数日後、梢は引き続き『コーポ森塚』の自室で、淡々と受験勉強をしていた。
家事をやってくれる家族がいないので、定期的に中断しては、また勉強に戻る。
僅かなノイズが唯一の気晴らし。ストレスが溜まるばかりだが、試験までこれを続けなくてはならない。
(規則正しい生活だけど、体に悪いわ)
家柄もいない。金もない。受験を目前に控えて、仕事の売春もできないため、貯金も減っていく。
安息のない日々は、眠りさえも恐怖の象徴。
迫る時間が睡眠を浅くし、時間を狭める。
「うわ、ひっどい顔」
梢はふと手鏡を取り出すと、自分の顔を見た。クマの深い目に化粧もしていない顔。
不安と取り憑かれた、暗い女が一人。
(私が真人間として生きるには進学が必要だけど、それでどうなるのかしら……)
愛情も安心もない人生を送り、自分の側には千春一人がいてくれるだけ。
自分には梢しかいないと、千春は思っているが、梢もまた、自分には千春しかいないと思っていた。
同じ想いを抱いているが、しかして二人は別の結論を出している。
「梢ちゃん、いる?」
「千春。開いてるわよ」
ドアがノックされると、親の声より聞いた声がし、次に親の顔より見慣れた顔が現れた。
小学生から成長できなかったような体型の、桜之千春が入室する。
「最近よく来てくれるけど、あんたちゃんと勉強してるの?」
「してるよ。約束だからね」
明るく答える千春に、梢は顔を向ける。その時、彼女は友人に違和感を覚えた。
違和感は感じるものではない。覚えるものである。
「千春、何か変わったわね」
「やっぱり分かる?」
「……あんた、人間辞めたのね」
「すごい、よく分かったね!まあこれはお試しなんだけど」
無邪気な様子の千春に、梢の目は重い疲れに濁る。
「話、聞かせてくれる?」
「うん、いいよ」
梢は勉強を中断すると、ベッドに寝転がって千春を招いた。その腕と胸の中に、千春は甘えるように潜り込む。
「どうして?」
「色々と、将来のことを考えたんだけど」
千春は梢に抱かれながら、思っていたこと、考えていたこと、不安や悩みを伝えていく。
この少女にとってそれができる相手は、この世に一人しかいない。
「私ね、どうしても、梢ちゃんと一緒にいることしか考えられないし、考えたくない。段々と離れていって、生きて行くなんて無理だよ」
だから人間を辞めて、できれば梢も道連れにしたい。そこまでを誤魔化さずに告げた。
「私には梢ちゃんしかいないから」
「私もよ、千春」
華奢な体を強く抱きしめて、梢が囁く。
「私もね、同じ気持ちだった。でも私はずっとなんて信じられない。いつか私たちの気持ちは落ち着いて、色褪せていく。その時あなたが私から離れる時、もしも私を嫌っていたら。そう考えるのが怖くて、早めに切り離したかった。浅傷で済ませたかった……」
梢の言葉に、千春が取り乱すことは無かった。
相手を想うが故に、人生から不安を取り除き、共に生きて行こうとする者。
相手を想うが故に、人生の不安となる前に終わりを迎え、離れようとする者
「でも、千春とまだ一緒にいたいのは本当なの。だからこんな無理して勉強してるんだし」
言っていることよりも、やっていることがその人の本性である。
どんな態度を取っていても、現実に梢は千春の成績に合わせて、身の丈に合わない受験をしている。それが真実だった。
「私と関わって、あんたが不幸になったら嫌。でもあんたももう十八だから、自分の人生をどうこうしたって、罰は当たらないわ」
梢は他人の人生を、自分の思い通りにするなど、おこがましいと考えていた。
だからこそ、友人の逸脱を残念には思っても、責める気など起きなかった。
「ありがと、梢ちゃんなら否定しないって思った。それでね」
「うん」
「私ね、梢ちゃんにも私と同じ道を歩いて欲しい。ずっと一緒にいて、ついでに人間も止めて欲しいの」
「ちょっと、何それ」
千春のあまりにも強欲な要求に、梢は吹き出してしまう。人間を辞めるのはついで。
しかし彼女にとっても、人間であることに拘る理由は、実は無かった。
「欲張りにも程があるでしょ。それってプロポーズ?」
「うん。私、本気なんだ」
抱締める手に重ねられた指は、冷たく震えていた。人を辞めてそれなりの力を持ったはずなのに、拒絶を恐れている。
同じ気持ちを抱いていながら、どうして道を違えるのか。
「ねえ梢ちゃん、私と勝負しない?」
「勝負って?」
「私が勝ったら、梢ちゃんも人間を辞めて、私と一緒に暮らすの」
「今とほとんど変わらないわね」
穢淫を体内に救わせ、豊穣神の眷属となり、別の界異の所有物となっている。
そんな自分を今も人間と見做していいのか。彼女は内心で躊躇った。
「私が勝ったら?」
「それは梢ちゃんが考えることだよ」
「そりゃそうね」
現状維持でもいいし、梢を人間に戻すことでも良い。それよりも自分の話を聞く余地が、千春に残されている方が大事だった。
「それで?受験のこととか、成績のことなら私は勝ち目が無いけど」
「そうだね。だからちゃんと考えて来たの」
千春はそう言うと梢から離れ、この部屋に置きっ放しの鞄から、幾つかの資料を取り出した。
「前もって用意してたの。準備良いわね」
彼女の視線の先には、先日の古文書のやり取りで提出された、各地の地図が広がっている。
「私が一つずつ、この地図に載っている、界異が封印されている祠を壊していく。それを梢ちゃんが処理していく。退治でも再封印でも構わない。全部処理できたら、梢ちゃんの勝ち」
「厳しいわね。他の人の安否とか、あんまり興味ないんだけど」
「分かってる。気乗りしないよね。だからやる意味があるの」
モチベーションの湧かない勝負ほど、投げ出しやすいものはない。
千春も人々を守れとは言わない。封印から解放された、界異をどうにかしろと言っているのだ。
「期限は」
「卒業するまで」
「全部壊し切れるの?」
「間に合わなかったら、その時点までで反転するよ」
日本全国津々浦々、よりにもよってこの時期に、時間を取られる。
今すぐ千春と添い遂げれば、こんな不毛なことをせずに済むというのに。
「私からも一つ条件があるわ」
「何?」
「どの祠を壊した、必ず報告すること。でないと黙ってるだけで私が負けるわ」
「それは勿論言うから安心して」
犯行を黙秘すれば、これもまたそれだけで勝利ができる。千春も想定内とばかりに頷く。
「事態が重くなっても梢ちゃんの迷惑になるだけだし、祓魔師の人たちの力を借りるのもいいよ」
界異の中には危険な存在も多い。単独で挑ませて梢を失ったり、重傷を負うようなことは千春も避けたかった。
「今度は私が有利過ぎる気もするけど」
「それでもいいよ」
千春は笑った。地味な三つ編みと野暮ったい眼鏡も、可愛くない制服姿も、もうじき見納めだった。
窓の外には積もらぬ雪が降っている。高校の三年間で、雪景色というものが地元に出来たことはない。
「思い出くらいには、なると思うから」
「そういえば私たちって、揉めたことないわね」
「私じゃケンカにはならないでしょ」
体格に差があるがそれ以前に、二人は互いを傷つけ合うようなことも無かった。
日陰の中で、もたれ合い、支え合うように暮らして来た。
「そう。じゃあ始めの合図もあんたが決めて。私はその挑戦を受けて立つから」
室内の暖房の温度を少し上げると、梢は千春の手を取った。よく擦り、息を吐いて、怯える指先を温める。
「ありがとう、梢ちゃん。私、絶対にあなたを手に入れて見せる」
「いつの間にか、随分と頼もしくなっちゃって……」
最愛の友人の人生を賭した情熱に、梢の頬に涙が伝う。
上手くは行かないものだが、それでも彼女は、彼女も、相手のことが好きだった。
(生きていくって観点だと、きっとこの子の方が正しいのよね)
何故未だに人間でいなければならないのか。
その理由を、梢は見つけられないでいた。