安定同位体 作:ああ
水曜、十六時二十二分。
エンジニア部の第二整備場は、機械油と半田の匂いで満ちていた。
先生は書類の束を抱えて隅に立っていた。
備品移設完了報告の承認の、そのまた確認のサイン。書類仕事の川というものは上流の都合で勝手に増水する。今週はどこかの支流で雨が降ったらしい。
受け取り手はエンジニア部部長の白石ウタハ。
ウタハは軍手を外しもせずに器用にページを繰り、二箇所に判を押し、ついでに一箇所の日付の誤りを見つけて指の先で示した。
「はい、確認の確認、完了。……先生、この様式、三枚目と五枚目で同じことを訊いてるね。今度セミナーに改善提案を出しておくよ。無駄な部品は機械でも書類でも美しくないからさ」
「頼もしいなあ。ノアが受けて立ちそうだけど」
「望むところだね。設計勝負なら、マイスターの名にかけて」
その作業台の上に見慣れない物体が載っていた。
電動車椅子だった。ただし、半分ほどに分解されている。シートは外され、フレームは開かれ、露出した内部の基板の密度は先生の知っているどんな乗り物とも違っていた。乗り物というより車輪の生えた演算装置に見えた。
傍らではウタハの相棒の戦闘ロボット──雷ちゃんが物騒な砲塔の横で部品トレイを恭しく掲げている。
「いい設計だろう、これ」
視線に気づいたウタハが嬉しそうに言った。
「合理と、精密と、簡素。三つ揃った機械はそれだけで美人なんだ。だから点検も部長の私が直々にやる。他の仕事は部員に任せても、この子だけはね」
「ふふっ。お聞きになりましたか先生。私の愛機は整備士まで一流なのです」
声のした方を見ると、予備らしき手動の車椅子に明星ヒマリが座っていた。
膝には分厚い膝掛け。その上に、ホログラムではない、ただの紙のノートが一冊。
「ヒマリ。珍しいね、こんなところで」
「定期点検です。ミレニアムの超天才清楚系病弱美少女ハッカーといえど、装備は機械ですので」「そっか。機能多いから点検も大変そうだね」
「ええ、まさに」
「──で、ヒマリ。点検ついでに前から提案している件なんだけど」
ウタハがフレームの中を覗き込んだまま言った。
「シートの下に温風機構を仕込まないかい。冬に備えて。ついでに悪路用のサスペンションと、小型の荷台と、対ドローン迎撃用の──」
「最後のは要りません」
「ロマンなんだけどなあ」
「私の椅子を対空砲にしないでください。温風だけ前向きに検討します」
「商談成立。……ブレーキ系はひと通り見直しておいたよ。左の効きが甘くなってたから部品ごと交換してある。仕上がりまで、そうだな……小一時間ってところかな」
小一時間。
ヒマリは鷹揚に頷き、それから車輪に手を掛けて少し押し、すぐやめた。
「先生。せっかくですから散歩に付き合っていただけませんか?」
「はいはい」
「ん、行っといで。──ああ、そうだ先生」
ウタハが工具を持ち替えながら思い出したように付け加えた。
「第七研究棟の点検、うちの部が請けててね。二階の最終チェックが早く済んだから今日のうちに三階まで進めるらしい。巻きで終わらせて報告書はきっちり定時に上げさせるよ」
「仕事が早いなあ」
「機械と工程は綺麗に流れてこそだからね」
その報告書が三十八分後にどの机へ届き、何を始動させるのか──この整備場に知る者はいなかった。
外に出ると西の空が色を変え始めていた。
車椅子を押す者と押される者は同じ方向を向く。会話は互いの顔ではなく、前方の景色に向かって投げる形になる。先生はこの姿勢が嫌いではなかった。視線がぶつからない会話は、たまに机を挟むより遠くまで届く。
「それにしても点検が多いね、最近。第七研究棟っていえば予算の審議で縁があってさ。加速器も一度くらい見てみたいんだけど──まあ、講習だ点検だってあるから、焦らずそのうちかな」
「…………ふふ」
車椅子の上で、ヒマリが楽し気に笑みを零した。
「第七研究棟。先生は、あの棟の怪談をご存知ですか」
「怪談?」
「ええ。私のコレクションの中でも上物です」
ヒマリは指を一本ずつ立てながら、歌うように並べた。
「その一。深夜、誰もいないはずの廊下のホワイトボードが朝には式で埋まっている。その二。何日も詰まっていた計算が、いつの間にか床に置かれた紙で解決している。誰が置いたかは分からない。その三。夜の棟内で白いなにかとすれ違った生徒が複数いる。声を掛けても返事はなく、振り向くと、もういない」
「三つ目はちゃんと怖いね」
「でしょう?」
ヒマリはわざとらしく嘆息した。
「ですが残念なことに、この怪談は少々つまらないのです。私の蒐集品の中で唯一、裏の取れてしまった怪談なので」
「裏?」
「実在するのです。第七研究棟のヌシは」
夕方の並木道に車輪の音だけがしばらく続いた。
「あの棟では物理系の研究室がいくつも走っています。素粒子、原子核、加速器科学、物性の一部まで。そのどれ一つとして、あの人の足跡を踏んでいない研究はありません。詰まった計算は床の紙が解き、間違った符号はいつの間にか直り、直した誰かの姿は誰も見ていない。先月などは、地下の大きな磁石が一基、警報の鳴る十四分前に救われたそうですよ」
「……すごい人がいるんだね。親切な人なのかな」
「いいえ」
ヒマリは前を向いたまま、少し笑った。
「善意ではないのです。あの人にとって視界に入った未解決は拭き残しのようなもの。目に入れば拭く。それだけです。だから足跡ばかりが残って、感謝の宛先がどこにも存在しません」
「宛先がない、って」
「お礼を言おうにも、受け取り窓口が設置されていないのですよ。あの人の側に」
先生は少し考えて、質問を変えた。
「その人、専門は?」
「本籍は弦理論です。ひも理論、と言ったほうが通りがよいでしょうか。あの分野では、もう権威です。研究誌に引用の塔が建っています。講演の依頼状も積み上がっています。当のご本人は封も切りませんが」
「もったいない」
「ふふ。もったいない、というのは人間の側の勘定です。論文だけが独りで世界を歩き回っていて、著者本人は学会という様式の中に存在しない。学位すらお持ちでないのですよ。私の学位は『全知』ですが──ええ、実在します、疑わないでください──学位というものは申請しないと出ないのです。あの人は申請という行為をなさらないので」
先生は押す手を緩めないまま訊いた。
「ヒマリから見ても、その人は特別なんだ?」
「…………」
珍しく返事に間が空いた。
超天災病弱美少女ハッカーの三年生は、膝掛けの端を指先で撫でながら慎重に言葉を選んだ。
「比較は同じ軸の上でしか成立しません。私とあの人では軸が直交しています」
「……んー。分かるような、分からないような」
「そうですね……私の知は水面を覆う光です。広く、遍く、面として世界を照らします。あの人のそれは槍です。照らせる範囲は一本の線分だけ。ただしその線の先では──深さの目盛りが壊れています」
「はあ」
「測定不能という意味です。ミレニアムには天才が掃いて捨てるほどいますが、天才というのは同じ物差しの上での背比べのことです。あの人は物差しの上に乗っていません」
銀杏の葉が一枚、膝掛けの上に落ちた。ヒマリはそれを摘み上げ、しげしげと眺めてから、手すりの外へ放した。
「そして槍は、自分の柄を見られません」
「柄?」
「線の先は照らせても手元は真っ暗なのです。書類も、食事も、髪も、おそらくはご自分の体調も。全知の対極ですよ。同じことを私がやれば三日で干からびます」
「ヒマリでもか」
「私は水面の側ですから。広さというのは退屈と引き換えに付いてくる安全装置です。目に入るものが多ければ一つの穴に落ちずに済む。……正直に申し上げれば」
声の温度が、そこで少しだけ変わった。
「私は、ああはなれません。なりたい、とも思いません。ですが、ああでなければ届かない場所が、この世界にはある。それもまた動かせない事実なのです」
車椅子の上での物言いは、いつもの朗々とした自慢する時の調子のままだったが、先生には、それが手すりを掴む指の力で釣り合いを取っている声に聞こえた。
「……ですから、あの棟の有志がまとめている非公式の観測記録でも、もう能力の話は誰もしていません。皆が真剣に研究しているのは挨拶が届く条件です」
「挨拶?」
「時間帯、接近方向、声量。全変数で検定して、全て有意差なし。届く条件は、ついぞ見つかりませんでしたとさ」
ヒマリはくすりと笑った。
「数式で編んだてるてる坊主のようなものですね。吊るしても晴れませんでしたが、吊るした気持ちのほうは本物です」
並木が切れて空が広くなった。
西の低いところで雲の腹が橙に染まり始めている。先生はしばらく黙って車椅子を押した。それから、ぽつりと訊いた。
「楽しいのかな、研究」
車輪が二回転する分だけ沈黙があった。
「……分かりません」
やがて声が返ってきた。
「楽しさを測る計器を、積んでいるのかどうか。それすら誰も知らないのです」
「そっか」
先生は空を見たまま言った。
「積んでたらいいな」
「……ふふ。先生は、そういう欄外ばかり読まれますね」
「欄外のほうが面白いこと書いてあるから」
ヒマリは何か言い返そうとして、やめて、代わりに膝の上のノートを指で一度だけ叩いた。
それから思い出したように口を開いた。
「ああ、そういえば。ヌシの名誉のために一つ申し上げておきますと──」
「──それってさ、もしかして生塩さん?」
車椅子が、半拍だけ遅れた。
「弦理論で、第七研究棟でって聞いてたら審議で読んだ資料を思い出して。生塩ヨナさん。ノアのお姉さん」
「……あら」
ヒマリが振り返った。
夕陽に照らされた先生の顔を、まじまじと見た。
「あらあら。同姓なのは知っていましたが……いえ、失礼。私としたことが。セミナーの書記さんの? あの、ヴェリタスの備品目録を三度も完璧な様式で差し戻してきた、あの手強い?」
「あはは。敵に回すと怖いでしょ」
「怖いですとも。様式で人を詰ませる方は」
ヒマリは口元を手で隠したが、隠しきない笑いが声に滲んだ。
「ふふ、ふふふ。キヴォトスは広いようで狭いですね。今朝の運勢に『思わぬ繋がりが見つかるでしょう』とありましたが、成就してしまいました」
「占い当たるんだ」
「オカルトを侮ってはいけません、先生」
***
同時刻。セミナー執務室。
ユウカは監査の外回りで席を外していた。役員たちの机も既に空で、ノアは一人で決裁の残りを平常の速度で処理していた。
十七時の定時配信が着信したのは三件目の押印の途中だった。
差出は点検作業班。
件名は『安全点検・進捗報告』。
ノアは印を置き、それを開いて二行目で目を止めた。
三階配線区画、予定を繰り上げ本日着手。
十六時四十分より当該区画一時停電。
在室者一名、十六時三十五分
照合は一瞬で終わった。
実施届の別紙、区画別スケジュール、自分で引いた線。
三階は明日のはずだった。二階の分電盤の交換が早く済んだのだ。作業班が優秀だった。
この感想を抱くのは、この点検を申請してから二度目である。
優秀な人間というのは、まったく、計画の敵だ。
退去済み。
ノアはその四文字を見つめた。
様式は結果しか書かない。誰が、どう声を掛け、あの人がどの手順で立ち上がり、紙束とペンを持たされて、どこへ放流されたのか──報告書のどこにも書いていない。
ノアは立ち上がった。
第七研究棟に着いたのは十七時十一分だった。三階の廊下は暗かった。突き当たりまでの照明は四つとも消えていた。停電なのだから当然だ。暗い廊下を歩きながら、ノアは自分の呼吸が浅いことを観測し、観測した事実を保留にした。
部屋は──空だった。
昼に置いた弁当の容器だけが床の定位置に残っていた。中身は減っていた。人参以外は。
ホワイトボードは書きかけのまま、マーカーはトレイに転がっている。トレイに、だ。床ではない。誰かが──おそらく心得のある生徒が──手順どおり、紙を左視界に入れながら丁寧に退去させたのだろう。
感謝すべき完璧な仕事だ。
完璧な仕事の結果、姉の座標が消えている。
暗い部屋の入口で勝手に映像が再生を始めた。
去年のあの日。冷たい床の色。脈を取った自分の指先の感触と、そのときの自分の心拍数。ノアの記憶は再生の拒絶ができない。この頭は最悪の事態をわざわざ想像する必要がない──過去に一度観測した最悪を、いつでも原寸のまま上映できてしまうから。
ノアは上映が終わるのを待たずに廊下へ戻った。
映像は歩く速度に併走して、非常階段の手前でようやく途切れた。
頭の中で第四十四版をめくる。
避難時の対応、第三十一版で追加。
記載は誘導の手順のみ。
誘導後にあの人がどこへ漂うのか──書いていない。
前例は二件。一昨年の消防訓練と去年の全館停電。
行き先は、非常階段の踊り場と屋上倉庫の陰。ノアは両方を七分で回った。どちらも空だった。標本数2の統計は三例目の前で沈黙した。
階段を降りながら端末を出した。
ユウカに応援を頼めば探索の面は倍になる。宛先を呼び出し、文面を三文字打ち、消した。もう一度打ち、消した。頼めない理由は存在しなかった。ユウカは知っている。半年前から全部知っている。それでも指が動かなかった理由を、ノアは解析せずに仕舞った。解析すれば答えが出てしまう頭を持って生きるとは、つまり、仕舞う速さを鍛えることだ。
一階の玄関で帰宅途中らしい生徒とすれ違った。
呼び止めて訊けば早い。白い髪の三年生を見ませんでしたか、と。──訊けば、訊いたという事実が相手の記憶に残る。セミナーの書記が白い髪の三年生を、あんな顔で探していたという記録が。ノアが入学してから二年間一度も外に出さなかった問いだ。
しかし、天秤は一秒も掛からなかった。
「──すみません。白い髪の、三年生を見ませんでしたか」
生徒は少し驚いた顔で首を横に振った。
ノアは礼を言って外に出た。西陽が正面から目を刺した。
***
帰り道は第七研究棟の外周に沿った小径だった。
整備場への近道でもあり、なにより西向きで、夕焼けの正面だった。
棟の窓は暗い。点検で電気が落ちているのだと先生は思い、話に聞いたばかりのヌシは今ごろどうしているのだろうと思い、全く想像が付かないことに気付いて少し笑った。
会ったこともない人の「今ごろ」は、想像のしようがない。
会話は途切れていた。
気詰まりな途切れ方ではなかった。夕焼けが良すぎると人は勝手に黙る。車輪の音と、遠くの部活動の号令だけがゆっくり流れていった。
小径の途中に小さな庭があった。
植込みと、銀杏が数本と、ベンチが一つ。
そのベンチに、白い髪の生徒が座っていた。
肩の上で切り揃えられた髪が、逆光の中で輪郭ごと淡く発光していた。膝の上に紙の束。右手にペン。そして──書いていなかった。ペンを持った手は膝の上で止まったまま、その人はただ、まっすぐに西の空を見ていた。
ぼうっと夕焼けに当たっていた。
風が植込みを渡って、膝の上の紙束の端を一枚めくった。
その人は押さえなかった。めくれた紙はしばらく夕陽に透けて、数式の影を裏側から見せて、また伏せた。
陽が沈む間際の光は、大気の長い道のりに散乱されて波長の長い赤だけが地表に届く。その散乱を潜り抜けて届いたものだけでできた光の中に、その人は身じろぎもせず座っていた。まるで、届くものを浴びるためだけに置かれた計器のように。
頭上の光輪も、その赤い光の中にあった。
真円ではない。輪の縁を細かな波がひと巡りしている──一本の閉じた弦。普段は、と言っても普段のそれを見ている者などいないのだが、波は目にも留まらぬ速さで震え続け、輪郭を淡く滲ませるだけで、遠目にはただの手入れの悪いぼやけた輪と区別がつかない。
今は──波が少なかった。
円周を目で数えられるほどの、長い、緩やかなうねりが幾つか。
楽器に喩えるなら、いちばん低い音だけが鳴っている。
ペンを持ったまま何も書かない、というその状態が何冊の記録のどの版にも前例のない事象であることを知っている人間は、この庭にいなかった。
先生の記憶の底をなにかが一瞬だけ掠めた。
いつかの通路の、拍子の合わない足音と、毛先の揃わない白い背中。
しかしその記憶は目の前の像とは重ならずに、そのまま流れて消えた。
あの日の白と、この夕陽の中の白は、先生の中で別の棚に仕舞われた。
綺麗な人だな、と先生は思った。
綺麗な人という言葉は便利で、たいていの場合そこで感想が終わる。名前も知らない相手を仕舞うのに、これほど据わりのいい引き出しは他にない。
実際、先生の中でその引き出しは音もなく開いて、夕焼けの中の白い姿を収めようとして──収まりきらずに数ミリだけ閉まらなかった。ペンを持ったまま何も書かない手。あの手の置かれ方だけが引き出しの縁に引っ掛かった。
なんだろう、この人。
その先を続けようとした、そのとき。
「……あら」
ヒマリが声を漏らした。
──障壁は完璧だった。
規程は一条も破られていない。講習は未受講のままで、点検は様式どおりに進み、扉という扉は正しく施錠されている。ただ、どれほど高く積んだ壁であっても、その外側で粒子が観測される確率は、量子力学の教えるところ、厳密にはゼロにならない。
振幅は小さくなって。
でも、ゼロにはならない。
十七時三十九分、第七研究棟南側の庭。
書記はまだ走っている。