→「いるよ」
一瞬、間が空く。
それから声が少し明るくなった。
「よかった。やっぱりいたんだ」
声は隣の部屋から聞こえている。若い男――少年と言ってもよさそうな声だ。
「僕も隣の部屋に入院してるんだ」
「ずっとここにいるからさ、暇なんだよね。……話し相手になってよ」
少し人懐っこい調子で、彼は続ける。
「君はどうしたの? 怪我?」
→「記憶がない」
「記憶がない?」
隣から聞こえる声が、少し驚いたように跳ねる。
「……君も?」
「いや、僕は記憶あるんだけどさ。そこの部屋に入る患者さん、みんな『記憶がない』って言うんだよね」
少し考えるような沈黙。
「そういう人が入る部屋なのかな」
そして、気遣うように尋ねてくる。
「本当に何も覚えてない? 名前とか家とか……」
「何か一つくらい、覚えてることない?」
→「ないよ」
「……そっか」
声が少しだけ沈む。
けれど、すぐに明るさを取り戻した。
「じゃあさ、思い出すまで僕と話そうよ。何かきっかけになるかもしれないし」
「僕は交通事故。けっこう大きな事故だったんだ。ひどいことになっちゃってさ。それからずっとここにいる」
妙にあっけらかんと話す。
「でも、お父さんが治そうとしてくれてるんだ。ここのお医者さん、僕のお父さんなんだよ」
「あの人、名医なんだ。ずっと諦めないで治療してくれてる。だから僕が泣き言を言うわけにはいかないんだ」
少し照れたような声。
「治ったら、僕もお父さんみたいな医者になりたいんだ」
「それで、たくさんの人を助ける」
そして今度は、あなたに興味を向ける。
「……記憶がないなら、外のことも思い出せない?」
「何でもいいんだけどな。病院の外の話、聞きたかったんだ」
→「みんな記憶喪失というには出来すぎてるので、なにか未知の感染症の後遺症がトリガーなのではないか?」
「未知の感染症?」
隣の声が、きょとんとした調子になる。
「うーん……僕には分からないな。お父さんから、そういう話は聞いたことないし」
少し間があって。
「でも……確かに変だよね」
「その部屋に来た人が一人や二人ならともかく、僕が話した人はみんな、自分のことを覚えてなかったから」
少年も初めてその奇妙さを意識したらしい。
「……なんなんだろうね、あの部屋」
あなたが返事をしようとした、そのとき。
急激な眠気が襲ってくる。
「……大丈夫?」
瞼が重い。思考が霞む。身体に力が入らない。
「まだ具合悪いのかな」
意識が沈んでいく。
最後に、隣から小さな声が聞こえた。
「おやすみ」
⸻
そして――。
目を覚ます。
相変わらず、あの手術室だ。
だが。
視界がおかしい。
一瞬、世界から色が抜け落ちる。
白黒になったかと思えば、ざらついたようにちらつく。
瞬きをしても治らない。
そこへ扉が開き、昨日の医者が入ってくる。
――顔が、分からない。
人間が立っているのは認識できる。声を聞けば昨日の医者だと分かる。
なのに、顔だけがうまく像を結ばない。
「おはよう。具合はどうだい?」
医者はあなたの言葉に足を止める。
→「視界が悪い」
「視界が?」
あなたが、色が抜けたりちらついたりすること、そして彼の顔もうまく認識できないことを説明すると――医者は思ったほど慌てない。
「……そうか」
「あとで検査しよう。心配しなくても、良くなるから」
妙にあっさりしている。
「それよりも、記憶の方だ。今日も少し話をしようじゃないか」
昨日と同じように椅子を引き寄せる。
「今日は――**『テセウスの船』**という話だ」
「ある船があった。その船が古くなるたびに、板や帆、その他の部品を少しずつ新品へ交換していく」
「やがて、最初からあった部品は一つもなくなった。すべての部品が交換された船だけが残った」
そこで医者はあなたを見る。
「さて――それでもこれは、最初と同じ『テセウスの船』だと思うかい?」
PL;まーたはじまったよこの禅問答
→「違う」
医者は、あなたの即答にわずかに首を傾ける。
「違う、か」
「では聞かせてくれ」
視界のちらつきの向こうで、医者の輪郭がぼやけている。
「最初の船を構成していたものは、すべて失われている。確かにそうだ」
「だが、どこからを『別の船』と考える?」
「板を一枚交換した時点では、まだ同じ船だろうか。半分なら? 最後の一枚を交換した瞬間?」
少し間を置く。
「それとも――部品がどれだけ残っているかとは、別のところに『同じもの』である条件があると思うかい?」
「君が違う船だと考えた理由を、聞いてみたい」
→「少なくとも関わった人間はもう違うだろう」
医者は少し考え込む。
「……関わった人間、か」
「なるほど。船そのものだけを見ているわけじゃないんだね」
「古い板を外した人。新しい板を取り付けた人。修理を重ねながら乗り続けた人――船が変化していく過程には、人間も関わっている」
医者は自分の意見を確かめるように続ける。
「私はね。たとえ部品が全部置き換わっても、その船自身に旅をした記憶が残っているなら、同じ船だと思う」
「……まあ、物に記憶はないがね」
そこで、あなたの言葉に戻る。
「では――人間ならどうだろう」
「身体が少しずつ別のものに置き換わっていったとしても、記憶が連続しているなら、その人は同じ人間だと思う?」
「それとも、君が言うように――その人に関わる者との関係まで変わってしまえば、もう以前と同じではないと思うかい?」
医者は少し意外そうにする。
→「臓器移植ってこと?」
「臓器移植……そうだね。それも一つの例になる」
「心臓を他人のものに替えた。腎臓を替えた。手足を失って義肢になった――それだけで、その人を『別人になった』とは普通は言わないだろう」
少し間を置く。
「だが、それを繰り返していったら?」
「身体のほとんどが、生まれたときとは違うものになったとして。それでも記憶や人格が連続しているなら――」
医者はあなたに問いかける。
「君は、その人を同じ人だと思う?」
→ 「違う。記憶を失ってしまえば、もうその人間は以前の人間とは違う人間」
医者は、あなたの答えを聞いて黙る。
「……違う」
その言葉を、確かめるように繰り返した。
「記憶や人格が連続していても、身体が置き換わっていけば同じ人間とは言えない、と」
少しだけ興味深そうに身を乗り出す。
「では、どこに境界があると思う?」
「心臓を移植しただけなら? 義手になっただけなら? それとも――その時点でも、以前とは違う人間になっている?」
「君にとって、『同じ人間である』ために失ってはいけないものは何だろう?」
医者は、今度はすぐには答えなかった。
「……記憶か」
視界の向こうで、ぼやけた顔がこちらを向いている。
「では逆に、身体がまったく変わっていなくても――記憶をすべて失ってしまえば、その人はもう以前とは違う人間になる?」
その問いは、今のあなた自身にも当てはまる。
あなたには、自分が誰だったのかという記憶がない。
医者はそれ以上追及せず、やがて静かに言った。
「私は、記憶が残っているなら、部品が置き換わっても同じものだと思う。……どうやら、君とは少し考え方が違うらしい」
椅子から立ち上がる。
「ありがとう。今日も面白かったよ」
そして扉へ向かう。
「外来の患者を診なければならない。視界については、夜に検査しよう」
扉が閉まる。
――あなたは一人になった。
昨日より身体は動く。まだ重さは残っているものの、今ならベッドから降りて、手術室の中を歩けそうだ。
視界は相変わらず不安定だが、室内を探ることはできる。
少し離れたところには、温風を送るタイプらしい医療機器。
そして棚には、何枚かの資料が収められている。
どちらを調べる?