授業が終わっても、キョウは教室の机を離れなかった。リタが描いている絵の続きを見たかったのだ。小さな窓の外に浮かんだ補給船を、リタは紙の端へ丁寧に収めようとしている。キョウならもっと大きく描くところだが、細い線で輪郭を取るやり方も悪くない。
「そこ、もう少し右じゃない? 実物は窓の真ん中にいたよ」
「最初はね。でも動いてたでしょう。こっちに描いた方が、窓の枠まで入れられるから」
「なるほど。私だったら船だけ描いて終わってるな」
「キョウのはそれでいいと思う。好きなものが大きく描いてあるし」
そう言われて、自分の絵を裏返しかけた手を止めた。キョウの紙には補給船がほとんど一杯に描かれていた。左右へ張り出した部分は少し曲がっている。隣で見ていたミシェルが肩をすくめた。
「いいんじゃない? ただ、その船、どこから荷物を出すの。入口まで塞いでるじゃない」
「そっちは後で描こうと思ってたの。ミシェルのだって、窓より説明の字の方が大きいじゃない」
「見て分かるようにしたのよ。先生に質問された時、全部答えるより早いでしょ」
「ミシェル、質問される前から答えを用意してるよな」
ヨナの言葉に、ミシェルが「悪い?」と返した。怒ったわけではなく、少し得意そうだ。キョウはその顔を見て笑った。四人でいると、誰かが言い返し、別の誰かが間に入る。レイブンにいた頃も退屈だったわけじゃないけれど、同じ授業を受けて、描いた絵のことでも言い合えるのは気楽だった。
片づけを始めたところで、キョウの端末に知らせが入った。レイブンから来た連絡で、兄が研究艦へ顔を出せる日が決まったという。先方の予定も確認できたので、授業と重ならない時間帯に訪ねてくるらしい。
「お兄ちゃん、来られるって」
「よかったね。前から待ってたもの」
「待ってたっていうか、忙しいのは分かってるけど……久しぶりだから、やっぱり嬉しいかな」
ミシェルがその端末を覗こうとして、キョウに軽く押し返された。
「見せてくれなくてもいいわよ。そういえば、キョウのお兄さんには、あの時のお礼をちゃんと言えてなかった気がする。会うと聞きたいことが先に出ちゃうのよね」
「この前だって、何か困ってないかって聞いてくれただろ。俺たちのこと、そこで終わりにしなかったのはありがたいと思ってる」
「うん。ヨナたちが来る前のこと、私も少し聞いたけど……」
「前のところに戻りたいかって聞かれたら、私は嫌。今は絵を描いてても、途中でやめても、自分で決めていいでしょう。あの人に会ったら、そういうことを話したいな」
リタはそう言って、自分の絵を折らないように持ち上げた。ミシェルも頷いたが、すぐに「でも、言うことは言うわよ。分からないことを黙って聞いているのは別だから」と付け足した。
「それでいいよ。お兄ちゃん、聞けばちゃんと答えるし。分からなかったら別の人に聞いてくれるから」
「随分自信あるのね」
「あるよ。……なんか、みんながお兄ちゃんのことそういうふうに言ってくれるの、嬉しいな」
キョウが照れくさくなって笑うと、ヨナも少し笑った。ミシェルは「それなら、来た時に絵を見せてもらったら」と言い、リタは「まず机を片づけよう」と紙を揃え始めた。キョウも慌てて自分の絵を重ねた。兄が来るまでにやっておきたいことは、まだいくつもあった。
◇
研究艦への訪問が決まったのは、マウアーが向こうと日程を調整してくれたおかげだった。レイブン側の勤務と移動の予定を合わせ、短い滞在時間を取る。先方からも受入れ可能の連絡が来ていたので、俺は連絡艇で研究艦へ向かった。研究艦へ来るのは久しぶりだが、ここは俺が来なくてもずっと動いている。
案内された生活区画の入口で、キョウが待っていた。向こうから手を振ってくるのを見て、俺も歩く足を速めた。
「お兄ちゃん! 思ったより早かったね」
「予定よりちょっと早く着いただけだよ。元気にしてたか?」
「してるよ。あ、ちゃんと三人も連れてきたから。紹介は前にしたけど、今は同じ授業も受けてるんだ」
「聞いてる。授業の方はどうだ?」
「楽しいよ。難しいのもあるけど、ミシェルが説明の図をすぐ描くから、分からないところは聞けるし」
「それ、私を便利な道具みたいに言ってない?」
後ろからミシェルが声をかけた。ヨナとリタも一緒だ。キョウは悪びれもせず「役に立ってるって褒めてるんだよ」と返す。ミシェルはそれ以上言い返さず、俺に軽く頭を下げた。
「久しぶりです。キョウには色々聞いてます。お兄さん、食事の時間が不規則だって、本当なんですか?」
「え、何でそんな話までしてるんだ?」
「だって、レイブンにいた時はいつもそうだったじゃない。マウアーさんに怒られてたし」
「怒られてたわけじゃない。注意されてただけだよ」
「同じじゃない?」
キョウがあっさり返すので、ヨナが声を押さえて笑った。リタは俺の方を見て「こっちは、ちゃんと食事の時間がありますよ」と教えてくれる。そういう生活を気に入っているらしい。俺は少し安心したが、それを口にする前にミシェルが机の上の絵を取りに戻り、みんなで見せる順番を決め始めた。
キョウの描いた補給船は、窓より大きかった。図面のつもりで見ると突っ込みどころは多いが、わざわざそれを口にして「これが好きなんだ」と言ったキョウの顔を見れば、細かい話は後でいいと思った。
「お兄ちゃん、機体の絵を描いてもらったら、もっと上手く描ける?」
「MSの形なら、もう少し正確に描けるかもしれないけど、絵が上手いかどうかは別だぞ。俺が描いたら全部整備用の説明図みたいになると思う」
「じゃあ次の時に描いてよ。ミシェルと比べてみる」
「ちょっと、勝手に勝負を決めないでよ」
「俺も見てみたいな。レンさんの絵」
ヨナはそう言って、自分の紙を俺に渡した。余白が多く、補給船は小さく描かれている。でも窓の外の位置と船の向きが分かりやすくて、俺はそちらにも感心した。四人とも同じ場所を見て描いたのに、出来上がりはずいぶん違う。
授業へ戻る時間が近づいたので、四人とはいったん別れた。キョウに次の予定を聞くと、午後には少し自由な時間もあると言う。なら、帰る前にもう一度顔を出そうと約束し、俺は研究区画へ向かった。
◇
ナナイさんは作業台に積まれた記録を仕分けていた。俺が入ると椅子を勧めてくれたが、自分はしばらく立ったまま、閲覧用の端末を選んでいた。
「キョウさんとはもう会いましたか?あの子たち、授業の後もずいぶん賑やかでしたよ」
「会ってきました。あんなに楽しそうにしてるならこっちに来てよかったんでしょうね。俺の方は絵を描く約束までさせられました」
「では、その時間も確保してもらわないと。研究についてもキョウさんから時々質問がありますが、具体的な検査の話になれば医療担当の確認が要ります。生活の予定をこちらの都合で埋めるつもりはありません」
「ええ。何をするかは本人に説明してください。俺が代わりに決めるつもりはありませんから」
ナナイさんは手元の端末を少し回した。本人向けに説明する資料と、研究側の詳しい記録は別になっている。質問されてすぐ答えられるものもあれば、医療担当へ確認しなければならないものもあるという。
「本人が興味を持っていることは、続けて聞いてあげたいんです。でも、何をするか決まる前から、研究の都合で予定を押さえることはしません。ここでは授業も生活もありますから」
「キョウなら、分からないところがあれば遠慮なく聞くでしょうね。説明が長いと途中で止めるかもしれない」
「その方が助かります。分かったふりをされたまま進めるより、ずっといいですから」
俺は資料を返した。ナナイさんの作業机には研究側の記録のほかに、折り返しの連絡を待つ書類も残っている。キョウの質問に答えるのも、誰かへ確認するのも、一度で済む話ばかりではないらしい。
「ところでフォウの方ですが、定期報告では状態がいいと聞いています。今は少し会えそうですか?」
「予定では自由に過ごす時間です。ただ、会うかどうかは本人に聞いてください。詳しい治療内容は医療担当に確認していただくことになります」
「分かりました。本人にも聞いてからにします」
◇
フォウは生活区画の隅にある机で、本を何冊か並べていた。俺が声をかけると、振り返って少し笑った。
「久しぶりね大佐。今日は仕事で来たの?」
「仕事も少しあるけど、顔を見に来た方が近いかな。調子はどうだ?」
「悪くないわ。前より疲れにくくなった気がするし、今は自分で今日は何をするか決められるから。それより、この本、返す場所を間違えたみたいで探してたの」
「それなら、俺よりここの人に聞いた方が早いな」
「でしょうね。大佐に聞いたら、また誰かに確認するんでしょう?」
「よく分かってるな」
近くにいた係員に棚の場所を聞くと、フォウは本を持ち直して歩き始めた。何冊も重ねているのに軽そうに見える。俺が持とうかと声をかけると、「これくらいなら大丈夫」と返された。治療の話よりも、こんなやり取りができることに少しほっとする。
「記憶のことは、医療担当からどう聞いてる?」
「まだ戻ってないことは多い。でも、身体が落ち着いていけば、思い出せる可能性が高いって。だから今すぐ全部思い出そうとしなくていいって言われてるわ」
「そうか。それなら焦ることはないな」
「簡単に言うのね。自分の昔のことなのに分からないって、たまには嫌になるわよ。でも、今は待ってみるつもり。覚えていないからって、今日やりたいことまでなくなるわけじゃないし」
少し言い返されて、俺は苦笑した。前の名前のことをこちらから持ち出しても仕方ない。フォウは手元の本を確かめ、返すものと読みかけのものを分け直した。
「身体の調子が戻っても、処置の影響は少し残るらしいね」
「ええ、普通より力が強いところは残るかもしれないって。でも、だからって重い物を全部運ぶ係にはならないわよ」
「まだ何も頼んでないよ」
「そうだ、カミーユには体調が良好だって伝えてあるよ。向こうも気にしてた」
「あの人、また無茶をしてないでしょうね」
「Zの肩を傷めたらしい。本人は修理の話を始めたら止まらないくらい元気だったけど」
「そう。……機体より先に自分を休ませればいいのにね」
フォウは呆れたように言い、返す本のうち一冊を俺に渡した。それを係員へ届けてから別れる時、「また顔を出してね」と言われたので、俺も頷いた。
◇
帰る前にキョウたちのところへ戻ると、四人はもう次の授業の話をしていた。キョウが俺のところへ来て、端末に何かを表示する。
「お兄ちゃん、次に来る時、絵を描く約束忘れないでよ。ヨナも楽しみにしてるんだから」
「分かった。紙とペンは自分で用意するよ」
「それはこっちにあるからいい。それより、時間作ってね」
「はいはい。できるだけ早く来る」
ミシェルはすぐに「早くって言うだけじゃなくて、ちゃんと予定を決めてからにして」と口を挟んだ。キョウは笑って「そういうところ、お兄ちゃんに似てる」と返す。ミシェルは納得していない様子だったが、リタが次の時間の話を始めると、四人はまた自分たちの予定を確かめ始めた。
連絡艇の乗り場へ向かう途中で振り返ると、キョウはまだヨナたちと話していた。俺に気づいて手を振ったあと、すぐミシェルの方へ向き直って何か言い返している。レイブンへ戻ったら、まず紙にMSを一機描いてみよう。図面みたいになったら、それはそれで笑われるだけだ。