安定同位体   作:ああ

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三体問題

 第七研究棟の直下、周長八百メートルのトンネルに据えられたシンクロトロンは、ミレニアムの敷地でおそらく最も高価な円である。正式名称は長いので誰も使わない。管理チームの生徒たちはただ「リング」と呼ぶ。

 

 二十三時十分。

 ビームタイム七十二時間の四十八時間目。

 

 壁一面のモニタ──真空度、ヘリウム充填率、励磁電流、RFキャビティの位相、ビーム位置モニタの軌道表示。数字の海の手前に操作卓が三列並び、その末席に今夜ひとりの学生が座っていた。加速器管理チームの二年生で、今夜が初めての夜間当番だった。主任席では三年生の先輩がマグカップのコーヒーを啜りながら小さく欠伸をしていた。

 

「……」

 

 彼女は緊張していた。

 装置に対してではない。装置の仕様書は全部読んできた。しかし読んでも仕様の分からないものが、この部屋の一番奥の床に座っている。

 

 白い人──チーム内の通称がそれだった。

 名前はもちろん全員が知っているが、名前で呼ぶには実在感が薄すぎた。

 今回のビームタイムの申請者であり、この七十二時間の主であるその三年生は、開始からの四十時間、制御卓に一度も触れていない。予備モニタの前の床に座り、膝の上の紙束に書き続け、時折モニタ群を──正確にはモニタの少し手前の空中を──眺めては紙に戻る。それだけだ。

 

 最初は彼女を紛れ込んだ迷子か何かだと思った。

 声を掛けようとして、先輩に襟首を掴まれた。

 

「Wiki読んだ? 読んでないなら今すぐ読んで。声かけるのはその後」

 

 理論物理系の共有サーバの片隅に、そのページはあった。

 編集履歴は二年分、延べ十七名。文体は引き継ぎ文書のそれで、どこにも冗談の気配がなかった。理系の文章は切実であるほど乾いていく。

 


 

生塩ヨナ仕様書

 

1.1 本記録は,生塩氏とのビームタイム共同作業を円滑に遂行する目的で,有志により編集されている.公式文書ではない.公式文書にできる性質のものでもない.

 

2.1 接近は左方向からを推奨する(右視野は解析に占有されている).占有の対象について質問した記録が1件あるが,回答の理解に成功した者はいない.

 

2.2 挨拶への応答率は 0.057 である(9/157).応答の有無について,時間帯・接近方向・声量・発話者の各変数との独立性を $χ^{2}$ 検定により検討したが,いずれも有意な関連は認められなかった(すべて$ p > 0.4$).帰無仮説「応答は完全に無作為である」は棄却できない.棄却できないという事実の解釈は,各自の心の強さに任せる.

 

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3.2 発話「うん」は同意を意味しない.現時点で少なくとも4種の用法が確認されている(付録A参照).なお用法の判別について判定者3名の一致度を測定したところCohenの $\kappa = 0.31$ (判定者間でほぼ一致しない)であり,フローチャートによる運用は第2期編集の代で断念された.文脈からの判別を試みるより,Yes/Noで回答できない形式に質問を再設計するほうが早い.

 

3.4 氏は必要のない発話を行わない.したがって,発話が観測された場合,その内容の優先度は警報系より上位として扱うこと.根拠は 7 章の全 11 事例(発話後に重大事象が確認された割合 11/11)である.この標本比率に検定の必要を認めないが,様式の統一のため記す:二項検定,$p = 9.8 × 10^{-4}$.

 

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5.1 食事は自発的には行われない.差し入れの消費率は,机上の北東角を基準とする配置で 0.83 (19/23),その他の配置で 0.04 (1/28)であった(Fisherの正確確率検定,$p = 2.7 × 10^{-9}$).許容誤差はおよそ 3cm と推定される.理由は不明である.なお「その他の配置」で消費された 1 件については現在も考察中である.

 

5.2 差し入れに人参が含まれる場合,人参の残存率は 1.00 である(41/41,95% 信頼区間[0.914, 1.000],Clopper–Pearson法).例外の観測報告は,過去 2 年間で 0 件である.本項の改訂を望む編集者は多い.

 

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6.2 氏の周囲の床の紙は,一見無秩序だが導出順に配列されている.床ではなくノートであると解釈すること.廃棄・整理の前に,必ず対象を氏の左視界に 1 秒以上入れること.

 

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付録B 氏と計算速度で競わないこと.氏は生物学上はホモサピエンスに分類される量子コンピュータである.本学園に勝利の記録は未だ存在しない.

 


 

 彼女は初日にこれを全部読み、いくつかの項目で笑った。信頼区間まで付けるのか、と思った。

 今はどの項目でも笑えない。検定をやる気持ちが分かってしまったからだ。

 有意差が出てほしかったのだと思う。挨拶が届く条件がひとつでも見つかってほしかったのだと思う。p>0.4というのは、つまり、そういう祈りの残骸だった。

 

 零時二十分、周回中のビームは安定していた。

 真空度は10-8パスカル台。励磁電流は定格。ヘリウム流量、正常。クエンチ保護系、待機。彼女の担当は磁石系の監視盤で、四十七項目のチェックリストのうち十一項目。数字の海は今夜も凪いでいて、彼女は瞬きを惜しんで画面を見つめていた。

 

 白い人は、何も見ていないように見えた。

 

 床の定位置で膝の上のペンだけが動いている。傍らの予備モニタには整形前の生データが流れている。桁の揃わない数値が毎秒何百行と流れ落ちる滝のような画面。人間が読む速度を超えた画面。彼女の焦点は滝を追ってすらいないように見えた。

 

 零時四十一分。

 異変は、数字より先に声で来た。

 

「三番」

 

 低い、抑揚のない声。

 振り向くと白い人が顔を上げていた。

 視線はモニタの壁に向いている。

 

「え?」

「落として」

 

 制御室が静止した。

 三番、は第三セクタの主電磁石群。

 落として、はビームダンプ。

 つまり、今夜のビームタイムをここで捨てろという意味だ。

 

「う、生塩さん、三番は正常値です。温度も電流も──」

「揺れてる」

「……どこがですか」

「三桁目」

 

 彼女は主任の顔を見た。

 主任は三秒迷った。

 

「ダンプ!」

 

 ビームは捨てられた。

 八百メートルの円から粒子が消え、モニタの電流値がゼロに落ちる。制御室に空調の音だけが残った。白い人はもうノートに戻っていた。

 

 七秒後、第三セクタの温度勾配が警報域に突入し、制御室のあちこちで警報が鳴った。

 クエンチ予兆──超伝導の破れの、その入り口。ビームを載せたままであれば、磁石一基と、復旧までの三週間と、チーム全員の休日が消えていた。

 

 制御室の全員が、青い顔で部屋の隅の床を見た。

 

 白い人は紙に書き続けていた。もう温度の話は終わったらしい。膝の上の計算は一行も止まった様子がなかった。礼を言うタイミングは、どこにもなかった。

 

 事後解析は明け方までかかった。

 ログ上、予兆と呼べる変化が始まったのはコールの十四分前。

 振幅は警報閾値の二十分の一、ノイズフロアに埋もれる大きさだ。ただし揺らぎに周期性があった。監視系のどの閾値にも引っ掛からない小数点第三位の肌理。それを、制御卓に触りもしない人間が流れ落ちる数字の景色だけで拾った。

 

「……何を見て、分かったんですか」

 

 解析結果を前に先輩の一人が訊いた。訊かずにいられなかったのだと思う。白い人は生データの滝を指の先で示して言った。

 

「周期」

 

 それきりだった。

 

 彼女は背中に冷たいものを感じた。

 畏怖というものを、生まれて初めて具体的な体温の変化として経験した。そして同時に、少しだけ思った。閾値を持たない頭とはどういう場所なのだろう。凪いだ海も、撚れはじめた一本の糸も選べずに等しい解像度で入ってくる頭とは。

 

 ――それが幸福な場所だとは、なぜか思えなかった。

 

 朝五時、再入射の準備待ちのあいだ、彼女は床の紙の整理に当たった。

 

 手順は6.2項のとおり。

 位置関係を写真に収め、一枚ずつ氏の左視界に一秒入れてから導出順に箱へ移す。式の断片が嫌でも目に入った。

 読める行と読めない行があり、読めない行のほうが多かった。

 

 八枚目で手が止まった。

 

 式変形の途中、行と行の隙間の余白にひと筆で書かれていた。

 

 ――とどかない声を、きょうも同じ場所に置く。

 

 数式ではなかった。

 変数の定義でも、参考文献でもなかった。

 前後の計算と何の関係も見いだせない。筆跡は間違いなく本人のもので、書き慣れない文字を書くときの、あの右下がりの癖があった。

 

「……先輩。これ」

 

 小声で示すと、覗き込んだ先輩は、ああ、という顔をした。

 

「たまにあるんだよ、それ。前に新しい変数かと思って、定義を三日探した奴がいる」

「あったんですか」

「なかった」

 

 訊けば何か返るのかもしれない。

 3.2項に従って質問を再設計すれば。

 ただ、返ってきたものを自分たちが受け取れる気はしなかった。彼女は紙を撮影し、規定どおり左視界に一秒入れてから箱に収めた。

 

 当番明け、日誌を書き終えた学生はWikiの編集画面を開いた。

 今夜の一件は記録に値する。

 7章「観測事例」への追記を書いて保存した。

 閾値の二十分の一。十四分前。周期。

 

 それからもう一度編集画面を開いた。カーソルが点滅している。余白の一行を、どの章に書けばいいのか彼女は考えた。2章は接近方法、3章は発話、5章は食事、6章は紙の扱い、7章は観測事例──観測はしたが、あれはどの節にも属さない。

 

 カーソルは十秒点滅し、彼女は保存せずに画面を閉じた。

 観測できても分類できない事象は、記録の様式を持たない。

 

***

 

 毎月一日の午前八時、第七研究棟の電力使用量レポートは様式E-7号として自動配信され、会計と書記の端末に同時に着弾する。決裁は電子で回り、控えは複写され、超過があれば所定の欄が赤くなる。地下で起きたどんな夜も、地上に届く頃にはグラフ一本に均されている。

 

 ユウカは、そのグラフの前で固まっていた。

 

「……なに、これ」

 

 月の後半に塔が生えていた。

 平坦な日常消費の稜線から垂直に立ち上がる七十二時間ぶんのスパイク。ピーク値は横軸の縮尺を疑うレベルで、ユウカは実際に一度だけ縮尺を疑って設定画面を開いた。縮尺は正しかった。間違っていてほしかった。

 

「ノア。第七研究棟の先月分なんだけど、この二十二日からの――」

「ビームタイムです」

 

 ノアは顔も上げずに続ける。

 

「二十二日二十三時から二十五日二十三時までの七十二時間、地下加速器の稼働分ですね。内訳はヘリウム冷凍機が約六割、電磁石の励磁系が三割、残りが高周波源と計測系です。計上は特別設備枠が八割、研究室別の按分が二割。前年同月比で1.8倍ですが、前年は四十八時間枠だったので、時間あたりでは誤差の範囲です」

「……」

「続けますか?」

「なんで会計の私より先に全部言えるのよ」

「暗記しているので」

「レポート届いたの八時よ。今、八時二分」

「二分あれば読めます」

 

 読める、ではなく覚えられる、の意味だとユウカは知っている。

 試しに「じゃあ一昨年の同月は」と口にすると小数点二桁までの即答が返ってきて、ユウカは「ごめん、訊いた私が悪かった」と敗北を認めた。

 

 問題はスパイクの高さそのものではなかった。

 ユウカは特別設備枠の年度残高を開き、超過分を引き、指を三回滑らせて検算し、三回とも同じ答えを見た。

 

「……足りない」

「ええ」

「枠超えてる。これ補正予算案件よ」

「ええ」

「『ええ』じゃないのよ。補正ってことは定例報告の議題ってことで、定例報告ってことは」

 

 言いながら、ユウカの頭の中で手続きが一本の線に繋がっていく。

 補正予算は四半期定例の審議事項。

 四半期定例には、今期からシャーレの顧問が同席する。つまり。

 

「先生の確認案件になるってことじゃない」

 

 ペンの音が止まった。

 

「……様式通りに上げるだけです。補正予算案、審議資料、申請根拠。全部わたしが作りますからユウカちゃんは残高の証憑だけお願いします」

「それは、いいけど」

 

 ユウカは言葉を選んだ。その時点でいつもの自分ではなかった。いつもの自分なら「あんたの姉さんの電気代でしょうが」と軽口でも言っている。言えなかったのは、審議資料というものの様式を知っているからだ。

 

 申請者氏名の欄がある。

 

 補正の根拠となる稼働実績にはビームタイム申請者の名前が印字される。

 生塩ヨナ、の四文字が。それを審議席の先生の手元に載せる資料を、様式上、書記が――妹が自分の手で作ることになる。様式は誰にも悪意を持たないまま、逃げ道だけを几帳面に塞いでいく。

 

 この書記は何かを守っている──その何かを、ユウカはもう知っている。

 

 知っていて、何も言わないことにした。

 代わりに、かねてからの疑問を口にした。

 

「ていうかさ。なんで私まで毎回、生塩家の重力圏に引きずり込まれてるわけ? 私、ただの会計なんだけど」

「大丈夫ですよ、ユウカちゃん」

 

 ノアは顔を上げて、安心させる微笑みを浮かべた。

 

「これは制限三体問題というものです。ユウカちゃんは第三体で質量ゼロと見做せます。系に影響を与えません」

「はあ!? 誰が質量ゼロよ! 私の存在感が無いって言いたいわけ!?」

「逆です。第三体は影響を与えないかわりに、二体の重力に振り回される側で──」

「もっと悪いじゃない!」

 

 叫んでからユウカは椅子に沈んだ。

 振り回される側の自覚はある。二日間の代理観測、四センチの手順書、帳簿に載らない貸し借り一件。全部この姉妹の重力のせいだ。

 

「……で? その二体問題のほうは解けてるわけ?」

「二体問題には」

 

 ノアはペンを走らせながら言った。

 

「厳密解があります。閉じた軌道です。同じ楕円を永遠に回り続けます」

「……」

「便利ですよね。三体と違って、未来が全部計算できるんです」

 

 永遠に、同じ楕円を。

 それは解けていると言うのだろうか、とユウカは思った。思ったが、言わなかった。ノアの言う「解」とユウカの言いたい「解決」が同じ字面の別物であることくらいは分かった。

 

 ――誰かに話したい、と思った。

 

 思って、思い浮かんだ顔が前と同じ一つだけで、ユウカは頭を振った。

 まさかね、はもう使えない。まさかもなにも、様式のほうが先にその人をこの件に接続してしまった。質量ゼロと見做せない巨大な天体が。自分は黙っていただけだ。黙っていただけなのに、手続きの川は勝手に流れて、勝手に合流点を作る。

 

 ユウカは知っている。

 帳簿の上で隠した数字ほど、決算で大きく露出する。

 

「定例、来週の水曜よ」

 

 ユウカは言った。

 

「……ええ」

 

 ノアは資料から顔を上げずに答えた。

 

「知っています。十時からです。第三会議室、議題は四件、うち審議事項は一件」

 

 一件、のところだけ、ほんの少しだけ声が硬かった。

 

***

 

 水曜、九時五十分。第三会議室。

 

 定例の十分前には既に資料は全席に配り終えられていた。

 角を揃えて、議題順に、付箋の色まで統一されて。ユウカは自分の席の一部を見下ろして、小さく唸った。完璧だ。完璧なのがむしろ不穏だった。この書記の仕事は元から完璧だが、今日のは完璧の解像度が一段高い。守りを固めた城壁は、遠目には普段の街並みと区別がつかない。

 

 九時五十二分、ドアがノックされた。

 

「おはよう。ごめん、少し早く着いちゃった」

 

 先生だった。

 肩に鞄を掛けたまま、申し訳なさそうに笑っている。

 

「お構いなく。準備は完了しています」

 

 ノアが微笑んで、座席を手のひらで示した。

 

「先生が定刻より早く到着されるのは、直近十回の定例で七回目です。平均して十一分早いので、次回からお茶の段取りを繰り上げますね」

「……記録されてるなあ、私は」

「ええ。隅々まで」

 

 先生は観念した顔で席に着いた。

 いつものやり取りだ。ノアは先生の一挙手一投足を記録し、先生はそれを苦笑いで受け入れる。先生の手順書があったら今ごろ第何版だろう、とユウカはどうでもいいことを考え、どうでもいいことを考えたがっている自分の緊張に気づいた。

 

 十時ちょうど、ノアが開会を宣言した。

 

 議題一、反省室の換気ダクト改修費。

 ノアの「現行の三十八センチを通過した記録はそもそもありません。逃走経路は施錠系の運用側です」の一言で、工事費一式が議題ごと消滅した。ユウカの見積書作成三時間も一緒に消滅した。正しさに敵わないので抗議はしなかった。

 

 議題二、備品貸与規程の改定。

 承認。

 

 議題三、学園間知財会議の出張経費精算。

 開催地が温泉地であることについて会計から意見書を提出済みである旨をユウカが述べると、先生がふと顔を上げた。

 

「饅頭美味しかった?」

 

 議事と何の関係もない質問だった。

 ノアは一拍置いて「ええ。先生が試食で三つ召し上がったことも記録済みです」と返し、先生が「その記録は消せないのかな」と眉を下げ、会議室の空気が少し緩んだ。

 

 ――ユウカだけ緩まなかった。

 

 いま見たものを頭の中で反芻していた。

 この人は欄外を読む人だ。様式E-7号の世界に生きる自分たちと違って、議題の外側、資料の余白、精算書の向こうにある饅頭の味を訊く人だ。

 

 それは美点である。

 そして美点であることと、安全であることは全く別だった。

 

「では議題四。審議事項です」

 

 ノアの声は一ミリも変わらなかった。

 

「第七研究棟、特別設備枠の補正予算案。資料は八ページからです」

 

 紙のめくれる音が揃う。ユウカもめくった。中身は暗記するほど検算した。稼働実績、電力内訳、残高、補正額。数字は全部正しい。正しさなら保証する。保証できないものが数字の外側に一つだけあって、それは九ページの右上に印字されていた。

 

 ビームタイム申請者、生塩ヨナ。

 資料作成、セミナー書記・生塩ノア。

 

 ユウカの知る限り、この学園の公文書で二つの名前が並んだのはこれが初めてだった。

 一年と半年、誰の目にも留まらなかった事実が、様式E-7号から始まった手続きの川の終着点で、いま初めて一枚の紙になっている。

 

 ノアの説明は淀みなく続く。

 超過の主因、電力単価の改定、次年度の算定式への単価連動項の追加。ユウカは説明を聞いていなかった。聞く必要がなかったからではない。先生を見ていたからだ。

 

 先生は資料を読んでいた。

 八ページ。九ページ。めくる手が九ページ目で止まった。視線が紙面を往復する。一往復、二往復──それから先生は顔を上げ、何の含みもない声で言った。

 

「生塩……ヨナさん?」

 

 会議室の空気が、ユウカにだけ分かる密度で固まった。

 

「ノアと同じ名字だね」

 

 ――ユウカの頭の中で、けたたましい警鐘が鳴り響いた。

 

 応答するな!

 応答するな!!

 応答するな!!!

 

 応答すれば座標が知られる。

 座標が知られれば、来る。

 黙っていれば、まだ――。

 

「ええ、姉です」

 

(応答しちゃった!!)

 

 ユウカは表情筋を総動員して無表情を維持した。

 

 完璧な即答だった。

 声量は議事進行と同じ、笑顔は議題一から三と同じ、間は──なかった。

 質問の語尾と回答の語頭が継ぎ目なく接続されていた。

 

 これは書かれた回答だ、とユウカは思った。

 想定問答集の一行目である。人間は身内のことを訊かれたら、どんなに仲が良くてもごくわずかに間が空くものだ。何をどこまで言うか選ぶ時間だ。それが無いということは、選択が今行われなかったということで、つまりこの答えは、訊かれる日のために、机の引き出しで完璧な状態に保たれてきたのだ。

 

 誰も訊かない問いの答えを保管し続けること――。

 それが何と呼ばれる行為なのか、ユウカは知らない。

 

「へえ。お姉さんがいたんだ」

 

 先生は驚いた顔をした。

 

「ぜんぜん知らなかったな」

「公表していませんでしたから」

「隠してた?」

「訊かれませんでした」

 

(答えるのはやっ)

 

 一切の間がない。

 全てノータイムで答えているし、何なら先生が言い終わる直前には既に答え始めている。

 

(しかも嘘は言ってないのよね……)

 

 ユウカは横で聞きながら、その正確さに少し寒気を覚えた。

 嘘が一つもない。省略しかない。そして省略は嘘ではない。この書記は嘘をつかないまま、情報の流量だけを完璧に制御する。回答は様式の記入例のように過不足がなく、その過不足のなさが、それ以上の質問の足場を綺麗に消していく。

 

「この研究概要もノアが書いたの?」

 

 先生が九ページの下段を指した。

 補正資料に添付されたA4半ページの研究説明。専門外の人のためにハドロン構造の研究意義を平易に要約した文章だった。数学屋のユウカも読んで分かってしまうくらいには平易だった。

 

「書記ですので」

「そうか。……よく書けてるね。書いた人が、研究をちゃんと理解してるのが分かる文章だ」

「恐れ入ります」

 

 ノアは微笑んだまま礼をした。

 礼の角度も普段どおりだった。

 

 ユウカは知っている。

 その半ページを書ける人間は、恐らくこの学園に二人しかいない。

 一人は研究室から出ない。もう一人は、ずっと床の紙を読み続けた。理解している、どころの話ではないのだ。あの半ページは翻訳だ。誰にも届かない深海の波形を地上の言葉に直す作業を、この人は毎週、無償で誰にも言わずにやっている。

 

「補正額については分かった。研究の中身も、必要性も」

 

 先生は資料を閉じた。

 

「私は承認でいいと思う。本気で何かを調べてる生徒がいるなら電気代で止めるべきじゃない」

「……ありがとうございます」

 

 議決は三分で終わった。挙手、全会一致、可決。ユウカも手を挙げた。挙げながら、九ページの二つの名前をもう一度見た。可決された瞬間、この紙は公文書として綴じられる。姉妹の名前はこれから先もずっと、この一枚の上に並び続ける。本人たちがどれだけ離れていても。

 官僚制は無慈悲に秘密を暴くと同時に、現実が拒む結合を紙の上に永久保存する。

 

 閉会後、資料を回収するノアの背中に先生の声が掛かった。

 

「ねえ、ノア」

「はい」

「一度、ヨナさんに話を聞きに行ってみたいな。研究の」

 

 何気ない声だった。

 廊下ですれ違った生徒に「最近どう」と訊くのと同じ温度の。

 

「加速器も恥ずかしながら一度も見たことがなくてね。せっかく予算の説明を聞いたんだし、現場を知らないまま判子だけ押すのも無責任な気がするから」

 

 資料を揃えるノアの手は止まらなかった。

 

 止まらなかったことを、ユウカは観測すべき現象として認識できた。

 先週午前のペンは止まった。そして今日の手は止まらない。

 水曜が来る前に、この質問も既に机の上で終わっていたのだ。

 

「そうですね」

 

 ノアは振り向いて、微笑んだ。

 

「日程、確認しておきますね」

 

 ユウカはその言葉を頭の中で復唱した。

 

 調整します、ではない。

 ご案内します、でもない。

 嘘のない言葉だけで組まれた、完璧な、何も約束していない一文。

 先生は「ありがとう、楽しみにしてる」と笑って、会議室を出て行った。

 

 ユウカは資料の束を抱えたノアの横顔を見た。

 

「……ノア」

「なんですか」

「確認って、何を確認するのよ」

「日程を」

「日程の、何を」

「空(・)い(・)て(・)い(・)な(・)い(・)こ(・)と(・)を」

 

 セミナー書記は涼しい顔で言って、九ページ目を一番下に綴じ込んだ。

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