桜もまばらに咲き誇る神奈川県立『東京慈愛学園』にて。
他の学校よりも少ない卒業生たちが、校歌と仰げば尊しを歌い、卒業証書を授与され、友だちや恩師と、涙と笑いの別れを済ませた。
「どうにか退院と卒業ができたわね」
「そうだねえ」
薄曇りの空の下を、森塚梢と桜之千春が並んで歩く。
周囲にはまだ帰らない生徒たちが、何をするでもなく屯している。いつもと変わらない光景が、今日で終わる。
「この制服を着るのも最後だね」
「どうかしら、何かの悪ふざけでまた着るかも」
「えーやだー!わっ」
冗談めかして梢が言うと、冷たい風が吹いて二人の髪を煽る。
「……本当に、終わっちゃったんだね」
「そうね。千春、こっちに来て」
「え?うん」
背丈にも歩幅にも差が有る彼女たちだったが、梢は千春の手を握ると、歩調を合わせてゆっくりと動き出す。
校舎から出て、敷地内から街へ。
「もう少し、こうやって帰ればよかった」
友人の、あるいは恋人の肌と温もりを感じながら、梢は自分の中の寒さを自覚していた。
どれほど気丈に振る舞っても、無関心を装っても、孤独の影は心の一部として、離れなかった。
「梢ちゃん……」
「こんな時に言うの、ずるいと思うけど、言わせて」
彼女は息を吸うと、静かに吐いて、千春に向き直る。
「私はあなたが好き。利用したつもりが、ずっと依存してもらって、今はもう、千春がいない暮らしを、考えられない」
バス停に差し掛かり、ベンチに腰掛けると、目線の高低差が補われる。
「これから大学に行って、祓魔師もやって、少しずつだけど、人間も辞めていこうと思う。今すぐに全部とはいかないけど」
梢はこれからのことを語る。まともな人間でなくても、人間として生きていける場所がある。それは救いのある話ではあった。
「家も取り返したし、短期間住むだけなら千春も大丈夫だと思う」
千春は既に穢淫として人間を辞めていた。親には秘密だったが、ほとんど会話が無かったため、後ろめたさはなかった。
「うん、私も少しずつ、界異として異界に慣れていかないとって、考えてたから」
梢の周りに人間はいなくなった。当人もやがてそうなるだろう。
それは祓魔師が戦いの果てに、人間であることを失うのとは、また別の理由で。
「変な話しよね。折角苦労して、受験も合格したのに、お互い人生が上手く行く気がしないなんて」
日本一の馬鹿校から現役東大合格が二名。職員室は大いに湧き立ち、合否を巡った賭けでは、二人が合格することに賭けた一人が総取りとなった。
「賭けにも勝ったし、今年一年くらいは生きて行けそうだけどね」
「落ち着かないんだよね。安らぎがないっていうか」
やって来たバスに乗り、コーポ森塚へ帰る。
今日の梢は自転車に乗っていないので、歩いて帰るしかなかった。
「そんなこと言ったら親御さんが悲しむわよ」
「大丈夫。ちゃんと分身を残して来たから」
千春はサマナたちに頼み、卒業式からその後を共に過ごす身代わりを作って貰った。
両親と一緒にいたいとは思わなかったが、思い出作りに付き合いたいという優しさは残っていた。
「あっ管理人さんおかえりー!」
「お帰りなさい」
「ただいま、卒業しました」
コーポ森塚には、同じパパ活仲間の夏とあすみがいた。活発そうな女子高生と妙齢の女性。
彼女たちはこの賃貸物件で、同じ仕事をする間柄であった。
「おめでとー!」
「おめでとう」
「ありがと」
手短に挨拶をすると、彼女は千春を連れて帰宅、自室へと連れ込んだ。
「やっぱりね」
「どうかしたの?」
「場所の問題じゃないの。あんたがそこにいるか、いないか」
梢は制服も脱がずにベッドに寝転がると、千春を手招きする。
それを見て千春は仔犬のようにベッドに飛び込む。
「あんたはもう、私の居場所になってたの」
「私もそうだよ、梢ちゃん」
三年間を共にした相手の匂いが、この世の誰よりも安心できた。
「大袈裟な話じゃなくて、私たちは他の子みたいに、人生とか世界を広げていくことができなかった。だから二人にとって、二人が世界の全部になっちゃった」
失敗にも似た世界観の形成は、依存も含まれるとはいえ、彼女たちが支え合った結果の価値観だった。
「でもね、私はそれが嬉しいの。まだ置いて行かれてないんだって、そう思えるから」
千春はそう言うと、梢の上に体を起こす。
髪を解き、一度眼鏡を外してから、制服を脱ぐ。
妖しい色香が放たれ、幽かな霊気が漂う。
見た目こそほとんど変わらなかったが、梢は相手の匂いが、人間のものではないことに気付く。
「それがあんたの、界異としての姿なのね」
「馴染んで来れば羽根や角も生えるんだって」
既に人間としての桜之千春は終業し、新しい彼女が始まっている。
だがそこに悲劇は無い。あるとすれば、それは彼女が人間であることを諦めた、人間側の落ち度である。
「そう。私の場合、どうなるのかしらね」
梢は自分の手を見て呟く。異変を解決するため、サマナに身を売り、人間ではいられなくなる。
その時に自分の自我や理性は残っているのか。どこまで意思を保っているのか。
「あんたの側にいさせて欲しいって言ったら、サマナは願いを聞いてくれるかしらね」
「きっと大丈夫だよ、梢ちゃん」
梢の手を取って、界異となった千春が告げる。
「二人がどうなっても、ずっと一緒にいるから」
「そういう大丈夫なの……?」
とはいえ、理性や感情の形が失って、相手への執着しか残らなかったら、自分のような者は却って素直になれる。
彼女はそう考えると、言うべきことを見失ってしまう。自分が自分であるが故に、想いの足を引っ張ることなど、これまで何度もあった。
「でも、自分が自分だって思って、そのせいであんたを遠ざけるなら、理性は無い方がいいのかもね」
梢は溜息を一つ吐くと、自分も制服を脱いで寝転がる。
情事を始めるのではなく、相手の肌と温もりを感じたいから、少し薄着になっただけ。
「私はね、梢ちゃんが好きだよ。だから、自分の気持ちが変わらないで済むように、人間を辞めたかったの。それでどこまで、この気持ちが続くか分からないけど」
千春は最愛の友人を抱き締めて、その胸に頭を埋める。変わらないものは無いと人は言う。ならば変化を欠いた存在になれたら、想いは不変にできるのか。
「千春。愛してる。なるべくずっと傍にいるから、これからも、私の傍にいてくれる?」
「約束する。私、桜之千春は、森塚梢の心に、ずっと応え続けます。ずっと、隣にいます」
二人は一度視線を合わせると、互いの命を確かめるように、唇を重ねた。
吐息を交えて、顔を離す。もう一度見つめ合うと、彼女たちはもう何も言わなかった。
「何だか、すごく疲れたわ、千春……」
「休もうよ、梢ちゃん」
「そうだね、おやすみ」
一つの節目を迎えて、自分たちの中のしこりが消え、同時に、自分たちの選択に思いを馳せて、疲れが押し寄せて来る。
これからも二人の日々は続くが、これまでの二人が終わりを告げたのも事実だった。
「千春、一緒に、いようね」
戦いの日々に再び出向く前に、彼女たちには安息が必要だった。
まだ寒く春らしくない今日に、これから嫌でも暖かくなる明日に、怯える心を共にし、身を寄せ合う以外の生き方を知らない。
「梢ちゃん、私ね、幸せだよ」
人間であることを手放し、自分たちという形を守り通した二人は、相手の存在を自分の居場所にした。
それが生きて行く上での精一杯だったが、責める者は誰もいなかった。
目が覚めれば、また戦いの日々が始めるのだから。
ーーすぅ、すぅ。
だから今だけは、ただ深まる寝息を重ねて、梢と千春は深い眠りへと落ちていく。
二人の安らぎを得るために。
<完>