安定同位体 作:ああ
異変に気づいたのは月曜の朝だった。
ノアが同じ書類を三回読んでいる。
ユウカは目を疑った。
ノアは書類を二度読まない。読む必要がないからだ。一度目を通したものは全部あの頭の中に完璧な形で保存されるので、二度目というのは彼女にとって時間の無駄でしかない。同じ執務室にいて、ユウカはノアが書類を読み返すところを一度も見たことがなかった。
その書記が、いま、一枚の公文を三回読んだ。
「……ノア。それ何」
「学園間知財実務者会議の召集状です」
ノアは顔を上げなかったし、声はいつも通り穏やかだった。穏やかすぎた。
「一泊二日。出席は各学園の知財担当者――つまり書記本人に限ると」
「ふうん。行ってらっしゃい」
「規約第八条を確認します」
行ってらっしゃい、を完全に無視してノアは端末を操作し始めた。
ユウカは自分の仕事に戻ったが、聞こえてくる独り言が不穏すぎて集中できなかった。
「――代理出席の規定は、第八条三項『本人に限る』。第十二条にも同様の記載。附則にも。
……三箇所。徹底していますね。起草者は優秀です。腹立たしいことに」
第一次防衛線、陥落。
「日帰りは――往路の始発で九時二十分着、会議終了が十八時、復路の最終接続が十八時五分発。……2.2キロを五分。走れなくは」
「無理でしょ」
「……ですね」
第二次防衛線、陥落。
ここまではまだよかった。問題は昼休みだった。
ノアは自分のモニタをくるりとユウカに向け、スライドを表示した。
表紙にはこう書いてあった。
『不在時における定時給餌の自動化について(案)』
「ドローンです」
ノアは真顔で言った。
「保温容器を懸架し、十二時三十分に第七研究棟三階の窓から」
「待って」
「窓の開放はタイマー制御で」
「待ってってば。スライド何枚あるのそれ」
「十二枚です。給餌後の食器回収経路が未解決で」
「問題はそこじゃないのよ」
ユウカは蟀谷を押さえた。
この人は学園最高峰の頭脳の持ち主で、書記で、弁理士で、そしてたまに、壮大に、頭が悪い。
「あとはコユキさんに」
ノアは言いかけて、すぐに口を噤んだ。
「いえ。撤回します」
「自分で言って自分で却下しないでよ……」
ノアは黙った。
珍しく、本当に黙った。
紙の山の向こうで書記が静かに追い詰められていく。ユウカは帳簿に目を落としたまま、その沈黙を一分聞いて、二分聞いて、三分目に耐えられなくなった。
「――ああもう! 分かったわよ! 私が代わりに行けばいいんでしょ!」
沈黙が流れた。
顔を上げると、ノアは微笑んでいた。
それはもう晴れやかに。
「言質、いただきました。手帳に記載しますね」
「は?」
「日付、時刻、発言者、早瀬ユウカ。『私が代わりに行けばいいんでしょ』」
「ちょ、あんた最初からそのつもり――」
「まさか。ユウカちゃんの自発的なご厚意です。記録がそう言っています」
押し付けられたはずなのに帳簿上は志願になっている。会計としてこの粉飾には断固抗議すべきだった。しかし抗議する間もなく、目の前にどん、と何かが置かれた。
バインダーだった。
厚さは目測四センチ。
背表紙に印字されたタイトルをユウカは二度読んだ。
『生塩ヨナ観測手順書(ミレニアム) 第43版』
「……第、四十三版」
「ええ」
「ミレニアム」
「当然ですが、自宅用とは別です」
「学校だけでこれ!? 何をそんなに改訂することがあるのよ!?」
「読めば分かります」
ノアは言った。
「読んでも分からないことは、起きてから分かります」
「起きるの!? 何が!?」
ノアは答えず、ただ穏やかに微笑んだ。
ユウカは彼女と出会って初めて、その微笑みを本気で不吉だと思った。
***
火曜、十二時十五分。第七研究棟三階。
ユウカは保温容器を提げて突き当たりの部屋の前に立っていた。
ノアの冷蔵庫には二食分の作り置きと、温め直しの手順書(図解付き・A4二枚)が残されていた。作り置きにまで手順書が付いてくる人生を、ユウカは想像したことがなかった。
ノックを二回──返事がないのは聞いていた。手順書1.2項『ノックは儀式です。返答を待たないでください』。儀式って何よ、と思いながらドアを開けた。
白髪の人物が、果物ナイフを自分の頭に向けていた。
「―――ッ!?」
声にならない声が出た。
0.5秒の間に、ユウカの脳は三つの選択肢を計上した──タックル、通報、逃走。
会計脳は反射的に各案の費用対効果を見積もろうとし、見積もりが終わる前に口が動いた。
「ヨナ先輩!? 何して……!?」
「散髪」
ヨナはユウカを見もせずに言った。
左手で自分の前髪をひと束つまみ、右手のナイフで、じょり、と削いだ。
白い毛が数本、計算用紙の上に落ちた。以上。ナイフは机の上に転がされ、当人はもうホワイトボードに向き直っている。
ユウカは戸口に立ち尽くした。
心臓がまだ速かった。
震える手でバインダーを開き、索引から『刃物』を引いた。
あった。
三十六版で追加された項目だった。
『刃物を所持している場合があります。前髪です。怖がらないでください。接近する場合は左からにしてください(右視野は数式で占有されています)』
「………………」
書いてあった。全部書いてあった。
ユウカはバインダーを閉じ、深呼吸を一つして姿勢を正した。
よし。仕切り直し。私は代理だ。代理には代理の礼儀がある。
「ヨナ先輩。セミナー会計の早瀬ユウカです。本日はノアの――代理で、お昼をお持ちしました」
返事はない。
「ノアは出張です。明日の夜には戻ります」
返事はない。マーカーの音だけが続く。
「……お昼、こちらに置かせていただきますね」
「うん」
出た、噂の『うん』。
手順書の巻頭には見開きで『うん』判別フローチャートが載っていた。
文脈・直前の発話・ペンの停止時間から意味を推定する樹形図で、末端の分岐は十一個あった。
今のは『聞こえた(内容は保証しない)』の枝だと思われた。
丁寧語のすべてが、この部屋では空気抵抗ほどの意味も持たなかった。それでもユウカは敬語を崩さないと決めていた。
相手に届くかどうかと、自分がどう振る舞うかは別の話だ。
弁当の設置座標は手順書4.2項に図があった。
『机の北東角から左に十二センチ、手前に八センチ。許容誤差三センチ』。
ユウカは持参した定規を当て、それから、定規を当てている自分に愕然とした。何をやっているんだ私は。しかし三センチずれると発見されないと、太字で書いてあるのだ。
床のコーヒーカップを回収する。五つ──手順書によれば昨日ノアが回収した時点でゼロのはずだから、一晩で五杯。明らかに飲みすぎだ。
流し台でカップを洗いながら、ユウカはふと机の上に転がったままの果物ナイフを見た。
拾って、刃を布巾で拭いて引き出しにしまう。
――ノアは、これを毎回どんな気持ちで見ていたんだろう。
その考えは一瞬で、ユウカはすぐに蓋をした。
今日の業務はまだ半分も終わっていない。
半年前に一度この部屋に来たことがある。
あのときは怒鳴り込みだった。怒りで視野が狭まり、部屋の様子なんてほとんど覚えていない。
だから実質今日が初めてだった。初めてちゃんと見る、生塩ヨナの部屋。紙の山脈、ホワイトボードは三枚、壁際の機材は型番も分からない。
そして床一面に計算用紙が散らばっている。
──見なければよかった、とユウカは後に後悔する。
最初は目を逸らした。
他人の計算を勝手に読むのは、他人の帳簿を勝手に開くのと同じだ。
彼女の倫理感に反する。反するが――視界に入ってくるのだ。
足の踏み場を探せば嫌でも紙を見る。
紙を見れば、嫌でも式が目に入る。
式が目に入れば――ユウカの目は、数式を読まずにいられないようになっていた。
拾うつもりはなかった。
屈んだのは紙を踏まないためだ。踏まないために持ち上げて、持ち上げたら手元に来て、手元に来たら読んでいた。
言い訳の因果が全部繋がった時には、もう三枚目だった。
読める部分と読めない部分があった。
物理は分からない。でも数学は数学だ。式変形の骨格は追えてしまう。
四枚目、五枚目──床の紙は無造作に見えて、拾って並べると導出の順に繋がっていた。
この部屋の床は、床ではなくノートであり、紙の散らばりはノードとエッジの集合であった。
そして八枚目でユウカの手が止まる。
(……あれ、なんか符号がおかしい)
三行目から四行目。
移項で符号が反転していない。単純ミスだ。天才でも計算ミスはする。むしろ天才ほど途中式を軽視する。問題は、このミスが以降の三枚に引き継がれていることだった。
指摘すべきか。
相手は先輩で、天才で、しかもあの生塩ヨナだ。黙ってそっと戻すのが正解に決まっている。
なのに、ユウカの右手は既に胸ポケットの赤ペンを抜いていた。職業病だ。数字の誤りを見て見ぬふりをすると蕁麻疹が出る体質なのだ。
四行目の符号に小さく赤で印を付け、余白に正しい式を書いた。
ついでに引き継がれた三枚にも波及箇所だけ印を付けた。
書き終えてから、ユウカはふと我に返った。
――マーカーの音が止まっていた。
振り向く勇気が出るまで二秒かかった。
振り向くと、ヨナがこちらを見ていた。正確にはユウカではなく、ユウカの手の中の紙を。
焦点の合わない紫の瞳が、赤インクの一点にぴたりと合っている。
ヨナが歩いてくる。ユウカの心拍数が跳ね上がる。怒られる──いや怒らない人だと聞いている。でも聞いているのと目の前に来るのとは話が別で――。
「すっ、すみません! 勝手に、その、目に入って、私の悪い癖で、あの、消しますから――」
ヨナはユウカの手の中の紙を覗き込んだだけだった。
距離にして約十センチ。ユウカは硬直した。間近で見る先輩の顔はやっぱりノアに似ていて、似ているのに、何かが決定的に違う。
長い、長い沈黙の後、ヨナは口を開いた。
「合ってる」
それだけ言って、ヨナはボードに戻っていった。
ボード上の符号を直し、続く行を三行消して書き直した。
マーカーの音が再開した。
ユウカはその場にへたり込みそうになった。
合ってる。合ってるって言った。私の赤が、通った。
――それから先のことを、ユウカはあまり弁護できない。
気づけば床の紙を導出順に辿っていた。
読めない物理を飛ばし、読める数学だけを拾って、白い山脈の中を式変形の川が流れていくのを追った。途中で何度か詰まった。詰まるたびに思わず声が漏れた。
「……なんでここで項が消え――」
「相殺」
背中から声が返ってきた。
ヨナは振り向きもせず、ボードに書きながら、ただ一言告げた。
ユウカはもう一度式を見た。二項が対になっていた──確かに消える。
「……ほんとだ」
声が弾んだのが自分でも分かって、ユウカは慌てて口を閉じた。
閉じたが、既に遅かった。楽しい。この床、楽しい。怖い先輩の部屋で数式を追いかけて、それが、どうしようもなく楽しい。
ポケットの端末が振動したのは、そのときだった。
【ノア】進捗はどうですか
【ノア】カップの数を報告してください
【ノア】写真を添付してください
【ノア】人参は
人参は、じゃないのよ。
ユウカは唇の端を歪めながら返信を打った。
『会議中でしょ。集中しなさいよ』
既読は一秒でついた。
【ノア】休憩時間です
【ノア】人参は
一分後にはこれである。
ユウカは弁当の残骸を確認し『人参:完食されず。手順書の予言通り』とテキストを入力し、報告写真を添付して送った。返ってきたのは『受理しました』の五文字だった。
出張先でまで受理しないでほしい。
***
二日目は少しだけ慣れた。
ノックの儀式、設置座標、カップは四つ(改善傾向、と脳内の帳簿に記す)。
ヨナは今日も一言も発さず、ユウカも用件以外は話しかけなかった。それでいて部屋の空気は昨日より息がしやすくて、その理由をユウカは考えないことにした。
異変が起きたのは夕方の帰り支度のときだった。
鞄にバインダーを押し込もうとして手が滑った。
四センチの厚さが床に落ち、ばさりと開いた。
開いたのは最終ページだった。拾い上げて、閉じようとして――目が、止まった。
改版履歴。
几帳面な字で四十三行。
一番上の行にはこうあった。
第1版 ――年4月 初版作成
一年前の四月。
ノアがミレニアムに入学した月だ。
ユウカは立ったまま、その四十三行を読んだ。
読むつもりはなかった。でも目に入ったしまったものは、もう──。
第4版 弁当の設置座標を追加
第9版 カップ回収を週次から日次に変更
第17版 食事拒否時の対応を追加
第22版 深夜の在室確認手順を追加
第29版 「倒れていた場合」の手順を追加
第36版 刃物の項を追加
第41版 「うん」判別フローチャートを全面改訂
──会計には、代理変数という考え方がある。
本当に知りたい変数が観測できないとき、それと相関する別の観測可能な量で代用するのだ。
景気が測れないから電力消費量を見る。満足度が測れないから継続率を見る。
真の変数には決して直接触れられないまま、周りの数字だけを積み上げていく。
この手順書は、それだ。
四センチぶん全部、代理変数の束だ。
カップの数、人参の残量、前髪の長さ、深夜の窓の灯り、倒れていないかどうか――本当に測りたいものは、そのどれでもない。本当に測りたいものは観測不能で、だからノアは三年間、周りで観測できるものを全部測って、記録して、四十三回改訂した。
第二十九版を書いた夜のことをユウカは想像しかけて、やめた。
想像するまでもない。
ユウカはバインダーを閉じ、ホワイトボードの前の背中を見た。
昨日、赤ペン一本で『合ってる』をもらったとき、ユウカは正直、少し浮かれた。
ノアが十六年かけて手に入れられなかった種類の応答を、自分は初日に引き出したのだと、どこかで思った。
思い上がりだった。
ヨナ先輩が見たのは、私じゃない──赤インクの符号だ。
『相殺』と答えた相手は、私じゃない──式だ。
あの瞳の焦点は一度だって人の顔の高さに合っていない。
この部屋では誰も人間として観測されない。
妹も、代理も、等しく。
ノアだけが拒まれているわけではない――その事実は、救いなんだろうか。
それとも、拒絶ですらないという、もっと底のない何かなんだろうか。
「……失礼しました。ヨナ先輩」
返事はない。
ユウカは一礼してドアを閉めた。
廊下の照明が、四つ点いていた。
***
水曜の夜、ノアは戻ってきた。
執務室に入ってきた彼女は見るからに消耗していた。
両手に紙袋。片方は会議資料、もう片方は――
「お土産です。温泉饅頭」
「知財会議どこでやってたのよ」
「温泉地です。連邦の予算の使い方には監査が必要だと思います」
「あんたが言うと洒落にならないからやめて」
ノアは饅頭の箱をユウカの机に置き、鞄を下ろし、上着を掛け――そこまでの動作はいつも通りだった。いつも通りの速度で、いつも通りの順番で。だから次の言葉までの間が、0.5秒だけ短かったことにユウカは気づいてしまった。
「姉は何か言っていましたか」
ユウカの喉の奥で、いくつもの報告が渋滞した。
符号を直したこと。『合ってる』と言われたこと。『相殺』と、質問に答えが返ってきたこと。床の数式が楽しかったこと。改版履歴を最後まで読んでしまったこと。二年前の四月から数えて四十三回。第二十九版。倒れていた場合。
言えば、ノアはどんな顔をするだろう。
妹が十六年待っている種類の応答を、代理の会計が二日で受け取ったと知ったら。
あの窓ガラスに描いた文字みたいな笑い方をするんじゃないだろうか。
それは報告じゃなくて、ただの──。
「……別に」
声は思ったよりも普通に出た。
「何も、なかったわよ。ご飯は食べてたし、カップは今日四つだったし。人参は残してた」
「そうですか」
ノアは微笑んだ。
「いつも通りですね」
「……そ。いつも通り」
いつも通り、が何を指すのか二日前のユウカは知らなかった。
今は知っている。四センチぶん知ってしまった。
ノアはバインダーを受け取ると、その場でぱらぱらと確認しペンを取った。
表紙の『43』に二重線を引き『44』と書く。それから何事もないように言った。
「代理観測者の項を追加しておきますね。ユウカちゃんの報告様式、優秀でしたので」
「二度とやらないからね」
「手帳には『また行けばいいんでしょ』と」
「言ってない! 捏造!」
ノアが笑った。
今度のは、いつもの先生をからかうときと同じ種類の笑い方だった。
ユウカはひとしきり抗議して、饅頭を一つ奪って席に戻った。
帳簿を開く。
今日の私の帳簿は合っている。全部合っている。
合っているのに、どこにも記載できない貸し借りが一件だけ増えていた。
誰かに話したい、と初めて思った。
ノア以外の誰かに。
そんな相談ができそうな顔は一つしか浮かばなくて――ユウカは、まさかね、と首を振って、それを打ち消した。