雲の上を進むレイブンの艦橋で、俺はホンコンの情報表示を開いたままにしていた。
まだ戦闘開始の報告はない。アウドムラ側とティターンズ側が睨み合っている段階で、こちらへ入ってくるのも部隊移動や通信量の増加といった断片ばかりだった。
そのホンコンから、俺たちはもう離れている。
ムラサメ研究所の保護対象と証拠はすでに分散させ、現地には必要な保全措置だけを残してある。全部が片づいたわけじゃないが、BLACK RAVENがいつまでもムラサメ研へ張りついていなければならない段階は過ぎていた。
次に行く場所も決まっている。
オーガスタ研究所。
ムラサメの処理を進めながら、こっちの準備も並行して進めてきた。マウアーには中央との文書調整を続けてもらい、ノエルさんには公開されている範囲の施設情報と現在の軍回線を洗ってもらった。査察許可証と今回の任務に限った全権委任状も出発前には揃っている。移送用の医療資材や記録の複製機材も必要な分は積んだ。
許可が出てから行き先を決めたわけじゃない。もう行けるところまで準備した上で、レイブンは北米へ向かっている。後は、いつ入るかだけだった。
最終確認のために集まった会議室の表示には、オーガスタ基地全体ではなく研究所関係の資料だけを出していた。攻略方法を考えるためじゃない。今回、俺たちが触る場所を間違えないためだ。
「文書の範囲は変わっていません。研究所への立入、記録の保全、保護対象の確認と必要な移送。それに伴って、治療や証拠保全に必要な関係者を一時的に同行させるところまでです」
マウアーが端末上の承認情報を確認しながら続ける。
「全権委任状も対象はこの査察任務です。基地司令部そのものへ指揮権を持つものではありません。基地側には通行と査察への協力を求めますが、通常任務や基地防衛へ大佐から命令を出すことはできません」
「そこはそれでいいです。こっちも基地まで欲しいわけじゃないですから」
欲しいのは研究所でもない。その言葉は飲み込んだ。
「ずいぶん立派な紙を揃えたもんだ」
シーマ中佐が表示を眺めたまま言う。
「向こうも書いてある通りに読んでくれりゃ楽なんだけどね」
「読ませるために持っていくんですよ。いきなりMSを並べたら、その前に話が変わります」
「分かってるよ。あたしも基地ごと喧嘩する気はない。ただ、紙を見せた途端に通信を始める奴はいるだろうね」
「研究所からデータを消したり、人を外へ逃がしたりするための連絡なら止めます。ただ、基地の通常通信まで切るつもりはありません」
ムラサメ研では、こちらが中へ入ったと知らせる通信が一本抜けた。それだけで後の照会も移送も面倒になった。同じ失敗を繰り返すつもりはないが、基地全体の回線を落とせば、今度はこちらが何をしに来たのか分からなくなる。
クリスさんが古い施設図を拡大した。
「私がいた頃の配置なら、基地側と研究区画の出入りはある程度分かれてた。でも、これをそのまま信じないで。もう何年も経ってるし、研究内容だって変わってるはずだから」
「入口までの参考にするくらいですね」
「うん。中に入ってからは現物を見た方がいい。それと、保護対象を動かすなら記録は一緒に確保して。ムラサメと同じで、全部止めればいいなんて話にはならないと思う」
「そこは最優先でお願いします」
クスコさんが腕を組んだまま、表示から俺へ視線を移した。
「護衛は?」
「必要になるまで前へ出しません。基地側が普通に通すなら、こっちも普通に入ります」
「撃たれてから考える、という意味じゃないわよね」
「そこまでのんびりはしません。出撃準備や武装した部隊の移動が確認できたら対応します。ただ、最初から敵扱いはしないです」
シーマ中佐が鼻で笑った。
「難しいこと言うね。相手がティターンズでも?」
「ティターンズだから撃つ、にはしません。今回の正式任務を武力で止めに来たら、その時は止めます」
「それならいい。撃つなと言われたまま盾にされるよりは分かりやすい」
マウアーが別の文書を開く。
「施設長のエスコラ・ゲッダ大佐は、研究所責任者として事情聴取と身柄保全の対象です。ティターンズ所属そのものを拘束理由にはしません」
「それで行きましょう。抵抗しないなら普通に同行してもらってください。保身に長けた人という話があります、こちらが圧をかけすぎなければ強行姿勢はとってこないと思います」
そこまで確認したところで、ノエルさんの端末に新しい通信が入った。
彼女は一度表示へ目を落とし、送信元と内容を確認してから顔を上げる。
「隊長。ホンコン側の更新です。カラバ側から共有。ティターンズがアウドムラとガンダムMk-IIの引き渡し、所属戦力の武装解除を要求しています。応じない場合は、無差別で市街地への攻撃をすると通告しています」
部屋の空気が変わった。
「市街地を撃つって言ってるのかい」
「通告内容として確認できているのはそこまでです。実際の攻撃再開、戦闘結果についてはまだ情報がありません」
ノエルさんらしい答えだった。分からないところまで埋めない。
俺は表示された時刻を見た。来た、と思った。
もちろん、市街地を撃つと言い出すのを待っていたわけじゃない。そんなものは起きない方がいい。待っていたのは、ティターンズがホンコンへ戦力だけじゃなく、指揮と政治判断まで大きく向ける瞬間だ。
オーガスタへ追加の指示や増援を回すにしても、ホンコンで大きな作戦が動いている最中なら時間差が生まれる可能性が高い。数時間でも、下手をすれば数十分でもいい。今回欲しいのはその程度の差だった。
「マウアー、こっちの文書に差し止めは?」
「ありません。現時点で全て有効です」
「ノエルさん、オーガスタから特別な動きは?」
「こちらで確認できる範囲ではありません。ただし、内部の警戒状態までは分かりません」
「それで十分です」
俺は席から立った。
「今行きます。ホンコンでこれだけ大きな判断をしてるなら、向こうの優先はしばらくあっちです。こっちは文書も準備も終わってる。待ってオーガスタ側に追加命令や差し止めが回る時間を作る理由はありません」
「予定を前へ出すんだね」
「はい。研究所へ入ったら人とデータを優先します。施設を抱えて居座るつもりはありません。必要な人を動かせる状態にして乗せる、記録を確保したら即離れます」
「査察にしちゃ、ずいぶん逃げ足の速い予定だ」
「揉めてから居残るよりはいいでしょう。査察という名目ですがやってることは接収ですからね」
シーマ中佐は少しだけ口元を上げたが、それ以上は聞かなかった。
「基地側には予定通りです。対象は研究所だけ。協力する人間に銃を向けない。逆に、武力で妨害された時に慌てないよう準備だけはしておいてください」
「了解」
「分かったわ」
「医療班も動けるようにしておくね」
全員がそれぞれの仕事へ戻っていく。
俺も会議室を出たが、艦橋へ向かう途中で足を少し緩めた。
普通の査察ならこんなやり方はしない。記録を確認して、責任者から話を聞いて、必要なら施設を封鎖する。研究を止めるにしても、その後を決めてから人を動かす方が普通だ。それなのに俺は最初から建物を置いていくつもりでいる。重い設備だって、今回どうしても必要じゃなければ残す。人とデータだけ持って、話が大きくなる前に出る。かなり変なことをしてると思う。それでも従ってくれるみんなには感謝しかない。
理由は説明できない。少なくとも、どうして今すぐ動く必要があるのかを、そのまま口にすることはできない。ここで時間を与えれば、人も記録も別の命令一つで動かされる可能性がある。
ムラサメ研では、まだ書類の押し合いで済んだ。向こうから照会や引き渡し要求が来ても、中央へ確認を返している間に人と証拠を分散させることができた。
でも、あれでこちらの動き方も見せてしまった。次も同じように時間を使わせてもらえるとは思わない。だからホンコンへ意識が向いている今のうちに、必要なものだけ一気に抜く。研究所を占領して守り続ける必要はない。人と記録を確保できれば、それでいい。
今回で研究所二つ目だ。ティターンズの影響が強い研究所へ正式に入り、そこから実際に人と記録を持ち出す。ここまでやれば、向こうも今までと同じ対応はしないだろう。
次からは照会や引き渡し要求より先に、武力を準備して止めに来ることだろう。正式な文書を先に押し込み、相手が対応を決める前に必要な仕事を終わらせる。そんなやり方が通るのは、今回が最後になる。
これからの関係は最悪化するだろう、だが向こうが武力でこちらを止めに来ない限り、こっちから撃つ理由はない。ただし、武力で止めに来たなら話は別だ。本気でやる。木星帰りの男への対処も考えないといけない。
そこまで考えたところで艦橋へ入る。前方表示には、雲の切れ間から北米の地表が映っていた。
「大佐、まもなくオーガスタ基地の管制空域です」
レイアム大尉が航法表示を確認しながら報告する。
「予定航路のままで接近できます。今のところ進路変更の指示はありません」
「分かりました。速度はそのままで。余計なことはしないで普通に行きましょう」
「了解です」
ノエルさんの席に管制からの通信が入る。
「オーガスタ管制から応答。所属と来訪目的の照会です」
「通常手順で返してください。マウアー、査察文書も送れる状態に」
「準備できています、大佐」
「お願いします」
レイブンは減速しながら基地へ近づいていく。こちらへ砲口が向けられているわけでも、迎撃機が上がってくるわけでもない。俺たちもMSを前へ出してはいない。
今は、正規の連邦軍部隊が正式文書を持って連邦軍施設へ来ただけだ。
マウアーが送信操作を終える。査察許可証と委任文書の転送表示が点灯し、正面表示の中でオーガスタ基地が少しずつ大きくなっていった。