昼食を取りに生活区画へ出ると、ナナイは食堂の入口でキョウに呼び止められた。手にしているのは薄いノートだった。開いた頁には、時刻と場所、その時に感じたことが少しずつ書き込まれている。
「ナナイさん、これ、見てもらってもいい? 前に質問した時、どういう時に困るのかって聞かれたから、忘れないうちに書いてみたんだけど」
「ええ。食事のあとでも構いませんか。あなたも、まだでしょう」
「うん。じゃあ一緒に食べよう。ミシェルたちもいるから」
四人が使っている席には、トレーのほかに授業で使った資料が置かれていた。ミシェルが何かを説明し、ヨナが自分の手元の紙と見比べている。リタは二人の邪魔にならないように皿を寄せていたが、キョウが戻ると空けてあった椅子を指した。
「ナナイさんも、ここでいい?」
「いいけど、まずこれを片づけないと。さっき、食事が来たらしまうって言ったでしょう」
ミシェルはヨナの分も重ねようとしたが、彼は一枚だけ手元へ残した。ナナイが椅子を引く間に、キョウがその紙を覗き込む。
「まだ終わってなかったの?」
「終わってる。どこを間違えたのか見てたんだ。午後に同じ問題が出たら、また分からなくなるだろ」
「だったら食べてからでいいじゃない。私はもう説明したわよ」
「聞いてすぐ分かったら、苦労しないよ」
ヨナが紙をしまったあとも、ミシェルの資料は卓上に残っていた。キョウに指を差され、彼女も何も言わず鞄へ入れる。ナナイが食事を始めると、リタが卓上の水差しを近くへ寄せてくれた。食べ終わるまでには、午後の授業の話から、次に届く本の話へ移っていた。
午後の授業へ向かう三人を見送り、キョウは残った時間でノートを開いた。ナナイは隣へ椅子を寄せ、一つ目の記述から目を通す。人が多い廊下で気分が悪くなった日もあれば、同じ場所を通って何も感じなかった日もある。眠かった、前の授業が長かった、という書き足しもあった。
「何が違うのか、自分でも分からないんだよね。昨日は平気だったのに、今日は駄目だったりするから。人が多いせいだと思ってたけど、それだけじゃないのかな」
「この書き方なら、あとで比べられますね。寝不足だったことも消さずに残しておいてください。感覚の話だからといって、普通の疲れを別にしていいわけではありませんから」
「じゃあ、眠くて授業が頭に入らなかった日も書く?」
「気になるなら。ただ、そのために毎日何頁も埋める必要はありませんよ」
キョウは少し安心したように頷き、ノートの端へ短く書き足した。ナナイが返したあとも、その文字を眺めている。
「こういうのを調べたら、疲れにくくできるのかな。人がいるところへ行くのは嫌じゃないんだ。あとで頭が重くなるのが困るだけで」
「今すぐ方法があるとは言えません。でも、どんな時に困るのかが分かれば、生活の方で変えられることが見つかるかもしれません。まずは医療担当とも相談してみましょう」
「うん。それなら、また書いてみる」
授業の時間を確かめると、キョウは椅子を戻して三人を追いかけた。ナナイも席を立ち、研究区画へ戻った。途中で受け取った医療側の定期連絡には、フォウの体調が引き続き良好だとあった。医療担当との打ち合わせの予定を確かめ、端末をしまう。
◇
研究室では、ローレンが共有の作業台に資料を並べていた。オーガスタ研究所から保全した、測定装置の整備記録と調整時の測定値だった。機器の状態を確かめ、今後も使える測定手順を整理する仕事が残っている。ナナイは自分の端末を開き、比較していた箇所を表示した。
「同じ設定なのに測定値がずれている箇所を揃えました。前後の記録も比べたいのですが、こちらは整備の記載が抜けています」
「設定が同じでも、部品を替えれば変わることがある。この時期は、装置の調整と測定手順の変更が重なっていたはずだ」
「その順序まで確かめたいんです。いつ、どちらを変えたのか。分からないまま同じ条件として扱うわけにはいきませんから」
ローレンは資料を手元へ引き、幾つかの項目に印をつけた。ナナイが見落としていた箇所もあった。当時、その装置を扱っていた人間でなければ、記録だけから気づくのは難しかっただろう。
「こちらの二件は、整備側の記録も見たい。同じ部品へ交換したのか、別のものを試したのか。それが分からなければ比較にならない」
「追加で照会します。私もそこは確認したかったので」
「照会、回答待ち、また照会か。装置を揃えて試すことも、こちらの判断だけではできない。研究を進めるには、随分と遠回りだな」
ペンを置いたローレンは、椅子の背へ体を預けた。ナナイは画面に残った印を見た。整備記録さえ届けば片づく問題もある。しかし、彼が苛立っているのは、それだけではなさそうだった。
「同じ装置があれば、確かめやすくはなるでしょうね。でも、今は手元の記録を使うしかありません。この二件を分けておくだけでも、次に何を尋ねるかは変わります」
「私は、その次へ進む話をしているんだ。以前の仕事を整理するだけなら、ここへ来る必要もなかった。条件を変え、自分の考えが正しいか確かめたい。君も研究者なら分かるだろう」
「分かりますよ。私も、ただ記録を揃えて終えるつもりはありません。だからこそ、試験を求めるなら、何を確かめたいのか、どんな記録が必要なのか、先に詰めておきたいんです」
ローレンはすぐには答えず、ナナイが作った比較表を読み直した。やがて一項目を指し、二つに分けるべきだと言った。ナナイも同意し、その場で直す。しばらくは、互いに見落としていた箇所を指摘する作業が続いた。
一区切りついたところで、ローレンが再び口を開いた。
「ナナイ君。ここで、いつまでこうしているつもりかね」
「この案件のことですか」
「それだけではないよ。何をするにも、まず認められる範囲を確かめる。研究を任されたはずなのに、次へ進もうとするたび、こちらの判断では決められないことが出てくる」
以前にも聞いた不満だった。ただ、今回はレンがいる時のように裁量の基準を尋ねているのではなかった。ローレンは回答を待ちながら、閉じた資料を指先で押さえていた。
「私も、ここでできないことはあります。今の仕事を続けながら、必要なことを提案していくしかないと思っています」
「私は、もう少し自分で研究を進められると思っていたんだがね。いつまで、認められるのを待てばいいのか」
「いつになれば、と私からは言えません。ただ、今の提案を出すなら、必要な資料や試験のことは一緒に説明できます」
ローレンは小さく頷いた。納得したのかどうかは分からなかった。彼は印をつけた資料を返し、明日の確認までに自分の分を整理すると言って席を立った。
ナナイは、追加照会の項目に先ほどの指摘を書き込んだ。彼の言うことがすべて間違っているわけではない。装置がなければ確かめられないことも、記録だけでは判断できないこともある。その不足を、次の依頼でどう埋めるか。考えているうちに終業の時刻が過ぎ、生活区画から夕食の案内が届いた。
◇
翌朝、ローレンは予定の時刻になっても研究室へ来なかった。ナナイは先に照会への返答を整理し、比較表へ反映させていたが、一通り終えても向かいの椅子は空いていた。端末へ連絡を入れても応答がない。
ほかの区画へ寄っているのかと思い、担当者へ尋ねた。誰も、その朝は姿を見ていなかった。居室にもいないと分かり、ナナイは作業を止めて警備担当へ連絡した。
「昨日は、作業が終わるまでこちらにいました。今日も朝から記録を確認する約束です。予定を変える話は聞いていません」
「こちらでも所在を確認します。最後に会った時刻と、その後に何か連絡がなかったか、もう一度確かめていただけますか」
ナナイは手元の通信を開き直した。昨夜も、その朝も、新しい連絡はない。ローレンが作業に使っていた机を確かめると、資料の下に一枚の紙が残されていた。
ここで研究を続けるつもりはない。私は出ていく。
末尾にはローレンの署名があった。行き先も、誰かと連絡を取ったという説明もない。ナナイは紙をそのままにして警備担当を呼び、内容を知らせた。
居室からは衣類と私物の一部がなくなっていた。一方で、管理されていた研究資料や記録媒体は残っている。外へ出るための正式な手続きが取られていないことも分かり、警備側は無断離脱として出入りの記録を調べ始めた。レイブンへも第一報を送ることになり、ナナイは前日のやり取りをまとめて渡した。
ナナイにも、本人が使っていた資料の確認が求められた。途中の仕事をそのままにしていた箇所がある。昨日、一緒に直した比較表も残っていた。持ち出されたものがないか確かめるため、保管担当が記録と現物を一つずつ照合していく。
「保管していた媒体は揃っています。記録を消したり、外へ送ったりしていないかも調べます。昨日使っていた資料を教えていただけますか」
「昨日、博士が使った範囲はこちらです。追加で見たいと言っていた資料は、まだ届いていません。それも分けておきます」
誰にも告げずに出ていくつもりで、明日の仕事の話をしていたのだろうか。ナナイは昨日の作業を思い返した。ローレンがつけた印は的確だった。なぜそこを気にしたのか、もう一度聞かなければ分からない箇所もある。その問いも、照会に必要な一覧へ残した。
昼を過ぎても、本人の所在は確認できなかった。艦内の確認が進むにつれ、予定どおり診察を受けられるか、授業の部屋を変えるのか、と生活区画から問い合わせが来た。医療と教育の担当者が、それぞれ必要な連絡を返していた。
ナナイが通路へ出た時、キョウもその一人と話していた。顔を見つけると、声を落として近づいてくる。
「ローレンさん、いなくなったって聞いたけど……何があったの?」
「連絡をせずに出ていったようです。今、確かめています。あなたは今日、姿を見ましたか」
「見てない。昨日も、食堂では会わなかったと思う。……何か手伝える?」
「見たり聞いたりしたことがあれば、担当者に伝えてください。それから、ノートのことは忘れていません。医療担当と相談できる時間が決まったら知らせますね」
キョウは頷き、腕に抱えていたノートを鞄へ戻した。別の職員に呼ばれると、振り返って手を上げてからそちらへ向かう。ナナイも研究室へ戻った。廊下には、出入りの確認を続ける警備担当の姿があった。
夕方、照合を終えた保管担当から、研究資料と実機に持ち出しはないとの報告が入った。通信記録にも資料の外部送信は見つかっていない。ナナイは自分が確認した範囲を添え、警備側へ返した。どうやって外へ出たのか、どこへ向かったのかは、まだ調査中だった。
「博士の研究歴についても、報告に添えていただけますか。持ち出した資料がなくても、オーガスタにいた頃に何をしていたかは本人が知っています。どこかで研究に加われば、その知識を使うことはできます」
報告を受け取った担当者は頷き、レン大佐への続報にもその点を添えると答えた。ナナイは確認済みの記録を渡し、保管担当に求められた資料の説明を終えた。ローレンの机に残っていたものは、作業途中の紙まで一緒に保管されることになった。
最後に、自分の机へ昨日の比較表を戻した。ローレンが分けるべきだと言った項目には、修正した二行が並んでいる。ナナイはその脇に、今日届いた整備記録の番号を書き足した。
明確にレンのミスです。
でも原作ではこうだからって監禁するのも無茶苦茶だから仕方ないね