。だが、引かない。

 

 キリエはその女を見ながら、胸の奥がざわつくのを感じていた。たぶん、嫌いなタイプだ。真正面から来る。目が強い。理屈も通す。なのに、最後は力で叩き潰す気でいる。自分と似ているようで、少し違う。菫とも違う。もっと静かで、もっと硬い。

 

 レオナは菫から視線を外さぬまま言った。

 

「昨日の決勝、あれはあれで勝負なのでしょう。ですが、私は納得していません」

 

「副隊長の仇討ちか」

 

「仇討ちではありません」

 

 返答が速かった。

 

「私は303の飛び方を背負って出ます。副隊長が出られないのなら、なおさらです。あのままでは、うちが呑み込んだまま終わる」

 

 キリエは少しだけ目を細めた。個人のためだけではない。飛行隊として来ている。それが、はっきりわかった。

 

 菫も同じことを感じたのか、目を細くした。

 

「飛行隊の顔で来たか」

 

「はい」

 

「よか」

 

 菫はそう言って、果し状をフライトスーツの胸ポケットへ差し込んだ。

 

「その根性なら、空で叩いても面白か」

 

 レオナの目が、ほんのわずかに鋭くなる。

 

「叩かれるつもりはありません」

 

「言うたな」

 

「はい」

 

「よか。ますますよか」

 

 菫は本当に楽しそうだった。キリエはその横顔を見て、胸の内でため息をつく。最悪だ。隊長が喜んでいる。こういう時の菫大尉は、一番面倒くさい。

 

 

     *

 

 

 レオナは用件だけ済ませるつもりだったのか、それ以上は余計な言葉を重ねなかった。

 

「では、本戦技で」

 

「ああ」

 

「失礼します」

 

 そう言って踵を返す。その去り際、一瞬だけキリエと目が合った。

 

 ほんの一瞬だ。だがキリエは、その一瞬で少し息が詰まった。レオナの目は、菫を見ていた時とは違っていた。品定めをするような、静かな観察の目だった。

 

 お前も飛ぶのか。そんな声が聞こえた気がした。

 

 キリエも目を逸らさなかった。レオナはそれを確かめるように見て、そのまま歩き去った。足音は静かなのに、存在感だけが後に残る。303の隊員が後を追い、二人は格納庫の向こうへ消えた。

 

 しばらくしてから、控えスペースにようやく音が戻ってくる。

 

「……何だったんですか、今の」

 

 若い隊員の一人が呟いた。

 

「果し状じゃろ」

 

 菫が平然と言う。

 

「いや、意味はわかりますけど」

 

「副隊長の代わりに出る、か」

 

 別の隊員が顎に手を当てた。

 

「303も、なかなか血の気が多いな」

 

「今のは誰だ」

 

「レオナ中尉。たしか若手の中では、飛びが硬いので有名だったはずだ」

 

「硬い、ねえ」

 

 キリエは小さく言った。

 

「硬いっていうより、折れなさそうでしたけど」

 

 菫が、にやりと笑ってこちらを見る。

 

「お前もそう思うたか」

 

「良い目、ってやつですか」

 

「そうじゃ。良い目じゃ」

 

「大尉、本当にああいうの好きですね」

 

「前へ出る目は、好かん理由がなか」

 

 キリエは、レオナが消えた方向を見た。まだ胸の奥のざわつきが消えない。理由はわからない。だが、あの目は残る。戦技本番を前にして、妙な棘が一本、心へ刺さったようだった。

 

「桐絵」

 

「はい」

 

「どう見た」

 

 菫の問いは短かった。キリエは少し考える。

 

「強いと思います」

 

「他は」

 

「昨日の剣道の件で来たように見せて、本題はそこじゃない気がします」

 

「ほう」

 

「303の飛び方を背負ってる、って言ってました。たぶん、空で決着をつける気が最初からある。副隊長の件は、きっかけでしかない」

 

 菫は満足そうに頷いた。

 

「よか見えちょる」

 

「褒めても何も出ませんよ」

 

「出さんでよか。空で出せ」

 

「結局それですか」

 

「それ以外に何がある」

 

 正論すぎて腹が立つ。キリエは口を尖らせたが、言い返す言葉は持っていなかった。

 

 

     *

 

 

 その後のブリーフィングでも、果し状の余韻は薄く残っていた。

 

 303飛行隊。レオナ中尉。副隊長の代理出場。戦技競技会終了後、空で会う。

 

 私的な約束だ。本来なら、こうしてあからさまに持ち込むものではない。だが戦闘機乗りの世界には、たまにそういう筋の通し方をする人間がいる。真正面から喧嘩を売り、名乗り、逃げず、終わったら空で決着をつける。

 

 乱暴だ。だが、嫌いではない。そう思ってしまう自分に、キリエは少しだけ腹が立った。なぜなら、自分もまったく同じ空気の中で育ってきたからだ。

 

 ブリーフィングが終わり、ヘルメットを手に取る頃、菫がふいに言った。

 

「桐絵」

 

「なんですか」

 

「今日、303を見たらどうする」

 

「本戦技中なら、競技に徹します」

 

「終わったあとなら」

 

 キリエは一拍置いた。

 

「……会ってみたいとは思います」

 

 それは本音だった。レオナがどんな飛びをするのか、見たい。あの目のまま飛ぶのか、それとも空では別の顔になるのか。

 

 菫は笑った。

 

「そうじゃろな」

 

「大尉は?」

 

「もう決まっちょる」

 

 胸ポケットを軽く叩く。そこには果し状が入っている。

 

「面白い相手は、逃がさん」

 

 キリエはそれを聞いて、少しだけ呆れ、少しだけ納得した。そうだろうと思った。菫大尉は、ああいう目の相手を見逃す人ではない。

 

 

     *

 

 

 午前の競技へ向かう途中、キリエは滑走路の向こうに303の機体を見つけた。

 

 F-15J。303の尾翼。朝の光を受けて、鈍く光っている。その脇に、レオナらしき人影があった。ヘルメットを抱え、機体の前に立ち、整備員と短く言葉を交わし、頷き、機首を見上げる。動きに無駄がない。声も大きくない。だが、その静かさがかえって目を引いた。

 

 キリエは歩きながら、つい視線を向けてしまう。

 

 レオナが、こちらに気づいた。距離はあったが、目が合った気がした。そして、ほんのわずかに顎を引く。挨拶とも、宣戦布告とも取れる動きだった。

 

 キリエも、無意識に同じように小さく頷いていた。

 

 それを見ていた菫が、横で低く笑う。

 

「もう噛みつく気か」

 

「噛みついてません」

 

「目で噛んじょる」

 

「大尉にだけは言われたくないです」

 

「よか。戦技が終わったら、空で会うぞ」

 

「私もですか」

 

「当たり前じゃ。私だけ楽しむ気はなか」

 

「最悪ですね」

 

 そう言いながら、キリエの口元は少しだけ上がっていた。

 

 果し状。レオナ。303。戦技競技会。そして、その先の空。何かが始まる気がした。まだ名前はない。まだ関係もない。ただ、あの目の女が、確かにこちらの世界へ足を踏み入れてきた。そして自分もまた、その女のことを忘れられなくなっている。

 

 小松の風が、エプロンを吹き抜ける。菫が前を歩き、キリエはその後ろにつく。

 

 爆闘。一機殲滅。徹敵必勝。

 

 今日の競技が終わった先に、もう一つ別の勝負が待っていた。

 

 キリエは滑走路の先の空を見た。あのレオナという女は、きっと強い。そしてたぶん──面倒くさい。その予感だけが、妙に確かだった。

 

 

第四話 梅の刺青

 

 

 その朝の小松空軍基地は、妙に華やかだった。

 

 基地祭の華やかさとは違う。見せるための華ではなく、勝つために、そして覚えられるために、各飛行隊がそれぞれの矜持を機体へ叩きつけた結果として生まれる、戦闘機乗り特有の華やかさだった。

 

 エプロンには、全国から集まった戦闘機が並んでいる。機首に牙を描いた隊。尾翼いっぱいに猛禽を据えた隊。胴体側面へ大胆に稲妻を走らせた隊。派手な隊は遠目にもすぐそれとわかり、渋い隊は色を抑えながらも、線の一本で「うちの顔」を主張していた。

 

 航空ファンがざわめき、広報班がシャッターを切り、整備員たちは表向き無関心な顔をしながら、他隊の塗装をちらちらと盗み見ている。

 

 その中へ、305飛行隊の機体もゆっくりと陽の下へ引き出された。

 

 F-15J。梅組の戦装束である。

 

 白を基調としながら、翼から下面にかけて濃い紅が噴き上がるように広がっている。ただ赤いのではない。色は上へ登るにつれて細かな破片のように砕け、爆風の中で花弁が裂けながら舞い上がっているように見えた。

 

 機体上面には、巨大な梅花の意匠。丸く、優美でありながら、ただ可憐なだけではない。輪郭は太く強く、花弁の重なりはどこか紋章めいていて、近づくほど「飾り」ではなく「印」なのだとわかる。

 

 胴体から翼にかけては、枝が黒く伸びていた。墨で一気に掃いたような枝だ。細く、鋭く、途中で裂ける。花を支える枝というより、獲物へ伸びる爪痕のようにも見える。

 

 さらに機体各部には、散らしたような梅花模様。遠目には華やかだが、近くで見ると意匠の置き方が不思議に攻撃的だった。可愛らしい、という感想で終わらせない。その奥に「これは305だ」と言わせる強さがある。

 

 機首脇には、達筆で書かれた四文字。

 

 ――徹敵必勝。

 

 そして尾翼に、梅。305の印。

 

 キリエは、その機体を少し離れた場所から見上げた。

 

「……やりすぎじゃないかな」

 

 自分の口から出た第一声がそれだった。

 

 隣で東雲菫大尉が腕を組む。

 

「何がじゃ」

 

「全部です」

 

「よかではないか」

 

「よくはありますけど」

 

「なら問題なか」

 

 菫は当然のように言った。

 

 たしかに、問題はない。むしろ、よくできている。だが、よくできすぎていた。

 

 他隊の特別塗装も鮮やかだ。派手なものならいくらでもある。それでも305の機体は、少し異質だった。派手というより、刻み込んでいる。彩色というより、彫り込んでいる。美しい。だが同時に、どこか逃げ場がない。まるで機体そのものへ、思想を刺青のように入れてしまったようだった。

 

 

     *

 

 

 その感想は、どうやら他隊も同じだったらしい。

 

 引き出された305の機体の前には、すぐに人だかりができた。広報、整備員、他飛行隊の隊員、通りすがりの管制要員、そしてフェンス際の航空ファン。さすがに露骨にまじまじとは見ない。だが足が止まり、目が向き、そして声を少し落として何かを言う。

 

「おい、305見たか」

 

「見た」

 

「なんだあれ」

 

「梅だろ」

 

「梅はわかるよ。そうじゃなくて、雰囲気」

 

「雰囲気?」

 

「なんか……刺青みたいじゃないか?」

 

 キリエの耳がぴくりと動いた。少し離れた場所で、別の声がする。

 

「梅組って呼ばれてるんだろ、305」

 

「らしいな」

 

「だからって、戦闘機に刺青入れるか普通」

 

「普通じゃないから305なんだろ」

 

 笑いが起きる。だが、馬鹿にした笑いではなかった。半分は呆れ、半分は感心している笑いだった。

 

 さらに別の隊の整備員が、機体下面を見上げながら言う。

 

「これ、近くで見ると怖いな」

 

「怖いって」

 

「いや、花の柄なんだけどさ。なんか綺麗なのに威圧感がある」

 

「わかる。お守りじゃなくて呪い札みたいな感じだ」

 

「やめろよ縁起でもない」

 

「いやでも、強そうではある」

 

 キリエは聞こえないふりをした。だが全部聞こえていた。菫はもちろん、全部聞こえたうえで平然としている。

 

「刺青、だそうですよ」

 

 キリエが言うと、菫は鼻で笑った。

 

「よか例えじゃ」

 

「いいんですか」

 

「皮に入れるか、鉄に入れるかの違いじゃ」

 

「発想が怖いです」

 

「戦装束など、そういうもんじゃろ」

 

 そう言われると少しだけ納得してしまうから困る。

 

 

     *

 

 

 整備班の反応は、もっと露骨だった。

 

「だから言ったろ」

 

 305の整備班長が、煙草の代わりにレンチを指で回しながら言う。

 

「派手にするなら、半端は駄目なんだよ」

 

 別の整備員が笑った。

 

「他隊が“特別塗装”なら、こっちは“入れ墨”だな」

 

「ほんとにそうなっちまったな」

 

「でも見ろよ、評判いいぞ」

 

「怖いって評判だろ」

 

「強そうなら勝ちだ」

 

 キリエは機首の下から、その会話を聞いていた。

 

「整備班もそれでいいんですか」

 

「いいんだよ」

 

 整備班長は即答した。

 

「綺麗で終わる塗装なんか、305には似合わねえ。見た瞬間に“あ、なんかやばいのが来たな”って思わせて、そのまま空でも思わせる。そこまで行って、初めて特別塗装だ」

 

 それは、妙に305らしい理屈だった。花を描く。だが可憐に終わらせない。梅を背負う。だが風流では終わらせない。見る者に綺麗だと思わせ、その一拍あとで怖いと思わせる。それが305の梅組だ。

 

 

     *

 

 

 その頃には、303飛行隊の面々も305機の前へ来ていた。

 

 キリエは、機体の反対側から歩いてくる一団を見て、少しだけ姿勢を正した。その先頭にレオナがいた。果し状を持ってきた、あの女だ。長身。静かな目。無駄のない足取り。

 

 303の隊員たちはそれぞれに305機を見上げていたが、レオナだけは違った。まず機体全体を一度見て、それから正面へ回り込み、最後に機首脇の「徹敵必勝」の四文字へ視線を止める。眺めるのではなく、読む見方だった。

 

 菫がそれに気づいて、ゆっくり振り返る。

 

「どうじゃ、303」

 

 その言い方は、喧嘩を売っているようで、半分は本気で感想を聞いているようでもあった。

 

 303の若い隊員が苦笑する。

 

「いや、すごいっすね……」

 

「すごい、で終わるな」

 

「ええと、濃いです」

 

「褒め言葉として受け取ってよかか」

 

「たぶん」

 

 隊員たちが少し笑う。だが、レオナは笑わなかった。機体を見上げたまま、静かに言う。

 

「綺麗です」

 

 キリエは少し意外に思った。もっと硬い言葉が来ると思っていたからだ。

 

 だがレオナは、そこで終わらなかった。

 

「……でも、綺麗というより、刻み込んでいますね」

 

 菫の口元がわずかに上がる。

 

「刻んだ」

 

「はい」

 

 レオナは翼の梅花模様を目で追った。

 

「塗装ではなく、印の入れ方です。飛行隊章を拡大しただけではない。思想ごと、機体へ載せている」

 

 キリエはその言葉を聞いて、胸の内で頷いた。やはり、この人は見る。見て、言語化する。それができる人間だ。

 

 菫は面白そうに言った。

 

「刺青だと、他隊は言うちょったぞ」

 

 それを聞いて、303の隊員が吹き出す。

 

「言われてましたね」

 

「梅組だから、戦闘機に刺青入れてるって」

 

「ひどい言い方だな」

 

「でも、間違ってない気もします」

 

 レオナだけは吹き出さず、少しだけ目を細めた。

 

「いいと思います」

 

「ほう」

 

「刺青は、飾りで入れるものではありません。覚悟や所属や、消せないものを刻むためのものです」

 

 キリエは思わずレオナを見た。その言葉は、あまりにもまっすぐだった。303の隊員たちも少し黙る。

 

 菫が、にやりと笑った。

 

「やはり良い目をしちょる」

 

 レオナは、今度は真正面から菫を見た。

 

「そちらも」

 

「そうか」

 

「ただし――」

 

 一拍。

 

「刺青が綺麗でも、空で弱ければ意味はありません」

 

 空気が一瞬だけ張った。303の若い隊員が「うわ」と小さく息を呑み、305の整備員が遠くで面白そうに眉を上げる。

 

 菫は笑った。心底楽しそうに笑った。

 

「言うたな」

 

「はい」

 

「よか」

 

 その返答だけで、場の温度が一段上がる。

 

 キリエは内心で思う。最悪だ。この二人、本当に相性が悪い。いや、悪いというより、同じ火種の種類だ。近づけると燃える。

 

 

     *

 

 

 さらに面白がったのは、周囲の他隊だった。305と303が同じ場所に立ち、しかも双方まったく引く気がないのを見て、視線が一斉に集まる。

 

「見ろよ、303のレオナが来てるぞ」

 

「果し状の件、本当だったんだな」

 

「うわ、真正面から見てるな」

 

「305の大尉も笑ってるし」

 

「怖え」

 

「機体に刺青入ってる隊と、目に刺青入ってる女が向かい合ってる」

 

「誰がうまいこと言えと」

 

 キリエは、それを聞いて少し笑いそうになった。目に刺青。ひどい言い方だが、言い得て妙でもある。レオナの目は、それくらい濃い。菫は菫で、たぶん心のどこかに何か彫ってある。この二人が会話をすると、普通の言葉のやり取りのはずなのに、どこか刃物の鳴る音がした。

 

 しばらくして、広報のカメラが305機の前へやって来た。

 

「305飛行隊さん、機体全景を撮らせてください」

 

 整備班が下がり、パイロットたちも位置をずらす。その時、広報担当が困ったように言った。

 

「他隊の方も、かなり関心を寄せていますね」

 

「よかことじゃ」

 

 菫が答える。

 

「ですが、“刺青みたいだ”という声もありまして……」

 

「間違ってなかろう」

 

 広報担当の顔が、一瞬で困る。昨日インタビューをした、あの担当だった。

 

「大尉、それをそのまま採用してよろしいのでしょうか」

 

「好きにせい」

 

「広報文に“刺青”は少々」

 

「なら“魂の刻印”とでも書け」

 

 その横で、キリエは思わず吹き出しそうになった。広報担当は少し考え込んだあと、本当にメモを取った。

 

「“魂の刻印”……」

 

「使うんですか」

 

 キリエが小声で言うと、広報担当は疲れた目で答えた。

 

「刺青よりはマシです」

 

「それはそうですね」

 

 レオナがそのやり取りを聞いていたのか、わずかに口元を緩めた。ほんの少しだけ、笑ったと言っていいのかわからない程度の動きだった。だがキリエは、それを見逃さなかった。

 

 笑うんだ、この人。

 

 そう思った瞬間、少しだけ緊張が和らぐ。同時に、余計に面倒くさい相手だとも思った。静かで、強くて、理屈が通って、たまに笑う。こういう相手は厄介だ。ただの狂犬の方が、まだ単純で対処しやすい。

 

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