安定同位体 作:ああ
「残り六日です」
月曜の朝、ノアは開口一番にそう言った。
ユウカは帳簿を開きかけた手を止めた。何の残りかは訊くまでもない。安全講習の開催は今月十日。点検期間の延長申請は既に二回で打ち止め、三回目は監査の側から止める予定でいる。
「そこで、対抗策を用意しました」
「まっとうな手続きでお願いね。会計として言うけど、あんたの対抗策は毎回どこかで規程を撫でてるんだから」
「そこで、ユウカちゃんにご相談があります」
ノアはモニタをくるりと回した。
最近似たようなシチュエーションがあったな、とユウカは呑気に思った。
「またスライド?」
「二十一枚です」
「増えてる! ドローンのときは十二枚だったでしょ!?」
「収まりきらなかったんです」
表紙にはこう書いてあった。
『生塩ヨナ外観正常化計画(案)』
「姉に──」
ノアは真顔で言った。
「おめかしをさせます」
「……は?」
ユウカは耳を疑った。
聞き間違いの可能性を考慮し、"おめかし"に類似した発音の単語を脳内で検索し、そのいずれもが文脈に適さないことを認め、その可能性を棄却した。
「ノア、あなた正気なの?」
ユウカは椅子を回してノアに向き直った。
「先生が来るのを防ぎたいのよね? それなのに可愛くしてどうするのよ。見つけてくださいって看板を出すようなものじゃない」
「逆です」
ノアはペン先でモニタの二枚目を示した。
棒グラフが出た。ユウカはグラフの題を読んで、読んだことを後悔した──『目視で可愛いと判定される生徒の割合(ミレニアム)』。
「キヴォトスには可愛い女の子が掃いて棄てるほどいます」
「身も蓋もないわね」
「可愛さはコモディティです。統計的に言えば、可愛さは説明変数として機能しません」
「機能しない……」
「定数項です。全員に等しく乗っている項は回帰式から落ちます」
ノアはスライドを進めた。
「つまり、可愛さは武器ではありません。
「……容赦ないわね、あんたの世界」
「では、何が分散を生むか」
ノアは静かに言った。
「物語性です」
「……ものがたり」
「先生は欄外を読む人です。審議の場で議題の外側にある饅頭の味を訊く人です。あの人の注意を捕まえるのは整った情報ではなく
「スライドの使い方!」
「なんですか?」
「『なんですか?』じゃないのよ! フリースタイルすぎるでしょ!」
「次に定義があります」
ノアは喚くユウカを無視してリモコンでスライドを進めた。
・おもしれー女:観測者にとって既存の分類のいずれにも属さない対象を指す俗称
・分類器のフォールト:観測者の事前学習モデルに該当するクラスタが存在しない
・損失関数の増大:予測誤差が極大化し、脳の認知リソースが強制的に割り当てられる
「観測できても分類できない事象は、記録の様式を持ちません」
ノアは言った。
「様式を持たないものは綴じられません。綴じられないものは処理が終わりません。処理が終わらないものは──忘れられません」
「……」
ユウカは黙った。
審議会のあの日、九ページ目で止まった先生の手を思い出していた。
「そして姉は」
ノアはリモコンを置いた。
「不定期に果物ナイフで前髪を処刑する女です」
「言い方」
「面白すぎるでしょう」
「言い方!」
ユウカは頭を抱えた。否定できなかったからだ。
あの人を初めて見た日、自分がまず何を思ったかを彼女は正確に覚えている。何だあれは、と思ったのだ。何だあれは、というのは興味の発露に他ならない。
「……つまり、面白さを削ぎ落として可愛さのほうに沈めるってこと」
「ええ。この学園でいちばん目に留まらないのは可愛いだけの子です。可愛さは背景放射です」
「背景放射」
「面白さの内訳も出しました」
ノアは手元のメモを裏返して読み上げた。
「寄与の大きい順に、髪、目元の隈、入浴間隔、刃物ですかね。第四因子まで何とかします」
「……ん? これ項目1と4で多重共線性に陥ってない?」
「あら。確かにそうですね」
「というかちょっと待って。3つ目の入浴間隔って何」
「平均で二日から三日です」
「聞かなきゃよかった」
「今日は五日目で記録更新中です」
「もっと聞かなきゃよかった!」
***
移動は拍子抜けするほど簡単だった。
ノアが第七研究棟の最奥から姉を連れ出すのに要した工程は三つ。左手に紙束を持たせる。右手にペンを持たせる。肘を取って歩き出す。以上。
ヨナは抵抗しなかった。抵抗どころか、自分が連れ出されていることに気づいている気配すらない。廊下を歩きながら紙に書き続け、階段では段数だけ正確に膝を上げた。
「……誘拐って、こんなに簡単なの」
「舵さえ切ればあとは慣性で進みます」
「言い方が完全に犯罪者なのよ」
行き先は学生寮のノアの部屋だった。
流石に自宅までは距離があるから仕方がないと、ノアは答えた。第七研究棟にも実験系向けのシャワーはあるが、ノア曰く「湯船が要ります」とのことだった。
寮までの道の途中で、肘の操舵を交代しながらユウカは口を開いた。
「ねえ。さっきの話なんだけど」
「はい」
「面白い女って笑える子ってことでしょ? 先生、そういうの好きかしら」
「違います」
ノアは間を置かずに答えた。
「ここでの面白いは funny ではなく interesting を意味します。笑いの対象ではなく、説明を要求してくる対象です。笑いは一回で済みますが、説明は済むまで終わりません」
「……」
「ちなみにこの区別を姉に説明したところ『どっちも同じ』と言われました」
「そりゃそうでしょうね」
ヨナは二人の会話の真横で、まったく別の次元に住んでいた。
***
ノアの部屋は、第七研究棟のヌシの血縁者が使っているとは信じがたいほど整っていた。本の背は高さ順で、机の上には端末が一台だけ。第七研究棟の血縁者の巣穴は狐狸の類が棲んでいる様子であったが、妹の方はそうではないらしい。
その整った空間の脱衣所に、いまヨナが座っている。
折り畳みの椅子に、膝の上の紙束を離さないまま。
ノアが櫛を入れた。
櫛は三センチ進んで止まった。
「……段階を踏みます」
ノアは櫛を置き、指で毛先を解きにかかった。手つきに迷いがない。これまで何十回とやってきた作業なのだとユウカは思った。
「ユウカちゃん。給湯器の設定を41℃にしてもらえますか。パネルは浴室の外、右手です」
「41ね……はいはい」
ユウカは廊下側に体を向けた。パネルを探す。あった。41。
その時、背後で奇妙な音がした。
──すうぅぅぅぅぅぅ。
それは一秒続き、二秒続き、三秒続いた。
音は四秒目に入ってもまだ細く続いていた。
「いまの音なに!?」
ユウカが振り向くと、ノアは姉の頭頂部に顔を埋めていた。
目を閉じ、両手で白い髪を軽く押さえ、鼻先を旋毛に沈めて。
「基準値の採取です」
顔を上げずにノアは言った。
「洗浄前の状態を記録しておかないと、洗浄後との差分が取れません」
「差分いる!? そんなもの誰が使うのよ!?」
「使います」
「誰が!?」
「……」
ノアは答えず、代わりにようやく顔を離した。
その表情がまったく平常だったことが、ユウカには一番怖かった。羞恥も、悪びれた様子も、何もない。妹という肩書きで許される行為の範囲について、ユウカは生まれて初めて真剣に考えた。
「ちなみに、ご報告しますと」
「……なに?」
「五日目にしては」
「言わなくていい!」
ヨナは膝の上でペンを動かし続けていた。頭に顔を突っ込まれても止まらない。この人にとって妹の鼻先は、風や重力と同列の、そこにあるだけの現象なのだ。
ノアは姉の紙束を取り上げ、その一枚目を裂かないよう丁寧に指で挟んでから目の前に翳した。
紙が浴室の方向へ動くと、ヨナは立ち上がってそれを追った。
「ここから先は私が。ユウカちゃんは外で」
「言われなくても……」
脱衣所の戸が閉まった。
ユウカはリビングの椅子に座り、あらためて部屋を見回した。本棚の背表紙が高さ順に並んでいる。ペン立てのペンが色順に並んでいる。壁の時計の秒針の音だけがして、その音の下から水音が聞こえてきた。
(大丈夫……よね? さすがに変なことは……)
妙な心配を寄せるユウカを他所に、浴室から水音に紛れて2人のくぐもった声が聞こえてくる。
『お姉ちゃん。鏡に書かないでください』
『消える』
『消えます。結露ですから』
『……』
『書き終わってから流します。……はい。流しますね』
ユウカは自分の膝を見て、それから脱衣所の戸を見て、何も言わなかった。
三十分後。
髪を拭かれ、乾かされ、寝間着に詰め込まれたヨナはベッドの端に座って紙束を探していた。
「ありません」
ノアが先回りして言った。
「マーカーは押収しました。ペンも。研究室の予備のペンも、机の三段目の隠しペンも、カーディガンの裏地に縫い込んであった一本も。全部」
「……」
「今日は寝てください」
ヨナは何も言わず、両手を膝に置いて壁の一点を見た。
書けるものがないと、あの人は書かない。書かないと、あの人は止まる。止まったヨナを見るのはユウカも初めてで、何故か妙な気分になった。エンジンを切られた機械、餌を──いや、風を止められた風車のようだった。
十分後、風車は横に倒れて眠っていた。
「……ほんとに寝た」
「隈は睡眠で解消します。刃物は今朝、押収済みです。髪は明日、美容院を予約しました」
ノアは自分の姉の寝顔を見下ろした。
表情は動かない。ただ、彼女の寝顔を無表情で見つめている。
それだけであった。
***
翌日。
商業区の裏通りに小さな美容院があった。予約はノアの名前で入っていた。担当の店員は白髪の客の頭を見て、まず目を見開き、それから深刻そうな顔をした。
「――誰にやられたんですか、これ」
鏡越しに髪を一目見た美容師の第一声がそれだった。
声が低い。どうやら虐めか何かと勘違いしたらしい。
「本人です」
「え?」
「ナイフです」
「ナイフ!?」
ノアの説明に美容師の声が裏返った。
暫くして落ち着きを取り戻し、毛束を一つ持ち上げ、別の毛束を持ち上げ、また黙った。
「……段が、全部違う方向に入ってる」
「処刑の日付が違うので」
「処刑」
「一回ごとに視界の邪魔になった箇所だけ落としていますから。なので設計思想は一貫しています。目に入ったら切る、です」
「設計思想」
店長は深呼吸をした。それから、プロの顔になった。
「ご希望は」
「この学園でいちばん多い髪型にしてください」
「いちばん、多い?」
「肩にかからない長さのストレート。前髪は眉より一センチ上。外ハネなし、内巻きなし。構内で出現頻度の最も高いスタイルです。翌日、目撃者が思い出せない髪型でお願いします」
店長の眉が不愉快そうに歪んだ。
「うちは思い出せない髪型を作る店じゃないんですけど」
「存じています。ですから料金は倍お支払いします」
「そういう問題じゃ……」
「お願いします」
ユウカが横から言った。
自分でも意外だったが、声には妙な切実さが乗った。
「この人の前髪の安全のためなんです」
「前髪の、安全」
「はい」
店長はユウカとノアとヨナを順に見た。
ヨナは膝の上の紙にしか興味がない。店長は、この三人のうち一人も冗談を言っていないことを、たぶん理解した。
「……個性を消してくれって注文、初めて受けました」
「ありがとうございます」
「まだ受けるって言ってないです……」
そうは言いつつも、ハサミは動き始めていた。
施術中は、ユウカの想像よりずっと静かだった。
店長が「少し下向いてもらえますか」と言い、ヨナが微動だにせず、ノアが「お姉ちゃん、30°下」と言うと頭がきっかり15°下がる──ゲイン0.5。「お姉ちゃん、60°右」で右、「お姉ちゃん、基準に戻して」で戻る。
店長は三度目で理解し、四度目からはヨナではなくノアに向かって指示を出すようになった。
その間もヨナは計算を止めなかった。
シャンプー台に移っても、目を閉じたまま膝の上の紙に指で式を書いていた。
「目、閉じてても書けるんですか」
「目は使っていません」
「じゃあ、何で見てるんです」
「分かりません」
ノアは静かに言った。
「十六年、ずっと訊いています」
店長はそれ以上訊かなかった。
途中、一度だけ事故があった。
店長が「ここ、もう少し切っても大丈夫ですか」と癖でヨナ本人に訊いてしまったのだ。
「うん」
店長はハサミを構えた。
「今のは、切っていいという意味ではありません」
「え」
「でも切ってください」
「どっちなんですか」
「本人の意志と私の方針は別です」
店長は訳が分からないといった顔で、眉の一センチ上に鋏を当てた。
***
鋏の音が止んだのは四十分後だった。
店長はドライヤーを置き、櫛を置き、鏡の中をしばらく眺めた。
それから何も言わずに椅子を回した。
ユウカは待合の長椅子でスマホを開いていた。顔を上げたのは、店内の空気の密度が変わったからだ。回転椅子の軸が軋み、白い頭がこちらを向いた。
――誰?
最初に浮かんだのは、その一語だった。
白い髪は肩の少し上で、糸を張ったように水平に揃っている。前髪は眉の一センチ上。
注文どおりだ。
しかし、まずいのは髪の下だ。
隈は一晩の睡眠で薄まり、薄まった分だけ紫の瞳が前に出てきた。
焦点の合わない目は、ぼさぼさの髪の下では壊れて見えた。揃った髪の下では違う。どこか遠くを、それも退屈そうに眺めている目に見える。何にも興味がないという顔が、そのまま、何にも媚びていないという顔に読み替わっていた。
可愛い、ではない。少なくとも。
ノアは可愛い。ノアの顔は「賢い」と「愛嬌」が同じ比率で混ざっていて、誰が見ても判定が一秒で済む。鏡の中の人の顔は、その一秒が終わらなかった。色の薄い唇と、伏し目がちの睫毛と、襟から覗く首筋の、余計なものが一つもない線。全部が「何もしていない」のに、その何もしなさが一種の余裕に見える。
水は摂氏百度で別のものになる。
髪を切っただけだ。
それだけで、この人は別の相に移っていた。
「……ヤバい」
ユウカは思わず言葉を零した。
「ヤバいわよ、ノア。絶対ヤバい」
「何がですか」
ノアは平然と姉の襟足を指で整えていた。
「何がって……見なさいよ! これ!」
「見ています。長さ、前髪、毛先の処理。仕様を満たしています」
「なんか変な色気が出てるじゃない! 女にもモテるタイプよ!」
「女にもモテる色気」
ノアは鏡越しに姉の顔をもう一度確認し、首を傾げた。
「どこがですか。特筆すべき点はありません」
「特筆しなさいよ! 特筆事項でしょ、これ!」
ノアは本当に分かっていない顔をしていた。
ユウカは悟った。この書記の目は、姉に関して十六年分のログを抱えている。あらゆる状態の姉を既に見てしまっている。
今の姉は彼女の頭の中の膨大な標本のどこかに当たり前に収まっていて、平均から一歩も出ていないのだ。慣れというのは観測機器の故障の一種だ、とユウカは思った。
「それ、身内補正って言うのよ」
「補正は掛けていません。素の値です」
「素の値が狂ってるって言ってるの!」
「……あの」
店長が口を開いた。
鏡の前で腕を組んだまま、視線はヨナの後頭部に固定されている。
「思い出せない髪型、無理でした」
深々と頭が下がった。
「すみません。ご注文の通りに切りました。長さもラインも狂ってないと思います。でも」
店長は顔を上げ、ヨナの頭を手のひらで示した。
そこにある気象現象を指し示すみたいに。
「腕の問題じゃないです」
「聞きましょう」
「素材です。この人、たぶんどんな髪型にしても思い出されます」
断言だった。
「ボブでも、ショートでも、恐らく坊主でも。うちの責任じゃないです」
「坊主でも……」
「坊主だともっと目立つと思います。輪郭が良すぎるので」
ユウカは店長を見た。店長もユウカを見た。二人の間で、異なる専門家同士の言葉を要しない合意が成立した。ヤバい。
ヨナ本人はこの間ずっと膝の紙を見ていた。
店長が意を決して「どうですか」と訊くと、ヨナは初めて鏡に目を上げた。
ほんの一瞬、紫の瞳が自分の顔の上を通過した。
「うん」
「は?」
「変化を認めたようです」
「……」
ノアの通訳とも言えない通訳に、店長は返す言葉を持たなかった。
会計でノアは宣言通り倍額を出した。店長は半分を押し戻した。
「注文を果たせてないので」
「果たしていただきました。仕様通りです」
「仕様通りに切って目立ったら、それは私の負けです」
ノアは押し戻された分を受け取らず、代わりにレジの脇に置いた。
「では、写真の口止め料として」
「撮ってませんけど」
「これから撮りたくなります。店の宣伝用に」
「……」
店長が黙ったのは、図星だったからに違いなかった。
***
商業区の表通りを戻る間、ユウカは振り向く首の数を数えた。
交差点までに十一。うち四名は完全に足を止めた。一名は自販機のボタンを押し損ねて、明らかに欲しくなかった飲み物を買った。
ヨナは全員を通過した。
左手には紙束、右手は――ペンは押収されているので――妹の肘の中。景色の中の何一つ、彼女の側からは観測されていない。それが余計に悪いのだ、とユウカは思った。見られていることに気づかない顔ほど、見る側の遠慮を溶かすものはない。
「ねえ。振り向かれてるわよ」
「学園で最頻の髪型です。視線は平均的に分布します」
「してない。全部一点に集まってる」
「標本が偏っています。この通りは人通りが多いだけです」
「じゃあ数えなさいよ。いま何人振り向いた?」
「十一人です」
「知ってるじゃない!」
「うち三人は歩きながら端末を見ていました。除外します」
「恣意的な前処理やめて!」
ノアの理屈はこうだった。
髪は最頻値に揃えた。隈は八時間の睡眠で消した。入浴間隔はゼロ日に戻した。刃物は引き出しの奥。四因子すべて処理済み。よって面白さは崩落し、残っているのは学園に無数にいる可愛いだけの生徒である。先生の分類器は正常に稼働し、綴じて、忘れる。
「その『だけ』が消し飛んでるって言ってるのよ!」
「可愛さは定数です。どれだけ大きくても係数にはなりません」
「定数がデカすぎたら外れ値って言うの! 回帰が壊れるのよ!」
肘の先で、白い頭が計算の続きを宙に書いていた。
通りの向こうで、また一人、電柱にぶつかった。
***
その夜、ユウカは自室のベッドに腰掛け、端末を三十分睨んでいた。
ノアの目は当てにならない。だから独立した検証が要る。会計の基本だ。申告額を信じるな、原資料に当たれ。
原資料はこの場合、先生本人である。
問題は訊き方だった。「ヨナ先輩をどう思いますか」は論外だ。座標を教えるようなものだ。「最近気になる生徒は」も駄目だ。先生はたぶん全員と答える。
残ったのは、いちばん遠回りで、いちばん恥ずかしい質問だった。
三回消して、四回目で送った。
『先生って、好きなタイプとかあるんですか』
送った瞬間に後悔した。
慌てて二通目を打つ。
『違います。セミナーの親睦企画で、先生の意外な一面を紹介するアンケートがあって』
嘘だ。そんな企画は存在しない。
ユウカは自分の親指が少し震えているのに気づいた。
既読が付いた。
返信までに一分。
長い一分だった。
【先生】え、なにそれ恥ずかしいな
【先生】うーん
考えている。
それが嫌だった。
即答なら軽い答えが返る──そして考えた答えは重い。
【先生】自分でもよくわかんないんだけど
【先生】ちょっとズボラな女性がいいな。目元に隈があったり、髪がボサボサだったり、生活能力が破綻してたり。支えたくなっちゃうんだよね
ユウカは端末を落とした。
拾い上げた。読み直した。文面は変わっていなかった。
「あっっっぶな……!」
声が部屋に響いた。
あの人は冗談で「おもしれー女」と書いたのではなかった。
先生の内側にある分類器の、たった一つの空き枠の形をあの書記は測って当てたのだ。そして今日、その枠にほぼ一致する形をしていた人間を「綺麗な人」という別の引き出しに移し替えた。まさに危機一髪。
偶然よね、とユウカは結論を仮置きして、それ以上考えるのをやめた。
【ユウカ】ありがとうございます。参考になりました
【先生】企画、楽しみにしてるね
【ユウカ】企画には使いません
【先生】え?
ユウカは端末を伏せ、天井を見上げた。
あの書記は、誰にも訊かないまま正解を知っていた。
もう一度持ち上げてノアの画面を開き、あんた何者なの、と打ち込んで今度こそ端末を伏せた。