TNO キリエの物語   作:北郷ツルギ

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第5.5話 

 

戦技競技会当日の小松空軍基地は、朝から妙に華やかだった。

 

 普段の基地祭とは違う。

 見せるための華やかさではない。

 勝つために、そして覚えられるために、各飛行隊がそれぞれの矜持を機体へ叩きつけた結果として生まれる、戦闘機乗り特有の華やかさだった。

 

 エプロンには、全国から集まった戦闘機が並んでいる。

 

 機首に牙を描いた隊。

 尾翼いっぱいに猛禽を描いた隊。

 機体側面へ大胆な稲妻を走らせた隊。

 派手な隊は、遠目にもすぐそれとわかる。

 渋い隊は、色を抑えながらも、線の一本で「うちの顔」を見せていた。

 

 航空ファンたちがざわめく。

 広報班が写真を撮る。

 整備員たちは表向き無関心な顔をしながら、他隊の塗装をちらちら見ている。

 

 その中で305飛行隊の機体も、ゆっくりと陽の下へ引き出された。

 

 F-15J。

 

 梅組の戦装束。

 

 白を基調としながら、翼から下面へかけて濃い紅が噴き上がるように広がっている。

 ただ赤いのではない。

 色が上へ登るにつれて細かな破片のように砕け、まるで爆風の中で花弁が裂けながら舞い上がっているように見える。

 

 機体上面には、巨大な梅花の意匠。

 丸く、優美でありながら、ただ可憐なだけではない。

 輪郭は太く強く、花弁の重なりはどこか紋章めいていて、近くで見るほど「飾り」ではなく「印」だとわかる。

 

 胴体から翼へかけては、枝が黒く伸びていた。

 墨で一気に掃いたような枝だ。

 細く、鋭く、途中で裂ける。

 それは花を支える枝というより、獲物へ伸びる爪痕のようにも見えた。

 

 さらに、機体各部には散らしたような梅花模様。

 遠目には華やかだが、近くで見ると意匠の置き方が不思議に攻撃的だ。

 可愛らしい、という感想で終わらせない。

 その奥に「これは305だ」と言わせる強さがある。

 

 機首脇には、達筆で書かれた言葉。

 

 ――徹敵必勝。

 

 そして尾翼に、梅。

 

 305の印。

 

 キリエは、その機体を少し離れた場所から見上げた。

 

「……やりすぎじゃないかな」

 

 自分の口から出た第一声がそれだった。

 

 隣で東雲菫大尉が腕を組む。

 

「何がじゃ」

 

「全部です」

 

「よかではないか」

 

「よくはありますけど」

 

「なら問題なか」

 

 菫は当然のように言った。

 

 たしかに、問題はない。

 むしろ、よくできている。

 

 だが、よくできすぎていた。

 

 他隊の特別塗装も鮮やかだ。

 派手なものはいくらでもある。

 それでも、305の機体は少し異質だった。

 

 派手、というより、刻み込んでいる。

 

 彩色というより、彫り込んでいる。

 

 美しい。

 だが同時に、どこか逃げ場がない。

 

 まるで機体そのものへ、思想を刺青のように入れてしまったみたいだった。

 

     *

 

 その感想は、どうやら他隊も同じだったらしい。

 

 引き出された305の機体の前には、すぐに人だかりができた。

 広報、整備員、他飛行隊の隊員、通りすがりの管制要員、そして航空ファン。

 

 さすがに皆、露骨にまじまじとは見ない。

 だが足が止まる。

 目が向く。

 そして、少し声を落として何かを言う。

 

「おい、305見たか」

 

「見た」

 

「なんだあれ」

 

「梅だろ」

 

「梅はわかるよ。そうじゃなくて、雰囲気」

 

「雰囲気?」

 

「なんか……刺青みたいじゃないか?」

 

 キリエの耳がぴくりと動いた。

 

 少し離れた場所で、別の声がする。

 

「梅組って呼ばれてるんだろ、305」

 

「らしいな」

 

「だからって戦闘機に刺青入れるか普通」

 

「普通じゃないから305なんだろ」

 

 笑いが起きる。

 

 だが馬鹿にした笑いではなかった。

 半分は呆れ、半分は感心している笑いだった。

 

 さらに別の隊の整備員が、機体下面を見上げながら言う。

 

「これ、近くで見ると怖いな」

 

「怖いって」

 

「いや、花の柄なんだけどさ。なんか綺麗なのに威圧感がある」

 

「わかる。お守りじゃなくて呪い札みたいな感じ」

 

「やめろよ縁起でもない」

 

「いやでも、強そうではある」

 

 キリエは、聞こえないふりをした。

 

 だが全部聞こえていた。

 

 菫は、もちろん全部聞こえていたうえで平然としている。

 

「刺青、だそうですよ」

 

 キリエが言うと、菫は鼻で笑った。

 

「よか例えじゃ」

 

「いいんですか」

 

「皮に入れるか、鉄に入れるかの違いじゃ」

 

「発想が怖いです」

 

「戦装束など、そういうもんじゃろ」

 

 そう言われると、少しだけ納得してしまうから困る。

 

     *

 

 整備班の反応は、もっと露骨だった。

 

「だから言ったろ」

 

 305の整備班長が、煙草の代わりにレンチを指で回しながら言った。

 

「派手にするなら、半端は駄目なんだよ」

 

 別の整備員が笑う。

 

「他隊が“特別塗装”なら、こっちは“入れ墨”だな」

 

「ほんとにそうなっちまったな」

 

「でも見ろよ、評判いいぞ」

 

「怖いって評判だろ」

 

「強そうなら勝ちだ」

 

 キリエは機首の下からその会話を聞いていた。

 

「整備班もそれでいいんですか」

 

「いいんだよ」

 

 整備班長は即答した。

 

「綺麗で終わる塗装なんか、305には似合わねえ。見た瞬間“あ、なんかやばいの来たな”って思わせて、そのまま空でも思わせる。そこまで行って初めて特別塗装だ」

 

 それは、なんだか妙に305らしい理屈だった。

 

 花を描く。

 だが可憐に終わらせない。

 梅を背負う。

 だが風流では終わらせない。

 

 見る者に、綺麗だと思わせる。

 その一拍あとで、怖いと思わせる。

 

 それが305の梅組だ。

 

     *

 

 その頃には、303飛行隊の面々も305機の前へ来ていた。

 

 キリエは、機体の反対側から歩いてくる一団を見て、少しだけ姿勢を正した。

 

 その先頭に、レオナがいた。

 

 昨日、果し状を持ってきた女。

 長身。

 静かな目。

 無駄のない足取り。

 

 303の隊員たちは、それぞれに305の機体を見上げていたが、レオナだけはまず機体全体を一度見て、それから正面へ回り込み、最後に機首脇の「徹敵必勝」の文字へ視線を止めた。

 

 見方が、少し違う。

 眺めるのではなく、読む見方だった。

 

 菫がそれに気づいて、ゆっくり振り返る。

 

「どうじゃ、303」

 

 その言い方は、喧嘩を売っているようで、半分は本気で感想を聞いているようでもあった。

 

 303の若い隊員が苦笑する。

 

「いや、すごいっすね……」

 

「すごい、で終わるな」

 

「ええと、濃いです」

 

「褒め言葉として受け取ってよかか」

 

「たぶん」

 

 隊員たちが少し笑う。

 

 だがレオナは笑わなかった。

 

 機体を見上げたまま、静かに言う。

 

「綺麗です」

 

 キリエは少し意外に思った。

 

 もっと硬い言葉が来ると思っていたからだ。

 

 だがレオナはそこで終わらない。

 

「……でも、綺麗というより、刻み込んでいますね」

 

 菫の口元がわずかに上がる。

 

「刻んだ」

 

「はい」

 

 レオナは翼の梅花模様を目で追った。

 

「塗装ではなく、印の入れ方です。飛行隊章を拡大しただけではない。思想ごと機体へ載せている」

 

 キリエはその言葉を聞いて、少しだけ胸の内で頷いた。

 

 やはり、この人は見る。

 

 見て、言語化する。

 

 それができる人間だ。

 

 菫は、面白そうに言った。

 

「刺青だと、他隊は言うちょったぞ」

 

 それを聞いて303の隊員が吹き出した。

 

「言われてましたね」

 

「梅組だから、戦闘機に刺青入れてるって」

 

「ひどい言い方だな」

 

「でも間違ってない気もします」

 

 レオナだけは吹き出さずに、少しだけ目を細めた。

 

「いいと思います」

 

「ほう」

 

「刺青は、飾りで入れるものではありません。覚悟や所属や、消せないものを刻むためのものです」

 

 キリエは思わずレオナを見た。

 

 その言葉は、あまりにもまっすぐだった。

 

 303の隊員たちも少し黙る。

 菫は、にやりと笑った。

 

「やはり良い目をしちょる」

 

 レオナは、今度は真正面から菫を見る。

 

「そちらも」

 

「そうか」

 

「ただし――」

 

 一拍。

 

「刺青が綺麗でも、空で弱ければ意味はありません」

 

 空気が一瞬だけ張った。

 

 303の若い隊員が「うわ」と小さく息を呑む。

 305の整備員が、遠くで面白そうに眉を上げる。

 

 菫は笑った。

 心底楽しそうに笑った。

 

「言うたな」

 

「はい」

 

「よか」

 

 その返答だけで、場の温度が一段上がる。

 

 キリエは内心で思う。

 

 最悪だ。

 この二人、本当に相性が悪い。

 いや、悪いというより、同じ火種の種類だ。

 近づけると燃える。

 

     *

 

 さらに面白がったのは、他隊の連中だった。

 

 305と303が同じ場所に立ち、しかも双方まったく引く気がないのを見て、周囲の視線が集まる。

 

「見ろよ、303のレオナ来てるぞ」

 

「昨日の果し状の件、本当だったんだな」

 

「うわ、真正面から見てるな」

 

「305の大尉も笑ってるし」

 

「怖え」

 

「機体に刺青入ってる隊と、目に刺青入ってる女が向かい合ってる」

 

「誰がうまいこと言えと」

 

 キリエはそれを聞いて、ちょっとだけ笑いそうになった。

 

 目に刺青。

 ひどい言い方だが、言い得て妙でもある。

 

 レオナの目は、それくらい濃い。

 

 菫は菫で、たぶん心に何か彫ってある。

 

 この二人が会話をすると、普通の言葉のやり取りのはずなのに、どこか刃物が鳴るような感じがした。

 

     *

 

 しばらくして、広報のカメラが305機の前へ来た。

 

「305飛行隊さん、機体全景を撮らせてください」

 

 整備班が少し下がり、パイロットたちも位置をずらす。

 

 その時、広報担当が困ったように言った。

 

「他隊の方もかなり関心を寄せていますね」

 

「よかことじゃ」

 

 菫が答える。

 

「ですが、“刺青みたいだ”という声もありまして……」

 

「間違ってなかろう」

 

 広報担当の顔が一瞬で困る。

 

「大尉、それをそのまま採用してよろしいのでしょうか」

 

「好きにせい」

 

「広報文に“刺青”は少々」

 

「なら“魂の刻印”とでも書け」

 

 その横で、キリエは思わず吹き出しそうになった。

 

 広報担当は、少し考え込んだあと、本当にメモを取った。

 

「“魂の刻印”……」

 

「使うんですか」

 

 キリエが小声で言うと、広報担当は疲れた目で答えた。

 

「刺青よりはマシです」

 

「それはそうですね」

 

 レオナがそのやり取りを聞いていたのか、わずかに口元を緩めた。

 

 ほんの少しだけ。

 笑った、と言っていいのかわからない程度の動きだった。

 

 だがキリエは、それを見逃さなかった。

 

 笑うんだ、この人。

 

 そう思った瞬間、少しだけ緊張が和らぐ。

 同時に、余計に面倒くさい相手だとも思う。

 

 静かで、強くて、理屈が通って、たまに笑う。

 

 こういう相手は厄介だ。

 ただの狂犬の方がまだ単純で対処しやすい。

 

     *

 

 機体公開の熱が少し落ち着いた頃、キリエは改めて305の機体の周りを歩いた。

 

 機首。

 翼。

 梅花。

 枝。

 尾翼。

 下面の濃い紅。

 

 朝の陽を受けて、白地が鋭く光る。

 紅は、ただ鮮やかなだけでなく、血が走っているみたいだった。

 梅花模様は遠目には風雅なのに、近づくと紋章のように見える。

 

 ふと、キリエは思った。

 

 たしかに刺青だ。

 

 しかも、洒落で入れるものではない。

 消せないもの。

 背負うもの。

 覚悟を外からも見えるようにするもの。

 

 305はたぶん、そういうつもりでこの機体を作ったのだ。

 

 日本一の戦闘機隊になる。

 他部隊を黙らせる。

 爆闘。

 一機殲滅。

 徹敵必勝。

 

 そういう言葉を、もう隠す気がない。

 

 だから機体へ刻んだ。

 

 綺麗だろう、で終わらせない。

 見たなら覚えろ、と言うみたいに。

 

「どうじゃ」

 

 菫が隣へ来た。

 

「自分たちの機体ですけど、ちょっと引きます」

 

「情けなか」

 

「褒めてるんです」

 

「ならよか」

 

 菫も機体を見上げる。

 

「覚えられる色じゃ」

 

「ええ」

 

「見た者の目に残る印じゃ」

 

「はい」

 

「なら、あとは空で同じことをするだけじゃ」

 

 その言葉に、キリエは自然と背筋を伸ばした。

 

 そうだ。

 機体だけ強くても意味はない。

 刺青の入った戦装束なら、中身もそれに見合わなければならない。

 

 見た者の目に残る飛びをする。

 それで初めて完成する。

 

     *

 

 その時、少し離れた場所から303のレオナの声がした。

 

「如月中尉」

 

 キリエは振り返る。

 

 レオナが一人で立っていた。

 他の303隊員はいない。

 

「何ですか」

 

「305の機体、よく似合っています」

 

「……ありがとうございます」

 

「あなたにも」

 

 キリエは一瞬だけ言葉に詰まった。

 

 レオナは続ける。

 

「刺青と言われるのも、わかります。でも、悪い意味ではありません」

 

「そうですか」

 

「消さないつもりで飛ぶなら、いい印です」

 

 キリエは、思わず機体へ視線を戻した。

 

 消さないつもりで飛ぶ。

 

 それは、妙に胸へ入ってきた。

 

 レオナはその横顔を見てから、短く言った。

 

「本戦技で会いましょう」

 

「ええ」

 

「空で弱ければ、機体が泣きます」

 

 キリエは眉を上げる。

 

「303の人って、喧嘩売るの上手いですね」

 

 するとレオナは、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「そちらほどでは」

 

 そう言って去っていく。

 

 キリエはその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。

 

「……やっぱり面倒くさい」

 

 だが嫌ではなかった。

 

 むしろ、嫌ではないのが厄介だった。

 

     *

 

 やがて、各飛行隊へ最終ブリーフィングの招集がかかった。

 

 エプロンの賑わいは少しずつ引いていく。

 広報も航空ファンも、撮れるうちにと最後のシャッターを切る。

 整備員たちは機体の周囲へ戻り、パイロットたちはそれぞれヘルメットを手に持ち始める。

 

 305の特別塗装機は、朝の光の中で静かに並んでいた。

 

 梅の刺青を刻んだ戦闘機。

 

 そう噂されるのも、もう仕方がないと思えた。

 

 キリエはヘルメットを抱え、最後にもう一度だけ機体を見上げる。

 

 白。

 紅。

 梅。

 枝。

 徹敵必勝。

 

 見た者が忘れない機体。

 

 なら、飛びも忘れさせないものにしなければならない。

 

 菫が前を歩く。

 

「梅二」

 

「はい」

 

「戦装束に負けるなよ」

 

「わかってます」

 

「刺青だけ立派で、中身が腰抜けでは笑い話じゃ」

 

「それは絶対に嫌です」

 

「ならよか」

 

 キリエは頷いた。

 

 周囲では、まだ誰かが言っている。

 

「305、ほんとに戦闘機へ刺青入れてきたな」

 

「でも、あれ空で見たら映えるだろうな」

 

「見た目だけじゃ終わらせない気配あるしな」

 

「怖いけど、ちょっと楽しみだ」

 

 その声を背に、キリエは歩き出した。

 

 梅組の機体はもう、ただの塗装ではない。

 305の言葉そのものだ。

 

 だったら、自分たちもその言葉どおりに飛ぶだけだ。

 

 爆闘。

 一機殲滅。

 徹敵必勝。

 

 梅の刺青を刻んだ機体たちが、まもなく小松の空へ上がる。

 

 

第五話 四日目、梅組上がる

 

 四日目の朝、小松の空は低く澄んでいた。

 

 雲は薄い。

 風はある。

 日本海側から流れてくる湿った空気が、滑走路の端でわずかに揺れている。

 

 戦技競技会、四日目。

 

 戦闘305飛行隊の本番の日だった。

 

 エプロンに並ぶF-15Jは、朝の光を受けて異様に鮮やかだった。

 

 白地に紅。

 散る梅。

 墨のように走る枝。

 機首脇の四文字。

 

 ――徹敵必勝。

 

 他隊からは、もう遠慮なく言われている。

 

「梅組の刺青機」

 

 最初は笑い混じりだったその呼び方も、四日目には少し意味が変わっていた。

 

 見慣れてなお、目を引く。

 見飽きるどころか、日を追うごとに不穏さが増していく。

 飛ぶ前から、あの機体はもう戦っているように見えた。

 

 キリエは、その二番機の前に立っていた。

 

 フライトスーツ。

 ヘルメット。

 グローブ。

 酸素マスク。

 いつもの装備が、今日は少しだけ重い。

 

 緊張しているわけではない。

 

 そう自分では思っている。

 

 だが、手袋をはめる指がいつもよりわずかに丁寧だった。

 ブーツの位置を一度余計に直した。

 ヘルメットのバイザーを確認する回数も多い。

 

「緊張しちょるな」

 

 背後から声がした。

 

 東雲菫大尉。

 

 四機編隊長。

 梅一。

 

 キリエは振り返らないまま答えた。

 

「してません」

 

「嘘じゃ」

 

「してません」

 

「緊張しちょる者は、同じ返事を二回する」

 

「大尉も昨日、同じこと三回言ってましたよ」

 

「私は気合いじゃ」

 

「便利ですね、それ」

 

 菫は笑った。

 

 普段ならそれで終わる。

 だが、今日は少し違った。

 

 菫はキリエの横に立ち、同じように機体を見上げた。

 

「桐絵」

 

「はい」

 

「今日は四機対四機じゃ」

 

「わかってます」

 

「相手は飛行教導群。こちらを勝たせるために飛ぶ連中ではなか」

 

「はい」

 

「一機を喰うのはよか。じゃが、一機喰ったあとに編隊を死なすな」

 

 キリエは、少しだけ口を閉じた。

 

 それは、この半年ずっと言われてきたことだった。

 

 噛みつけ。

 だが勝手に走るな。

 

 一機を殲滅しろ。

 だが一機しか見えない馬鹿になるな。

 

 爆闘しろ。

 だが暴走するな。

 

 徹敵必勝。

 敵を徹して見ろ。

 ただし敵だけを見るな。

 

「梅二」

 

 菫が言った。

 

「私が撃てる空を作れ」

 

 キリエは、ヘルメットを抱え直した。

 

「了解」

 

「そして撃てるなら、お前も撃て」

 

「はい」

 

「じゃが、撃ったあとが本番じゃ」

 

 菫は機体へ向かって歩き出す。

 

 その背中を見ながら、キリエは小さく息を吐いた。

 

 撃ったあとが本番。

 

 それを、今日の空で証明しなければならない。

 

     *

 

 ブリーフィングで示された競技設定は明快だった。

 

 四機対四機。

 

 305飛行隊の四機編隊が、指定空域へ進入する。

 飛行教導群の四機が仮想敵として迎撃に上がる。

 任務は、単なる空戦勝利ではない。

 

 指定時間内に、編隊を維持しつつ、相手戦力を排除または無力化し、所定の進出線を突破すること。

 

 撃墜判定はガンカメラ、訓練用データリンク、模擬ミサイル判定で行われる。

 ただし撃墜数だけでは評価されない。

 僚機支援。

 位置取り。

 通信。

 任務継続。

 残存戦力。

 時間管理。

 

 すべてが点になる。

 

 そして、後半設定として追加条件があった。

 

 敵の一機が撃墜された場合、一定条件下で別方向から一機が増援として出現する。

 

 つまり、最初の四機を削れば終わりではない。

 

 撃墜に夢中になった瞬間、その穴へ新しい敵が入ってくる。

 

 キリエはその説明を聞いた時、思わず舌打ちした。

 

 隣の三番機が小声で言う。

 

「嫌な設定だな」

 

「嫌な性格の人が作ったんでしょ」

 

 キリエが返す。

 

 菫は前を向いたまま言った。

 

「よか設定じゃ」

 

「どこがですか」

 

「勝ったと思った瞬間を殺しに来る」

 

「それを良いって言うんですね」

 

「戦技じゃ。祭りではなか」

 

 その通りだった。

 

 この競技は、305のために作られているようにも見えた。

 

 いや、305を殺すために作られているようにも見えた。

 

 一機殲滅。

 

 その標語に酔えば、増援に食われる。

 

 爆闘。

 

 その圧に任せて突っ込めば、時間を失う。

 

 徹敵必勝。

 

 敵を見抜いたつもりになれば、見えていない一機に刺される。

 

 キリエはブリーフィング資料を睨みながら思った。

 

 いいじゃないか。

 

 なら、全部見ればいい。

 

     *

 

『梅一、離陸許可』

 

『梅一、了解』

 

 菫の声が入る。

 

 前を行く一番機が滑走路へ入る。

 特別塗装の紅が、朝の光で一瞬燃えるように見えた。

 

 キリエはその後ろで待つ。

 

 エンジンの振動。

 無線の音。

 ヘルメット内の呼吸音。

 キャノピー越しの青空。

 

 余計なものが削れていく。

 

 昨日までの剣道大会。

 菫の広報インタビュー。

 レオナの果し状。

 他隊の視線。

 梅の刺青。

 

 全部が遠ざかる。

 

 残るのは空だけ。

 

『梅一、離陸』

 

 菫の機体が走る。

 

 続いて二番機。

 

『梅二、離陸』

 

 キリエはスロットルを押し込んだ。

 

 F-15Jが加速する。

 滑走路の白線が後ろへ流れる。

 機体が地面を蹴る。

 

 浮く。

 

 小松の地面が下がる。

 

 キリエは左前方の菫機を追う。

 三番機、四番機も続く。

 

 四機の梅が、空へ上がった。

 

     *

 

 競技空域へ向かう間、無線は短かった。

 

『梅一より各機。最初から喰いに行く。じゃが、食い散らかすな』

 

『梅二、了解』

 

『梅三、了解』

 

『梅四、了解』

 

『梅二』

 

「はい」

 

『お前は右を見ろ。私が前を割る』

 

「了解」

 

『ただし、撃てるなら撃て』

 

「言われなくても」

 

『それが危なかと言うちょる』

 

 キリエは少しだけ口元を上げた。

 

 緊張はもう消えていた。

 

 いや、消えたのではない。

 形が変わった。

 

 刃になる。

 視線になる。

 呼吸になる。

 

 HUDに訓練空域の境界が映る。

 

 その先に、敵がいる。

 

『競技管制より梅隊。交戦空域進入を許可。敵四機、初期配置完了。競技開始まで十秒』

 

 キリエは首をわずかに動かし、周囲を確認する。

 

 梅一、左前。

 梅三、後方右。

 梅四、さらに右外。

 

 四機の間隔は悪くない。

 

 菫の声が入る。

 

『爆闘』

 

 ただ一言。

 

 キリエたちは答えた。

 

『一機殲滅』

 

『徹敵必勝』

 

 誰がどの言葉を言ったのか、後で思い出しても曖昧だった。

 

 ただ、その三つが無線に乗った瞬間、305は完全に305になった。

 

『競技開始』

 

 敵が動いた。

 

     *

 

 飛行教導群の四機は、最初から綺麗に散らなかった。

 

 いや、綺麗に散っているように見せて、実際は誘っていた。

 

 前方高位に二機。

 右低位に一機。

 左後方に一機。

 

 単純に見れば、正面の二機を抑え、低位の一機を警戒し、左後方の一機を逃がさない形で入る。

 

 だが、キリエはすぐに違和感を覚えた。

 

 右低位の一機が、見えすぎる。

 

 あれは餌だ。

 

 そう思った瞬間、菫の声が入る。

 

『梅二、右低位は見るだけじゃ。噛むな』

 

「了解」

 

 悔しいくらい同じ判断だった。

 

 菫は前方高位二機へ圧をかける。

 機首を上げ、相手の進出線を正面から割りに行く。

 

 305の一番機らしい入り方だった。

 

 ただし、猪突ではない。

 圧をかける方向が鋭い。

 相手が一番嫌がる逃げ道を、先に押さえている。

 

 キリエは右側を見た。

 

 右低位の一機。

 見える。

 撃てそうだ。

 少し角度を作れば、模擬ミサイル判定へ入る可能性がある。

 

 だが、菫に言われた。

 

 噛むな。

 

 キリエは歯を噛み、前方の二機へ視線を戻す。

 

 その瞬間、前方高位の一機が菫へ釣られてわずかに外へ膨らんだ。

 

 穴。

 

 キリエの目が光った。

 

「梅二、前方右、入る」

 

『許可』

 

 菫の返事は一瞬だった。

 

 キリエは機体を右上へ滑らせる。

 菫が前から押し、キリエが横から噛む。

 敵機は一瞬、どちらへ鼻先を向けるか迷った。

 

 その迷いは短い。

 

 だが空では、短い迷いで死ぬ。

 

 キリエはHUDの判定線を合わせた。

 

『梅二、FOX判定』

 

 訓練用模擬ミサイル発射。

 

 数秒。

 

 管制の声。

 

『敵一番機、撃墜判定』

 

 早かった。

 

 あまりにも早かった。

 

 無線に、305の誰かが短く息を吐く音が入る。

 

 キリエは、口元が動きそうになるのを抑えた。

 

 一機。

 

 まず一機。

 

 だが、菫の声は冷たかった。

 

『梅二、酔うな』

 

「酔ってません」

 

『なら次を見ろ』

 

「見てます」

 

 その言葉の直後、競技設定が動いた。

 

『競技管制。敵一機撃墜により、条件成立。増援一機、待機状態へ移行』

 

 まだ出てこない。

 

 だが、出てくる。

 

 どこから。

 いつ。

 何を狙って。

 

 キリエは一機目の撃墜判定を頭の端へ捨てた。

 

 撃ったあとが本番。

 

 菫の言葉が、耳の奥に残る。

 

     *

 

 残る敵は三機。

 

 だが実質は、三機ではない。

 

 見えている三機。

 まだ現れていない一機。

 

 飛行教導群は、ここから急に硬くなった。

 

 撃墜された一番機を失ったあと、残り三機は無理に取り返しに来なかった。

 むしろ、305が前へ出るのを待つ形へ移る。

 

 嫌な変化だった。

 

 普通なら、数的不利になった側は焦る。

 だが飛行教導群は違う。

 彼らは、撃墜判定を受けた瞬間から次の罠へ切り替えている。

 

 右低位にいた餌の一機が、今度は少し深く沈む。

 左後方の一機が、梅三と梅四の間隔を裂く位置へ動く。

 前方に残った一機は、菫の進路を斜めに塞ぐ。

 

 キリエはすぐに右低位を見た。

 

 まだ撃てそうに見える。

 

 さっきよりも近い。

 角度も悪くない。

 追えば取れる。

 

 だが、追えば菫の翼を離れる。

 

 菫の声。

 

『梅二、右低位はどう見る』

 

 試している。

 

 キリエは即答した。

 

「餌です」

 

『なら』

 

「喰います」

 

『阿呆』

 

「喰い方を選びます」

 

 キリエは機体を大きく振らなかった。

 

 右低位へ向かう姿勢を見せる。

 しかし、実際には角度を浅く取る。

 追撃ではなく、圧。

 相手の上昇方向を削り、菫の前方へ押し戻す。

 

 右低位の敵機は、キリエが噛みついたと判断して回避に入った。

 

 その瞬間、菫が前から入る。

 

 敵機は二択になる。

 

 下へ逃げればキリエ。

 上へ逃げれば菫。

 

 そのままなら取れる。

 

 キリエはそう思った。

 

 だが、飛行教導群はそこで終わらない。

 

 左後方の敵機が一気に動いた。

 

 梅三、梅四の間を裂く。

 菫とキリエの攻撃に意識が寄った瞬間、編隊後方を撃ちに来た。

 

『梅三、敵接近!』

 

『梅四、回避入る!』

 

 無線が忙しくなる。

 

 キリエは歯を噛んだ。

 

 右低位の一機は、あと少しで取れる。

 このまま押せば、撃墜判定に入る。

 

 だが後ろが危ない。

 

 ここで一機を取っても、梅三か梅四が死ねば意味がない。

 

 キリエは一瞬だけ迷った。

 

 その一瞬を、敵は使った。

 

 右低位の敵機が、機首を下げて逃げる。

 高度を捨て、速度を稼ぎ、キリエの判定線から外れた。

 

「くそっ」

 

 キリエは舌打ちした。

 

 取れなかった。

 

 一機目は一瞬だった。

 なのに、二機目は逃げた。

 

 時間を使わされた。

 

 菫の声が飛ぶ。

 

『梅二、後ろ!』

 

「了解!」

 

 キリエは右低位への追撃を捨てた。

 

 機体を引き上げ、左後方へ向ける。

 梅三と梅四の間へ入ろうとする敵機に対し、横から圧をかける。

 

 しかし、その敵もまた上手い。

 

 キリエが来るのを見て、攻撃姿勢を中断。

 無理に撃たず、距離だけを保つ。

 こちらに防御行動を強い、時間を削る。

 

 飛行教導群の狙いが見えた。

 

 キリエを焦らせる。

 一機目を早く取った二番機に、二機目で時間を使わせる。

 その間に、編隊全体を広げ、菫の攻撃線を濁らせる。

 

 キリエは奥歯を噛んだ。

 

 やられている。

 

     *

 

 競技管制室では、各隊の関係者が画面を見ていた。

 

 305の一機目撃墜は速かった。

 

 見事だった。

 菫の圧とキリエの噛みつきが噛み合い、飛行教導群の一機が早々に撃墜判定を受けた。

 

 だが、その後が問題だった。

 

 キリエが二機目を取りに行こうとして、時間を使っている。

 いや、正確には取らされかけている。

 

 他隊のパイロットが呟く。

 

「速かったな、梅二」

 

「一機目はな」

 

「二機目で釣られてる」

 

「あれ、本人も気づいてるだろ」

 

「気づいてるから余計に苛立つ」

 

 少し離れた場所で、303のレオナも画面を見ていた。

 

 彼女はほとんど表情を変えていない。

 

 だが、視線はキリエの航跡に固定されていた。

 

 303の隊員が言う。

 

「305の二番機、速いですね」

 

「速い」

 

 レオナは短く答える。

 

「ただ、今は速さを使わされている」

 

「使わされている?」

 

「一機目は自分で噛んだ。二機目は、噛ませられている」

 

 隊員は画面を見る。

 

 キリエの航跡は鋭い。

 判断も早い。

 だが、飛行教導群はその鋭さを横へ流している。

 

 レオナは静かに言った。

 

「あの人は、気づいている。だからたぶん、次で変える」

 

     *

 

 空の上で、キリエは苛立っていた。

 

 自分に対してだ。

 

 二機目。

 取れると思った。

 だが取れない。

 

 追えば逃げる。

 押せば後ろを刺される。

 止まれば時間を失う。

 味方を見れば敵が抜ける。

 敵を見れば味方が薄くなる。

 

 これが、飛行教導群。

 

 嫌な相手だ。

 

『梅二』

 

 菫の声。

 

『どこで死んだ』

 

 キリエは一瞬、答えに詰まりかけた。

 

 まだ死んでいない。

 撃墜判定も受けていない。

 

 だが、そういう意味ではない。

 

 どこで死んだ。

 

 死点確認。

 

 空の上で、それを問われている。

 

 キリエは短く答えた。

 

「二機目を一人で殺し切れると思った時点」

 

『よか』

 

「訂正します」

 

『何じゃ』

 

「まだ死んでません」

 

 キリエは呼吸を整えた。

 

「今、戻します」

 

 菫が笑った気配がした。

 

『やれ』

 

 キリエは右低位の敵機を追うのをやめた。

 

 完全に捨てた。

 

 一機殲滅。

 だが、今の一機ではない。

 

 自分が殺したい一機ではなく、編隊として殺すべき一機を見る。

 

 敵の配置をもう一度見る。

 

 右低位。

 左後方。

 前方斜め。

 

 そして、まだ現れていない増援一機。

 

 キリエは急に静かになった。

 

 敵が見える。

 味方が見える。

 空の形が見える。

 

 右低位の敵機は、まだ餌だ。

 左後方の敵機は、梅三と梅四を裂く役。

 前方斜めの敵機は、菫を抑える役。

 

 なら、本当に殺すべき一機は――。

 

「梅一」

 

『何じゃ』

 

「左後方を先に殺します」

 

『理由』

 

「後ろを裂かれると、次の増援に全部持っていかれます」

 

『右低位は』

 

「捨てます」

 

『よか』

 

「梅三、梅四、左後方を絞ってください。撃ちに行かなくていいです。逃げ道を消すだけで」

 

『梅三、了解』

 

『梅四、了解』

 

 キリエは機体を左へ振った。

 

 右低位の敵を完全に無視する。

 

 敵は一瞬、反応が遅れた。

 

 キリエが追ってくると思っていたのだ。

 

 その一瞬で、梅三と梅四が左後方の敵機の退路を削った。

 菫が前方斜めの敵へ圧をかけ続ける。

 

 キリエは、左後方の敵機の横腹へ入った。

 

 さっきのような即撃ちではない。

 押す。

 削る。

 味方の方へ追い込む。

 

 そして、敵が回避のために一瞬だけ高度を上げた。

 

 そこに梅三の判定線が入る。

 

『梅三、FOX判定』

 

 数秒。

 

『敵三番機、撃墜判定』

 

 キリエの撃墜ではなかった。

 

 だが、305の撃墜だった。

 

 キリエは息を吐いた。

 

 少しだけ、何かが腹に落ちた。

 

 自分が殺さなくてもいい。

 

 殺す空を作ればいい。

 

 菫の声が入る。

 

『梅二』

 

「はい」

 

『今のはよか』

 

「ありがとうございます」

 

『じゃが、次じゃ』

 

 その瞬間、管制の声が入った。

 

『競技管制。敵二機撃墜により、増援条件成立。敵増援一機、戦闘空域へ進入』

 

 来た。

 

 キリエはHUDの端を見た。

 

 新しい敵機シンボルが、別方向から現れる。

 

 位置は、右上後方。

 

 嫌な位置だった。

 

 こちらが左後方の敵を殺した直後、編隊の意識が左へ寄った瞬間を狙うような位置。

 

 しかも、残存敵機は二機。

 

 右低位にいた餌。

 前方斜めで菫を抑えていた一機。

 

 そこへ増援一機。

 

 配置が変わる。

 

 次の局面は、二機対一機、そして一機。

 

 つまり、二機で一機を処理しに行ったところへ、別方向から一機が現れる設定。

 

 撃墜した瞬間、次の敵が生まれる。

 

 菫が低く言った。

 

『来たな』

 

「はい」

 

『梅二、今度はどう見る』

 

 キリエは、さっきより少しだけ落ち着いていた。

 

「右低位はまだ餌です。でも、今度は喰います」

 

『理由』

 

「増援が後ろから来た以上、右低位を残すと二方向から挟まれます。先に消す。ただし、私一人では行きません」

 

『誰を使う』

 

「梅四」

 

 キリエは即座に続ける。

 

「梅四、私と右低位。梅三は菫大尉の後ろ。増援を見る。菫大尉は前方斜めを抑えてください」

 

 無線が一瞬静かになる。

 

 菫が笑った。

 

『梅二が指図しちょる』

 

「駄目ですか」

 

『よか。やれ』

 

『梅四、了解。梅二につく』

 

『梅三、梅一支援、増援監視』

 

 キリエは右低位の敵を見る。

 

 さっき時間を使わされた一機。

 餌として機能していた敵。

 

 今度は、一人で噛まない。

 

 梅四と二機で追い込む。

 

 敵一機。

 こちら二機。

 

 ただし、後ろには増援一機がいる。

 

 実質は、二機対一機プラス一機。

 

 早く殺さなければ、後ろから刺される。

 

 キリエの口元が、わずかに上がった。

 

 いい。

 

 やっと、305らしくなってきた。

 

     *

 

 右低位の敵機は、キリエが再び向かってきたのを見て、今度も逃げに入った。

 

 だが前回とは違う。

 

 キリエは追わない。

 追っているように見せて、逃げ道を限定する。

 

 梅四が外側から回る。

 敵は上へ逃げたい。

 だが上には菫の圧がある。

 下へ沈めば、判定空域の制約に触れる。

 横へ抜ければ、梅四がいる。

 

 キリエは短く言った。

 

「梅四、今は撃たないで」

 

『了解』

 

「もう一拍」

 

 敵が焦れる。

 

 わずかに機首を振る。

 キリエを外そうとする。

 

 そこでは撃たない。

 

 まだ早い。

 

 撃てる気がする時ほど、相手が撃たせているかもしれない。

 

 さっき、それで時間を食った。

 

 だから待つ。

 

 待って、待って、敵が本当に進路を失う瞬間まで待つ。

 

『増援、後方距離詰める』

 

 梅三の声。

 

『時間ないぞ、梅二』

 

「わかってる」

 

 キリエは、まだ撃たない。

 

 右低位の敵機が、とうとう上へ逃げた。

 それは菫の圧の下へ出る方向だった。

 

 だが菫は前方斜めの敵を抑えている。

 直接撃てない。

 

 そこで梅四が入る。

 

『梅四、FOX判定』

 

 キリエは同時に敵機の下を塞いだ。

 

 逃げ道を消す。

 

 数秒。

 

『敵二番機、撃墜判定』

 

 取った。

 

 今度は早い。

 

 しかし、喜ぶ暇はなかった。

 

『増援機、梅四へ攻撃姿勢!』

 

 キリエは即座に叫んだ。

 

「梅四、捨てて下げろ!」

 

『梅四、回避!』

 

 増援機が入ってくる。

 

 撃墜直後の隙。

 まさにそこを狙っていた。

 

 梅四が回避に入る。

 だがタイミングが厳しい。

 キリエは機体を引き上げ、増援機の横へ入ろうとする。

 

 しかし、前方斜めに残っていた敵機が動いた。

 

 菫を抑えていた一機が、ここでキリエの上を押さえに来る。

 

 二方向。

 

 増援一機。

 残存一機。

 

 キリエと梅四に対して、敵の二機が噛みついてくる。

 

 まさに設定どおり。

 

 いや、設定以上に嫌な形だった。

 

 キリエは一瞬で理解する。

 

 今度は、こちらが餌にされる番だ。

 

     *

 

『梅二、梅四、耐えろ』

 

 菫の声が低く響いた。

 

『梅三、私と残存を殺す。梅二は増援を見るな。梅四を生かせ』

 

「了解!」

 

 キリエは反射的に増援を撃ちに行きかけていた。

 

 だが菫の声で止まった。

 

 増援を見るな。

 梅四を生かせ。

 

 撃墜ではなく、生存。

 

 それが今の仕事。

 

 キリエは増援機の正面へ無理に入らず、梅四の回避先を開けた。

 自分が撃つためではなく、梅四が死なないための空を作る。

 

 敵増援は梅四を狙う。

 キリエはその射線を横から削る。

 梅四は低く逃げる。

 

 前方では菫と梅三が、残存機に圧をかけた。

 

 飛行教導群の残存機は、増援との連携でキリエを挟みたい。

 だが菫がそれを許さない。

 

 菫の機体が前へ出る。

 荒い。

 だが正確。

 敵の逃げ道を、面を打つように正面から割る。

 

『梅三、今じゃ!』

 

『梅三、FOX判定!』

 

 判定。

 

『敵四番機、撃墜判定』

 

 残る敵は、増援一機。

 

 こちらは四機全員残存。

 

 だが梅四は回避で大きく高度と位置を失い、キリエもそれを支えるために隊形からずれている。

 菫と梅三は残存機を殺した直後。

 

 最後の増援機は、まだ生きている。

 

 時間は少ない。

 

 キリエはHUDを見た。

 

 増援機は、上にいる。

 高く、速く、こちらを見下ろしている。

 

 さっきまでの自分なら、すぐに上へ噛みに行ったかもしれない。

 

 だが今は違う。

 

「梅一」

 

『何じゃ』

 

「最後、私が餌になります」

 

『理由』

 

「増援は私か梅四を狙いたい。私が見せれば来る。菫大尉が撃ってください」

 

 菫は一瞬だけ黙った。

 

 それから笑った。

 

『よか』

 

「梅四、私から離れて。死んだふりするくらい下げて」

 

『梅四、了解』

 

「梅三、菫大尉の射線作って」

 

『梅三、了解』

 

 キリエは機体をわずかに上げた。

 

 増援機から見れば、誘っているように見える位置。

 いや、実際に誘っている。

 

 少しだけ危ない角度。

 撃てそうで、撃ちたくなる姿勢。

 

 自分を餌にする。

 

 さっき敵にやられたことを、今度はこちらがやる。

 

 増援機が動いた。

 

 来る。

 

 キリエは逃げない。

 ぎりぎりまで引きつける。

 

 警報。

 距離。

 角度。

 判定線。

 

 まだ。

 

 まだ。

 

『梅二、危なかぞ』

 

「知ってます」

 

『知っちょるならよか』

 

「よくはないです」

 

 増援機が射撃姿勢に入る。

 

 その一瞬前。

 

 キリエは機体を落とした。

 

 急降下ではない。

 ただ、相手の鼻先から外れるための短い落下。

 増援機は撃つために一瞬直線を作っていた。

 

 そこへ菫が入る。

 

 真正面からではない。

 斜め下から、中心を割るように。

 

 昨日、剣道で見た面のようだった。

 

『梅一、FOX判定』

 

 数秒。

 

 世界が少しだけ静かになる。

 

『敵増援機、撃墜判定』

 

 管制の声が入る。

 

『敵全機撃墜。梅隊、四機残存。任務進出線突破条件、残り時間内達成可能』

 

 菫の声。

 

『梅隊、進出線へ。勝ちは帰ってからじゃ』

 

 キリエは息を吐いた。

 

 勝った、とはまだ言わない。

 

 まだ進出線がある。

 まだ帰投がある。

 まだデブリーフィングがある。

 

 撃ったあとが本番。

 

 その言葉を、今度は少しだけ理解していた。

 

     *

 

 進出線を越えた時、管制から競技終了が告げられた。

 

『競技管制。梅隊、競技終了。全機、帰投せよ』

 

『梅一、了解』

 

 無線が静かになる。

 

 少しだけ、誰も喋らなかった。

 

 キリエはキャノピーの外を見た。

 

 小松の空。

 日本海の光。

 遠くの雲。

 そして、少し前を飛ぶ菫の機体。

 

 梅の刺青が、空の中で本当に映えていた。

 

『梅二』

 

 菫が呼ぶ。

 

「はい」

 

『一機目はよか』

 

「ありがとうございます」

 

『二機目は遅か』

 

「……はい」

 

『じゃが、戻した』

 

「はい」

 

『最後はよか餌じゃった』

 

「褒め言葉ですか」

 

『もちろんじゃ』

 

「嬉しくないです」

 

『なら、嬉しくなるまで飛べ』

 

 キリエは少しだけ笑った。

 

 その会話を、梅三と梅四が聞いていたらしい。

 

『梅四より梅二。助かった』

 

 キリエは少し黙った。

 

「こっちこそ。二機目、取ってくれて助かりました」

 

『あれ、お前が作った空だろ』

 

「撃ったのは梅四です」

 

『じゃあ半分ずつだな』

 

「そうですね」

 

 半分ずつ。

 

 それが、妙に新鮮だった。

 

 一機を自分で殺し切る。

 それは強い。

 だが、味方に撃たせる空を作るのも強さだ。

 

 そのことを、キリエは今日、空でようやく少し掴んだ。

 

     *

 

 帰投後、305のエプロンは静かだった。

 

 騒がない。

 まだ騒がない。

 

 整備員たちが機体へ駆け寄る。

 パイロットたちがキャノピーを開ける。

 風が入り、外の音が戻ってくる。

 

 キリエはヘルメットを外し、息を吐いた。

 

 顔に汗が張りついている。

 

 タラップを降りると、菫が待っていた。

 

「桐絵」

 

「はい」

 

「どこで死んだ」

 

 やっぱり、それが最初だった。

 

 キリエは少しだけ苦笑した。

 

 だが、すぐに答える。

 

「二機目を、一人で殺し切れると思った時点です」

 

「何を見落とした」

 

「右低位の敵が餌だとわかっていたのに、自分なら喰えると思ったこと。あと、左後方の敵が梅三と梅四を裂きに来るタイミング」

 

「何を捨てるのが遅れた」

 

「二機目への執着」

 

 菫は頷いた。

 

「よか」

 

 それから、少しだけ口元を上げた。

 

「最後は」

 

「自分が撃つことを捨てました」

 

「それで」

 

「菫大尉に撃たせました」

 

「よか」

 

 短い言葉だった。

 

 だが、キリエには十分だった。

 

 その時、少し離れた場所にレオナがいるのが見えた。

 

 303飛行隊のフライトスーツ。

 腕を組み、静かにこちらを見ている。

 

 目が合う。

 

 レオナは何も言わなかった。

 

 ただ、小さく頷いた。

 

 評価なのか。

 挨拶なのか。

 宣戦布告なのか。

 

 キリエにはわからない。

 

 けれど、その目が少しだけ変わっていることはわかった。

 

 昨日までの観察の目ではない。

 

 今日の飛びを見たうえで、こちらを相手として認めた目だった。

 

 キリエも、小さく頷き返した。

 

 菫が横で言う。

 

「見られちょったな」

 

「ええ」

 

「よか。梅の刺青は、空でも見えたようじゃ」

 

 キリエは自分たちの機体を見た。

 

 白と紅の梅。

 徹敵必勝。

 翼に刻まれた印。

 

 今日、その機体はただ派手なだけでは終わらなかった。

 

 一機目は速かった。

 二機目で時間を食った。

 途中で死にかけた。

 それでも戻した。

 味方に撃たせ、最後は自分が餌になった。

 

 それが、今の305の空だった。

 

 完璧ではない。

 だが、死点は見えた。

 

 なら次は、もっと強くなれる。

 

 菫が歩き出す。

 

「デブリーフィングじゃ」

 

「はい」

 

「今日は長いぞ」

 

「でしょうね」

 

「一機目で調子に乗ったところから全部やる」

 

「乗ってません」

 

「乗りかけた」

 

「……はい」

 

 キリエは素直に認めた。

 

 それを聞いて、菫が少し笑った。

 

「よか。なら死点は見えちょる」

 

 小松の空には、まだエンジン音が残っていた。

 

 四日目の梅組は勝った。

 

 だが、勝ったままで終わらない。

 

 帰ってから、自分たちを刺す。

 

 爆闘。

 一機殲滅。

 徹敵必勝。

 

 そして、死点確認。

 

 梅組の本当の強さは、勝ったあとに始まる。

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