「ウラァッ!」
「おっと」
振り抜かれた梢の包丁を、イツマデの腕が掴む。人間の腕とは違う、異常な大きさと長さをした鳥の骨。
「思ったより力が強いな」
「そりゃあ、どうも……!」
体重をかけて押し込めば、骨に刃が食い込み、切り落とす。
体が粉々に砕け、身に纏った影が飛沫めいて爆ぜる。
「効いてないの?」
「いや、何回も切られれば、力尽きるだろう」
イツマデは戦いに興味がないようだが、逃げたり行方を眩ますことは無かった。
有り体に言えば梢に付き合っている。
「逃げないの?」
「どこへ?ここには何もない。あの老婆が耐えてくれたことが、私にとっても救いだった。孤独は苦しいものだ」
イツマデが指の骨を組むと、それは薄く長く伸びて交差する。梢はそれを地面に這うことで回避する。
その直後、宙に取り残された髪の先が音もなく切り裂かれた。
「今までは、お前たち人間を追い立てることで、自我を保てていた。だがあの日、お前の祖母により、この地に隔てられ、私の時は止められた」
ピアノを弾くように、界異の指が跳ねる。その中を疾走し、時には切り払いながら、祓魔師が前進する。
「時への恐怖を持つ者に問いかけると、多くの者はそれに屈する。泣き叫び、蹲り、帰って来なくなる」
梢は跳躍すると空中で身を翻し、一刀の下に界異の両手を切り落とす。
「お前はどうかな」
イツマデの虚ろな顔が、目の無い眼孔が、梢を見つめる。
異質な波長が意識を揺さぶる。だが。
「自分でもね、いつまでこうしているのか、こうしていられるのか。ずっと恐れているの」
イツマデは再生させた腕を剣状に変えると、そのまま梢と切り結ぶ。
「この世界は私に馴染むし、向こうよりも落ち着くし」
自責を促すような不安を受け入れながら、彼女は界異の体を切り裂く。細かい骨の欠片が飛び散り、また戻って来る。
一度は界異に魅入られたこともあり、人の世での暮らしが辛かったこともあり、梢の意識と自我は、異界ですり減ることがないように、変質していた。
「お前は時が怖くないのか」
「怖いわ。でもね、一度自分に絶望すると、恐怖がそこで終わっちゃうのよ。自分が大事じゃなくなって、当事者意識が腐っちゃうのよ」
今も恐怖を感じているのに、自分なんかどうせと思う己への諦観が、精神を麻痺させていく。
「自分がいつか、最愛の友人をなくすかもしれない。恐怖を感じているはずのに、それを拒めない自分がいる」
イツマデの纏った影がごぽり、と蠢くと、梢に向かって爆ぜる。
骨を溶かしたような水流が周囲を横薙ぎにし、影の攻撃を地面が異臭を放つ。
「恐れが頂点に達すれば心は死ぬ。だが先に心が死んでいるのなら、恐れはその力を失うか」
「そこまでは言わないけど、ぐっ!」
避け損なった骨が脇腹をかすり、制服に血の染みが広がっていく。
互いの命を削り合いながら、二人は会話を止めない。
「人の心ってやわだから、疲れて元気がなくなると、反応できなくなっちゃうのよ」
大きく踏み込んで体を沈みこませると、梢は包丁を突き込む。胴体の骨を突き割ると、イツマデの体がぐらりと傾く。
「そこッ!」
「やるな」
抱き締めるように背後に迫る指の指を切り落とし、窮地を脱する。
今度は再生しない。
「いっそ戦うだけでいいなら、どれほど救いがあったろうな」
イツマデはもう一度、彼女を見つめた。人を狂わせる眼孔と、自らを破滅させる問いを引き出そうとする。
しかし上手くいかない。
「無駄よ。私もう、決めたから」
界異の伸ばした指が、梢の心臓目掛けて集中する。彼女が包丁を構えて切っ先で受けると、指の骨が光の粒子となって霧散していく。
森塚の術式により、人の世に吸い出されていく。
「言葉は心だと言う。だが、言葉は無力だ。ならば、心もまた無力ということなのか」
「そうかもね。そこで違うなんて言えるほど、私ロマンチストじゃないわ」
片腕を失ったイツマデに向かい、彼女は歩き出す。少女を終えようとする一人の戦士に、残った骨が伸ばされ突き刺さる。
それでも、その祓魔師は歩みを止めない。
「あなたに罪は無いけど、ごめんなさい」
「あの日の結末がこれなら、悪くない。おかえり、梢」
振り降ろされた包丁が、界異の顔面を叩き割る。時間に倦んでいた界異は、ようやく終わりを手に入れた。
「……みんな疲れて、悲しくなっていくのね」
「終わらない時は、言葉と心が、終わるとき」
骨は灰のように崩れ去り、影は泥のように溶け落ちる。イツマデの体を受け止め、消えてなくなるまで。
「おやすみなさい。あの日の優しい人」
風のない墓地に、遠くから響く音がする。それはイツマデによって影と化した人々の昇天、或いは崩壊。
一つだけ輝く白い光が、何処かへと消えていくのを、梢は見た。
「さよなら、おばあちゃん」
体中から流れ出る血が、どこか他人の物のように感じられた。痛みと灼熱感よりも、一層の寒さが心身を覆う。
(寒い)
墓地の一画、墓石の一つに体を預けるようにして、彼女は座り込んだ。
「すぅーーーーーー、はぁーーーーーー」
長く長く息を吐く。瞼を開けているのが辛くなって来た。
――やっとおわった。
「梢ちゃん!」
不意に聞こえた声に顔を上げると、いつ頃からか異界入りしていた千春たちが、駆け寄って来るのが見えた。
「千春、そっか。帰らないと、いけないのね……」
始めから惰性で戦っていた。それも一段落し、日常に戻らねばならない。
もしかしたらこのまま異界に留まった方が、自分にとっては良いのかしれないと思いながら。
「梢ちゃん、大丈夫!?直ぐに手当してもらうから!」
「痕になったら、困るしね……」
「心配ご無用です。それくらいは治せますよ」
仲間たちに助け起こされ、千春に背負われて、梢は現世に帰還、下山した。
救急車が呼ばれ、一部説明をはぐらかしながら、彼女は治療を受けた。
単身異界に乗り込み、因縁のある界異を討伐した彼女の話は、一部の祓魔師の耳に入るが、それで生活が激変することもなく。
また少しの時間が流れた。
――境界対策課附属病院。
様々な呪詛や界異との戦いにおいて物理的、精神的に負傷することが耐えない祓魔師が、治療を受けるための施設。
梢はそこに入院した。
「もうじき試験だってのに参ったわね」
絶対安静を言いつけられ、療養を余儀なくされた彼女は、見舞いに訪れたサマナたちと話していた。
ハカセはバレたが、サマナはバレなかった。穢淫であっても無害な個体の場合、意外にも通してもらえるらしい。
「格好を付けた代償ですね」
サマナが皮肉っぽく笑う。自分の力を借りずに事を成した梢に、また一つ好意を覚えていた。
「相手も死にたがっていたから、これで済んだのですよ」
「ねえサマナ、やっぱり界異も長く孤独を感じると、ああなるのかしら」
ベッドに横たわりながら、真面目な口調で彼女は女界異に問う。
古の時代から今を生きる存在に。
「なりますね。知性の高い者ほど長く生きますが、知性の高い者の最後は孤独死ですよ。私たちは誰も、寂しさには抗えない。私でさえ」
「だから旦那を持ってるんだ」
「否定はしません」
サマナには好色で陽気な鬼の夫がいる。趣味や嗜好に没頭するだけではいられない、そういう時間が確かにあるからだ。
「成長したイツマデが、自らの呪いによって弱ることは珍しくありません。アレもそういう個体だったのでしょう。土地に縛られながら、自分にいつまでと問うてしまう」
ハカセが先日の相手のことを教える。界異にも生態というものがあった。
「私たちも、いつまで仲良くできるかしらね。できれば、ずっと続けてたいけど」
独白するように梢は呟く。誰もが最後は同じ痛みと悲しみを背負うなら、身を寄せ合ってもいいはずだ。
「あなたは、変わった人ですね、梢」
「ふふ、たまに言われるわ」
「私たちも、あなたとは長い付き合いでいたいと思っています、それでは」
「梢ちゃん!」
ハカセとサマナが退出すると、入れ替わりに千春が現れた。
「病室では静かにするのよ」
「ご、ごめん」
毎日甲斐甲斐しく見舞いに来るこの友人は、梢にとって日常や、人生と同義になっていた。
(そろそろはっきりさせなきゃ、悪いわよね……)
安静にしているようにと、毎日同じ台詞を繰り返す千春の声を聞き流しつつ、梢は頭の片隅でそう思うのだった。