朝の執務室は紙の匂いがする。
ミレニアムサイエンススクールという学園の性質を考えれば、これは少しおかしなことだった。
決裁は電子で回り、議事録はサーバに積まれ、会議の音声は自動で文字に起こされる。紙である必要のある書類など殆どない。
それでも紙は減らなかった。
発明というものは、どうしてか最後に紙になりたがる。図面は印刷され、明細書は綴じられ、出願書の隅には手書きの署名が求められる。だから執務室の一角、書記の机の上にだけは、いつ運び込まれたかも知れない紙の山が育ち続けている。
生塩ノアは、その山の前に座っていた。
午前七時四十分。
窓から入る光の角度は昨日より僅かに浅く、机の左端に置いた湯呑みの影は、昨日より一・五センチほど短い。誰に言われなくてもノアはそれを知っている。知ろうとして知るのではない。目に入ったものは、そのまま残るのだ。湯呑みの影の長さも、山の三番目に積まれた出願書の角の折れ方も、昨夜帰り際にユウカが消し忘れた予備モニタの待機ランプの点滅間隔も。
ノアはそれを天気のようなものだと思うことにしていた。
降るものは降る。積もるものは積もる。拒否できないのだから恨んでも仕方がない。
「――で、コユキはまた逃げたわけ」
室内にユウカの声が響いた。
ユウカは自分の机、会計の席に着いたまま、タブレットの画面に向かって眉を寄せている。画面の向こうで誰かが平謝りしているのが、こちらまで聞こえた。
「反省室の換気ダクトの径は三十八センチです」
ノアは顔を上げずに言った。
「コユキさんの肩幅では通れません。逃走経路は別にあるはずです」
「……なんでダクトの径なんて覚えてるのよ」
「先月の設備点検の報告書に書いてありました」
「読んだの、あれ全部」
「目を通しただけです」
ユウカは深い息を吐いた。
呆れの滲んだ溜息だったが、その底に信頼が敷いてあるのをノアは知っている。
ユウカの溜め息には何種類かあって、これは悪いほうではない。
ノアは微笑んで、手元の書類に視線を戻した。
特許出願書の束。今週の受付分。
ミレニアムの生徒たちは息をするように発明をするので、この束が痩せる週はない。
ノアは一枚ずつ確認していく。発明の名称、図面、請求の範囲。図面を見れば機構は分かる。分かるから審査は速い。
書記と弁理士の兼任は普通に考えれば無茶な業務量だが、ノアにとって書類仕事とは、降ってきたものを然るべき棚に置き直す作業に過ぎなかった。
昼のチャイムが鳴り、部屋の空気が僅かに弛緩する。
ユウカは背もたれに体を預けて心地よさそうに伸びをした。ある役員はPCをスリープにして席を立ち、食堂へ向かう。ノアはチャイムが鳴り終わってからも暫く作業を続け、キリの良い所で視線を上げて壁掛け時計を見遣った。
「……今日も?」
「ええ」
「……」
机の脚に立て掛けていた鞄から弁当を取り出すノアに、ユウカは天井を見上げて息を吐いた。
先ほどとは性質の異なる溜息だった。
***
第七研究棟の最奥。
理論物理系の研究室が並ぶ廊下の突き当たりに、その部屋はある。
ノアはノックをしない。二年前にやめた。
ノックの音は、彼女の優先順位のどこにも割り込めないと知っているからだ。
「お姉ちゃん。入りますね」
返事はない。
返事がないのは平常運転で、返事があったらむしろ異常事態だ。
ドアを開けると、まず匂いが来る。埃と、冷めたコーヒーと、通電しっぱなしの機材が発する、かすかに焦げたような空気。
部屋の主はホワイトボードの前に立っていた。
シワだらけの制服の上に、袖口のほつれた灰色のカーディガン。白い髪は肩の下まで伸びた部分と、顎のあたりで途切れている部分が混在している。おそらく視界に入って邪魔になった箇所だけを、その場にあった何か──ハサミとは限らない──で切ったのだろう。
生塩ヨナ。
ミレニアムに通う3年生であり、ノアの姉である。
「お昼まだですよね。持ってきました」
ヨナは振り向かない。紫の瞳はホワイトボード上のラグランジアンに向けられている──正確には、その少し手前の空中に。姉の焦点は、いつも手前か、無限遠かのどちらかだ。人の顔がある距離には決して合わない。
ノアは慣れた手つきでデスクの上の論文を三つの山に分け、隙間に弁当を置いた。床のコーヒーカップを回収する。四つ。昨日は三つだった。
「お姉ちゃん。カップは流しに置いてくださいと、今月に入ってから九回言いました。九回です」
「うん」
沈黙。
マーカーがボードを走る音。
「……『うん』は、聞こえたという意味ですか。直すという意味ですか」
「前者」
「……お姉ちゃんって」
言いかけて、やめた。
代わりにノアは息を吐いてカップを重ねた。
姉は嘘をつかない。誤魔化さない。皮肉も言わない。怒られても怒り返さない。ノアを嫌っていないし避けてもいない。ただ、生塩ヨナという系のハミルトニアンの中に妹という項が入っていないだけで。
それを理解するのにノアは十六年かかった。
理解と納得が別物であることを理解するのには、もう少しかかりそうだった。
***
「──ノア、ちょっといい?」
ユウカが紙束を持って近づいてきた。
差し出されたのは、今週の出願書の控えの束だった。会計監査用の複写。ユウカの指が、その八枚目の端を、とん、と叩いた。
「この明細書の修正、ノアの字でしょ」
「はい」
「はい、って」
ユウカがようやく顔を上げた。
「出願者本人に差し戻すのが規定でしょうが。なんで書記が手ずから直してるのよ」
「差し戻すと三週間は返ってきませんので」
「……知らないわよ、そんなの。本人の責任でしょ」
紛うことなき正論である。
ユウカの正論はいつも硬くて、まっすぐで、そして根の部分が優しい。
「お姉ちゃんの字は暗号なんです。本人ももう読めません。だから私が」
ノアは笑った。
「ふふ。困った人ですよね」
その笑みを見て、ユウカは何かを言いかけた。
ノア、あのさ。それって──言いかけて、やめた。ノアの笑い方が、いつもの先生をからかう時の楽しげなそれではなかったからだ。窓ガラスに指で描いた文字みたいな笑み──描いた端から消えていくのに、描いた本人だけが、いつまでも覚えているような。
「……ノアはさ。お姉さんの世話、やめようと思ったことないの」
「ありますよ。千二百回くらい」
「具体的な数字やめて。重いから」
「でもユウカちゃん」
ノアはペンを置いた。
「やめたら、あの人は本当に餓死するんです」
「……」
「大袈裟に聞こえますか? 事実です。姉は計算を始めると食事という変数を系から消去するんです。合理的でしょう? 去年それで一度倒れています。発見したのは私です。何月何日の何時何分かまで言えますけど、聞きたいですか?」
「聞きたくない」
ユウカは一度だけ付いていったことがある。半年前だ。
第七研究棟のあの部屋でユウカは怒った。ノアが毎週何をしているか、どれだけの時間と、お金と、それ以外の何かを注ぎ込んでいるか、数字で全部並べて突きつけた。
数字ならユウカの領分だ。完璧な弾劾だったと今でも彼女は思っている。
ヨナは最後まで黙って聞き、それから言った。
『うん』
長い沈黙。
そして、僅かに首を傾げて。
『……?』
──ユウカはその様子に、掛ける言葉をついぞ見つけられなかった。
先ほどまで怒りをぶつけていた相手には、怒りを受け取る機能が搭載されていなかった。悪意に対してなら戦える。無関心に対してなら軽蔑できる。だがあれは、どちらでもない。あの人の中では、妹の献身は雨や重力と同じ扱いなのだ。降っているし、働いている。以上。
帰り道、ノアは少し笑っていた。
『ユウカちゃんがあの人に勝てるわけないじゃないですか。私が十六年勝てていないのに』
──その言い方が、あんまり穏やかだったから、ユウカはかえって歯痒くて仕方なかった。
「……ねえ、ノア」
ユウカは声を落とした。
「怒っていいのよ。ノアは、怒っていいと思う」
「怒ってますよ」
ノアは即答した。
「ずっと怒ってます。私の記憶は薄れないので、八年前の怒りも昨日の怒りも、全部同じ鮮度で保管されています。……困ったことに、同じ理由で、それ以外のものも薄れないんです」
***
──ノアの記憶に半減期はない。
人の記憶は放射性物質に似ている、とノアは思う。
時間とともに崩壊して、熱を失って、安定した無害な何かに変わっていく。
人はそうやって過去と折り合いをつける。
ノアにはそれができない。
七歳の夏、姉が縁側で線香花火を見ていた。
ノアが「きれい」と言うと、姉は「1000℃くらい」と答えた。
それでもあのとき姉はノアの隣に座っていた。座って同じものを見ていた。
九歳の冬、姉がノアに三角関数を教えた。
教科書ではなく、湯呑みの水面が揺れるのを指差して。ノアが理解できないと言うと、姉は理解できるまで別の言い方を七通り試した。七通り──ノアは全部覚えている。三番目の説明がいちばん分かりやすかったことも。
十一歳の春、姉が最初の論文を書いた。
ノアが「すごいですね」と言うと、姉は「うん」と言った。そのとき初めて、姉の目がノアを通り越して、ノアの後ろの壁の、そのさらに向こうを見ていることに彼女は気づいた。
劇的な切っ掛けがあったわけではない。
ノアは知っている。
姉の興味の口径は、生まれつき極端に狭いのだ。針の穴のような視野の望遠鏡──それが幼い頃の数年間、たまたま妹のいる方角を向いていた。
そして六年前の秋、素粒子という名の、より深くより暗い方角へと旋回した。
それきり戻らない。誰のせいでもない。望遠鏡は二つの星を同時に見られない。
ヨナはクォークの海の底へと潜っていく。
原子核の内側、強い力が支配する 1 fm の深海へ。ノアを見向きもせずに。振り返らないのではない。振り返るという動作が系に含まれていないのだ。
それでも、最後に姉の焦点が自分に合った日を、ノアは覚えている。
三年前の実家の玄関。入学式へ行く姉を見送った日。
ドアの前で姉は一度だけ振り返り、確かにノアを見た。
1.8 s ──それだけの記憶が、今日も昨日と同じ解像度で再生される。
薄れてくれれば、諦められるのに。
崩壊しない元素で組まれた系は、永遠に熱を持ち続ける。
***
夜、ノアは夕食の載ったトレイを持って、またドアを開けた。
ヨナは床に座り込んで古い計算用紙の山を発掘していた。
その手元に見覚えのある薄い冊子があるのを見て、ノアの足が止まる。
詩集だった。去年のミレニアムプライスに、ノアが趣味と実益を兼ねて書いた小さな詩集。姉に渡した記憶はない。渡す勇気がなかったので、研究室の隅に置いてきたのだ。
八ヶ月前のことだ。
「お姉ちゃん、それ」
「ん」
ヨナは冊子を紙の山から引き抜いて、埃を払いもせずに眺めた。
「これ、面白かった」
心臓が一拍分だけ加速した。
「……読んだんですか。それで、感想は──」
「特定の単語に変数を割り当てて、出現回数で重み付けして逆フーリエ変換すると」
ヨナは宙に指で波形を描いた。
「減衰振動になる。振幅が小さくなって、でもゼロにはならない。綺麗な形だった」
「……」
「あと『待つ』の出現頻度が異常。ポアソン分布から 4σ 外れてる」
タイトルは、とノアは訊きたかった。タイトルは覚えていますか。どの詩が好きでしたか。誰のことを書いた詩集だと思いましたか──訊かなかった。訊くまでもない。この人は、タイトルも、一篇の内容も覚えていない。単語を数え、変換し、波形だけを取り出して、中身は捨てたのだ。
──なのに。
呼びかけて、返事を待って、それでもゼロにはならない波形。
ノアが幾月もかけて言葉の裏に埋めたものを、この人は数式で掘り当てて綺麗だったと言う。
本人は自分が何を掘り当てたのか、まるで分かっていない顔で。
「……お姉ちゃんは」
ノアにしては珍しく、声に棘が混ざった。
「本当に、ずるい人ですね」
「ずるい?」
ヨナは少しだけ首を傾げた。
焦点の合わない紫の瞳が、一瞬、妹の顔の高さを通過する。
「どのあたりが」
「全部です。もういいです。ご飯そこに置きますから、温かいうちに食べてください。三十分後に確認しに来ます。統計的に、あなたは確認されないと食べないので」
「うん」
「『うん』は『食べる』のほうですか」
「違う」
「知ってました」
***
そうして、今日もノアは第七研究棟の最奥にいる。
カップを洗い、論文を三つの山に分け、賞味期限切れの栄養バーを廃棄し、カーディガンの袖のほつれに気付いて、明日ソーイングセットを持ってこようと決める。
ヨナはホワイトボードの前から動かない。会話はない。
ユウカは言うだろう──それは機能不全だと。姉妹の形をした、一方通行の何かだと。正しい。帳簿につければ完全な赤字だ。
でも、とノアは思う。
あの人の世界は原子よりも小さい領域まで潜っていって、もう私の声は届かない深さにいる。それでも時々、あの深みから、逆変換された波が届いて来る。本人も知らない周波数で。私だけが受信できる波長で。
だから記録しておく。今日の姉を。カップの数を。マーカーの色を。切り損ねた髪の長さを。忘れられない頭脳は、こういうときだけ少しだけ役に立つ。
帰り際、ドアの前で振り返ってノアは言った。
姉の背中に精一杯の棘を込めて。呆れと、怒りと、それから、名前をつけたくない残りの成分を全部混ぜて。
「お姉ちゃんって、本当に、私がいないと何も出来ないんですね」
「うん」
否定しない。訂正しない。ただの事実として受理する。
……ほら、これだ。この人はいつもこうだ。
ノアは唇を噛んで、それから、誰にも見せない顔で少しだけ笑ってドアを閉めた。