安定同位体 作:ああ
木曜の午前九時二分。
ノアの端末が短く鳴った。
「先生からですね」
ノアは画面を一瞥して事務連絡する時のような声で言った。
「見学日程の件。『いつでも大丈夫だからね』と」
「……随時対応可って一番困るやつじゃない」
「ええ。可用性の高い脅威です」
「脅威って言った」
「言っていません」
「言った。いま言った。議事録に書くわよ」
ノアは端末を伏せ、返信を打たなかった。
代わりに立ち上がってプリンタの前へ歩いていく。ちょうどトレイに書類が滑り出てきたところだった。ユウカの席からでも書式番号は読めた。設備関係の申請様式。
「なにそれ」
「第七研究棟の安全点検実施届です。控えが出ました」
「点検? そんなの年度計画にあったっけ」
「臨時です」
「いつ決まったの」
「今朝です」
「誰が申請したの」
「わたしです」
悪びれる、という様子が一切ない。
ユウカは天井を仰いだ。受理印を押す側の人間が申請する側に回ると、書類はこの速度で世界を書き換えるのか。
「……言っとくけど、名目だけの点検だったら流石に問題よ。会計として見過ごせない」
「点検は実際に実施されます」
ノアは涼しい顔で綴じ紐を結んだ。
「配線の劣化確認は昨年度からの懸案でした。前倒しただけです。なお、点検期間中の研究区画は部外者の立ち入りが規程で制限されます」
「先生は部外者じゃないでしょ。顧問よ」
「顧問は教職員に準じます。教職員が研究区画に立ち入るには、安全講習の受講記録が必要です」
「……先生、受けてるの?」
「未受講です」
ノアはファイルを棚に戻した。
「講習の開催は月一回。今月分は昨日終わりました」
全部事実だった。
嘘がひとつもない。規程と、日付と、講習日程。実在する部品だけを組み合わせて、気づけば通行不能な壁が建っている。
ユウカは席を立ち、プリンタ横の棚から控えを引き抜いた。
この書記の書類は読んでおかないと後で必ず高くつく。様式は正しい。記載も正しい。押印欄の受理印も正しく――
受理時刻、八時五十九分。
「……あれ?」
「はい?」
「先生のメッセージ、九時二分よね」
「ええ」
「これ、受理が八時五十九分になってるんだけど」
「ええ」
「三分前じゃない。あんた、連絡が来る前に壁建ててるじゃない」
ノアはペンを止めなかった。
「予兆がありました」
「予兆」
「昨日の閉会後、先生は『楽しみにしてる』と仰いました。あの温度の『楽しみ』は、統計的に一週間以内に行動化します」
「先生の善意を統計処理しないの」
「処理しないと間に合いません」
ユウカの口の端が一瞬だけ痙攣した。
この姉妹は二人とも閾値の手前を読む。片方は数字の海から、片方は人の声の温度から。血というものの恐ろしさを、ユウカは会計業務の中で学びつつある。
「……で、返信はどうするのよ。放置してるでしょ」
「今から打ちます」
ノアは端末を起こした。
画面を覗く趣味はないが、ユウカの席から角度的に見えてしまうのは不可抗力である。
『ご連絡ありがとうございます。あいにく第七研究棟は本日より安全点検期間となりました。日程は、点検の完了状況を確認しつつ改めてご相談させてください』
「相変わらず綺麗な文面ね」
「事実しか書いていませんので」
「そうね。相談させてください、とは書いてある。相談する、とは書いてない」
「読めてきましたね、ユウカちゃん」
「読めたくなかったわよ、こんな約款」
送信。
既読は八秒でついた。返信は三秒後だった。
『了解! 点検おつかれさま。急ぎじゃないから大丈夫だよ〜』
絵文字はなかったが、文面全体が絵文字みたいな顔をしていた。
ユウカはそれを眺めて、なぜだか、砦の壁の上から地平線を見る歩哨の気分になった。敵影はない。旗も煙も見えない。ただ「急がない」という申告だけが届いている。
急がない、は撤退ではない。
兵站に自信のある軍だけが使う言葉だ。
そのうち周囲から楚歌が聞こえ始めるんじゃないか。
「……ねえノア。念のため訊くけど、その壁いつまで保つの」
「講習が来月十日。点検の標準期間が二週間、延長申請で最大四週間」
ノアはペン先で宙に短い線分を引いた。
「三十日です」
「三十日で何が変わるの」
「何も」
書記は認めて、次の書類に取りかかった。
「でも、三十日あります」
***
金曜の昼下がり。
執務室のドアがノックされた。
ノアの端末は鳴らなかった。来客予定も入っていない。つまり時刻表に載っていない列車で、そういうものを平気で走らせる人物をユウカは一人しか知らない。
「やあ。お昼どき、ごめんね」
ユウカは反射的にノアを見た。
お茶の用意はなかった。湯呑みも、茶菓子も、段取りの気配が何もない。つまり、これは本当に彼女の予定表に載っていなかった。
直近十回の定例で七回、平均十一分早く到着する人の癖は記録できる。
でも「近くまで来たから」は記録のしようがない。
「どうぞ」
ノアの応対は完璧だったが、椅子を引く動作が普段より少しだけ速いのをユウカの目はもう拾えるようになっていた。拾えるようになってしまった、と言うべきかもしれない。
「ああ、すぐ行くから大丈夫だよ。二つだけ用があって」
先生は指を一本立てた。
「一つ目。安全講習、来月の回に申し込んでおいたよ」
ユウカは手元の帳簿に視線を落としたまま、耳だけを全開にした。
「……それはわざわざ、ありがとうございます」
「いやあ、ノアに言われて調べたらさ、私だけ未受講なんだもん。先生なのに恥ずかしいよね。これで来月からは研究区画も入れるんでしょ?」
「規程上は、そうなりますね」
規程上は。
ユウカは頭の中でその四文字に赤丸をつけた。壁の建材は全部本物の規程だ。本物であるがゆえに、相手が正規の手続きを踏めば正規に通れてしまう。
「二つ目。これ」
先生は提げていた紙袋を机に置いた。
箱だ。オレンジ色のパッケージ。健康的な書体。
「ヨナさんに差し入れ。研究で忙しいと野菜とか摂れないでしょ。栄養あるって売店の子が」
人参ジュース、1ダース。
ユウカはペンを静かに置いた。音を立てると噴き出す予感があったからだ。
生塩ヨナ観測手順書(ミレニアム) 第43版──いや第44版が脳裏に蘇る。二日間の代理観測で、彼女自身が予言通りの残存を確認し、報告様式に記入した項目。あろうことか先生は、この世で最も消費されない食品を完全なる善意で濃縮還元して1ダース持ってきた。
「迷惑だったかな。押し付けみたいで」
「いえ」
ノアは微笑んだ。
「……お渡ししておきますね」
出た、とユウカは思った。
渡しておきますね──渡すとは言った。飲まれる、とは一言も言っていない。この書記の文章には保証範囲が明記されている。読み取れるのは約款を読む人間だけだ。先生は「よかった」と屈託なく笑い、じゃ、と手を上げて出て行った。
ドアが閉まる。
ユウカは三秒待ってから口を開いた。
「……渡すの?」
「渡します」
「飲むの?」
「飲まれるとは言っていません」
「開き直った」
ノアはジュースの箱を机の端に置いた。
机の端──しまいも捨てもしない、判断保留の座標に。
「……ちなみに訊くけど」
ユウカは箱を目で示した。
「ジュースなら飲まれる見込みある?」
「データがありません」
「ないんだ」
「観測記録にあるのは固体の人参のみです。液体は前例がないので」
ノアは視線を書類に戻し、ペンを手に取った。
この話はこれで終わりらしい。
昼休みが明けて、執務室は平常運転に戻った。
戻ったように、見えた。
十五時、二人の端末が同時に鳴った。
点検期間中の第七研究棟は立入が申請制になる。
申請と結果の一覧は日次で配信される。宛先は点検の申請者、控えは会計。ただの事務連絡だ。ユウカは何の気なしに開き、三行目で指が止まった。
昨日、十六時二十分。入館申請、一件。
氏名の欄に、先生。
目的の欄に、手書きの二文字「見学」。
結果の欄に、規程条項の番号と不許可の印字。
備考の欄に、守衛の字でひと言。
『また来ます、とのこと』
「……ノア」
「見ています」
声はいつも通りだった。
「昨日の十六時って、あんた……壁建てたその日じゃない」
「ええ。受理から七時間二十一分後です」
「初日から実弾撃ち込まれてるじゃない」
「守衛は規程どおりに対応しました。表彰ものです」
「そういう話をしてるんじゃないのよ」
ユウカは画面と、ドアと、ノアの横顔を順に見た。
「先生、今日ひとことも言わなかったわよね。昨日のこと」
「先生にとって報告するような出来事ではなかったのでしょう」
ノアは一覧を規定のフォルダへ移しながら言った。
「散歩の途中で、たまたま閉まっていた店です。翌日わざわざその話はしません。翌日は、開いている時間を調べてから来るだけです」
ノアの肩が僅かに下がった。
端末が伏せられ、ペンの音が再開する。
ユウカは帳簿に向き直り、ふと思った。
予定された接近は全部潰せるのだろう。
点検でも、規程でも、講習日程でも。でも今日来たのは予定ではない。近くまで来たから。栄養ありそうだから。なんとなく自販機まで。ああいうものは申請書を出さない。ランダムウォークは決裁を回さない。予算化できない。
軌道が読めるのは二体までだ。
三つ目の天体は、善意という初期値だけで、いつでもどこへでも落ちてくる。
机の端では、オレンジ色の箱が判決を待っていた。
***
十七時四十分。
役員たちは引き上げ、執務室にはユウカとノアだけが残っていた。西日が紙の山の稜線を照らして、机の端のオレンジ色の箱に長い影を引かせている。
ユウカは帳簿を閉じ、しばらく表紙を見てから口を開いた。
「ねえ。さっきの講習の話だけど」
「はい」
「来月、先生が受講するでしょ。そしたらあの壁、失効するじゃない」
ペンの音は止まらなかった。
「点検期間の延長は申請できます。配線の懸案は実際まだ──」
「延長して、その次は?」
「次回の講習日程との兼ね合いで──」
「その次は」
ペンの音が止まった。
「いつまで続けるの、これ」
ユウカの静かな声に、ノアは顔を上げなかった。
上げないまま、微笑んだのが横顔で分かった。
「規程の運用の話でしたら──」
「規程の話はしてない」
沈黙が落ちた。
ユウカは知っている。この沈黙の間、目の前の書記の頭の中では回答の候補が何通りも生成されて、嘘を含む案から順に廃棄されているのだ。嘘をつかない人間の沈黙は、正直さの処理時間だ。待てば、事実だけでできた綺麗な受け流しが返ってくる。いつもそうだった。
だから、生成が終わる前に置いた。
「――私はあなたの破壁人です」
顔を上げたノアと目が合った。
ノアの微笑みは消えなかった。
消えないこと自体が、返答だった。
「……破壁人は」
やがてノアは言った。
「面壁者の計画を言い当てて、勝つんですよ」
「知ってる」
「言い当てますか」
挑発ではなかった。それが一番堪えた。挑発なら乗ればいい。でもこれは確認だ。手続きの確認。言い当てられる側が、言い当てる側に、執行の意思を問うている。震えも強がりもない、様式どおりの声で。
ユウカの中に、仮説はあった。
ある。とっくにある。四センチの手順書を読んだ日から、少しずつ検算を重ねてきた仮説が。二体問題には厳密解がある、同じ楕円を永遠に、と言ったときのあの声の平坦さ。守られているのは姉なのか、それとも――
そこまでだ。
ユウカは頭の中の伝票を、記入の途中で裏返した。
言えば勝てる。たぶん勝てる。でも破壁人の勝利宣言は、面壁者への敗北宣告だ。計画を言い当てられた面壁者がその後どうなったかをユウカは覚えている。私はこの書記に勝ちたいんじゃない。監査したいだけだ。監査の目的は摘発じゃない。健全化だ。
……ああもう、自分の職業倫理が恨めしい。
「……言わない」
ユウカは息を吐いた。
「今期は、ね。決算まで待ってあげる」
「決算ですか」
「そ。棚卸しの日は必ず来るの。隠した数字ほど大きく露出するものなのよ」
「決算日はいつですか」
即座に日程を確認しにくるのがこの書記だった。
ユウカは初めて、ノアの様式をそのまま突き返してやった。
「会計が決めるのよ。そういう規程なの」
嘘だ。そんな規程はない。
ノアは一瞬だけ黙り、それから、ふ、と息だけで笑った。
「……ユウカちゃんは」
「なに」
「いえ。……お茶、淹れますね」
「話逸らした」
「進めただけです」
湯呑みが二つ、音を立てずに置かれた。
お茶はいつもより少しだけ濃かった。
それが回答の代わりなのかどうか、ユウカには判別できなかった。
判別できない事象は記録の様式を持たない。だからユウカはその事象を流した。
帳簿に載らない貸し借りが、また一件増えた。
これで二件。利息の規定はない。
***
十八時ちょうど。
ノアは鞄を提げて立ち上がった。金曜は家の用事で定時に上がる。第44版の冒頭、基本スケジュール欄に書いてある通りに。
「お先に失礼します。戸締まりを──」
「はいはい、施錠して帰る。手順書どおりにね」
ドアが閉まる。
ユウカは一人になった執務室で、ふと机の端を見た。
オレンジ色の箱が置かれたままだった。
判断保留の座標に、週末を越す構えで。
窓の外はまだ明るい。
ユウカは立ち上がり、窓からミレニアムのキャンパスを見下ろした。
第七研究棟の連絡通路を、白い影が歩いていくのが小さく見えた。
***
十八時二十分。
先生は書類の束を抱えて歩いていた。
エンジニア部の備品移設の立会い確認の、そのまた確認のサイン。
金曜の夕方に回ってくる仕事は、どうしてか全部確認の確認だ。書類に目を落としたまま、癖になった苦笑いで通路を進む。
足音に気づいたのは通路の中程だった。
前方から。
規則性のない音。
三歩速く、二歩遅く、また速く。酔ってはいない。足を引きずってもいない。ただ歩幅が歩行ではない別の何かに従っている。踵が床を擦る音が擦っては止み、擦っては止む。上履きを潰して履いている音だ。
先生は書類から目を上げないまま半歩だけ右に寄った。
狭い通路ですれ違うときの、いつもの癖だった。
紙の匂いがした。
それから、冷めたコーヒーとかすかに焦げたような匂い。研究棟の廊下の匂いがそのまま人の形になって隣を通り過ぎていくようだった。
肩が触れそうになった。
「あ、ごめんね」
反射で言ったが、返事はなかった。
足音は乱れなかったし減速もしなかった。
謝罪は誰にも受理されないまま通路の空気に溶けた。
先生は数歩行ってから、なんとなく振り返った。
白い背中だった。
肩の下まで伸びた髪と顎のあたりで途切れた髪が混在していて、毛先の高さがまるで揃っていない。灰色のカーディガン、右の袖口が焦げている。片手に紙束、もう片手にペン。歩きながら何かを書いている。通路の白線の上だけを綱渡りみたいに正確に踏んで。
(……髪、ノアと同じ色だ)
と、先生は思った。
思って、それきりだった。
(実験系の子かな。袖、焦げてたけど。危ないなあ。ああいう子こそ安全講習──あ、講習。未受講なの私か)
一人で小さく苦笑して前に向き直る。
ポケットの端末を取り出した。
ノア宛のメッセージ画面を開いて、指が止まった。
(……流石にしつこいかな)
打ちかけの文面を消して端末をしまった。
会ってみたいな、とは思う。
妹があれだけ完璧なのだから、お姉さんはどんな生徒なんだろう。書類の上にしかいない人。判子の向こうの人。あの半ページの綺麗な研究概要の元になった人。焦ることはない。来月には講習も終わる。機会はきっとある。
先生は書類を抱え直して通路を渡り切った。
背後で足音が遠ざかっていく。
三歩速く、二歩遅く。誰の歩調とも噛み合わない拍子のまま、白い背中は第七研究棟の奥へ吸い込まれていった。
振り返る者は、もういなかった。
十八時二十分、連絡通路。
第一及び第三天体の軌道が最接近距離0.1メートル未満で交差したことは、様式E-7号にも、第44版にも、地下のWikiにも──どの記録にも残らなかった。
パノプティコンには時間割があり、それを観測できたはずの唯一の人間は、十二分前に学園の門を出ていた。