神奈川県立東京慈愛学園。東京と神奈川の間にある、神奈川県の高校。
日本一の馬鹿校であり、梢たちの母校でもある。その空き教室にて。
「という感じなんです」
『なるほど』
集めた机の上に、森塚家の遺産である古文書等を広げて、千春が解説する。
聞いて相槌を打つのは三人の女性。一人は遺産の持ち主である梢。もう二人は界異であった。
梢の家の術式を知り、当人に教えるために、彼女たちは集まった。
「どう、分かった?」
「はい」
片方は眼鏡をかけた穢淫の女性。梢たちからハカセと呼ばれるこの界異は、性欲ではなく勉学に欲求を抱く変わり種であり、普段は梢に取り憑いて、勉強の手助けをしている。
「少し変わった点はあるけど、概ね普通の術ね」
もう一人は山羊のような目をした黒服の女性。名をサマナと言い、古来から存在し続けている界異である。
両者共にこれまでの事件から梢と知り合い、一応は友好関係を築いた相手だった。
「変わった所って?」
「異界の空気を使って存在を置換、補填することかな」
梢の疑問に千春が答える。古文書の中身は現代文へと翻訳され、なるべく分かり易い形に整理されていた。
「界異たちの世界と言われる、所謂『向こう側』の世界をリソースにするの。怪我を治したり、自分を作り変えたり」
「疑似的に界異化をするのね。確かにそれ自体は珍しくないわ」
決して安全ではないが、その手の危険の術を使う祓魔師は、そこまで珍しくない。
「面白い使い方としては結界術との応用で、密閉空間内にこちら側とあちら側の世界を、繋げられるということです」
サマナが楽しそうに教える。この界異にとって梢は実験動物であり、彼女の主人でもある。
「つまり、どういうこと?」
「界異が封印された物に、閉じたまま穴を開けられるんですよ」
聞かれてハカセが答える。ノートを一冊開き、絵を書き込んでいく。
「例えば界異を閉じ込めた箱があるとします。しかし中身の界異が強力なほど、容れ物には小さな穴を開ける物です」
「少しずつ力を逃がすことで、弱体を狙うのよね」
「でも森塚の術は穴を開けず、中身を異界へと繋いで、異界経由でこっちの世界に繋げ直すことができるみたいなの」
穴を開けず穴を開けることができる。
砕けた言い方をするなら、概ねそんなところだった。
「後は異界をパソコンのクラウドサービスみたいに使う術だね。自分を世界に記録することで、欠損や変質からの保護や復帰をするみたい」
「幽霊というよりもAIみたいになるのね」
何百年も昔のことを説明するために、適切な言葉が見つかるのに数百年を要する。
梢は感想を口にしながら、その奇妙さに思わず苦笑した。
「でもそれって端的に言えば不死身に近くなるんじゃないの?もっと言えば不老不死とか」
「ええ、理論上に限り」
ハカセが眼鏡をクイってしながら頷く。レンズも透明さを失い、怪しい光を放つ。
「異界で長い間自我を保てる人間は稀です。いつしか心を摩耗し、存在は変質し、やがて消滅する。この術を用いても、森塚の術師が現代に残っていないことを考えれば、精神の復元まではできていないと見るべきでしょうね」
「言い換えるとそこを克服できれば、不老不死も夢ではないということですが」
サマナが嬉しそうに言う。術の改良、術者への処置。異界そのものに対する観測。試みるべきことは多い。
「他には何かないの?」
「他は入れ墨みたいな人体への加工によって、呪殺への対象を高めたり、身体能力を多少強化したりするくらいかな」
「そっちの方がありがたいわね」
梢にとっては覚えるのに時間を要する術よりも、単純に自身の耐久性を上げられる方が大事だった。
「あと、呪物や界異の特性を反転、というか改変する術ですね。これは神仏のような存在を怪異化したり、逆に界異を無害化したりできそうです。とはいえ、外法の類に見えますが」
サマナは黒板にチョークで、特殊な文字と記号を書き記していく。
「この図が描かれた容れ物に対象を封じ込め、それを破壊すると中身が変質する、ということらしいです」
黒板に祠と、幾何学模様に似た記号が書かれていく。
「これは面白いことよ。界異の性質や能力の変質は、呪詛の内容も変えてしまう。恐ろしい呪いが素晴らしい祝福になることもあれば、逆になることも考えられるの」
界異に対して人為的な実験や開発は、当然ながら一般には禁止されているが、同じ界異のサマナには通用しない。
「これを使ってどんな無茶ができるか、無理を通せるか、楽しみだわ」
「私たち穢淫に施せば、子宝の神や豊穣の天使のようになるのか。興味深いですね」
ハカセも森塚の旧い術を試したくて仕方がない様子だった。
存在への冒涜であるが、それが好奇心を刺激することも確かである。
「ちなみに梢ちゃん。梢ちゃんのご先祖様が封印した、界異の祠があるの。これなんだけど」
梢は千春が広げた地図を見る。日本地図と県内の地図。それぞれ現代の物を使用している。
年代を追うと日本を北から南へと縦断している。
「悪いけど興味が無いわ。今はそれを調べる時間も無いし。あんたたちで好きにしていいわよ」
「おや、祓魔師に通報はなさらないので」
梢は一族の歴史や功績には興味が無かった。誇りや尊厳とは無縁の人生を送っているため、目先の現実以外には関わりたくなかったのだ。
「そんなことしたら事情聴取されるし、最悪の場合見張りを付けられるわ。あんたたちは興味を示してるから、術や式にも価値があるんでしょう。言い付けても絶対良いほうには転ばないわよ賭けてもいい」
世の中の面倒臭さや、身を切る風の冷たさを、彼女は嫌というほど思い知っていた。
誰が好き好んでお上を頼ろうなどと思おうか。
「封印が解けて山の神みたいなのが出て来ても、それで被害が出ても、私の知ったことじゃないのよ」
「なるほど。ではありがたく。ふふ、ちゃんと研究結果はお伝えしますので、ご安心を」
サマナはほくほく顔でしゅこうすると、そのままハカセに向き直る。
「ハカセ、聞いての通りです。予算は付きませんが自由と権限は頂きました。早速実験台と人員の手配をお願いします。学究肌の界異に声をかけてください」
「はい畏まり」
いったいいつの間に仲良くなったのか、二人の怪物はてきぱきと何事かの準備に取り掛かる。
「言っとくけど、犠牲にするならなるべく悪い奴を使うのよ。いざって時の心証に響くんだから」
「そういう心配の仕方もどうかと思うよ梢ちゃん……」
無関係な民間人を手にかければ殺人だが、襲い来る強盗を射殺するのは無罪である。
おっさんが何万人過労死しても国は見向きもしないが、新卒の女性が過労死すれば即座に動く。
印象とはそれだけ大きな力なのだ。
「ともかく、受験シーズンだって界異が爆発的に増えるし、試験会場が守られる場所は限られてるわ。個人で何とかしろってケースの方が圧倒的に多いんだし、寝た子を起こすような真似はしないわよ」
梢は教室の窓の外を見る。閑散として行き交う人も絶え、故人の霊の方がまだ賑わいを見せている。
彼らは既に生の不安や苦悩からも解放されているのに、こちらは暖房のスイッチを入れても部屋の空気は冷たいままだ。
「あー、あたしも千春と一緒に界異になって、一生遊んで暮らせたらなー」
疲れからだろうか。彼女の口から思っていても言わないようにしていた言葉が、ぽろっと零れた。
「お?辞めますか?いいですよ?」
「梢ちゃんが良ければ。私もいいよ」
「何時にしますか?他の同族も呼べますが」
「ごめん、口が滑ったわ。まだ頑張れるから待って頂戴」
梢は片手で顔を押さえ、もう片方の手で、嬉しそうに身を乗り出す三人を押し留める。
「何時でも言ってください、あなたたちなら私たちも大歓迎ですから」
「一緒に人間辞めようね、梢ちゃん」
自分の周りで手を取り合って踊るデカダンスに、梢は泣きたくなる。皆が善意と優しさと自分への気遣いで、人間なんか辞めようと囁くのだ。
(たぶん、そう遠くない内に、そうなっちゃうのよね……)
人でいるという選択はこの時代、何よりも重く、辛いものがあった。